第29話 月のかけら
茫洋と薄青が広がる上空はよく晴れている。だが、熱気を放つ太陽にはちょうど流れる雲がかかり、強い光を遮っていた。柔らかい午後の陽気の下、城の中庭から金属を打ち鳴らす高い音が聞こえてくる。澄んだその音は、時に早くなり、時に遅くなりながら軽快に鳴り響いていた。
「ティナーシャ、すぐ下がるな」
「うう」
男の持つ練習用の剣を、自身も同じもので受けながら、魔女は男の左側面に踏み込んだ。軽く屈みながら男の体を横に薙ごうとする。
しかしその剣は、次の瞬間軽い音を立てて弾かれた。そのまま彼女の手の中からも弾き飛ばされ、宙を回転しながら少し離れた場所に落ちる。
「あ、危ない」
痺れる手首を押さえながら、魔女は飛んで行った剣を見やった。オスカーは自分の剣で肩を叩きながら軽く言う。
「人が来ないように結界張っとけ。危ない」
「分かりました」
ティナーシャは小走りで落ちた剣を拾ってくる。彼女は手首を確認して剣を持つと、それを再び構えた。
「陛下はいらっしゃるか?」
あちこちを探して最後に談話室を覗き込んだアルスは、部屋の中にも目的の人物がいないことに首を傾げた。代わりに机で論文を書いていたカーヴが顔を上げる。
「外にいらっしゃいますよ」
「外?」
彼が部屋の奥の窓辺に視線をやると、談話室常連の魔法士たちが窓から中庭を見下ろしている。アルスはそこに入ると彼らと並んで外を覗き込んだ。見ると中庭で、彼の主君とその守護者が剣を打ち合っている。
「何なさってるんだあれは」
パミラがそれに苦笑して答えた。
「陛下が体がなまるからと仰って、ティナーシャ様を引っ張っていかれましたよ」
「なるほど」
剣の腕については魔女もかなりのものなのだが、いかんせんオスカーを相手にしているとその実力差は歴然である。ちょうど二人の中間に位置する腕前のアルスは、彼らの稽古を興味深く見下ろした。シルヴィアがしみじみと洩らす。
「仲よろしいですよね」
「多分」
シルヴィアの隣りに立っていたドアンが、ふと何か思いついたらしく、人の悪い笑みを浮かべた。同僚たちを見回して指を一本立てる。
「契約期間終了まであと四ヶ月ほどらしいが、ご結婚に至るかどうか賭けようか」
「えぇぇ」
シルヴィアは眉を顰めたが、後ろから論文に向かったままのカーヴがまず「じゃあ、無理に賭ける」と声を上げた。ドアンは喉を鳴らして笑う。
「私は、ご結婚される方に賭けます」
頬を膨らませたシルヴィアが賭けに加わると、発案者のドアンがそれに続いた。
「俺は無理で」
三人の魔法士の賭けをアルスは呆れて聞いていたが、視線で意見を求められると「結婚される方で。これは希望」と答える。半々の状態になり一同は各人思案顔になった。まだ賭けに参加していないパミラは素朴な疑問を口にする。
「そもそもお二人のお気持ちというより、政治的な問題の方が大きいんじゃないでしょうか」
「そうだよなー」
ドアンが頷くと、アルスがそれを遮った。
「でも即戦力になるという意味では、ティナーシャ嬢を超える王妃はいないな。力もそうだが、トゥルダールの継承者だしなぁ。知識と技術もあるし、他の国でも欲しがるだろう」
「この間トゥルダール宝物庫の中身をほとんどファルサスに運びましたよ」
「まじか」
アルスは驚きを以って階下の魔女を見下ろした。彼女は華奢な肢体をしならせて、黙々と剣を振るっている。
パミラは主君を穏やかな目で眺めると
「私はご結婚される方で。そろそろ幸せになって頂きたいです」
と締め括った。
一通り体をほぐして満足したオスカーは執務室に帰って来た。一方ティナーシャは、壁際に置かれた長椅子の上でぐったりしている。潰れた猫のような有様に、契約者の男は眉を寄せた。
「大丈夫か?」
「一時間くらい休めば平気です。体力あんまりないんで……」
