第30話 緑の蔓


 母は美しい人だった。

 ただいつも悲しげな顔をしていた。聞けば故郷を失ったのだという。彼が生まれる以前のことだ。小さな村にて平穏な暮らしをしていた彼女は、ある日その生活の全てを奪われた。物のように略奪され、焼け落ちる村から連れ去られた。

 そうして彼女を手に入れた父は、いつも母を奴隷のように扱っていたのだ。


 寝るところは藁の中で、満足に食事を取ることも許されない。

 いつ父に鞭打たれるか恐れながら、彼女は息子だけを庇って生きていた。

 だがそんな暮らしは線の細い母に負担をかけたのだろう。彼女はやがて病に倒れ、惨めに息を引き取った。彼だけが見守る前で、消え去るようにそっと温かさを失っていった。


 母を看取った日のことを忘れることは決してできない。彼の手を握る指の細さも。

 心優しく、美しい人だったのだ。本来こんな一生を送る人ではなかったはずだ。

 もっと幸せで居て欲しかった。せめて笑っていて欲しかった。

 だから―――― どうしても助けたかった。


 もし、今からでも手が届くのなら、決してこの手を離さない。

 たとえその為に、自らを失うことになろうとも。




 ※ ※ ※ ※




 大陸東部にはガンドナ、メンサンの二つの大国が存在しているが、それ以外の場所には多くの小国がひしめいている。結果として西部よりもはるかに入り組んだ国境線を持っているのだが、場所的な火種が多いせいか、大国二つを除いた小国たちは、しばしば他国へとその侵略の手を伸ばしていた。

 大きいものでは、十年前のヤルダからのファルサス侵攻があるが、ファルサスはそれを難なく打ち破った。この敗北で当時大国に迫るほど勢いがあったヤルダは、ファルサスに接していた領土の半分を失う羽目になっている。

 ファルサス自体はとかく争いが絶えない東部国境の為、百年前から東部にミネダート砦という国内最大規模の砦を築いている。そこには常に五万の軍が駐留し、国境の警備にあたっていた。



「私も行きますよ」

「別に構わんが」

「貴方は目を離すとろくなことしないですからね」

「そんなことを言うのはお前くらいだ」

「皆思ってても言えないだけです」

 オスカーは向かいに立っている魔女を机越しに見やった。彼女はオスカーの差し出した書類の束に目を通している。三日後から彼はミネダート砦への定期的な視察の為、数人の武官を伴って現地に出向くことになっているのだ。それを聞きとがめた魔女は、東部国境について纏められた一枚を読んでしまうと、感心の声をあげた。

「十年前に戦争なんてあったんですね」

「小規模だがな。お前は結構そういうことに疎いな」

「普段は引きこもってるんで……。十年前って貴方も生きてますね」

 四百年以上生きている魔女のせいか、変な言い回しをするなと思ったがオスカーは口には出さなかった。代わりに当時の記憶を思い出す。

「ああ。終戦交渉時にヤルダが、王女を俺の妻にとか言い出したから覚えてるな」

「それ、どうしたんですか」

「受けられるわけないだろう。悪化するぞ」

「あーそっか」

 当時はまだオスカーには魔女の呪いがかかっていたのだ。和平の為に差し出した王女が子を孕んで死ねば、修復したばかりの国交に影が差すことは避けられなかっただろう。解呪した本人は呪いの存在をすっかり忘却していたらしく、なるほどなるほど、と呟いている。

 だが、折角王女をと申し出たにも拘らず、理由を言わず拒絶したファルサスに、ヤルダの重臣たちは敗者だから見下されたと臍をかんだらしい。もっとも、だからといって和平交渉自体をふいにしてしまうには、あまりにも当時のファルサスとヤルダの実力差は大きく、更に十年後の今はその差がもっと開いてしまっている。

 彼は別の案件を処理しながら、守護者へと付け足す。

「三日くらいかかるから支度しとけ」

「了解しました」

 魔女は書類を机に戻すと部屋から消える。

 その唐突さに苦笑しながら、オスカーは他の書類を手に取った。




 ※ ※ ※ ※




 視察当日、ミネダート砦に転移陣を使って跳んだのは、オスカーとその魔女、そしてグランフォート将軍と三人の武官たちである。四十過ぎで将軍たちの中では年長にあたるグランフォートは、最初こそ魔女の存在を忌まわしく思っていたようだが、今はかなり態度を軟化させている。それはおそらく前王のケヴィンが重臣たちに七十年前の真実を話したことと無関係ではないだろう。

 ティナーシャはこれにより国を欲しがった魔女という誤解も解け、またトゥルダールの継承者であるということも加わり、改めて存在価値の高さが認識されることとなった。グランフォートなどは、むしろ彼女がオスカーに小言を言って重石になっているのを歓迎しているくらいである。


 一方、彼らを迎えたミネダートの将軍は二人である。

 砦の全権を任されている将軍エドガルドはグランフォートの同輩であり、もう一人のガジェンは二十七歳の若き将軍だった。エドガルドとガジェンは魔女の姿を見て驚いたようだったが、一瞬でそれを押し隠すと主君に膝を折って礼をした。

 儀礼的な挨拶が終わると、ティナーシャはオスカーの袖を引く。

「やっぱり私、姿を変えてきた方がよかったと思いますが……」

「俺がつまらんからいい」

 あっさりとした返事に魔女は顔を顰めた。契約者の後について、砦の廊下を歩いていく。こめかみを掻こうとした彼女はふと窓の外を見下ろし、中庭で遊んでいる子供たちに気が付いた。

