第28話 小夜曲 02



 酒場から帰って来た翌日、ティナーシャは執務室に出向いて昨晩の報告をしていた。オスカーは他の書類を処理しながらそれを聞く。

「そんな感じでドアンに処理をお願いしといたんで、申請がきたら承認をお願いします」

「分かった。手間をかけた」

「何てこと無いです」

 魔女は破顔すると、ふと何かを思い出したらしく手を打った。

「そういえばお願いなんですけど」

「何だ?」

「今日から一週間くらい魔法士を数人借りたいんですよ。勿論講義の終わる夕方過ぎからにしますし、謝礼は私から払いますので」

「構わんが、何をするんだ?」

「トゥルダールの宝物庫を整理します。封印が解けたんで盗掘にあっても困りますし、分類して塔と……できればファルサスに移動させたいんです」

 魔女の意外な申し出にオスカーは首を捻った。

「ファルサスに持ってきていいのか?」

「塔に置いても私は使いませんし、危険なものだけ引き取ります。こちらに持ってきてもどうせ死蔵されるでしょうが、よければお願いします」

「そうか……。分かった。頼む」

 彼は小さく嘆息する。


 宝物庫が空になり、精霊が魔女の下に去り、魔法大国トゥルダールは滅亡から四百年を経て、ついに完全にその遺産を失う。これでいいのだろうか、という思いがかすかに胸をかすめたが、最後の女王である彼女の決断であるならばそれでいいのだろう。


 玉座にない女王である魔女は、宙に浮かぶと逆さに契約者の顔を覗き込んだ。闇色の瞳と夜空の色の瞳のそれぞれにお互いの顔が映り込む。

 彼女は愛しむような穏やかな目で彼を見つめていた。過去の妄執から解放されたその姿は安らいで、そして少し頼りなげだ。オスカーは思わず手を伸ばして、彼女の小さな頭を引き寄せようとした。怪訝そうな彼女の紅い唇に口付けようとする、寸前で女は何かに気づいて

「あ」

 と洩らす。

「何だ」

 肩透かしを食らったオスカーは眉を顰めた。そんなことに気づいていないティナーシャは、男の胸元を指差すと無造作に指摘する。

「痣が出来てますよ。ぶつけたんですか?」

 オスカーは、あの女め、と舌打しそうになったが、何とかそれを堪えて表情を消した。こんなことで揉め事に首を突っ込んだとばれたなら、どういう目に遭うか分からない。魔女はまだ勘付いてないらしく。顎に指をかけて首を傾げる。

「痣って消せないんですよね。目くらましかけましょうか?」

「ああ、頼む。お前の足の痣は消えたのか?」

「そういうことは消えてから思い出してください」

 彼女は嫌そうな顔をしながら契約者の痣を消すと、ついでのようにその額に口付けた。




 ※ ※ ※ ※




 その日の夕方、トゥルダールの宝物庫に連れてこられたカーヴ、ドアン、シルヴィア、レナート、パミラの五人は壮観な眺めに歓声を上げていた。

「お宝の山ですね……!」

「そりゃ宝物庫ですから。魔力の弱いものから選別してください。ファルサスに持ち込みます。怪しいものは塔に持っていくのでそれも分けてくださいね。触るのがまずそうなものがあったら私に声をかけてください。全部終わったら中から何か差し上げますよ」

「頑張ります!」

 六人は動きやすい服装で、引越し作業のように次々と魔法の品々を分類し始めた。そこかしこで驚嘆の声が上がる。

 魔女はその声を微笑ましく思いながら、自分も作業に取り掛かった。




 ※ ※ ※ ※




 まさかもう一度会えるとは思わなかった。

 クラーラは思いもかけない来訪に魂が震えるのを感じる。やって来た男は彼女の顔を見るなり不機嫌そうに「痕をつけるな。命に関わると言ったろう」と言い放った。そんな言葉も嬉しくて、彼女は鈴の鳴るような笑い声をあげる。