「もうちょっと体重増やせ」
「筋肉がこれ以上つかないみたいなんですよね」
魔女は自分の細い手足を眺めた。脂肪も筋肉もあまりないそれはどう見ても魔法士のものである。剣を振るえている方が不自然に思えるが、経験と反射神経の問題だろう。事実、何の身体強化もなしに少し重い剣を持つとあっという間に持たなくなってしまう。
「貴方は平気なんですか?」
「準備体操くらいだな。最近机の前ばかりで腐りそうだ」
言われてみればここ三週間ほど、彼が机仕事以外をしているところを見ていない。最後に動いていたのは、先日の死を呼ぶ歌の一件かもしれないということに、彼女は思い当たった。
ティナーシャにとって彼は、戦いの中にある人間の印象が強いのだが、実際は休日もなく執務をしている時間がほとんどなのだ。彼女は若い契約者のことが少し気の毒になった。
「娼館にでも行ってきますか?」
「それは嫌味か」
「そういうつもりではないんですが……」
ティナーシャは宙に浮かび上がると、男のすぐ横まで移動した。体が疲れているので歩くより魔法を使った方が楽なのである。
オスカーは空いてる手で彼女の髪を引く。
「それよりまた海に連れてってくれ」
「お安い御用です」
机の縁に座ると、彼女は残りの書類を取り上げた。いつもよりは量が少ない気がする。時計を見るとまだ昼を過ぎたばかりだ。
「じゃあ、これお手伝いするんで、夕方から何処かに行きましょうか。海でも他のところでも何処でもいいですよ」
魔女の提案にオスカーは軽く目を瞠った。特に用事もなく外に出るということは最近の彼にとって実に稀だったのだ。
「何処がある?」
「大陸内なら街でも山でも湖でも」
「……じゃあ湖」
「了解いたしました」
柔らかく微笑む魔女に、オスカーは子供の頃のように気分が浮き立つのを感じた。
少しだけ羽を伸ばしてこられる。
それが彼の魔女と一緒ならば、言うことなかった。
ティナーシャが手を出すと、全ての執務は三十分ほどで処理することが出来た。魔女は支度の為に一旦自室に戻り、黒いあっさりとしたドレスに着替える。控えていたパミラが、ティナーシャの着替えを手伝いながら嬉しそうな声をあげた。
「お二人でお出かけになるには普段お忙しいですから、ゆっくりなさってきてください」
その言葉に頷きかけ、けれど看過できない不自然さを感じて魔女は聞き返した。
「何か恋人同士みたいに聞こえるんですが……」
「恋人同士に見えますわ」
「あれ……」
何かがずれているような気がして、ティナーシャは首を傾げる。しかしパミラは主人に反して余裕の笑みを浮かべていた。
「えーと……」
「仲睦まじいようにお見受けします」
きっぱりと言われてしまった。魔女は美しい眉を寄せて考える。客観的に見るとそうなのだろうか。普段の行動を振り返り考えてみる。
―――― そうなのかもしれない。
ティナーシャは認識すると共に溜息をつく。
「べたべた触られるのに慣れちゃったからですかね……私もつい触っちゃうし。百年くらいしたら間違って結婚してそうです。怖い怖い」
「百年もかかるんですか……」
しかも間違ってなのか……と、主人の婚礼を期待していたパミラは内心がっくり肩を落とした。
日が沈む前に二人は城を出た。ティナーシャが自室に書き直した転移陣で塔に跳び、そこからナークで更に西に飛ぶ。休みだという意識の現われか、オスカーはアカーシアではなく普通の長剣を佩いていた。
「何処の湖に向かうんだ?」
「旧トゥルダールの南部にあるソクナス湖です。今はマグダルシアの領地になってたと思います。すぐ着きますよ」
マグダルシアは大陸南西部にある小国である。牧畜が盛んで、領地のほとんどは山と森が占める平和な国だ。