「子供なんているんですね」

「ああ、近くの村の者が昨年から住んでるんだ。争いで男手がなくなってな。老人と女子供を引き取った」

「争いですか……」

 ティナーシャは嘆息した。

 子供たちのはしゃぐ声が、庭に響いている。



 ミネダート砦に所属する兵の一人、カレルは休憩時間になったことを確認すると、子供たちの遊ぶ中庭へ向かった。彼の姿を見つけた子供たちは遊んでいた石を置き、喜んで駆け寄ってくる。

「カレル! お話して! お話」

「お話かぁ。何がいい?」

「青い剣士の話がいい!」

「またそれか」

 カレルは剣をはずして地面に置くと胡坐をかいて座った。まだ十八の彼は二年前に軍属になったばかりであり、一兵士として訓練を積んでいる段階である。

 子供たちは期待に満ちた目で彼を取り囲む。その顔を見回し微笑みながら、カレルは口を開いた。

「むかしむかし、俺たちの村が草原にあった頃、村にはとっても美しい娘が居ました。娘と結婚したいという若者は後を絶ちません。けれど娘は誰も選ばないままでした」

「いいおとこがいなかったんだよ」

「黙って聞け。―――― でもある日、馬に乗った悪いやつらが村を襲いました。悪いやつらは家に火を放ち、村を焼き、人を殺そうとしました。しかしそこに、青い服を着た剣士が現れたのです。彼は悪いやつらを追い払うと、さらわれそうになっていた娘を助けました。娘は感激して、青い剣士を是非婿にといいましたが、彼はそれを断って、どこへともなく消えてしまいました。おしまい」

「カレル、あっさりしすぎ!」

「もっとちゃんとお話してよ!」

 子供たちから次々不満の声が飛ぶ。カレルは眉を顰めた。

「あってるからいいじゃないか。贅沢言うな」

 なおも口を尖らせる子供の頭を小突こうとしたカレルは、背後で若い女がくすくす笑う声に気づいて振り返った。そこには見知らぬ美しい女が立っている。女はカレルと目が合うと頭を下げた。

「ごめんなさい。どんなお話をしているのか気になって」

 そう言うと、王の魔女はにっこり笑った。



「あっさりしてるって本当はもっと長い話なんですか?」

 王についてきたという彼女の素性を聞いたカレルは恐縮したようだが、詳しい話を請うと再び地面に腰掛けた。話に飽きてしまったらしい子供たちは、少し離れたところで地面に絵を描き始めている。

「本当はこの話、二百年前に実際俺たちの村で起きたっていう出来事なんです。で、青い剣士曰く、彼は助けた娘の息子なんだそうですよ」

「ええと……つまり先の時代から来たということですか?」

「そうなりますね。青い剣士は、娘がその時騎馬民族の一人に攫われて、その間に生まれた子らしいんです。で、母の不遇を変えるべく過去に来たと語ったとか。ただ彼にとっての過去を変えてしまうことで、彼は生まれなくなってしまう。でも彼はそれを承知で母親を助けた、という話なんですよ。―――― この剣なんかはその時青い剣士が残したものと伝えられてます」

 カレルは自分の横に置いた剣を持ち上げて見せた。柄に馬の彫刻がほどこされたそれは、確かに年季の入った剣で丁寧に手入れがされている。二百年前から伝わっているというと、何らかの魔法の力を帯びた剣なのかもしれない。それを見やった魔女は慨嘆の声を上げた。

「なるほど……大分子供向けの話とは感じが違いますね」

 昔話にしてはよくできた話だが、実際には魔法にも過去へと戻る法則が存在しないことは明らかになっている。先の時代から来たというくだりは真実ではないのだろうが、それでも中々手が込んでいるように思えた。ティナーシャは遊んでいる子供たちを指す。

「あの子たちは、同じ村の出身なんですか?」

『俺たちの村』と言った事から当たりをつけたのだが、案の定カレルは頷いた。 ただ彼の表情は急に重苦しいものに変じる。

「一年前に騎馬たちに襲われましてね……。急いで兵が駆けつけたんですが、男たちはほとんど殺されていて、生き残った者たちをここに連れてきたんです」

 俺が村に居れば……と唇をかみ締める若いカレルに、ティナーシャは顔を曇らせた。

 オスカー曰く、この辺りには昔から国を持たない「イト」と呼ばれる騎馬民族たちが現れるのだという。定住地を持たない彼らはいくつかの国にまたがって、時折現れては村を略奪し、去っていく。その討伐を試みたことも何度もあったが、国境を越えて行方をすぐにくらます彼らに、いずれも撲滅までは至ることはなかったらしい。

「首長の奥方様などは、首長が彼女を庇って亡くなられたらしく、一年間ずっと笑顔を見せてません。徒に人の生活を踏みにじって……俺はやつらを許せませんよ」

 カレルは握り締めた両手を見つめた。まるでそこに憎むべき仇がいるかのように。


 報復が報復を生む。―――― 魔女はそのことをよく知っていた。

 だからこそ彼女は、契約者を脅かすどのような芽も見逃す気はない。報復が形になる前に全て摘み取る。そこに自分を介在させる。滑稽な欺瞞だということは分かっていた。その結果自身がいつか報復で殺されるなら、それは仕方が無いことだとも。

 けれどやはり、理想を語るには彼女は長く生き過ぎており……そしてその手は、確かに血で汚れているのだ。




 一日目の視察が終わり夕食を取り終わったオスカーは、ガジェンから夜寝る部屋の事を聞いて大笑した。突然笑い出した王に臣下の男は目を丸くする。

「あ、あのまずかったでしょうか」

「何だそれは。誰かの差し金か?」

 ガジェンは「魔女様は同室でよろしいでしょうか」と聞いてきたのだ。唐突なことだが、最近、結婚だの世継ぎだのうるさい重臣陣の手回しかもしれない。以前ティナーシャ以外を選ぶ気はないと宣言したせいか、その方向で後押ししようとする者も今は少なくないのだ。