「恐い方がいらっしゃるので?」

「恐いという言葉では収まらないな。国が一夜にして滅びるかもしれん」

 クラーラは勿論それを冗談と受け取った。男が昨日と同じ椅子に座ると、肩にしなだれかかって甘える。

「その方が羨ましいですわ。どんな方ですの?」

 オスカーは、女の問いに少しだけ考えた。彼の魔女は実に捉えどころがないのだ。彼女を知らぬ人間に言葉で説明するのは難しい。

「そうだな……例えて言うなら純白と漆黒だな。人懐こい豹みたいな女だ」

 そう告げる彼の目の中に、思い起こした女を愛おしむ光が見えて、クラーラは少なからず嫉妬した。無性に意地悪をしたくなる。

「きっと育ちがよくて、苦労もなさったことのない美しい姫君なのでしょうね」

「ところどころ合ってるが、全く違う。そんな女に興味はない。―――― それより歌だ。俺はお前と駆け引きをしに来てるわけじゃない」

「お断りいたします」

「即答するな。俺は大抵のことじゃ死なないぞ」

「死を呼ぶ歌を聞いて死ななかった男性はおりませんわ」

「じゃあ、俺が初めての生還者になるな」

 譲らない男にクラーラは戸惑った。

 歌うことは出来ない。殺したくないのだ。

 でも頑なに断れば、男はもう来なくなってしまうだろう。それも彼女は厭だった。

 出来るだけ引き止めたい。触れていたい。この体の奥に燃える熱を、男の肌に沁み込ませたい。だから彼女は駆け引きをするのだ。


 クラーラは立ち上がり背後から男の顎を捕らえると、その頬に口付けた。

「そうですわね……常連になってくださるのなら考えますわ」

「あまり来るとばれるからな。せいぜいあと五日くらいだ」

「……なら五日目に。それまで毎日いらしてください」

 五日目に本当に歌うつもりがあるのか、彼女自身にも分からない。ただ必ず訪れる別れを出来るだけ先に延ばしたかった。

 男はその条件に、見るからに嫌そうな顔をする。

「そんなに暇じゃない。今日歌え」

「お断りします。ここは女の体を売る場所であって、歌を売る場所ではございませんわ。歌を聴きたいのなら貴方様も相応の代償をお支払いください」

 オスカーは女の要求に顔を顰めた。ここで諦めて手を引くべきだろうか、と逡巡する。

 しかしそれでは死人が出続けるだけ、という当初の問題が残るし、二日も城を抜け出したのに勿体無いという気持ちもあった。代わりに部下を来させることも考えたが、その人物が死んでしまったら目も当てられない。魔女は精神に作用する術は防げないとしつこく念を押すが、それでも魔力が介在するようなら尻尾はつかめるだろう。

 彼はうまくやる自信があった。

「五日か。必ずだろうな?」

「お約束いたします」

 クラーラは男の返事に、舞い上がるような思いでその体を抱きしめた。



 一時間後、娼館を出たオスカーは少し歩いて移動してから、おもむろに振り返った。路地裏に向って声をかける。

「アルス、見えてるぞ」

「え」

 物陰から動転した声が聞こえ、オスカーは思わず笑ってしまった。

「嘘だ。見えてない」

「……陛下」

 現れたアルスは気まずそうに一礼した。上着を脱いでいるのは裏町で目立たぬようにだろう。将軍位を持つ男は、不可解そうに主君に問う。

「いつお気づきになったんですか」

「今出てすぐだな。馴染みの気配だからすぐ分かった」

「城を抜け出されるのが見えたので、つい」

「構わんさ。ちょうどいい」

 オスカーはアルスと並んで歩きながら、死を呼ぶ歌の話について簡潔に説明してやった。アルスは驚いたように目を瞠る。

「昨日ティナーシャ嬢が見に行かれたものとは別にあったんですか」

「こっちは貴族や商人どもから話がきててな。場所が場所だし表沙汰にしたくないらしい。威力も酒場の方とは違って、ほぼ全員だそうだ」

「ぞっとしませんね。同時に二人の歌い手が現れるとは奇妙なものです」

「そうだな……」

 オスカーはティナーシャの報告を思い出す。向こうはただの歌手だったそうだが、何か関係があるのだろうか。一度もう一つの方も聞いてみればよかったと彼は少し思った。

「アルス、悪いがここに関わって死んだやつらの詳しい死因や状況などを調べてもらいたい」

「かしこまりました。ラザルでなくてよろしいのですか?」

「あいつはティナーシャに嘘がつけないからな。前科がある」

 魔女の名前にアルスは若干蒼ざめた。

「ひょっとしてティナーシャ嬢に仰ってないのですか」

「言っていたらどう考えても俺はここにいないぞ」

「…………」


 ―――― 嫌な秘密に関わってしまった。

 アルスは激しく後悔する。あの魔女は自分のことは棚に上げて、契約者が自分で動くことを非常に嫌がるのだ。ましてや娼館に通う羽目になっていると知ったらどう怒るか分からない。そこまで考えて、娼館について彼女は果たして怒るのだろうか、とアルスは首を傾げた。

