第31話 顧みられない棘 01
ファルサスは一年中温暖な気候の国だが、中には比較的涼しい季節も年に二、三ヶ月ある。その日はまだそれらの季節には早かったが、ここ数日の中では特に涼しく過ごしやすい日であった。
執務室で仕事をしていた国王は、どこからともなく聞こえてくる美しい歌声に気づいて、書類に署名する手を止める。かすかに聞こえる女の声は彼の守護者のものだ。書類を纏めていたラザルも歌声に気づいて顔をあげる。
「ティナーシャ様ですね。歌をお歌いになるなんて珍しい」
「何だろうな」
仕事に戻ったオスカーは、五分後、一旦退出していたラザルが砂糖菓子を大量に持って入ってきたのに気が付いた。怪訝に思って菓子が乗っている白い皿を指差す。
「何するんだそれ」
「いえ、途中でパミラさんとすれ違って……歌の話になったらこれを渡されたんです」
「意味が分からんな……またあいつが何かやってるのか」
あいつとはパミラのことではなく、彼女が仕える魔女のことである。ラザルは色々怪訝に思いつつも、砂糖菓子の皿を何となく執務机に置いた。
そして十分後、その皿は空になっていた。
「こういう風にかけるんですよ」
歌い終わったティナーシャは苦笑して、アルスとメレディナを見た。談話室にはいつもの魔法士の面々がいたが、それに加えて武官である二人が来ている。彼らはいわば実験台として連れてこられたのだ。
魔法士たちは唖然として二人を見つめているが、二人は何故自分がそのような目で見られているのか分からない。自覚がないのだ。
アルスは溶け切らないほど砂糖を入れたお茶に口をつけた。レナートが気持ち悪そうに顔を背ける。
「見てるだけで胸やけが……」
「本人気づいてないんですね」
「すごいなこれ」
魔女は、砂糖の入っていない自分のお茶を手に取ると喉を湿らせた。呼吸を整えて伸びをしてから再度、講義を始める。
「でも呪歌はあまり大した効果を乗せることはできません。呪いと基本が同じですから。また大人数にかけるほど効果は薄くなりますし、魔法士には効き難いですね」
ドアンが興味深そうに口を開いた。
「可能性でいったらどこまで人を操れますか?」
「うーん、魔力にもよりますが、気分と、簡単な行動なら操れますね。直接的に他人や自分に害を為すような行動をさせるのは、そういう希望が元々意識にあれば違いますが、ない場合は難しいです。どちらかというと強みになるのは、自発的にやらせることができて自覚がないところでしょうか。被術者は意識が混濁したりすることはありません」
皆がアルスを見ると、彼はカップの底に残った溶けかけの砂糖を匙ですくって口に入れている。シルヴィアはそれを憐れむように眺めた。
「解けないんですか……?」
「解けるように作ってあれば解けますよ。無自覚の場合が一番やっかいですね。たまにそういう歌い手がいます。まぁそういう人たちの魔力は大したこと無いんで、自然消滅するか、体内の魔力を消してやれば直ります」
頷くシルヴィアにカーヴが代わる。
「強力な魔法士が意識的にかけた場合はどうなんですか?」
「かなり難しいですね」
魔女は小さく溜息をつくと、首を二、三度捻った。
「構成がしっかり組まれている呪歌は解呪も手間がかかります。でもですね。根本的な問題として呪歌って魔力だけあっても歌が上手くないと効かないんですよ。聞き手を歌に集中させないといけませんから。適当に聞かれていると構成もちゃんとは入りません。だからそれを兼ね備えてる術者というと結構条件が厳しいです」
「なるほど」
アルスとメレディナを除いた魔法士たちは頷いた。呪歌を歌える人間などそうはいないので、いい勉強になる。記録では呪歌が原因ではないかと思われる事件も過去にいくつかあるのだが、ここ三百年ほどは新しい事件が起きていない。