 変更させようと口を開きかけたオスカーに、けれど隣りから呆れた様な魔女の声が割り込んできた。

「オスカーが構わないなら別にいいですよ」

「……熱でもあるのか?」

 オスカーは本当に疑いながら魔女の額に手を当ててみた。が、平熱である。

 彼女は眉根を寄せた。

「勝手についてきてるの私ですし。姿変えちゃうからいいですよ」

「ああ、なるほど」

 彼は、先日使い魔の姿をとっていた魔女のことを思い出す。そもそも彼女は外見年齢を操ることも自由なのだ。確かにそれならば不都合ないだろう。

「じゃあ、それで構わん」

 ガジェンはほっと胸を撫で下ろして退出した。二人きりになると、ティナーシャはお茶を飲みながら述懐する。

「夜抜け出したら分かるからちょうどいいです」

「本当に信用ないな……」

「あると思ってる方が不思議ですよ」

 魔女は冷ややかに言うと、小さな欠伸をした。



 夕食後の会議は夜遅くまでかかった。その主な理由は隣国ヤルダである。十年間大人しくしていた彼の国が、最近どうも怪しい動きをしているらしいのだ。

 ヤルダについての調査報告の検討と、今後の警戒を指示し終わるとオスカーは寝室に戻った。部屋では長椅子で魔女が転寝をしている。彼女は風呂に入ったのか部屋着に着替えていた。

「ティナーシャ、こんなところで寝るな」

 頬を軽く叩くが反応はない。この魔女は何日か眠らないこともあれば、このように深く眠ってしまうこともあるのだ。抜け出してもばれないんじゃないだろうか……という考えがふとオスカーの頭をかすめたが、あいにく抜け出してもすることがない。

 せめてちゃんと寝かしてやろうと、軽い体を抱き上げ寝台の前まで来たところで、しかし彼は躊躇した。前に同じ様に抱き上げ寝台に下ろした時、彼女が跳ね起きたことを思い出す。

 それは四百年前のある事件に起因していたのだが、その問題が一段落した今も、彼女がまだ同じ悪夢に囚われているのかオスカーには分からなかった。彼は数秒考えた結果、ティナーシャを抱き上げたまま自分が寝台に座る。眠っている彼女を膝の上に下ろすと、頬を続けて叩いた。

「起きろ起きろ」

「うう……」

 小さくうめき声をあげて、彼女はわずかに目を開いた。闇色の目は眠気に蕩けている。

「寝るなら自分でちゃんと寝ろ」

「はい……」

 何とか返事をすると、ティナーシャはオスカーの手を借りながらも自分で広い寝台の隅に移動した。そのまま猫のように丸くなると眠りの中に落ちていく。

 彼女が悪夢を見ていなかったことに安堵したオスカーはしかし、別のことに気づいて呆れた。

「お前、姿変えてないじゃないか……」

 髪を引いてみたが今度こそ起きる気配はない。

 溜息をついて掛布をかけてやると、自分も風呂に入る為にオスカーは寝台を離れた。




 ※ ※ ※ ※




 忘れることの出来ない映像がある。

 血と、倒れる夫の体。その体越しに見える男。地面に落ちた腕。

 その映像には何故か色がない。

 ただ、恐ろしい目で自分を睨む男の瞳だけに色があった。

 その瞳は、日の差さない森のような深い緑だ。

 二度と会いたくない

 見たくない。

 なのにその緑だけが、いつまでも彼女を苛み続ける。




 ※ ※ ※ ※




 深く眠ってしまった魔女を放置して隣で寝ていたオスカーは、真夜中不思議な息苦しさに目が覚めた。瞼をうっすらと開けたがよく見えない。体が重い。温かい何かが触れている。

 そうしているうちに唇を割って入った何かに口内を撫でられ、彼は瞬間で覚醒した。全身に眩暈を伴った震えが走る。女の舌が、彼の舌を絡め取る様に蠢いた。彼は組み敷かれた手を動かして、女の頬に触れる。

 彼女はそれに気づいてゆっくりと顔を離した。体を起こし、自分を凝視する男の顔に手を添える。夢の中にいるような空虚な表情で彼の青い瞳を見つめ、口を開いた。

「違う………………わないよ!!」

 囁くような呟きから、急に叫びに転じて彼女は跳ね起きる。その顔にオスカーは呆れた視線を送った。

「お前、何やってるんだ……」

 魔女は頭を抱えて寝台の上に屈みこみながら

「同調された……」

 と口惜しそうに洩らした。



「眠りこけてたんで、周波があってしまった夢を引き受けてしまったようです……」

 ようやく落ち着いたらしい魔女は寝台に正座した。俯く彼女はこれ以上ないくらいばつの悪い表情を浮かべている。

「何だそれは」

 オスカーはこめかみを押さえる。何ともいえない起こされ方をして眩暈がしそうだ。時計を見るとまだ朝までは時間がある。

「多分、この砦の中に強い情念を持った夢を外に流しながら眠っている人がいるんですよ。おそらく魔力がある人で……制御訓練の経験がないと思います。普通の人間には影響ないんですが、私ですし疲れてたので……それを拾ってしまったみたいです。すみません!」

「心臓に悪い」

「忘れてください……」

 魔女は這いつくばって頼み込んだ。それを見ているだけで、オスカーにはやり場のない疲労が込み上げてくる。得をしたと思うより、ただただ疲れた。ほんの一分程度のことなのに神経に重石がのしかかった気がする。