 いくら考えてもまったく予想がつかない。 戦々恐々としているアルスをよそに、オスカーは軽く言う。

「まぁばれたらお前と連帯責任だな」

「勘弁してください……」

「あいつは知ってて黙ってる者も許さないぞ。前にラザルが締め上げられてた」

 裏切って喋ってしまおうかという、臣下としてあるまじき誘惑がアルスをかすめる。しかしそれを見透かしたように、オスカーが肩を叩いた。

「進んでばらしたら俺が許さん。調査を頼むぞ」

「……かしこまりました」

 がっくりと肩を落として、アルスは命令を受諾した。




 クラーラは自室に戻ると明日の為の服を選び始めた。

 これ程心が浮き立つのはいつ以来だろう。自分にまだこんな感情が残っていることが驚きだ。機嫌よく鼻歌を歌いながら、彼女は手持ちの服を全て寝台の上に出してしまう。

「クラーラ、何してるんだ」

 不意に背後から声をかけられて、クラーラは飛び上がった。

「ああ、シモンか。何?」

「何って様子見に。何してるんだ?」

「服を選んでるのよ」

 弾むように答える彼女を、シモンは斜めに見やった。

「そんなにあの男が気に入ったのか?」

「国王陛下よ!? ……いえ、そうじゃないわ。彼が気に入ったの。彼個人が。あんな人他にいないわ」

「身分が違う」

「分かってる! 妻になりたいわけじゃないわ。身の程は弁えてる」

「ならいいけど」

 シモンはつまらなそうに返事をすると、籐の椅子に腰掛けた。少女のようにはしゃいで服を選ぶクラーラに溜息をつく。

 それに気づいて彼女は振り返った。

「何よ」

「歌をお望みなんだろう? 歌ってやればいいじゃないか」

「無理よ。殺したくないもの……」

「好きになってくれるように望んで歌えばいい」

 クラーラは目を丸くした。その発想はなかったのだ。 自分の力が及ぶのは死に関してだけだと思っていた。

「そんなことできるのかしら」

「できるさ。クラーラには力がある」

「本当に?」

 不安げな女の問いに、シモンは笑った。

 力強く断言する。

「できる」

 それはいつものように、芯から彼女を安心させたのだ。



 男は次の日は来なかった。

 その代わり翌日現れた時は小さな赤いドラゴンを連れていた。初めて見るドラゴンに、クラーラは子供のように目を輝かせる。男は先に釘を刺してきた。

「触るなよ。人に慣れてないからな」

「素敵ですわ」

 男は苦笑すると、テーブルの皿に盛られていた果物をドラゴンに向かって放ってやる。ドラゴンはそれを器用に口で受け止めると飲み込んだ。

「昨日もそうだが、明日も忙しい」

「構いません。お仕事が第一ですものね」

「そう思うなら今日歌ってくれ」

「嫌です」

 ふいと横を向いたクラーラはしかし、新たな歌を歌う日のことを思って胸を弾ませた。自然と顔がほころんでしまう。

 男はしかしそんな彼女には興味がないようにドラゴンに果物を放り続けた。小さな体の何処にそれ程吸い込まれていくのか、あっという間に皿は空っぽになる。クラーラは隣からそれを覗き込んだ。

「新しい皿を持ってこさせましょうか?」

「構わん。本当は餌もいらないんだ」

 彼女は、早く帰りたい、という思いを隠そうともしない男が憎らしかった。しかしそれを上回る想いが彼女を焼く。

 ―――― 今だけは、この男は自分のものなのだ。

 その考えはこの上もなく甘美で、脳を焼きつかせる力を持っていた。だから彼女は象牙色の腕で男を絡め取る。

 テーブルの上ではドラゴンが丸くなって眠り始めていた。




 ※ ※ ※ ※




 宝物庫の整理を始めてから四日目。魔法具を運び出し終わった空間は全体の七割ほどに広がってきていた。多くの品は小さなものとは言え、作業人数の少なさにともすれば皆、筋肉痛になってしまいそうである。