メレディナは、歌の話をしているということは分かるのだが、内容が理解できなかった。砂糖壷から角砂糖を取り出すとそれを齧る。魔法士たちがまたそれに注目した。さすがに魔女が眉を顰める。
「とりあえずそろそろ体に悪そうなんで解きましょうか……」
「ティナーシャ!」
入り口から男の声で名前を呼ばれて、彼女は反射的に首をすくめた。この城で彼女を呼び捨てにする人間は一人しか居ない。恐る恐る振り返ると、彼女の契約者が不機嫌そうな顔で立っていた。
「な、なんですか……」
「お前、さっきの歌で何かしただろう」
「聞こえてたんですか!?」
「の、ようなので、お菓子を差し入れましたがまずかったでしょうか……」
パミラの困ったような言葉に、魔女は思わず絶句した。
「かなり気持ち悪いぞ」
「すみません……」
三人の解呪をして、ティナーシャは頭を下げた。
アルスなどは机に突っ伏して唸っている。胸焼けが後から来たらしい。オスカーは濃く淹れられたお茶を口に含んだ。菓子を大量に食べたことなどほとんどないので胃が気持ち悪い。メレディナは元々甘いものがそれほど苦手ではないので、黙って砂糖抜きのお茶を飲んでいた。
「他の奴らも聞いてたらどうするんだ」
「三十分くらいで解けるようにはしてあるので……痛い痛い!」
オスカーは魔女のこめかみを締め上げながら、他の魔法士たちを見回した。全員がばつの悪い顔をしてうなだれている。
「たまに歌ってると思えばろくなことをしないな」
「うう」
オスカーは彼女の歌こそかなり気に入っているが、実際彼女が歌うことはほとんどない。今まで聞いた回数も両手の指で足りるほどだが、その中にはやはり魔力を帯びさせた歌も混じっていた。彼は先日の死を呼ぶ歌の事件を思い出す。
「上手ければ魔力がなくてもある程度操れるんだろう?」
「曲もよければ、ですね。実際は稀です」
「お前も無駄に歌が上手いな」
「歌い手として生活してたことがありますから」
魔女の意外な経歴に全員が驚いた。彼女は十三まで次期女王候補として王宮で暮らし、その後は魔女になっている。オスカーは、そういえば彼女がいつから塔に住む魔女になったのか知らないことに気が付いた。その疑問が視線で伝わったのか、魔女は苦笑する。
「魔女になった最初の百年は色々やってましたよ。一人で生きていく術が分かりませんでしたし。でも当時は人間嫌いだったんで、あまり話さなくて済むことをやってました」
「それで歌か」
「国を離れてすぐは冒険者みたいなこともしましたよ。剣を習ったのはもうちょっと後ですが。何でもやっとくと身になります」
穏かに微笑む今の彼女からは、人間嫌いであった時のことなど想像もつかない。ただ魔女になった経緯を考えると、そうなったのはやむをえないことかもしれなかった。
赤子の頃から王宮で育った世間知らずの彼女が、突然、何もかもを失い世界に一人放り出されたのだ。その状況からどうやってこれまで生きてきたのか。四百年間の苦労を思って、オスカーはただ彼女の頭を撫でた。魔女は気持ち良さそうに目を閉じる。
彼女の年月の全てが理解できるとは思わない。そう思ってしまうのならそれは驕りだろう。
それでも彼女は自分の道を歩いて、今ここにいる。
一同がしんみりしてしまったのに気づくと、魔女は消沈した雰囲気を打ち消すよう慌てて手を振った。
「いえ、みんなが想像しているのとは違うと思いますよ。結構暴れてましたし」
「暴れてたのか」
「まぁ……はい……」
微妙な笑顔を浮かべてティナーシャは頷いた。