「何が違ったんだ」

「瞳の色だと思います。緑……だと思ってたのかな?」

「目が覚めてよかったな」

 契約者の冷ややかな声に、魔女は顔をあげられない。冷ややかでなかったとしても、自分の行いに顔をあげられなかった。

「ともかく俺はもうちょっと寝る。お前はちゃんと姿を変えとけ」

「はい……」

 背を向けて横になったオスカーに、ティナーシャはようやく顔をあげると小さな黒い猫に姿を変えて丸くなる。力なく尻尾を折り畳み、とは言え、自分のありえない失態に当分寝付けそうになかった。



 翌朝起きると、オスカーは枕元で丸くなっている猫を抱き上げた。猫は大きく欠伸をすると彼の肩に飛び乗って伸びをする。

 その喉を撫でながら彼は「お前、精霊術士でいたかったら今日一日その姿でいろよ」と低い声で呟いた。釘を刺された猫はびくっと震えると、黒い耳をしょんぼりと垂れて小さくなったのだった。




 ※ ※ ※ ※




 視察二日目の午前中、オスカーは砦内の設備を見て回った。古くなっている防壁の修繕について話を聞く。一旦砦内の執務室に戻ってその他の報告に目を通していると、保護された村の代表者が挨拶をしたいと申し出てきた。

 許可を得て入ってきた代表者は、前の首長だったという老人と二十代後半の美しい女である。女は淡い金色の髪を結い上げて整った顔の線を出していた。本来は華やかな美貌のようだが、今は翳が色濃くその顔を染め上げている。

 人の気配に気付いたのか、それまで机の隅で丸くなっていた猫が首をもたげた。黒い背を起こしゆっくり顔を上げると、まじまじと女の方を見つめる。

 オスカーはそれに気づいて女を見た。

「そうか、お前か」

「はい?」

「いや、なんでもない」

 女はエルゼと名乗り、殺された首長の未亡人だと挨拶した。礼の為に微笑む時も、その表情にはどこか愁いが感じられる。

 挨拶が終わり、頭を下げて退出しようとする彼女をオスカーは呼び止めた。

「亡くなった夫は緑の目だったのか?」

 何気ない王の言葉に、しかし彼女は硬直してしまった。翳のある表情が驚愕に凍るのをオスカーは怪訝に思う。質問には隣りの老人が代わりに答えた。

「いえ、茶色の目でして」

「そうか。いや、つまらんことを聞いた。下がっていい」

 二人が部屋を出ていくと、オスカーは猫を撫でながら、黒い耳に問いかける。

「さて、あの女は誰の夢を見てたんだと思う?」

 猫は肩をすくめるように首を折ると、再び丸くなった。



 砦の防壁に配置されている見張りの兵士は、昼過ぎに交代となる。その為昼食を取ってから持ち場に向かっていた兵士は、ふと壁上から国境方面を見やり異変に気づいた。これから休憩に行こうとしている同僚を呼び止める。

「おい、あれ……」

 言われた男が指差された方角を見てみると、遠くに砂煙があがっている。ぼやけて見えるそれは徐々に大きくなっていった。一体何かと注視していた彼らは、やがてそれがこちらに向かってきている騎馬たちだということに気づく。

 数は百ほどであろうか。軍ではない。この近辺を荒らすイトと呼ばれる騎馬民族である。事態を把握した彼らは顔を見合わせると、一人が慌てて報告に向かった。そして残されたもう一人の兵士は忌まわしげな目でその砂煙を見つめていたのである。



「イトが来たって? どういうつもりだ」

 グランフォートと共に、備蓄倉庫を視察していたオスカーは、報告を受けて首を捻った。今までこちらが討伐の為に探したことはあったが、彼らはほとんど尻尾をつかませず行方をくらましていたのだ。

 それをわざわざ砦に来るとはどういうつもりなのだろう。訝しげに思いながら王が門の近くに行くと、そこには既に兵士たちの人だかりが出来ていた。どうやらイトは門の外にいるらしい。ガジェンがオスカーに気づいて駆け寄ってくる。

「イトの首領が、一番偉い人間に会わせろと申しております」

「自殺志願か?」

 つい軽口を叩く王に、肩の上の黒猫が呆れた目を送った。普段なら一番偉いといえばエドガルドだろうが、今は当然ながらオスカーである。

 とりあえず話をしたいという申し出を受けて、彼は門内の広場を空けさせ、城門を開いた。広場が見える回廊や窓、防壁の上から数千の兵士たちが注視する中、イトは堂々と砦内に入ってくる。ファルサスの兵たちの中には、その傲岸な姿に忌々しく舌打をする者も多かった。今まで好き放題略奪を繰り返していたくせに、何を胸を張っているのかと、当然の文句を口に乗せる者たちもいる。


 カレルはそんな兵士たちに混じって、燃えるような憎悪の目をイトに向けていた。不審な動きを見せたらすぐ射殺してやろうと、防壁から弓兵隊が矢を番える中、三十歳前後の体格のいい男が一人、前に進み出る。

 イトの首領だという彼は馬を下り、三人の将軍が前に立つオスカーに向かって胸をそらした。日の差さぬ森のような深い緑の瞳がまっすぐオスカーを射抜く。

「俺の名はハヴィ。今回は欲しいものがあって来た」

「厚かましいな。今ここでお前らを埋めても構わんのだぞ」

「何とでも言え。略奪は昔からの一族の生き方だ。俺たちはこの生き方に誇りを持っている。軍を以って他国を攻めるのと何が違う。自分は戦わず命令だけする男より、俺はずっと正しい生き方をしている」

 皮肉げな笑いで応えるオスカーの肩の上で、黒い猫が毛を逆立てた。威嚇に口を開く猫を、彼は首の後ろを掴んでつりあげる。猫はじたばたともがいたが、彼はそれを無視してハヴィに向かった。