 しかし魔法の品を扱う以上、魔法士以外の手を借りることはできない。残りの品を彼らは手際よく寄り分けていった。

 奥の棚を整理していたティナーシャは、ふと他のものの後ろに隠すようにして、小さな白い石の箱が置かれているのに気づく。前にあるものを押しのけてそれを取り出した。

 蓋を開けてみると、中には青い鉱石で作られた球が入っている。大きさは手のひらより少し大きいほどで、表面には見たこともない紋様が彫られていた。

 ―――― どこかで見たような既視感。

 だが首を何度か捻っても、どうしてもそれをどこで見たのか思い出せない。紋様も彼女の知らないもので、どんな効果を持っているのか見当もつかなかった。


 ティナーシャはしばらく悩んだが、それを「塔行き」の品の中に分類する。彼女が積み上げられた魔法具の山に箱を置いて戻ってきた時、シルヴィアが駆け寄ってきた。

「ティナーシャ様! こんなのありましたよ!」

「何ですかこれ」

 魔女は何重にも折りたたまれた純白のレースを受け取る。わずかに魔力を感じるが、それは劣化しないようにかけられた魔法のものらしい。汚さないように気をつけながら広げてみると、レースは結婚式に使うような長いヴェールになった。

「何だろう……」

「ティナーシャ様、ここ!」

 シルヴィアがヴェールの裏にあたる縁を指差した。見ると小さく銀糸で刺繍がされている。怪訝に思って顔を近づけて見ると、そこにはトゥルダールの文字で『愛する娘、ティナーシャに。その健やかな成長を祈って』と書かれていた。

