第27話 小夜曲 01
「こういう話って何処まで実話なんだろうな」
執務机に向かっていた王がそんな呟きを洩らした時、ティナーシャは部屋の天井で分厚い魔法書を開いていた。指示語の指すものが何だか分からなかった魔女は、さかさまになったまま宙を移動し、オスカーの手元を見上げる。
「何ですかそれ、御伽噺ですか」
精巧な挿絵が左頁を占める本は、子供向けの童話に見えた。何処かの部屋で姫君が楕円形の鏡を覗き込んでいる絵は、古い時代のものなのか少々おどろおどろしさを感じさせる。オスカーは真上の魔女に、本を閉じて表紙を示した。
「城の資料として買い上げた本にざっと目を通してるんだがな。奇妙な話が多くて中々面白い」
「ああ、暗黒時代の話ですか」
おそらく歴史か文学を研究している学者が希望して買い上げた資料なのだろう。昔の逸話を当時の人々が御伽噺として語り継ぎ、更にそれらを一冊の本にまとめたというものだ。降りてきたティナーシャは執務机の隅に座ると、横から男の広げている本をぱらぱらと捲った。
「忘却の鏡の話ですか。これは私の生まれる前の話ですからね。さすがに真偽の程は分かりません」
姫が鏡を覗いている挿絵は、暗黒時代初期の逸話を表したものだ。両親を喪って泣き暮らしていた姫が、その鏡を覗いたことで悲しみを忘れ去ったという話。何と言うことのない昔話だが、実話だとしたらおそらく鏡は魔法具か何かだったのだろう。
ティナーシャはどういう構成ならそれが可能か考えながら、更に頁を捲くった。
「あ、これは実話ですよ。突然城が蔦に覆われちゃった話」
「比較的新しいな。魔女の時代になったばかりの頃か」
「ですです。それやったの私ですから」
「…………」
何か言いたげな視線を向けてくる契約者を無視して、ティナーシャは天井に戻った。下から男の深い溜息が聞こえてくる。
「俺もそういう変わった話に出くわしたいものだな……」
「何言っちゃってるんですか、自重なさい」
退屈をこじらせているらしいオスカーに釘を刺して、魔女は読書を再開する。
そうして魔法書の頁を捲りながら彼女はふと、「彼はどのように語られる王になるのか」と、そんなことを考えた。
ファルサス城において魔法士の講義室は全部で七つある。それらはいずれも日中は講義に使われるが、中には空き時間も多く混ざっている。そこに今は、六人の魔法士が集まっていた。彼らは教壇に向っているのではなく部屋の前で円状になって、中央にいる二人の女を注視している。
「パミラ、第七系列への移行が遅い」
魔女の声が飛ぶと、パミラは慌てて構成を消し、一から再度組みなおした。複雑な精霊魔法の構成をティナーシャは無言で検分する。精霊術士であるパミラに魔法を教えられる者は、城にはこの魔女を置いて他にいない。ティナーシャは自分に仕える魔法士に請われて、しばしばその訓練を手伝っていた。
ドアン、シルヴィア、レナート、クムもそれを興味深げに見守っている。精霊魔法の構成は特殊で、実行よりも構成にほとんどの魔力を使うのだが、それを組む為の手順などは普通の魔法に通ずるものがあるのだ。
「今組んでる系列だけ見てちゃ駄目ですよ。常に全体を意識して、先を見てないと」
ティナーシャはそう言うと右手を、手のひらを上にして差し伸べた。一瞬でそこに精密な構成が組まれる。
「構成を組む速度とその安定が即強さに繋がると言っていいですから。どんなに魔力があっても構成がおざなりじゃ意味がありません」
「はい」
素直についてくるパミラを見て微笑み、しかしティナーシャはすぐに真面目な顔に戻ると、自分の肩をほぐした。
「本当は直接戦うような場面に出くわさないのが一番です。前もって構成を組んでおく、紋様や陣を用意しておいてそこに引っ掛ける。こういう勝ち方が魔法士としては一番ですね。対面での戦闘はどうしても、不確定要素が多いですから」