魔女というものはえてして気紛れに災厄を起こす存在として知られているが、今のティナーシャはあまりその印象にそぐわない。かつてはどのような魔女だったのだろうと、オスカーは少し気になった。
「どうせ呪歌でもかけてたんだろ」
「…………」
「本当にかけてたのか」
「いや……まぁ……」
かなり歯切れが悪い。一同の注目を浴びながらお茶を飲むと、魔女は頬杖をついてこめかみを押さえた。眉の間に深い皺が出来ている。
「実を言うとですね。トゥルダール滅亡以降の記録に残ってる呪歌が原因の事件って、ほとんどが私の仕業です。だからあれらの事件が呪歌の限界だと思ってくれて結構です」
「……へ?」
全員が唖然とした。さすがにオスカーも何も言えない。
記録に残っている事件といえば、ガンドナで住人たち全員が突然思い思いの場所に引越しをして街がなくなってしまった事件や、ファルサスの巨大武装強盗団が襲撃の準備中に突如激しい同士討ちを始めた事件など、あまりにも不可解で解明されていないものばかりなのだ。
ただその時その場に居た人間に共通するものが、「女の歌声を聞いた」という証言のみだったので、呪歌の事件ではないかとされていたのである。
それらの犯人であることを明らかにした魔女は、決まり悪そうにお茶を飲んだ。オスカーが呆れた目で彼女を眺める。
「何をやってるんだか……」
「当時は若かった」
ティナーシャは強引に締めくくると、話題を打ち切った。
※ ※ ※ ※
「殺したい……」
細い女の声には、地中に眠る溶岩のような憎しみが蠢いていた。憎しみは精神を焼き尽くし、煮え滾りながら外に出る時を待っている。
「あの二人を殺したい……」
呪詛に部屋の主が答えた。つまらなそうな女の声だ。
「無理。最強の魔女とそれが守護するアカーシアの使い手よ。紛れも無く今、大陸でもっとも力のある一対だわ」
その指摘に呪詛の主が唇を噛む。
「それでも、殺したいの」
「お前が悪いんじゃないの? 人の命を弄んだお前が」
「殺したい……」
呪詛はやまない。最早狂った女の耳には何も届かないのだ。
部屋の主はしばらく無言でそれを聞いていたが、小さく鼻をならすと、初めて楽しむような声音で笑った。
「―――― ならやり方を教えてやる」
※ ※ ※ ※
その日会議室に集まっていた者たちは、内大臣のネサンを始めとする文官数人と、魔法士長のクムである。彼らはファルサス国内の全ての街から送られてきた今年の報告について、保管用の書類を纏めていた。
今年は即位を挟んだが、オスカーは即位前から王の執務のほとんどに手をつけていたので内政は特に不都合もなく動いている。纏めた書類を紐で留めて分類を終えると、文官たちは一息ついた。
来月には年が変わる。いくつかの事件はあったが、何とか恙無く終わろうとしている一年に彼らは少しだけ気が軽くなった。 書類を手にそろって保管庫に向かい廊下を歩き出す。
「これでお世継ぎが出来れば心配事が何も無くなるんですけどねぇ」
何気なく洩らされた一人の文官の言葉に、ネサンとクムは苦笑した。こういう希望を抵抗なく聞けるようになるために十五年を要したのだ。魔女の呪いで後継が望めなくなっていたファルサス王家において、その呪いを解いたのもやはり別の魔女である。だがこの事実を知っている者は、城の中でもほんの数人しかいなかった。
「ティナーシャ殿さえ、その気になってくれれば早いんじゃないか」
「歴代でもっとも美しい王妃になるかもしれないな」
笑いながら軽口が叩かれる。しかし文官の一人が不機嫌にそれを遮った。財務を担当するノーマンである。
「だが魔女だ。私は賛成できないな。他にもいくらだって候補はいる」
「確かに魔女は魔女だが……トゥルダールの女王だぞ」