「これ……」

 ティナーシャは呆然と己の名を見つめる。

 顔も名前も知らない両親。これは、その彼らが赤子だった娘のことを思って城に贈ったヴェールなのだ。

 何といえばいいか分からない。

 精神を熱く焼く、この感情を何というのかも。

 ティナーシャはただ、銀糸の刺繍を見つめていつまでも立ち尽くしていた。




 ※ ※ ※ ※




 約束の日の前日、ドラゴンを連れてやってきた男はいつになく機嫌がよさそうだった。クラーラは寝台の上に寝そべったまま、服を着る男の背中を見つめる。

「今日はどうしてそんなにご機嫌がよろしいので?」

「機嫌がいい?」

「そう見えます」

 男は小さく笑った。剣を腰につける。

「俺の女がいいものを見つけてな。喜んでいるのが実に可愛らしい。見つけたものもさぞかし花嫁姿に合うだろう」

「……花嫁姿に?」

 クラーラはそれを聞いて、腸が煮えたぎるような怒りを覚えた。

 娼館とは言え、閨房で他の女の話とは無神経にもほどがある。いやおそらくわざとなのだろう。彼女など眼中に無いと、言外に言っているのだ。

 分かっていたことだ。承知していたつもりだった。それでも実際に聞くと許せないものがある。クラーラは枕に爪を立てた。強すぎる執着が憎悪に傾く。

 ―――― 殺してやりたい……。

 そう思いかけたクラーラの耳に、男の言葉がかけられた。

「約束は明日だろう?」

「……ええ」

「違えたらただではすまさんぞ」

「分かっております」

 男は一度も振り返らぬまま部屋を出て行く。

 その背後で閉ざされた扉を見ながら、クラーラは愛するべきか殺すべきか、空ろな目を彷徨わせて己の心情を計った。




 一晩はあっという間だった。

 その間ずっと悩んでいた。一睡も出来なかった。あるいは断続的に夢を見ていたのかもしれない。男に抱かれる自分と、男の死体の幻影が繰り返し瞼の裏に浮かんでは消えた。

 自分がどうしたいのか分からない。これほど迷ったことはなかった。―――― しかし、約束の時はあっさりとやってきたのだ。


 目の下の隈を化粧で消したクラーラは、シモンを伴って男を迎えた。いつもの部屋とは違う、宴席をするような家具の無い広い部屋でクラーラは男に向き直る。

 床に直接座り、胡坐をかいた男は、その足の間にドラゴンを乗せていた。死を前にしているかもしれぬのに平然とした王の姿に、クラーラは無性に口惜しくなる。

「さて、聴かせてもらおうか」

「お覚悟はよろしいので?」

「死ぬ気はない」

 クラーラは辛辣な笑みを浮かべた。シモンを振り返ると彼は軽く頷く。彼の琴から空気を震わせる旋律が零れ、憂いを以って部屋を染めた。

 クラーラは小さく息を吸う。

 口を僅かに開くと、押さえ切れない激情を、すすり泣く様な歌にした。



 ここは閉ざされた場所 空の無い部屋

 私は歌を歌う 誰も聞かない歌を

 花は咲いてはこの手の中で散り

 その花弁さえも残らない

 あなたはここにいない 何処にもいない

 私の手は何も掴めない

 欠けたるものは望んでも還らない

 明日まだ夜が来るなら死んでしまおう

 ここは閉ざされた場所 空の無い夢



 手が震える。

 立っていられるのが不思議なくらいだった。

 男を見つめると彼は表情を変えぬまま聞き入っている。その存在を手に入れたくて手にいれたくて狂いそうだった。

 歌の終わりが来るのが恐い。どうなってしまうのかが分からない。シモンの伴奏にすがるようにして歌っていた彼女は、けれど不意にその伴奏が途切れたことに気づき、彼を振り返った。

 シモンは驚愕に目を瞠っている。その時初めて、クラーラは自分の歌が二重に聞こえている事に気づいた。同じ言葉、同じ音にぴったり重なるそれは、しかしよく聞くと彼女の声ではない。

 歌を止める。

 少し遅れてもう一つの声もやんだ。

 客である男を見ると、彼は面白がるような笑いを浮かべている。クラーラはかっとなって男に叫んだ。

「何!? 何をなさったのです!」

「何と言われてもな……。そういえばお前、俺の女について知りたがっていたな。紹介してやろう、ティナーシャ」

 最後の名前は足の上のドラゴンに呼びかけたものだった。その姿がみるみるうちに、美しい女の姿に変じる。白磁の肌に漆黒の長い髪を持つ女。彼女は、息を呑むほどに鮮烈で、ただひたすらに美しかった。