「勉強になります」
ファルサス魔法士長であるクムが頷く。魔女はその反応に肩をすくめた。七十年前もこうしてファルサスの魔法士たちに戦い方を説いた事があったのだ。当時は戦時であったため、殺すことより生き残る為の術を重点的に教えたものである。
「じゃ、最後に全員でちょっと競争をしてみましょうか」
魔女は軽く手を振る。
すると彼女の眼前に人の頭くらいの大きさの硝子球が現れた。中は空洞になっており、小さな指輪が入っている。硝子球自体には継ぎ目がないが、一番上に指輪と同じくらいの大きさの穴があいていた。しかし、その穴を補強するように外周には銀の輪が嵌め込まれており、その分穴が狭まって指輪が通りそうにない。
ティナーシャは白い指で硝子球を指さす。
「中の指輪を、硝子球を損なわずに取り出す為の構成を組んでください。転移魔法は効かないようにしてあります。構成を組む速度と方法を見ますね。三分、作戦のための時間をあげますので、好きに触って確かめてください」
ティナーシャはそう言うと机の上に硝子球を置いた。ドアンがそれを持ち上げて回してみる。中の指輪が軽い音を立てて転がったが、穴を真下にしてもやはり銀の輪が邪魔になって落ちてこない。銀の輪は硝子がまだ溶けている時につけられたらしく端が硝子の中にめりこんでいた。
課題を与えられた魔法士たちは次々それを手にとって思案する。
「はい、三分。いいですか?」
魔女の問いに全員が頷いた。
「ではいきますよ、五、四、三、二、一、〇!」
開始の合図と共に全員が構成を組んだ。クムとパミラ、ドアンは無詠唱で、シルヴィアとレナートは僅かに詠唱する。
もっとも早く構成を作ったのはクムだった。それにパミラが続き、あとの三人はほぼ同時に出来上がる。ティナーシャは各人の構成を目を細めて眺めた。
「クムとパミラとドアンは銀の輪をはずす方法ですね。クムは速度も安定も申し分ないです。さすが。……パミラは若干慎重すぎかな。でもかなりいい出来です。ドアンは思い切りがいいですね。あともうちょっと第三系列の無駄な部分を削るといいですよ」
講評を賜った三人はほっと胸を撫で下ろした。魔法士に試験などないので、このような場はかなり緊張する。
「レナートは穴じゃないところに穴を開けて、出してから塞いでますね。銀の輪をはずすより硝子操作の方が得意ですか?」
「と、判断しました」
「うん。こういう発想の転換は好きですよ。構成の出来もいいです。この調子で頑張ってください」
「ありがとうございます」
魔女は最後にシルヴィアの構成をじっくり見る。けれどすぐに彼女は声をあげて笑い出した。シルヴィアは驚いて左右を見回す。隣に居たドアンが呆れた声で言った。
「シルヴィア、それ指輪潰れてる」
「え、でも……」
「いいですよ。確かに硝子球は壊すなと言いましたが、指輪を傷つけるなとは言いませんでした。悪くない。一番面白いです」
ティナーシャは楽しそうに笑うと、自分の右手に刹那で構成を組み立てる。それを硝子球に注ぐと、間を置かず手の中に指輪が吸い込まれた。
まるで転移したかのような早業だったが、実際は指輪を縮めて出してから元の大きさに戻したのだと分かり、五人の魔法士たちは感嘆の声をあげる。物の大きさを縮める魔法は構成が難しい割りに、生きているものや大きな物には使えない。その為実用されることはほとんどなく、忘れられがちな魔法なのである。
「構成については発想と技術の鍛錬ですから。精進してください。はい、これはシルヴィアにあげますよ。発想を評価です」
無造作に投げられた指輪をシルヴィアは両手で受け止めた。
「あ、ありがとうございます!」
「構成を吸収して好きな時に放出できます。簡易魔法具みたいなものですが、何度でも使えるので、好きに使ってください」
シルヴィアは感激の顔で何度も頷いた。
そしてこれを皮切りに、特別講義は解散となったのである。