「そんなとうに滅びた国が何だというんだ。国が滅びたのに四百年も生きながらえてるなんて醜いにもほどがある」
「それは……」
クムはノーマンの意見に苦言を呈すべきか迷った。何故彼女が魔女として四百年間生き続けてきたのか、勿論クムは知っている。こちらはその理由を知っている者も多いが、あえて喧伝するようなものでもないので知っている者は皆口に出さないままだ。しかしそれを教えたとしてノーマンが魔女に対して好意的になるかと言ったら分からなかった。
魔女は大陸において忌避されるものだ。何百年も続くその認識は簡単に変えられるものではない。そこまで数秒で考えたクムは、ふと横に交わる廊下の柱の影に誰かが立っているのに気づいた。彼女はクムと視線があうと決まり悪そうに微笑みながら、唇の前に指を立てて黙っているように頼む。その隣りでは彼女に仕える魔法士の女が怒りに満ちた目をして一行を睨んでいた。
彼女の希望にもかかわらずクムがつい立ち止まってしまったその時、隣に居たネサンが彼女に気づいて「あ……」と声をあげる。その呟きで怪訝そうに足を止めた一行は、先程から話題にしていた魔女が、彼らの話を耳に入れていたということを知った。
ほとんどの文官が気まずく蒼ざめた顔で彼女を見つめる中、ノーマンだけは毅然として魔女に向き直る。
「おい、ノーマン」
ネサンが彼を叱り付けた。しかしそれを魔女本人が手を振って止める。
「そういうことは言われ慣れてるんで構いませんよ。お気になさらないでください」
「しかし……」
困惑するネサンを押しのけてノーマンが前に出た。
「己が穢らわしい魔女だという自覚はあるようで結構ですな」
「言わせておけば……!」
「パミラ、落ち着いて」
魔女が苦笑いをしながらパミラの肩を軽く叩く。彼女を下がらせるとティナーシャは前に出た。
「私からすると、この方のように魔女を忌む方は有難いんです。魔女とはやはり、危険で、災厄です。大きすぎる力を個人が所有していますから……。私は、私に親しむことでそれを忘れて欲しくはないんですよ」
自嘲に満ちた言葉に、ノーマンを始めその場の誰もが何も言えなかった。
ティナーシャが城に来てから、既に九ヶ月以上経っている。その間彼女は確かに王の守護を始め、様々なことに力を貸してくれていたが、クスクルの戦乱の渦中に立ったりと問題も多い。それに何より、彼女自身が仮にファルサスに好意的だとしても、そうではない魔女もいるのだ。
―――― つまり、王家に呪いをかけた『沈黙の魔女』のように。
ティナーシャはそれを忘れるな、と言外に警告する。魔女とは尋常ならざる脅威であるのだと。
クムは指摘されるまでそのことを忘れかけていた自分に気が付き、彼女に向かって頭を下げた。ティナーシャは月の下に咲く花のように笑うと、パミラを伴ってその場を後にする。
そうして彼女たちを見送った一同の中で、ノーマンだけは一人、敵意に満ちた視線を魔女の背中に注いでいた。
「失礼な口を引き裂いてやりたいです!」
「まぁまぁ」
怒気が湯気となって噴出しそうなパミラをティナーシャは宥めた。
正直あれくらいの感想はもっともで、何とも思わないのだ。しかし魔女を女王とし、主人とするパミラには耐え難いものであったのだろう。
「私はあの方の言ってることに賛成ですよ」
「ご自分で仰らないでください!」
凄い剣幕だ。なかなか静まりそうにない。さてどうしたものかと魔女は肩をすくめた。
庭に面した回廊から空を見上げると、そろそろ日が沈み始めようかという夕方である。ティナーシャは良いことを思いついて手を叩いた。
「パミラ、散歩に行きましょう」
「え?」
ちゃんとした返事をする間もなく二人は宙に浮かび上がった。パミラが自分で飛んでいるわけではない。魔女が魔法を行使しているのだ。