「よく回る舌だな。何が欲しいんだ」

「女だ」

 その答えに、オスカーは手に持った猫と顔を見合わせた。




 ※ ※ ※ ※




 二度と会いたくなかった。

 けれどその瞳が、その色が魂に刻み込まれてしまった。

 忘れたいと、どれほど願っただろう。その瞳を見る前に戻りたいと。

 だが思えば思うほど、その瞳は彼女を毎夜、夢の中で責め立てる。

 あとどれだけ月日が経てば逃れられるのか、彼女には見当もつかなかった。



 砦の一室で子供たちに本を読んでやっていたエルゼは、村の老人が自分を呼びに来た声に気づいて顔をあげた。老人は苦々しい顔で吐き捨てる。

「エルゼ、イトが来ているらしい」

「え!? だってここは砦じゃ……」

「王がお前をお呼びだ」

 何がどうなっているのか分からない。

 分からないまま兵士たちに付き添われて、門の前の広場に来たエルゼはそこで、二度と見たくないと強く願っていた、あの緑の瞳に再会することになったのだ。


 自分を絡め取るハヴィの視線を受けて、エルゼは硬直する。その彼女に、エドガルドが事の次第を簡単に説明してやった。つまり、ハヴィがエルゼを求めてここまで来たことと、彼女を得る為に三対三の決闘を申し込んできたことを。

 ハヴィは、欲しいものは力で奪い取ると主張した。

 ただしエルゼには今、本来彼女を守るべきはずの人間がいない。一年前の略奪で彼女の夫を始め皆死んでしまったからだ。ならば身を寄せている砦の人間がその代わりになれとイトの首領は主張した。ただし、五万もいる国軍と戦闘をして一族を無駄に死なせたくないから決闘で勝負をつけようと。

 それを聞いたファルサスの人間たちは皆、盗人猛々しいとイトの提案を拒絶したがった。間抜けにもファルサスの砦に現れた彼らを、ここで処分しようとしたのだ。

 一方、イトはイトで言い分がある。

 彼らは略奪において女子供は殺さないし、彼らにも養わなければいけない、帰りを待つ者たちがいる。略奪は彼らにとって、一族の生活の為の責務であるのだ。

 しかし、どのような事情があろうと、ファルサスにおいて略奪は許される行為ではない。イトの主張を、はいそうですかと受け入れるわけにはいかなかった。


 全員を殺そうと主張する将軍たちに、オスカーはしばらく考えていたが、やがてハヴィの要求を呑む旨を口にした。驚愕し、発言を撤回させようとする将軍たちに王は軽く手を振る。

「たかが百人でも殺す間にこちらに犠牲が出るだろう。それが三人で済むならその方がいい」

 若い国王のあっさりとした決定に、ハヴィは鼻を鳴らした。

「ガキの割りに物分りがいいな。強い奴から三人出せ。こちらも出す」

「分かった。ただしこちらが勝った場合、以後ファルサスでの略奪は禁じる。―――― 違えた場合、どうなるか分かっているだろうな」

 急に威圧感を顕にしたオスカーに、ハヴィは若干怯んだが、一族の首領である手前、それを押し隠して頷いた。

 ハヴィが振り返って手で合図をすると、百人の騎馬たちは退いて馬を下り場所を空ける。決闘に参加する二人だけが、自分の馬を他の者に預けてそこに残った。残った二人を確認すると、ハヴィは将軍たちの隣りで震えているエルゼを見つめた。


 彼女は一年前と同じ、怯えた様な美しい顔で彼を見返している。風が吹いたら消えてしまいそうな、頼りない存在だ。

 けれどそれが彼を惹きつけてやまないのだ。

 血の匂いが立ち込める略奪の場で彼は彼女に出会った。夫の背に庇われ、必死にそれを留めていた彼女。その容貌の美しさ。夫を見る強い目の光に一目で虜になった。彼女の光を自分に向けさせたいと思ったのだ。

 色あせていく記憶の中で、彼女の姿だけはいつまでも鮮やかだ。

 崩れ落ちる彼女の夫越しに、呆然と自分を見つめる女の目は忘れることができない。


 他人にこれほどまで執着したことなどなかった。自分でも信じられない。

 だがどうしても欲しかったのだ。諦めきれない。

 だから今彼は、こうしてここにいる。

「お前の夫に斬られた腕が戻るのに一年かかった。遅くなったが迎えに来たぞ」

 ハヴィはエルゼから目を逸らさないまま、自身の左腕をさすった。魔法で繋いだその腕を、元のように動かせるようになるまではかなりの苦痛と努力を要したのだ。

 エルゼは軽く目を瞠ったが、男の言葉に何も答えなかった。



 面倒くさそうに頭をかきながら、オスカーは将軍たちに向き直った。

「さて、とりあえず俺が出るとして他の二人はどうするか……」

 彼は首の後ろを掴んだままの猫を目の高さにつりあげる。

「強い順といったらこいつなんだが、猫だしな」

 その時不意に猫がその輪郭を歪めた。小さな黒い子猫は一瞬で元の女の姿に戻る。オスカーは顔を顰めて女を叱り付けた。

「戻るなと言ったろう。仕置きをされたいのか」

「いくら猫でもずっと首の後ろを持ってたら窒息しちゃうんですよ!」

 突然現れた魔女に、将軍たちは驚きで何も言えない。あんぐりと口を開けて彼女を眺めた。魔女は自分の首の後ろをさすりながらこともなげに言う。

「私が出ますよ」

「却下」

「最後まで聞いてくださいよ……。あの二人のうち、背の低い方の男は多分魔法士です」

 オスカーは守護者の言葉に、広場に立っている二人の男を眺めた。筋肉質の巨漢と小柄な男はそれぞれ剣を佩いていて魔法士には見えない。だが魔女がそういうのなら間違いないだろう。

