第26話 海の青 02
空中に立つ一行は眼下に青海を見下ろしながら、それぞれの準備を始めた。アルスが剣の状態を確認する間、パミラとレナートが攻撃の為の構成を組み立て始める。二人はそれぞれ構成を組むと、それを一つに縒り合せた。一方ティナーシャはアルスに防壁を張る。
「水面に下ろすんで、いい感じで引き寄せてください。かかったら釣り上げます」
「出来れば死にたくないんだが……」
「善処しますよ」
魔女は二人の構成が出来上がったのを確認すると、白い手を振りながらアルスを徐々に降下させた。水面に彼の足が少し浸かるくらいのところにまで下ろして止める。だが結界が覆っているので足は水を避け濡れることがない。
アルスは、こんなに心細い思いをしたのはいつ以来だろうと上空にいる仲間を見上げた。魔女がまだ手を振っているのが遠目に見える。
ただ待つのも気鬱になるので、アルスは試しに剣を振ってみた。どうやら体の周りを球体状の結界が覆っているようだが、剣はそれを突き抜けることができる。彼は自分の足下を突いてもみたが、それで水漏れするということはなかった。そのまま海中を剣でかき回してみる。
しばらくすると、先ほどと同じく辺りに泡が浮いてきた。嫌な汗が背中に流れる。
剣を手元に引き、呼吸を整えた次の刹那、周囲に高い水飛沫が上がった。アルスを狙って巨大な足が取り囲むように海面に現れる。
足は宙をくねると彼を絡めとろうとしたが、その先端が触れるか触れないかのところで結界が上昇し始めた。逃走を妨げようとする足を、アルスは剣を伸ばして軽く斬り払う。嫌な弾力が返り、足は若干退いた。
生まれた空隙の中を、結界はなおもゆっくりと上昇する。十本の足がアルスを求めて上空に長く伸ばされた。海上を、塔より高い足が天に向かって蠢く異様な光景を、彼は息を呑んで見下ろす。
伸びてくる足の様子をじっと見ていたティナーシャは、隣の二人に頷いた。
「いいですよ。やってください」
パミラとレナートは主人の命に従い、同時に魔法を撃ちおろす。凄まじい電撃が槍となって十本の足に直撃した。そのまま足を伝って電流が走る。
クラーケンの音にならない悲鳴が空気を揺るがした。思わぬ攻撃を受けた海魔は、足を海中に戻そうとするが叶わない。魔女が不敵な笑みを浮かべながらその巨大な体を固定していた。詠唱のない構成が十の足に絡み付いている。
電撃は足を焦がし、香ばしい匂いが辺りに漂ったが、水面に達すると水の中に拡散して本体まではあまり届かなかったようだ。
「やっぱり足りませんか」
ティナーシャは舌打すると腰に下げていた筒を取り出す。彼女はそこから五つの水晶球を取り出すと、無造作に海へと投げた。球はクラーケンを中心に綺麗に円形に広がって海に没する。
「レナート、ちょっとアルスを頼みます」
「分かりました」
支えていたアルスをレナートに渡してしまうと、ティナーシャは詠唱を開始した。白い手を海面へと向ける。
「我が言葉を受け入れよ。形が変わるは変質にあらず。定義はゆるがず、流れ漂うのみ。……退け」
水中から五つの白い光が洩れる。次にそれらを結んで白い円環が現れた。光る円環がクラーケンを内に固定してしまうと、その周囲にある水が徐々に外側へと吸い出されていく。
「まじか」
魔女の魔法の規格外さにアルスが驚きの声をあげる。隣でパミラが息を呑んだ。
三分もすると、海は綺麗に円筒状に裂けていた。クラーケンの巨大な体が海中という鎧を剥ぎ取られ、その醜悪な姿を視界に晒している。大人の身の丈の三倍もありそうな大きな黒い目が空中にいる一行を睨んだ。
ティナーシャは自身が捕らえた海魔をまじまじと眺める。