驚くパミラを連れたまま、彼女はぐんぐんと空に向かって上昇した。
「ほらほら、景色でも見て落ち着いて」
ティナーシャは軽く言うと空中に足を組んで座った。
はるか眼下にファルサスの城が見える。広々と見渡せる景色を捉えて、パミラはさすがに足がすくんで仕方なかった。飛べるといっても彼女はこれほど上空まで来た事はない。雲にも届きそうな高度で肌寒さを感じないのは、ティナーシャが結界を張っているせいだろう。
パミラはニ、三度深呼吸して気を落ち着けた。恐怖が薄らぐと同時に怒りも消え去っていることに気づき苦笑する。西の空を見ると既に薄赤く染まり始めていた。そこから深い青へと続く空の色が例えようも無く美しく、パミラは少しだけ悲しくなる。
「ティナーシャ様は寛容ですわ」
「そんなことないですよ。ただ客観的な印象を忘れちゃいけないと思ってるだけです」
魔女はまるで少女のように微笑んだ。透き通って儚げな微笑は、彼女の存在が幻であるかのような錯覚を抱かせる。
ティナーシャはなびく黒髪をかき上げると、西の地平を見つめた。その方角には彼女の塔があり、更に先にはかつての祖国があった。
だが、目を閉じてもその城で過ごした子供時代のことはもうよく思い出せない。最後の強烈な記憶に塗りつぶされ、また年月の中で磨耗してしまった。
自分はきっとあそこで一度死んだのだろう―――― そう彼女は思う。そして死者の妄執で四百年を生きてきたのだ。だからこそ今、ずっと追ってきた目的を失って、これからどうするべきか彼女には分からない。
「……何でまだ生きているんだろう……」
「何を仰っているんですか!」
パミラに一喝されて、ティナーシャはびくっと全身を震わせた。いつの間にか考えていたことを口に出していたらしい。また怒らせてしまったか、とパミラの顔を見上げたティナーシャは、彼女が泣き出しそうな顔をしているのに気づいて驚いた。
慌ててティナーシャは立ち上がる。
「馬鹿を仰らないでください……」
「ご、ごめんなさい」
「お亡くなりになりたいなら、結婚なさってご出産されてから人として死なれてください。そうでなければ厭です!」
「そんな無茶な……」
困り果てている主人を前に、パミラは零れ落ちそうな涙を堪えた。
本来ならば魔法大国の女王として何不自由ない一生を送るはずだった人なのだ。なのに何故このように魂をすり減らすような生き方をして、そのまま終わろうとするのか。もっと自分を大切にして欲しいと、パミラは心から願った。
「ちゃんと幸せになられてください……私からのお願いです」
「パミラ……」
魔女は溜息を飲み込むと細い腕を伸ばし、パミラを抱きしめた。その耳に囁く。
「充分幸せですよ。ありがとう」
染み入る様な美しい声。それは悲しみを知っている優しさだ。
彼女の温かい腕の中でパミラは頷く。精神を統御して気を落ち着けた。もう涙は浮かべない。大丈夫だ。
魔女は腕をほどくと、パミラを見て穏やかに笑った。
太陽はすっかり沈み、地平の間際だけがうっすら赤い。
空が明るい青に染まっている。それは暗くも無く明るくもない、あるがままの空の色だった。手を伸ばせば天に届きそうな錯覚すら覚える。パミラは思わず感嘆の溜息をついた。
それを見たティナーシャは、くすっと笑うと両手を広げ、構成を組み始める。白い手の中に掌ほどの水晶球を呼び寄せた。
「何をなさるんですか?」
「色を写し取ります」
悪戯っぽい目をきらめかせて魔女は作り上げた構成を水晶に注いだ。みるみるうちに水晶の中へと、今頭上に広がる空の景色が写しこまれていく。三十秒もすると、それは日が沈んだばかりの世界を閉じ込めた水晶球になった。