「分かった。あいつはお前に任せる」

「承りました」

 魔女は軽く答えると、服と剣を取りにその場を離れた。

 オスカーはそれを見送ると最後の一人を決める為、ガジェンを見やる。彼ならアルスほどではないが、腕も立つし妥当な選択だ。しかし、そこに突如一人の若い兵士が走ってきて手を上げた。

「陛下! 俺を出してください!」

 オスカーは必死な形相で訴える青年を一瞥する。まだ十代だろう、幼さの抜け切らない瞳には憎しみが漂っていた。

「何故だ」

「やつらに襲われた村の者です。父を殺されました」

 突然の無礼に男を下がらせようとしたエドガルドをオスカーは押し留める。強い妄執に囚われた兵士を注視した。

「名は?」

「カレルと申します」

「分かった。お前も出そう」

 王の決定にカレルは喜色を浮かべる。これで仇が討てるのだ。

 そう思ってカレルがエルゼを見ると、彼女は蒼白な顔をしたまま、じっとハヴィを見つめていた。



 最初の決闘はカレルと、ホアキンと名乗る筋肉質の巨漢との戦いになった。大勢が息を呑んで見つめる中、二人は剣を抜いて向かい合う。カレルはどちらかというと細い体型をしており、ホアキンと向かい合うとまさに大人と子供のようだ。

 ホアキンは対戦者を見下ろし嘲笑する。

「村の生き残りだって? 大人しく隠れていればよかったのにな」

「黙れ! この蛮族が!」

 カレルは剣を構える。しかしそこに未熟さが漂うのをホアキンを始め、一同は見抜いていた。始まる前から勝敗が分かるような空気の中、だがハヴィだけは一人眉を顰める。彼はカレルの持つ剣に見覚えがあったのだ。

 それはイトの首領に古くから伝わる、一振りしかない無銘の剣によく似ていた。だがその剣は確か前の首領の時に、戦闘の最中折れてしまったはずなのだ。

 ハヴィは不審に思ったが、単に似ているだけだろうと頭を振る。広場の脇に立つエドガルドが開始の合図を出した。


 カレルは大きく剣を振りかぶると、ホアキンに向かって走り出す。そのまま打ち下ろされる渾身の一撃を、ホアキンは笑いながら受け止めた。一合、二合と繰り出される斬撃は、一つも巨漢の男を傷つけることができない。カレルはそれでも正面から剣を打ち込み続けた。

 ホアキンはしばらく楽しそうにそれを受けていたが、唇を上げて笑うと、上段から強烈な一撃をカレルに打ち下ろす。カレルはそれをかろうじて受けたが、支えきれずに尻餅をついてしまった。見物していたイトたちがどっと笑い声をあげる。

「くそ……っ」

 カレルは自分の頭にかっと血が上るのを自覚したが、どうすることも出来ない。ホアキンの剣が、立ち上がる間を与えぬまま彼に向かって打ち下ろされた。カレルはそれを間一髪で座ったまま後ずさってかわす。

 ―――― けれど続けての第三撃は、とても避けられそうにない。

 己が末路を悟って目を閉じたカレルは、しかしいつまでたっても衝撃がこないことを不審に思い目を開けた。

「え……」

 いつの間にか細身の剣が彼の眼前に突き立てられている。その剣に方向をそらされ、ホアキンの剣は横の地面に埋まっていた。呆然となったカレルの隣で、小さな足が砂を踏む。

「勝負はついている。次は私だ」

 長い黒髪を結い上げた魔女は、氷のような声でそう言った。



「女を出すのか? ファルサスも人が居ないらしい」

 ハヴィの揶揄にオスカーは軽く答えた。

「世話焼きな奴で困っている」

 観衆の視線が集まる中、ティナーシャは無造作に剣を構えた。体に沿う黒い服は、彼女の華奢な肢体をくっきりと目だたさせている。

 イニゴと名乗った二番目の男は、好色な笑いを浮かべてティナーシャの体を舐め回すように見つめた。湾曲した刃を抜いて彼女に向ける。

「少し細すぎるがいい女だな。剥いてやろうか」

「出来るなら好きにすればいい」

 魔女は酷薄な笑みで答えた。エドガルドの合図と共に軽く地を蹴る。力は決して強くないが、恐ろしい速度で切りかかってきた女を、イニゴは反射的に剣をかざして受けた。油断すれば即首が飛ばされそうな剣の動きに、所詮女と侮っていた態度を改める。

 彼は冷や汗を浮かべながら何とか三合を受けきると、全身の力を込めて大きく剣を横に薙いだ。魔女はそれを避けて大きく後ろへ跳ぶ。充分な間合いが保たれたことを確認したイニゴは剣を女へと向けた。構成を組み、魔力を注ぐ。

 生み出されたものは不可視の蔓だ。その先端が女の細い体に向かって走る。蔓はそのまま剣を構える彼女の四肢に絡みつき、束縛した。両腕を吊り上げられたティナーシャは、手首を締められ剣を取り落とす。ファルサスの観衆にざわめきが広がった。


 イニゴの力を知っているイトたちは、予想できた展開に下卑た笑いを浮かべた。

 剣を持つ魔法士は少ない。ましてやイトのように粗野な格好をしていれば、その可能性を疑う者さえ居ないのだ。実に愚かだと、イニゴは思う。

 彼は過去数十人を同じ様に嬲り、殺してきた。身動きが取れないと知った時の彼らの恐怖の表情はたまらないものがある。イニゴは捕らえた女に歩み寄ると、その胸元、鎖骨の間に剣の切っ先を当てた。女は怯えるわけでもなく平然と彼を見返している。