 闇色の目には不機嫌そうな光が湛えられている。女は男の足の上に座ったまま、クラーラとシモンを冷ややかに一瞥した。オスカーは魔女の頬に口付けると、その耳に尋ねる。

「どっちが主体だ?」

「男の方です」

「やはりか。まったく無駄な時間を過ごした」

「無駄ですって!?」

 クラーラは激昂した。押しのけきれないほどの敗北感が湧いてくる。

 ―――― まさかあんな女だとは思わなかった。

 怒りに思考もままならない。自分の手で二人とも引き裂いてやりたかった。



 激情に立ち尽くすクラーラの後ろで、シモンは立ち上がる。男はその手を客の二人に向けて差し伸べた。しかし魔女がそれを制する。

「動くな。動けば叛意ありとみなして殺す」

 シモンは口の端を裂くようにして笑った。差し伸べた手に構成が生れる。

 だが、次の瞬間男はその場から弾き飛ばされた。後ろの壁に叩きつけられ、力なく床に落ちる。クラーラは、その光景を信じられない思いで見つめた。

 彼女は動かないシモンに駆け寄る。男は手足がおかしな方向に捻じ曲がっていた。壊れた人形のような姿に、クラーラは自分の視界が真っ赤に染まったかのような錯覚を覚える。

「シモンに何をするの!」

「忠告はしたぞ」

 魔女はすっと立ち上がった。彼女の放つ威圧感に空間が支配される。数万の軍勢にも匹敵し得る魔女の圧力。だがクラーラはそれに抗った。

「よくも! 私にはシモンしかいなかったのよ! あなたに何が分かるの!」

「言わなければ何も分からない。それとも、そんなに大事ならその男の後を追うか?」

「死ね! 二人とも死になさいよ!」

 何もかもがどうでもいい。

 そして何もかもが憎かった。



 女の狂乱を目の当たりにして、魔女はしばらく躊躇していたが、やがて無形の力を放とうと構成を組んだ。しかし後ろからオスカーがその手を引く。

「待て、殺すな」

 ティナーシャは立ち上がった男を嫌そうな顔で見上げた。

「彼女に実行力はなかったとは言え、十人以上死んでるんですよ」

「誰かを殺したいと思うことくらい誰にだってある」

「あの女は貴方を殺したいと思ってますよ。今は小さな棘でも、将来剣になるかもしれない。だったら今摘み取ります」

「構うな。やめろ」

 再三の制止にティナーシャは大きく溜息をついた。構成を崩すと男に向き直る。

「……情でもうつりましたか?」

「ちゃんと調書を取る。貴族たちにもいい薬になるだろう」

「私は貴方につける薬が欲しいですよ」

 ティナーシャが軽く手を振ると、クラーラはその場に崩れ落ちた。




 ※ ※ ※ ※




 主犯のシモンは死亡し、それを手伝う形になっていたクラーラは国外追放になった。彼女から取った調書と、調査書を見比べながらアルスは感心の声を上げる。

「自殺に見せかけて殺していただけとは。拍子抜けだな」

「それが一番簡単なんですって」

 全てが終わった後のひととき、お茶を飲みながら魔女が答える。

「女の方にも僅かな魔力がありましてね。訓練は受けていなかったようですが、それを歌詞に乗せることで、聴いたものの気分を多少操ることができたようです。で、鬱にさせて、自殺しそうだなと周りに思わせたところで男が殺しに行く」

「女は自分に力があると思ってたそうだが」

「死ねと思った人が立て続けに死んだらそう思うでしょうね。男も繰り返し暗示をかけていたようですよ」

 アルスは天井を仰いだ。種明かしをされてもにわかには信じられない奇妙な事件である。

「そもそも何がしたかったんだろう」

 魔女は頬杖をついたまま苦い顔で答えた。

「女の望むようにしてやりたかったんじゃないですかね。そもそも発端は顧客の一人が彼女をひどく侮辱したことらしいんですよ。で、その彼女のために男が曲を作ってやった。彼女が死ねと思う人間にはその歌を歌うのが合図になってたんです。だから被害者を選んでいたのは実際は女の方ですね」

「その歌をたまたま聴いた酒場の歌手が、自分でも歌って評判になったと」

「歌自体は酒場の方の方が上手かったですよ。感情を操るように作曲された曲ですから、歌い手が上手ければ魔力はいりません」

 魔女はそう締めくくると、空になったカップを盆に戻した。冷ややかな目で背後を振り返る。

「さて、貴方はどれくらい説教を聞きたいですか?」

 その言葉を受けて魔女の契約者は苦笑した。

「執務室を壊してまだ足りないのか」

「足りるわけが無い」

 アルスは部屋を見回す。彼らがいるのはいつもの執務室ではない。そこは魔女によって完膚なきまでに破壊されてしまったのだ。ちょうどいい機会だから王のための部屋に移ることになって、今、三人は新しい執務室に来ている。