「イカですか。食べごたえがありそうですね」
魔女の暢気な感想にアルスは逆に食欲がなくなった。げっそりとした顔になる彼をよそに、ティナーシャは自分だけ高度を少し下げると別の詠唱を開始する。
「我が意志を命と認識せよ。地に眠り空を翔る転換者よ。我は汝の雷を支配し召喚す。我が命が現出の概念の全てと理解せよ」
詠唱の終わりと共に魔女の腕の中に、電撃を帯びた十個の球体が現れた。それらは空気が爆ぜる音を伴って、一瞬ごとに白く光る枝葉を辺りに広げている。
ティナーシャは球体群を一瞥すると、細く息を吐きながらクラーケンに向かって打ち出した。球はその大きさを増しながら、固定された足のそれぞれに達する。そこから恐ろしい速度で本体まで走り抜けた。
パミラとレナートの魔法で香ばしい匂いを漂わせて焼けていた足は、黒い消し炭となって崩れ落ちる。それだけに留まらずクラーケンの頭部もまた焼かれ、硝子を引っかくような長い悲鳴が空間を引き裂いた。
その声が次第に小さくなって消えると、固定されているクラーケンは心なし力なく垂れているように見える。黒く丸い目がいつの間にか白く濁っていた。
「死んだか?」
「どうでしょう」
ティナーシャは高度を更に下げた。頭部がよく見える辺りまで下りるとクラーケンの目を観察する。
その時、急に巨大な目が黒く戻った。崩れた足が一瞬で再生する。先ほどまでよりは大分細くなっていたが、そのうちの一本がティナーシャの右足を捕らえた。
「ちょ……っ」
「ティナーシャ様!」
パミラが慌てて急降下しようとするが、クラーケンの足はそれより早く魔女の細い足に絡み付き、無造作に牙の並んだ口に向かって彼女を引きずり込もうとする。魔女は苦痛を堪えながら、自らを捕らえる海魔の足に手を当てた。
「散れ!」
その声と共に、クラーケンの足が爆発する。魔女は意識を集中すると、下りてきたパミラの隣にまで転移した。更に彼女を伴ってアルスの傍へと上昇する。
「大丈夫か?」
「骨を砕かれました」
ティナーシャは自分の足を見下ろした。らせん状に巻きつかれた痕が赤い痣になっている。とりあえず彼女は右足に触れながら痛みだけを消した。骨が砕けている以上、ちゃんとした治療には時間がかかるのだ。
一息ついて魔女が海を見下ろすと、集中が乱れたせいで割いていた海が渦を作りながら戻りつつあった。その中に再生した十本の巨大な足が蠢いている。
「あのイカめ……」
忌々しげな呟きが吐かれた時、しかしクラーケンは突如動きを止めた。周囲の空間に巨大なひずみが生まれる。ひずみは動物の低い唸り声に似た音を立て、しばらく軋んでいたが、不意に中心に向かって収束した。
そしてそれと同時に、クラーケンの姿は忽然と消え去る。
レナートは驚きと共に息をついた。
「上手くいったみたいですね」
「の、ようです」
魔女が肩をすくめると、その隣にスズトと十三、四歳程の少年が転移してきた。平坦な表情の少年は、ティナーシャに向かって頷く。
「女王様、ご命令は完了したよ」
「ご苦労、ニル。あと女王様ってのはやめろ」
「だって女王様じゃん」
膨れ顔をする精霊の隣りで、スズトはほっとした顔を見せた。
「召喚の紋様は破壊してきました。見つけるのに時間がかかって。申し訳ありません」
部下の報告を受けて、アルスは剣を鞘に戻すと笑う。
「いや助かった。お疲れ様」
魔法士三人とアルスが海上から正攻法で攻めている間、スズトは魔女の精霊に結界を張って貰いながら海賊船を探して海底を彷徨っていたのだ。そうしてクラーケンが沈めたと思しき十数隻の中から何とか目的の船を探し出し、更に精霊の指摘の下、召喚主が甲板に焼き付けていた紋を見つけて剣で砕いた。