「聴いただけで死ぬ歌が流行ってるらしいですよ」
「すごく下手とかですか」
研究に戻ったクムとレナートを除いて、他の四人は談話室に移動した。
お茶を飲みながら雑談を聞いていたティナーシャは、突拍子も無い話題にそっけなく返す。しかしドアンは、顔の前で立てた指を振ると否定した。
「それがですね、かなり上手いらしいんですよ。女性の歌い手なんですが。でもそれを聞いた人間はまもなく自殺してしまうという」
「いやぁぁ」
シルヴィアが耳を押さえて震えるのを、ティナーシャは眉を顰めて見下ろした。
そんなに怖い話だろうか。というか事実なのかも疑わしい。―――― そう彼女が指摘すると、ドアンはにやりと笑う。
「事実なんですよ。今城都で自殺者がかなり増加しているらしいです。もう何十人も死んでるとか」
「ここの話なんですか!?」
「そうです。街は今その話で持ちきりですよ。わざわざその歌を聴きに行く物好きもいて、被害者数増大中です」
「……何だそれは」
恐ろしきは人の好奇心というべきだろうか。本当に事実だとしたら由々しき問題である。
黙って聞いていたパミラが主人に向かって質問した。
「魔法でそういうことは可能ですか?」
「不可能ではないと思いますが、どちらかというと呪いの範疇ですね。でも呪いには人を自殺させるほどの力はありませんから……。やっぱり魔法かなぁ。ただ不特定多数にかけるものですからね。暗示をかけてあやつるのも大変でしょうし。うーん、考えづらいです。普通の魔法士には難しいですよ」
ドアンがその話に乗ってくる。
「じゃあもし、ティナーシャ様なら出来ますか?」
「出来ますよ。適当に聴衆から選んで自殺に見せかけて殺します」
「…………」
現実的な意見に場が沈黙した。魔女はしれっとした顔でお茶を飲んでいる。
時計を見るとまもなく午後三時にさしかかろうという時間だ。ティナーシャは椅子を引くと執務室に行く為に立ち上がった。
「ともかく、出来ればその話、オスカーの耳にいれないでください」
「なぜですか?」
「あの人最近退屈退屈言ってますからね。自分で聴きに行くとか言い出しかねないです。面倒なことになるんで」
「……なるほど」
即位してから大分落ち着いてはいるが、元々好奇心が強くどこにでも行ってしまう王である。ましてや城下町ではすぐに行けてしまう為、本当に行きかねない。
その話が問題なら自分が秘密裏に何とかしよう、と魔女は心の中の決定事項に加えた。
「聴いただけで死ぬ歌が流行ってるらしいぞ」
執務室に入ってすぐ、契約者が興味深げに口にした言葉を聞いてティナーシャはがっくりと床に座り込んだ。その様子にオスカーが驚いて腰を浮かす。
「どうしたんだ。貧血か?」
「……何でもありません」
気を取り直して立ち上がると、彼女はお茶を淹れる為に支度を始める。
「何処からそんな話を?」
「ラザルから」
魔女はこの場にいないオスカーの従者を胸中で呪った。彼はオスカーが無謀なことをするのを心配する一方で、どうもわざとそれを煽っているのではないかと疑ってしまうくらい、怪しい話を持ち込んでくるのだ。
そんなティナーシャの胸の内を知らないオスカーは、先ほどのパミラと同じ、魔法で可能であるか? という質問をしてきた。魔女は無表情で同じ答を返すと
「ともかく実際聞いて見ないとわかりません」
と締めくくる。
「ふーん、じゃ行ってみるか」
「私がね!」
お茶のカップを差し出しながら、ティナーシャはにっこりと笑った。その目が笑っていないことに気づいたらしく、オスカーは頬杖をついたまま苦笑する。
「お前は行けないぞ」
「何で!」
「問題の歌い手はどうやら二人いるらしいんだがな。酒場の歌手と、もう一人は……娼館だ」
その答えに魔女は唖然となった。確かにそれでは女である彼女は入れてもらえないだろう。しかしオスカーはもっとまずい気がする。