夕方の空は徐々に赤みを帯びてきていた。日が落ちてきており、山の頂にさしかかろうとしている。重なり合う山の合間をティナーシャは指差した。
「あそこですよ、ほら」
山あいに少し平坦になっている場所がある。周りは森の木々で囲まれ、その中心にある湖が、鏡のように赤い日を受けて輝いていた。ナークがゆっくり高度を落としていく。
「子供の頃何度か来たことがあります。昔は月晶石と言われる青みがかった水晶が水辺で採れたんですが、最近はほとんど見ないらしいですね。懐かしいです」
魔女が子供の頃の話をするのは珍しかったので、オスカーはその顔をまじまじと見つめた。翳りのない、懐かしさだけが浮かぶ表情に、彼は安心する。
その間もナークは高度を下げていき、湖上に差し掛かる頃には建物の三階ほどの高さを飛んでいた。魔女はドラゴンから身を乗り出して下を眺める。水は澄んでいたが深さはそれなりにあるらしく、中心部は底が見えない。
「どの辺に下りましょうか」
「よし、じゃあ行くか」
「え」
オスカーはそう言うと、おもむろに魔女を腕の中に抱きとり、そのまま飛び降りた。
女の長い悲鳴が湖の上に響く。
大きな水音がそれに続いた。
ティナーシャを片腕に抱えたまま水面に浮かび上がったオスカーは、腕の中で彼女が唖然としているのを見て笑い出した。
「び、びっくりした……」
「爽快感を求めてみた」
「恐怖を感じたよ!」
ティナーシャは契約者の体に触れて、どこも怪我していないことを確かめた。彼女自身は庇われていたので平気である。結界のせいか男の剣もはずれていない。大丈夫だ。
空を見上げると、主人がいなくなった事に気づいたナークが大きさを変えながら旋回してきた。オスカーはまだ笑いながらティナーシャの頭を叩く。
「お前の悲鳴は初めて聞いたな」
「私も久しぶりに聞きました……」
魔女は男の肩に手をついて、宙に浮かび上がった。ドレスの裾を絞って水を切る。今日は泳がないつもりだったので服が水を吸って重かった。
見下ろすと、オスカーは辺りを泳ぎ始めている。楽しそうな彼は珍しく年相応に見えて、ティナーシャは息抜きに連れてきてよかった、と思った。
彼女は辺りを飛び回るナークを手を伸ばして肩に乗せると、自分は足を下ろして水面に座る。オスカーが水底を見やりながら問うた。
「ここには何か居るのか?」
「昔は普通の生き物だけでしたが、今は不明です。一応気をつけてくださいね」
「分かった」
東の水面が赤く染まっていく。西側は森の影がかかり暗くなっていた。空には白い月が見える。まだ夜空とは言えない天の青さも、まもなくオスカーの瞳と同じ色になるだろう。
ティナーシャは濡れた髪を手で梳く。魔法で乾かしてもいいのだが、また濡れるかもしれないと思うとどうでもよくなった。すぐ隣りに泳いできたオスカーがティナーシャの膝の上に頬杖をつくと、彼女を見上げる。
「お前、そうしてると水妖みたいだな」
「そうですか? 水面に座るのはまずいですかね」
「まぁいいんじゃないか」
オスカーはティナーシャの髪を引いて顔を寄せさせると、彼女の頬に口付けた。魔女は撫でられる猫のように目を細めたが、少し微妙な表情になって彼を見返す。
「どうした」
「パミラに恋人に見えるとか言われましたよ」
「問題あるのか?」
あっさりした返応に、彼女は真剣に眉根を寄せた。見えると言われても、何かが変わるわけではないという結論しか出ない。
「……特には」
「まぁそうだな」
オスカーはティナーシャの髪を根元から梳きながら微笑した。普段彼が笑う時は、苦笑か、可笑しくて笑っているか、人を威圧する為の笑いがほとんどなので、たまにこういう表情をされると、不思議と引き込まれてしまう。
ティナーシャは白い指を伸ばして彼の顔に触れた。青い瞳に映る空は、夜になりかけている。見つめればそこに月が見える気がした。もっとよく見ようと顔を寄せかける。