「魔法を使ってはいけないと言わなかっただろ?」

 勝利を確信して笑いながら、イニゴが女の服に刃を滑らそうとした、その時―――― 彼は自分の剣が砕け散るのを見て、口をぽかんと開いた。剣の破片は煌きながら地面に舞い落ちていく。それはあまりにも非現実的な眺めで、彼の危機感を動かさなかった。

 何かの気配が間近に近づいたことを感じてイニゴが顔をあげると、残酷な微笑を浮かべた女が浮かび上がって彼を覗き込んでいる。

 男はそれを信じられない思いで見上げた。歌うような美しい声が彼の耳を打つ。

「魔法を使ってはいけないと、確かに言わなかったな」

 伸ばされた女の白い手が彼の喉を掴む。

 次の瞬間、広場には男の絶叫が響き渡った。



「これで今のところ引き分けか」

 歓声の中、戻ってくる魔女を見ながら、オスカーはこともなげに言った。横でハヴィが唖然としている。

「イニゴに何をしたんだ……あの女は何者だ」

「魔法士が魔法でやられて何をしたもないと思うがな」

 帰って来たティナーシャは髪をほどきながらオスカーの隣りに立った。

「体内の魔力をぐちゃぐちゃにしてきました。正気が残ってても、もう構成は組めませんね」

「ご苦労。さて、では俺か。ティナーシャ」

 名を呼ばれた意味を分かっている魔女は、軽く浮かび上がると男の耳の後ろに指で自分の血を塗った。軽く詠唱も加える。これで剣は通すが魔法は通さない。ハヴィには魔力がないので充分だろう。

 施し終わった術を確認する彼女の白い耳朶を見て、オスカーは不意に顔を寄せると彼女の耳を軽く食んだ。

「ひゃああ」

 魔女は奇声を上げながら赤面して飛びのく。猫であったら背中の毛が逆立っていただろう。耳を押さえて逃れた彼女に、オスカーは意地の悪い笑みを見せた。

「言いつけを守らないからだ。馬鹿猫め」

「うううう」

 恨めしそうな守護者をその場に残して、オスカーは広場に歩み出る。ハヴィもその後に続いた。周囲の空気に緊張が混ざる。

 円状に空いた空間の中央までくると、オスカーはエルゼを振り返った。力のある目で彼女を見据える。

「さて、お前はどうして欲しい? 仇を殺して欲しいか?」

 急に問われた彼女は、目を見開いて王を見る。

 何も考えられない。

 自分の中に答えがない。

 彼の隣りでは深い緑の瞳が、彼女を何処までも追うように見つめていた。



 答えないエルゼから視線をはずすと、オスカーはハヴィに向き直った。横目で観衆を見やると、彼の魔女は心配もしていないのか既に猫に戻って石段の上で箱を作っている。その姿に小さく笑いをこぼしながらオスカーはアカーシアを抜いた。

「さっさとかかってこい。まだ仕事が残ってる」

「若造が……覚悟しろ」

 ハヴィは長く厚みのある剣を抜いた。切れ味より重さを重視した作りだ。これを上段から全力で打ち込まれては、受けた手ごと砕かれてしまうだろう。

 相対するものを怯ませるその剣を、しかしオスカーは気にもしていない。ハヴィは舌なめずりをしながら己の剣を構えた。

 エドガルドの合図が聞こえる。

 それと同時にハヴィは駆け引きなく踏み込むと、目前のファルサス王目がけて剣を振るった。食らっても受けても致命的な怪我をする強烈な斬撃を、オスカーは後ろに跳んで避ける。

 一方ハヴィは重い割りに素早い切り返しで、剣を横に薙ぎながら間合いを詰めてきた。オスカーは二撃目を同様に避けると、ハヴィが突進しながら振り下ろした一撃をアカーシアで軽く弾いて逸らす。そのまま空いている左手で、剣を持ったハヴィの右腕を掴んだ。

「な……っ!?」

 男の声に構わずオスカーはアカーシアを刹那で引く。そうして王は恐るべき膂力を以って、ハヴィの腕をあっさり肘の上から切断した。

 腕が地に落ちる鈍い音が響く。続いて獣の咆哮に似た悲鳴が広場を揺るがした。ハヴィは激痛に膝をつきながら、それでも左手を伸ばし地に落ちた剣を取ろうとする。

 だが指が刃にかかろうとした時、彼の喉元にはアカーシアがつきつけられた。オスカーの冷徹な声が響く。

「勝負ありだな。約束は飲んでもらうぞ」

 ファルサスの兵士たちは王の勝利にわっと歓声をあげる。イトが驚愕に息を呑んだ。

 ハヴィは唇を噛んで自分の右手と剣を睨みつける。



 勝負の結末にエルゼは軽くよろめいた。ガジェンがその体を支える。

 熱狂の中にあって、彼女の体は不思議と冷え切っていた。

 世界から色が無くなる。

 ただ腕を失って地面に這い蹲る男と、その血の色だけが鮮やかだ。

 何も聞こえない。

 何も言えない。

 男の緑の目が自分を捕らえる。

 その口が、自分の名の形に僅かに動いた。

 視界が歪む。

 気が付いた時、彼女は血だまりに膝をついて、男の顔に手を伸ばしていた。



 オスカーは一旦将軍たちのところまで戻り、 肩に猫を乗せると振り返って広場にいる男女を眺めた。腕を失くした男と、呆然としたままそれを必死で止血しようとする女。ファルサスの兵士もイトも、ただその異様な光景を見つめている。