ティナーシャは指で球体を摘むと覗き込む。明るい夜空に小さな星が見える気がした。それをパミラに差し出す。
「はい、どうぞ。あげますよ」
「え、そんないいですよ」
パミラは体の前で両手を振って固辞した。こんな些細に作れてしまうものでも自分には勿体無い気がする。本当は彼女は、主人に慰められるのではなく、その支えになりたかった。もしここにいるのが自分ではなく主人の契約者であったら、もっとこの孤独な魔女はあどけなくいられるのだろうか。
パミラは燻る感傷を押し隠して笑うと、水晶を指差した。
「おみやげにされてはいかがですか」
誰への土産か悟って、魔女は首を傾げる。この空と同じ色の瞳を持つ彼女の契約者のことだ。ティナーシャは小さく頷きながら水晶を空にかざした。
彼に初めて会った時のことを思い出す。それから今までのことを。
とても大事にされてきた。
子供のように。
ただの女のように。
守護者を守る契約者など聞いたこともない。それを当然と思ってしまうのは怖かった。
魔女は水晶を見つめたまま、ぽつりと
「一年は長かったかなぁ……」
と呟いた。
※ ※ ※ ※
仕事を終え自室で着替えをしたオスカーは、露台の窓が叩かれたのに気づいて小さく笑った。返事をすると彼の魔女が入ってくる。
振り返って彼女を見たオスカーは、ふと彼女の様子がいつもと違うことに気づいた。どこが違うのか明確には言えないが、わずかに揺らいでいるように見える。
「どうかしたのか?」
と聞くと、彼女は不思議そうに首を捻った。
「おみやげですよ。ほら」
白い小さな手が何かを差し出す。受け取ったそれを、オスカーは手の中で転がして確かめた。
水晶球に見えるが、中に景色が写りこんでいる。彼の瞳の色と同じ色の空が球の上空に広がっていた。よく確かめようとオスカーは目より少し上に球をかざして覗き込む。魔女の声が補足した。
「単なる観賞物ですが、今日の空は綺麗だったので」
「お前が作ったのか!」
「そうです」
オスカーは愛しむように水晶を手の中に収めると、寝台の横にある小さなテーブルの上に置いた。そのまま寝台に座る彼の隣りに、ティナーシャは浅く腰をかける。彼は魔女の髪を手元に引きながら問いかけた。
「何かあったのか?」
「え、何も無いですよ。どうしてですか」
「少し萎れて見える」
「元気です」
にっこり笑うと、ティナーシャは隣に居る男を見つめた。
―――― 彼は、強い人間だと思う。
勿論戦いの中にあっても強いが、そういう意味ではなく強い。自分に自信があって、迷いがないのだ。少し前まで彼女は、自身もそういう人間だと思っていた。
オスカーは彼女の視線に気づいて顔をあげる。闇色の瞳は、いつもより頼りない光を湛えていた。彼は白い陶磁の頬に手を触れさせる。
何かを言いかけて、しかし結局口に出すのをやめた。代わりに顔を寄せる。目を閉じて口付けを受けた魔女は、顔を離すと少し赤面した。
「あんまりこういうことしないでくださいよ……」
「考えておく」
そんな気などさらさらないのを隠しもせずに男は返答した。
ティナーシャは顔を顰めると、両腕を上げて伸びをする。
「な、悩む……」
「何が」
「色々と……人生について」
オスカーはその返事で大体を悟った。
もともと彼女はある目的のために魔女になっていたのだ。そしてその目的はもうない。ようやく得られた自由は彼女の孤独を際立たせ、先を迷わせるのだ。
「俺と結婚すればいいと思うぞ」
「しない」
「強情な……」
魔女を見ると、彼女は自分の両腕で目を覆っている。華奢な体が不安定さを帯びて、か細く見えた。
「俺と結婚して魔女をやめればいい」