その時不意に、オスカーは魔女の体を強く引いた。水中に落ちる女の体を庇うように抱き寄せる。同時に空気が弾ける音が二人の耳を打った。岸から何かが飛来して、結界にぶつかったのだ。
「何!?」
「矢だな……」
ティナーシャは水面に落ちてしまったナークを慌てて抱き取った。危うく沈みかけたドラゴンは彼女の胸の中でばたばたと暴れる。
それを庇いながらオスカーは眉を顰めて岸の方を睨んだ。
「当たったか?」
「分からない。水中に入ってしまったようだ」
五人の男たちは水辺のすぐ傍の森の中からじっと湖面を見つめた。だが広がる景色には怪しいものは何もない。先ほど人が水面に座っているように見えたのは目の錯覚だったのだろうか。
念の為一人がしばらく矢を番えて待ってみたが、人影は再び現れることはなかった。諦めて弓を下ろすと、一番若い男が肩をすくめる。
「水妖のお宝が手に入れば最高なんだけどな」
「本当に水妖で、怒らせたらどうするんだ。それに殺せてもあんな湖の真ん中まで取りにいけない」
「多分、魚かなんかだろう」
「人型に見えたんだけどなぁ」
落胆と安堵が入り混じる会話を交わしながら、彼らは踵を返してその場を立ち去ろうとする。しかしその時、背後で水音がして男たちは振り返った。
森の木々の間から見える水辺に、いつの間にか一人の女が立っている。足は水につかったままらしく、黒いドレスの裾が水面に広がっていた。長い漆黒の髪に輝くような白い肌の女は、人間とは思えないほど美しい。
男たちは思わず呆然と硬直したが、若い男が矢を取り出すのを皮切りに思い思いに武器を取る。
だが、それを見て、女は小さく両手を上げた。
「待って。人間です」
女の言葉に、男たちは訝しげな声をあげる。
「人間? 本当か?」
「本当です」
「こんなところで何してるんだ」
「休暇中です。ファルサスから遊びに来てます」
「やっぱり水妖に見えたのか」
知らない男の声に、男たちは驚いて死角になっていた木の影を覗き込んだ。そこには剣を帯びた若い男が木に寄りかかっている。その体は泳いでいたのか、頭から足先まで濡れていた。
「あれは俺の連れで、本当に人間の魔法士だ」
「ああ……」
その説明に男たちはようやく納得した。この辺りは田舎のため魔法士など滅多に見ないが、ファルサスくらいの大きい国にはそういった人間たちが多数いることは知識として知っていた。
男たちの中から、三十近くの年長らしい一人が歩み出る。
「申し訳ない。てっきり水妖だと思って大変失礼をしました。お怪我はないでしょうか」
「平気です」
女はにっこり微笑むと、湖を出て連れの男の傍に立った。
「普段は水妖なんて恐くて手も出さないんですが、つい気が急いていて……」
「何か問題でもあったんですか?」
「いえ、今日は村のお祭りなんですよ」
「お祭り……ですか」
それが水妖退治とどういう関係があるのだろう。
不思議に思いながらもティナーシャは手早くオスカーと自分の服を乾かした。魔法士など初めて見たという男たちは、その技にすっかり感動している。
人が良さそうな彼らは次々に頭を下げると、二人を迎え入れて祭りの説明をしてくれた。
「これが結婚相手を決めるお祭りなんですよ。今はもう実際に結婚する人間はほとんどいないんですが、それでも中々盛り上がりましてね。近隣の町からも参加者が多いんです」
男たちのうち二人が手を上げて、隣町から来たのだと言った。年長の男は、オスカーとティナーシャを見て「よろしかったら参加してはどうか」と勧める。
「参加ってどうするんですか?」
「女性の方は村で待つだけです。男は湖を回って贈り物を調達してくるんですよ。自然のものをね。それを持って目当ての女性に求婚するわけです」
「なるほど」