「王が娼館なんかに行かないでくださいよ……」
「素性を伏せて出入りしてるやつはいっぱいいるさ」
「というかだったら私が娼婦として入りますよ」
「それは却下」
「譲れよ!」
ティナーシャはオスカーの肩を掴んで揺さぶり始めた。彼が持っているカップも揺れて、お茶の表面が波立つ。
「精神系の術はふせげないって言ったじゃないですか! ルクレツィアに痛い目にあわされたの忘れたんですか」
「あまり痛くはなかった気がする」
「文字通りの意味ではない!」
ティナーシャは大きく溜息をつくと、見る者を震え上がらせるような冷ややかな目で微笑んだ。魔女の威を思わせるそれを、彼は平然と見返す。
「ともかく、行っては駄目ですよ? とりあえず私がその酒場の方から何とかするんで、貴方は大人しく仕事なさってください」
「分かった分かった」
軽く手を振って答える契約者に、本当に分かったのだろうかと魔女は不安に思いながらも,
詳しい調査の為に執務室を後にした。
ドアンを掴まえて調査に同行させることにしたティナーシャは、城から出る道中詳しい話を整理した。
酒場の歌手の名前はデリアといい、中々の美人で歌もうまく、前から人気があったらしい。
それが一ヶ月ほど前から、ある歌を歌うようになった。
少し暗く郷愁の漂うその歌を、聴いた客たちは絶賛したが、しばらくすると彼らの中から自殺者が出始めたのだそうだ。全員が死ぬわけではないが、それでも既に三十人ほど死んでおり、酒場の主人は一旦は歌をやめることも考えたらしい。
しかしその噂が街に伝わると、かえって「聴くと死ぬ歌」目当ての客が増え、やめるにやめられず今も演奏しているのだという。
一通りを聞いた魔女は呆れて溜息をついた。
「何だかなぁ」
「所詮皆、他人事気分なんでしょうね」
「それで死んでちゃ世話がないです。娼館の方はどうなんですか?」
「娼館? 何ですかそれは」
「問題の歌い手は二人居るらしいですが……」
「そんなこと聞いた事無いです。俺が知ってるのはデリアだけですよ」
「あれ」
オスカーに騙されたのだろうか。娼館と言えばティナーシャが諦めると思ったのかもしれない。意地の悪い小細工を……と魔女は口元だけで笑った。横を歩くドアンは地図を見ながら道を選んでいる。面倒を避けてか人通りのない裏道を行くのが、彼らしいと言えばそうだろう。
ティナーシャは小さく指を弾いた。
「何だったら私一人で行くんで、先帰っててもいいですよ」
「馬鹿仰らないでください。俺も行きますよ。大体一応魔法士ですし、迷信の類だとしても信じてないんで」
「じゃあお願いします」
二人は問題の酒場に到着すると中に入った。開店時間になったばかりで人はほとんどいない。薄暗い店内はティナーシャの美貌の特異さを隠すのに都合がよかった。二人は夕飯も兼ねて軽食を注文する。
すぐに来たそれらを食べているうちに、いつの間にか店内は満員になっていた。酒盃のぶつかりあう音と、低いざわめきが暗い中に満ちている。その中からは件の歌についての噂もいくつか聞こえてきた。―――― 「死を呼ぶ歌」とは一体どんなものなのかと。
呆れ顔で魔女が頬杖をついていると、ややあって店の奥に位置する小さな舞台に明かりが灯った。客が一斉にそちらを向く。塩魚を摘んでいたドアンが顔を上げた。
「いよいよですね」
「一応対魔法防御の構成は準備しておいてください」
「分かりました」
舞台に現れた女は二十代後半に見える艶のある女で、造作が特に際立って美しいというわけではないが、翳のある色気が印象的である。彼女は店内を見回し、笑顔で礼をすると右足を少し後ろに引いた。
息を深く吸う。姿勢がすっと伸びた。
弦だけを伴奏に、女は歌い始める。
ここは閉ざされた場所 空の無い部屋
私は歌を歌う 誰も聞かない歌を
遠い故郷の空は落ち
あなたはここにいない 何処にもいない