 魔女に口を割ったのはアルスではなかった。酒場の処理をしていたドアンが、歌の出元がある娼館であることを突き止めたのだ。

 それを聞いたティナーシャはまずラザルを締め上げ、貴族たちからある娼館について要請が来ていたことを確認した。

 そして彼女は実際にその娼館に行ったのである。


 前日の夜、娼館から帰ってきて執務室で仕事をしていたオスカーは、その時扉が裂けるのを見てさすがに唖然となった。たまたま部屋に居合わせたアルスも呆然としている。

 裂いた扉から悠然と入ってきた魔女は、契約者を見てにっこりと笑った。あどけなさの微塵も無い、王者の笑顔である。

 彼女は白い両腕を開き、そこに膨大な構成を組みながら一見可愛らしく小首を傾げた。

「歌を聴いて死ぬか、今此処で私に殺されるか選んでください?」

「…………」

 それを聞いて、男二人は秘密が最早秘密でなくなったことを悟った。アルスなどは死を覚悟したくらいである。

 抑え切れない、或いは抑えようとしていないのか、魔力の余波が部屋に飾られていた陶器を次々と割った。オスカーはどうでるべきか考えながら、とりあえず尋ねる。

「何処で聞いたんだ?」

「娼館の主を締め上げました」

「まだ生きてるか?」

「怪我はさせてませんよ。当分安らかには眠れないでしょうけど」

 彼の背後の窓硝子が派手な音を立てて割れる。外から穏やかな夜風が吹き込んできた。

 ティナーシャは嫣然と笑う。見る者を魅了し、死へと追いやる微笑だ。透明な氷を砕くに似た声が部屋に響く。

「何度言っても分からないようなので困っているのですよ? 好奇心に負けて自分の力を過信して……。つまらない死に方をさせるくらいなら、今私が殺してあげます。さぁ、その首を出してください」

 ―――― 本気にしか聞こえない。

 テーブルと壁際の棚がひしゃげた。アルスはあまりのことに息を呑む。彼は、二人の間に割って入るべきか分からなかったし、何より自分が状況を変えられるとは思えなかった。


 オスカーは立ち上がると魔女を真っ直ぐ見返す。

「まぁ待てティナーシャ」

「煩い」

 重厚な作りの執務机が、はりぼてのようにあっさりと二つに割られた。四方の壁が外側にたわむ。嫌な音を立てて部屋が歪み始めた。その中を強風が吹き荒れ、書類が渦に乗って舞う。

 オスカーは壊れた机をまたいで魔女の前に立った。宙に浮く体に手を伸ばす。

「触らないでください」

 魔女は男の体を魔法で弾こうとしたが、自身の結界に相殺され叶わなかった。オスカーは嵐そのものとなっている魔女の体を抱き取る。

「悪かった」

「謝ってすむ問題ですか?」

「すむとは思わないが、謝る」


 ティナーシャは唇を噛んだ。憎憎しげに男を見下ろす。

 彼は平然として、しかし少しだけ困ったような目をしていた。その瞳を彼女は力を以って見つめる。

 いつだって彼は、魔女相手に怯んだところを見せないのだ。そのことが嬉しくもあったし、憎くもあった。

「噛み付きたいです」

「それで気が済むなら」

「済まないです」

「噛まれ損か……」

 ティナーシャは男の髪を乱雑にかきあげた。その頭を抱え込んで見つめる。

「借りが多いですから、今回は引きます。でも次やったら即、塔に帰りますからね」

「分かった」

 魔女は激情を注ぎ込むようにしばらく男の頭をきつく抱きしめていたが、やがて深く息を吐いてその体を解放した。男の手から逃れて宙に浮く。

 そうして命を拾ったオスカーは部屋を見回すと

「全壊だな」

 と事も無げに言った。




 新しい執務室でお茶を飲みながらアルスはしみじみと呟く。

「本当に死ぬかと思いました。もう私を巻き込むのはおやめになってください」

「前にラザルにもそう言われた」

「自業自得です」

 魔女は冷ややかに言うと、オスカーのカップにお茶を継ぎ足した。そのまま彼の椅子の肘掛に腰掛ける。

「大体、女遊びがしたいならちゃんと後宮を作ってください。ふらふら出歩くとか馬鹿ですか。貴方も馬鹿王ですか」

「女遊びがしたかったわけじゃないんだが……」

「煩い」

「…………」

 彼女はまだまだ怒っているらしい。子供のように足を前後に動かすと、オスカーの脛を踵で蹴った。

「敵でもないのに私をこんなに怒らせるなんて四百年間で貴方だけです」

「それはよかった」

「どこが!」

 ティナーシャは反動をつけて肘掛から下りるとオスカーに向き直った。腰に両手をあてて自身の契約者をまじまじと見つめる。

「……まぁ……貴方は怒っても効かないので……もういいです。何か怒ってるだけ力を無駄遣いしてる気がします」

 そう言って小さく肩をすくめる彼女は、いつもの愛らしい微笑を浮かべる。伸ばした手でオスカーの頭を撫でた。

その手の優しさに彼は目を細める。自分の頭から白い手を取り、滑らかな甲に口付けた。

「俺はお前が手に入れば後宮はいらないんだがな」

「それは無理なんで、ちゃんと作ってください」

 ばっさりと切り捨てると、彼女は声を上げて花のように笑った。

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