地方には面白い祭りもあるものである。娯楽も少ない山の中ではこういった祭りが一年間にわたる労働の励みになっていたのかもしれない。
感心しながらも、参加は遠慮しようとティナーシャが口を開きかけた時、彼女の契約者はその頭を軽く叩いた。
「面白い。やろう」
「へ!?」
魔女は聞き間違いかと思ってオスカーを見上げたが、彼は何だか妙に楽しそうな顔をしている。
「ど、どうしたんですか」
「折角だし構わんだろう。お前は村にお邪魔してろ」
「ええ……だってアカーシアも」
持っていないのにと言いかけて、彼女はこめかみを締め上げられた。
「平気だから行ってろ」
「久しぶりに食らうと痛い!」
オスカーは心配性な守護者の頭を撫でた。その耳に囁く。
「こんなところだ。危ないことはないから安心して待ってろ。たまにはこういうのも面白いからな」
「……分かりました」
ティナーシャは引き下がった。守護結界はあるし、何よりも彼は強いのだ。彼の為に遊びに来ているのであるから、その意を汲もうと思い直す。
話がまとまったと見た村の男は、ティナーシャに村への道を教えてくれた。今は五人だけだが、まもなくもっと多くの男が森に出てくるのだという。
オスカーは魔女に向かって軽く手を振った。
「知らない男について行くなよ」
「どこの迷子だ!」
ティナーシャは拭いきれない心配を残しながらも、こうして仕方なくその場を離れると村に向かったのである。
村はすっかりお祭り一色だった。狭い道には人が溢れかえり、酒や食べ物があちこちで振舞われている。空は完全に夜のものとなっていたが、柔らかい光が各所に灯され村全体が明るく彩られていた。子供の歌声が遠くから聞こえてくる。
一人村にたどり着いたティナーシャは、入り口に入った所で、見知らぬ中年の女性に肩を叩かれた。魔女は突然のことに驚いたが、親しげに話しかける彼女に苦笑して返す。
「あんたよその子だね! どこから来たの?」
「ファルサスです」
「また遠いところから……歓迎するよ。一人?」
「連れが居たんですが、森に物を取りに行ってます」
「ああ、恋人がいるのね。じゃああんたは着替えだ」
「へ?」
何故着替え、と聞く間もなく、ティナーシャは半ばひきずられるようにして村の喧騒の中に消えた。
一方、森に残ったオスカーは、木の実を取ろうとしている村の男に尋ねた。
「水妖は本当にいるのか?」
「たまに現れて悪さをするね。人死にが出ることもあるけど、湖に逃げられると手出しできないから」
予想の範囲内の答に彼は黙って頷く。
―――― この状況は妙に面白い。
遠い土地で誰も自分の身分を知らない中にいる。そう思うと自然に笑みがこぼれた。今はアカーシアもない。不思議な解放感が満ちていく。
彼は村の男と別れると剣を抜いて軽く振ってみた。
「さて何を採りに行くかな」
手に馴染んだ剣を握りなおし、オスカーは無造作な足取りで歩き出す。木々の合間から見える湖には、青白い月が浮かんでいた。
普段は村の寄合所として使われているらしい建物の中は、着替えをする女性でごった返していた。ティナーシャがそこに連れてこられると、入り口近くにいた女たちはわっと歓声をあげる。
「美人だねぇ」
「ファルサスから来たらしいよ」
「都会の人だね。垢抜けてる」
ティナーシャは彼女たちの勢いに押されて、そのまま流される羽目になった。口を挟むまもなく衣装を渡され、化粧をほどこされる。
「あ、あの……」
「しゃべらないで! 今、紅塗るから」
既婚者と思しき中年の女たちは、彼女を取り囲むと楽しそうに化粧をしていった。一方若い女は自分たちの支度に夢中だ。
何故遠い土地に来て、城にいるのと似たような目にあっているのか分からない。ティナーシャはつい眉を顰めそうになるが、そんなことをすれば化粧をしてくれている女たちに怒られてしまうだろう。