望んでも望んでも還らない
明日まだ夜が来るなら死んでしまおう
ここは閉ざされた場所 空の無い夢
物憂げな旋律を奏でる女の声は、心に染み入るほど美しかった。
ただ、それを聞くにつけ妙な不安が胸の中に生れてくる。ドアンは真剣に聞き入っている魔女の横顔を見た。その視線に気づいたのかティナーシャが彼を振り返る。
彼女は少し考えるかのように首を傾げたが、軽く手を振った。途端に歌が聞こえなくなる。
ドアンは慌てて周りを見回したが、客は皆歌に聞き入っているようだ。不安を覚えて立ち上がろうとした時、魔女が彼の袖を引いた。彼女は椅子を寄せて耳打ちする。
「貴方にだけ歌を聞こえなくしました。ちょっとこれは聴かない方がいいです」
「呪歌ですか? でも魔力が感じられないんですが」
魔女は苦笑すると、安心させるようにドアンの肩を叩いた。
店を出ると外はすっかり暗かった。あちこちの酒場から賑やかな喚声が聞こえてくる。
ティナーシャはドアンと城に向かって帰る途中、さっきの歌について説明してやった。
「あれは正真正銘ただの歌です」
「ただの歌!?」
「魔力も呪いもないです。ただの歌。でも旋律と歌詞と声が相まって 人を妙に不安にさせてしまうんでしょうね。滅多にないことですが、効果の良し悪しを問わなければいい出来だと思います。疲れてる人や弱っている人には覿面じゃないでしょうか。正式な手続きを取ってあの曲の演奏をやめさせた方がいいです」
「そうなんですか……」
ドアンは拍子抜けして肩を落とす。話を聞くまで何か凄い真相を期待していたのだ。ただの歌と聞いて、ほっとしたような残念なような気持ちになる。
その表情を見て魔女は苦笑した。
「本当に怖いのはこういう魔法の裏が何もないものですよ。魔法なら法則がありますし、何とでもしようがありますからね。多分曲を作った人間と、歌手の女性の能力がすごいんです。こういう事件に遭うと、人間の力って不思議だなって思いますね」
ティナーシャは目を伏せて微笑むと、ドアンに演奏を差し止めさせるための事務手続きを頼んで、城の自室に戻った。
そして彼女はこれで全てが終わったと安心しきっていたのである。
※ ※ ※ ※
魔女が酒場で食事をしていた頃、ファルサスの城都の西側にある裏町で、一軒の店に明かりが灯った。同じ裏町でも東とは違い、西は比較的治安がよく客にも富裕層が多い。この娼館もその例に洩れず、貴族などがお忍びでやってくることも珍しくなかった。
店主のガスクは最近の儲けにすっかり機嫌がいい。
これもひとえにクラーラのおかげだ。彼女を求めて来る客は後を絶たない。たとえそれらの客のほとんどが二度と来なくても、まったく困らないくらい新しい客が来るのだ。皆、好奇心と、自分だけは大丈夫という根拠の無い自信に囚われている。そしてその間違いを正すこともできぬまま終わるのだ。
ガスクはほくそ笑みながら店を開けると受付に戻った。そこに最初の客がやってくる。
顔を隠すように目深にフードをかぶった長身の男は身なりがよかった。貴族の人間だろうと見積もったガスクは、上客を丁重に迎える。男は主人に会うなり率直な確認をぶつけてきた。
「ここに、聴くと死ぬ歌を歌う女がいるだろう?」
その声は若かったので、ガスクは意外に思った。
ファルサスは十五年ほど前に子供の行方不明が流行り、現在貴族で若い人間は少ないのだ。
しかし客を詮索するのは主義に反する。ガスクは笑顔で答えた。
「クラーラですね。確かにおります。ただ今からですと予約が入っておりまして……」
「そうか。だが、ちょっと今の時間を逃すと煩いやつに見つかるからな。何とか融通できないか?」
「申し訳ありませんが……」
ガスクの返事に男は苦笑した。フードをとって顔を見せる。
「俺が誰だか分かるか?」
分からないはずがなかった。
ガスクは思わず絶句し、手に持っていた書類を取り落とした。