「ええ? どうやってやめるんですか」
「元の通りに年をとればいいさ」
ティナーシャは腕を下ろして闇色の両眼で彼を見返した。
結婚うんぬんは別として、停滞させている成長を戻すことは何度か考えたのだ。現在彼女の肉体年齢はおおよそ十九歳である。守護が終わったら、この停滞を戻して塔も引き払い、誰にも会わず残りの一生を過ごす。そんな終わりもいいかと思っていた。
「残り何十年か? 充分だ。それを俺にくれ」
真顔で言う契約者に、ティナーシャは笑い出しそうになった。
強情なのはどっちだと言いたい。
「貴方は本当に女の趣味がおかしいですよ」
「煩い。俺の大事な女だ。文句つけるな」
オスカーは眉を顰めてそう言うと、もう一度ティナーシャに口付けた。
彼女は目を閉じたまま苦笑する。
「さっき言ったこと忘れるの早すぎです」
「考えておくと言っただけだ。嫌ならちゃんと拒め」
男の言葉はそっけない。
魔女はゆっくりと目を開けた。長い睫毛が震える。考えるより先に、自然と言葉が零れた。
「なんていうか……慣れちゃったっていうのもあるんでしょうけど。―――― やっぱり貴方は特別なんでしょうね」
それは素直な言葉だったが、口にすると自分でも不思議なほど腑に落ちた。
この頑固な男が自分にとって特別なのだと、彼女はとっくに認めている。いつの間にか、そうなっていたのだ。誰に聞かれてもおそらく同じことを答えるだろう。
伏せていた目を上げて彼を見ると、男は驚いた顔をしていた。魔女は首を傾げる。何故そんな表情をされるのか分からない。彼女は細い指で男の顔に触れた。
「どうかしました?」
「いや……」
彼はそれ以上答えなかった。
両腕を伸ばし、魔女の体を自分の腕の中に捕らえる。どこかあどけない表情で彼を見上げる魔女の、額に、頬に、唇に口付けを落とした。
触れた場所から温度を分け合う。
肌が隔てる魂に接する。
違う人間であることが悲しくて愛しかった。
ティナーシャは抱きしめられて少し驚いたが、その温かさに安堵した。迷っている心に沁み込む様に彼の体温が伝わってくる。
甘やかされている、と思った。
それに溺れたくないとも。
優しい温もりは徐々に体の奥底に沈み込み、そしてそこで熱を持った。精神を痺れさせる熱がゆっくりと湧き上がってくる。
口付けは、彼女の耳に、首筋に、胸元に触れていく。
気を抜けば落ちてしまいそうだ。
彼女は震える吐息を言葉にした。
「オスカー……駄目ですよ」
「何故」
男は顔を上げないまま聞き返す。
触れられた箇所が熱を帯びて全身に広がり、自分で自分の体をちゃんと支えられているのか彼女は分からなくなっていた。
男の腕に体重を預ける。彼はその体を寝台に横たえた。自分を見下ろす青い目に触れようと魔女は手を伸ばす。
「何故って……何故?」
「自分で考えろ」
興味がないような返事だ。だがそれは本当のことだった。
彼女は自分で考えなければいけない。
それは外にはない。彼女自身の内にあるものなのだ。
誰かを愛したくなかった。
憎みたくもなかった。
踏み込んでしまえば弱くなる気がした。
生きていけなくなる気がしたのだ。
―――― 考えなければいけない。
彼女は何かを求めて手を伸ばす。指先が男の髪に触れた。
―――― 考えなければ……
しかし、形成しようとする思考を、彼の触れる指や唇が奪っていく。熱に飲み込まれ、落ちていく。
―――― まだ駄目だ……
彼女は弱弱しく頭を振った。
まだ何も言葉になっていない。
何も掴めていないのだ。
気が遠くなる。
分からないまま、全てを委ねてしまう気がした。
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