そっと溜息をつきかけて―――― 彼女はしかし目を瞠った。
契約者に張った守護結界に何かが抵触したのだ。わずかな魔力の振動が彼女の中に響く。
「どうかしたの?」
顔を曇らせた彼女を、白粉を持った女が覗き込んだ。
「いえ……連れが心配になって」
「大丈夫だよ。もっと恋人を信頼しな!」
明るく背中を叩かれて、魔女は笑顔を作る。
それでも不安の沁みをぬぐうことは、どうしてもできなかった。
女たちは支度を終えると村の中央広場に向かった。若く明るいさざめきが広場に広がり、他の人間たちは楽しそうな彼女らを眩しげに見守る。
ティナーシャは白い紗のヴェールを渡されていたが、それを目深にかぶって顔を隠していた。自分の容姿が目立つものであるという自覚は一応ある。白地に朱色の線が入った民族衣装をつけた彼女は、既に寄合所で化粧をした女たちに「まるで巫女様みたいだねぇ」と感嘆の溜息を浴びていたのだ。外でまで進んで目立つ真似はしたくない。若い女たちがはしゃいで求婚者を待つ中、ティナーシャは隅の方に立って契約者を待っていた。
結界は先ほど数回揺らいだだけで、その後変化がない。彼のことだからおそらく大丈夫だとは思うのだが、それでも少しだけ心配だった。
広場には次々と男たちが戻ってきて、目当ての女に贈り物をしている。その度にわっと喚声があがった。ティナーシャはヴェールの隙間から空を見上げる。天には月が白く輝いていた。
―――― 迎えに行こうか、と迷う。
逡巡を繰り返し、なかなか決心がつかないまま下を向いていた彼女は、けれど不意にヴェールをはずされて顔をあげた。
「待ったか?」
ティナーシャはそこに立つ契約者を認めると、心から安堵の息をつく。服は乾かしたはずなのに、何故かまたずぶ濡れになっていた。手を伸ばしてそれを乾かしながら彼女は微笑む。
「心配しました」
「信用無いな。手、出せ」
魔女は首を傾げながらも両手を揃えて前に出す。オスカーはその手の中に右手に握っていたものを落とした。五つの丸みを帯びた水晶は、うっすらと青みがかっている。
「これ……」
「懐かしいんだろ」
周りでそれを見ていた村人たちが、今はほとんど採れないはずの月水晶に息を呑んだ。
しかし彼女はそれも気にならない。手の中の水晶をじっと見つめる。大事にしていた、今はもうない石を思い出した。
胸が熱くなる。
まばたきをしたら泣いてしまいそうだった。
男を見上げると、彼は苦笑している。
「ありがとうございます。とても……嬉しいです」
ティナーシャは、子供の様に、そしてもう子供には戻れない女の顔で微笑んだ。上手く笑えている自信はなかったが、本当に嬉しかったのだ。
オスカーが顔を寄せる。彼女は目を閉じて、その口付けを受けた。
恋人に見えるとか、そうではないとかは関係ない。言葉に出来るかといったら分からない。
ただ、彼が隣に居て、自分に触れる。
おそらくそれはとても自然で、そう在ることこそが本当なのだ。
服を着替え、村を後にした二人は、ナークの背から小さくなる湖を見送った。
ティナーシャはもらった月水晶を大事に握っている。
「これ、どこにあったんですか?」
「湖底。水妖に案内させた」
魔女は唖然として口を開けた。まったくこの男は何処に行っても危ないことをするのだ。
でも今は、説教する気は起きなかった。手の中の水晶が体温を帯びて温かい。
「城に帰ったら形を整えて首飾りにでもするか?」
「いえ……このままがいいです」
「そうか」
オスカーは隣に居る魔女の頭を撫でた。彼女は心地よく目を閉じる。
愛しむように触れられる温かさに、続いていく記憶を委ねて。
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