思うだけで人を操れるなら、どんなにいいだろう。
そんな妄想をしたことがある人間はおそらく少なく無い。
―――― そして自分にはその力がある。クラーラはそう確信していた。
誰でも自分の思うようになるのだ。気に入らない人間は揃って死ねばいい。死ぬのが怖いのなら、最初から死にたい顔で来なければいいのだ。
「クラーラ、客だ」
「シモン」
琴を携えた男が、彼女の部屋を叩いて入ってくる。
シモンはもう三年の付き合いになる彼女専属の伴奏者だ。ある日何も持たず、娼館の前に行き倒れていたところをクラーラが拾った。その後、音楽の才があることが分かって今の役割についたのだが、恩人である彼女の言うことは何でも聞いてくれる。恋人にしたいとは思わないが、これほど彼女のことを理解してくれる人間もいなかった。
鏡台の前に座っていたクラーラは、髪留めを押さえながら立ち上がる。
「予約でしょ。今行くわ」
「いや、飛び入りだ」
「飛び入り?」
クラーラは久しぶりに聞く単語を怪訝に受け止めた。この娼館は身分の高い客が多い為、かえって金や身分でのごり押しは効かないのだ。
それを押して飛び入りをしてくるとはどんな客なのだろう。―――― 素直に興味が湧いた。
クラーラは急いで支度をすると、シモンを残し指定された部屋に向かった。
大きな寝台が置かれたその部屋の窓は、非常に小さく、高いところにある。こういった作りは外から覗かれることを防ぐためのものだが、それによって閉塞感を感じないくらいには部屋は充分広かった。
男は入り口に背を向けて酒盃を傾けていたが、クラーラの気配に気づくと振り返る。
よく整った端正な顔立ち、日が沈んだばかりの空の色の瞳。
会ったことは無い。けれどその姿を遠くから見たことはあった。
クラーラは唖然として固まる。それ以上部屋に入ることができない。
「どうした? 入って来い」
硬直している女を見て、ファルサス国王は軽く言った。
クラーラはようやく驚愕の檻から抜け出し、恐る恐る男の隣に座ると酒を注いだ。
「国王陛下がこんなところにいらっしゃってもよろしいので?」
「よくないからこっそり来てる」
「どんな美姫でもご自由にできるでしょうに」
「惚れた女が手強いからな」
オスカーは酒盃を空け、それを脇に置いた。横に座る、美しいのだがどこか不安定な顔立ちの女を見返すと、手を伸ばしてその髪の一房を指に絡める。艶のある滑らかな黒髪は、近くで確かめると魔女のそれより幾分色が明るかった。
「それより面白い歌を歌うそうじゃないか。それを聴きに来たんだ」
「本気で仰っているのですか?」
「本気でなきゃ来ないな。ばれたら命が危ない」
クラーラは再度驚愕して二の句が継げなくなった。
話題になっている酒場の女とは違う。クラーラが死ねと思って歌えば本当に死ぬのだ。今まで例外は一人もいない。この若き国王はそのことを分かっていないのだろう。
「お世継ぎもいらっしゃらないのに、ご冗談を」
「とりあえずまだ死ぬつもりはない」
「ならば歌のことは諦めてくださいませ」
クラーラは男の頬に象牙色の手を触れさせた。人を従わせる力のある目が彼女を射抜いている。その青い瞳に吸い込まれそうな錯覚を彼女は覚えた。
一瞥に魂を囚われる。
これは無理だ、とクラーラは悟った。
歌えない。
歌っても殺せない。
この男の死を望むことは出来ない。
死なせることは、出来なかった。
「俺の頼みだ。歌えないか?」
「できかねます。……その代わり別のものなら差し上げられます」
「何を?」
クラーラは言葉の代わりに男の首に両手を回した。体重をゆっくりと預ける。男の唇に熱情を込めて自分のそれを重ねた。
まるで非現実な時間。この一瞬が、永遠であればいいと思いながら。
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