 オスカーは面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、肩の上の猫に話しかけた。

「ティナーシャ、腕を繋げられるか?」

 細い女の声がそれに答える。

「お断りです」

「まぁそうだな。じゃあ止血してやれ」

 魔女は舌打したくなった。

 もともと契約者も腕を繋いでやるつもりなどないのだ。しかし受け入れられない要求を先にしたことで、続く要求の止血程度なら魔女も飲むと思ったのだろう。ティナーシャは文句を言おうかと思ったが、結局は黙ってその場から構成を組んだ。魔力を注いで男に止血を施し痛みを減らす。


 オスカーはアカーシアを鞘に戻すと二人の傍に歩み寄った。門付近にいるイトたちが殺気立って剣を抜く。ファルサスの兵士たちもそれを見て臨戦体勢をとった。

 場が一触即発の空気に包まれる中、魔女が冷ややかな声をあげる。

「身の程知らずめ……全員殺すことを提案します。何なら私がやりますよ」

 黒猫の不穏な発言にハヴィが蒼い顔を上げた。オスカーは苦笑して猫の背を撫でる。

 一緒にいて分かってきたことだが、彼女は自分に対する敵意には無頓着だが、契約者へのそれには容赦がない。特に敗北が明らかになっても刃向かってくる人間に対しては、彼より余程冷酷だ。

 自分の力に自信がある二人の男女は、男はその余裕のために敵をしばしば見逃すが、女は将来の報復を摘み取るため徹底的に叩く。怒気を帯びた魔女の手綱を取るのも、なかなか大変なのだ。

「ほっとけ。何でも背負うな」

 オスカーは毛を逆立てる猫を再び首の後ろで吊り上げながら、ハヴィに顎でイトを止めるよう示した。イトの首領はエルゼの手を借りて立ち上がると、仲間たちに向かって残った手を広げる。

「やめろ。こちらから申し出た勝負で敗北したんだ」

「腑抜けたか、ハヴィ! このまま引き下がれるか」

 イトの中から次々賛同する声があがる。 ハヴィは声を張り上げた。

「俺の我儘につき合わせて悪かった。でもここで皆を無駄死にはさせられない。お前たちが死ねば一族の他の者も生きていけないじゃないか」

 首領の言葉にイトたちは沈黙する。辺りを見回せばファルサスの兵士たちはみな剣や弓を手に彼らを注視していた。その中には明らかに殺意を漲らせている者も多い。

 イトたちはしばらく逡巡していたが、やがて一人また一人と剣を鞘に戻す。ハヴィはそれを見て安堵すると、仲間のところに歩いて戻った。振り返って、王の傍に血塗れで立ち尽くしているエルゼを見つめる。

 ―――― 何を言えばいいのか分からない。

 あの時彼女の前で左腕を失った男は、今度は右手を失って、また彼女の手を取ることができなかった。


 エルゼは糸の切れた人形のように、意思のない目で男を見つめている。

「行きたいなら好きにすればいい」

 頭上からの王の言葉に、彼女はゆっくりと顔をあげた。その貌はまるで空虚である。

「……あの男は夫を殺しました」

「別に俺はどっちでも構わんがな。夢に見るほどあの男が気になるなら行けばいい。自分のことは自分で決めろ」

 エルゼは再びハヴィを見た。二人の視線が絡み合う。

 感情は千々の泡となり、何をしたいのか、何を望んでいるのか、自分が何を思っているのかさえ分からなかった。

 エルゼはしばらく男を見つめていたが、やがて頭を振ると、男に背を向け砦の中に消えた。

 そしてそれを見送ったハヴィもまた、イトを引きつれ砦を後にしたのである。




 ※ ※ ※ ※




「何だかすっきりしませんね」

 元の姿に戻って風呂に入った魔女は、寝台の上で髪を乾かしながらそう洩らした。横では彼女の契約者がうつ伏せになって書類を読んでいる。

「気にするだけ無駄だ」

「そうなんですけどね」

「これでイトの略奪がなくなれば問題ない。まだ続くようだったら出方を考えるさ」

 魔女は嘆息すると考えることをやめた。

 男と自分はやり方が違う。それは当然のことだし、揃える必要もないだろう。そしてここは彼の国なのだ。自分は彼を守護することだけ考えていればいい。

 伸びをして横になったティナーシャを、オスカーは呆れた目で一瞥した。

「お前、学習能力がないぞ」

「エルゼならもういませんよ。さっき砦を出て行くのを見ました」

 オスカーは小さく笑った。それは予想の範囲内である。

 彼女が、そして男がこれから先どうなるのかは分からない。別に知りたいとも思わなかった。それは彼の知らない物語だ。

 隣にいる魔女もそうらしく、とろとろと眠りかけている。オスカーは魔女の漆黒の髪を軽く引いた。

「そのままで寝るのか」

「貴方の理性が頑丈なのは知ってます」

「そのうち痛い目にあうぞ」

「ずっと猫でいるのって疲れるんですよ。吊り下げる人がいますし……一時間だけ寝かせてください」

「……ちゃんと寝とけ」

 魔女はその言葉に安心したのか、すっと目を閉じてしまった。小さな寝息が聞こえ始める。


 オスカーは彼女の無防備な寝顔に苦笑を禁じえない。初めて会ったときよりは大分懐かれてきたが、方向性が間違っている気もする。ただ今はそれでも別にいい気がした。

 夫を殺した男に惹かれる気持ちは、彼には分からない。

 きっと魔女にも分からないのだろう。だから彼女はこうして眠っていられる。

 オスカーは彼女の髪を撫でると掛布をかけてやった。



 ファルサスにおけるイトの略奪は、この日を境に二度と行われることはなかった。

 その後、イトの隻腕の首領を見た者はなく、また砦から姿を消した女の行方を知る者もやはりいなかったのである。

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