召喚紋がなくなったことで、クラーケンは束縛をはずれ、元いた北の海深くに戻ったことだろう。―――― こうしてニスレは魔の海域から解放されたのだ。
無事任務を終えたアルスは、隣に浮いている魔女を見やる。
「ティナーシャ嬢が来てくれてなかったら、どうなってたことやら」
「さぁ。オスカーが来ちゃったかもしれませんね」
しなやかな躰に恐ろしい力を秘めた女は、冗談にもならない可能性を口にすると、相好を崩して微笑んだ。
※ ※ ※ ※
タァイーリのルスト王子は、オスカーの誕生日の前日、はるばる馬でファルサスの城都までやってきた。魔法士に対して暗黙にその存在を認めるようになってきたとはいえ、タァイーリの城自体は魔法を一切使っていない。そのため転移陣も配備されていないのだ。
ルストを迎えたオスカーは儀礼的に謝辞を返し、彼を歓待した。アルスたちの帰還の連絡が入ってきたのは、来訪者の為の祝宴が始まってまもなくのことである。広間にやって来た文官から報告を聞いて、オスカーは内心「もうちょっと遅く帰って来い」と舌打した。
ルストは文官が退出すると、軽く尋ねてくる。
「どうかなさったのですか」
「いえ、海魔の討伐に向かわせていたアルスたちが戻ったようです。後で詳しいことを聞きますので」
「アルス将軍ですか。彼にも世話になった。よければ今ここに呼んでくださいませんか」
オスカーは顔を顰めたくなったが、断るのも不自然なので帰って来た者たちをここに呼ぶように命を下した。
十分後、一同が頭を下げて広間に入ってくる。顔をあげたレナートとパミラは、ルストの姿を見出してぎょっとしたが、彼らの主人はそこにはいなかった。オスカーは魔女の不在を怪訝に思ったが、とりあえず触れずにアルスへ声をかける。
「どうだった?」
「当分イカは食べたくありません」
「クラーケンか。ちょっと見てみたかったな」
「…………」
アルスはげっそりする表情を押し隠し、礼をした。
「ティナーシャは?」
パミラがそれに答える。
「御用事がおありとのことで、後でお戻りになるそうです」
「そうか。ご苦労だった」
王が頷くと、パミラとレナート、スズトはその場をそそくさと退出する。将軍位を持つアルスは残って酒盃を受け取ると、改めてルストに挨拶をした。異国の王子は不思議そうに将軍を見上げる。
「魔女殿はいつも討伐などにご一緒されるのですか」
「私どもの手に負えないものの時や、気が向いた時はいらっしゃいますね」
「気分屋なんですよ」
オスカーはそうつけたすと、苦笑して杯に口をつけた。
それから二時間後、オスカーは一人露台に出て酔いを飛ばしていた。酒に弱いわけではないのだが、外交の場である以上出来れば素面でいたい。彼は息抜きも兼ねて、外の景色を眺めていた。
外は日が落ちかけており、薄い橙と夜の青が交じり合っている。たなびく雲が黄金に染まっている様は、ティナーシャに見せてやりたいくらい美しかった。
そのままぼんやりと空を見上げていたオスカーは、背後に人の気配を感じて振り返る。そこにはルストが神妙な顔で立っており、彼を見るなり頭を下げてきた。
「あの時は大変申し訳ありませんでした」
それがいつを指すのかはよく分かっている。ルストの私室で斬り結ぶ羽目になった時のことだ。オスカーは苦笑して返す。
「こちらこそ申し訳ない。出来れば忘れて頂きたいくらいだ」
「それを許して頂けますなら。……彼女は元気にされていますか?」
おそらくはもっとも聞きたかったことなのであろう、彼の質問にオスカーは微笑した。答えようと口を開く。―――― その時、彼のすぐ背後に、話題の魔女が転移してきた。
「オスカー、戻りましたよ」
ティナーシャは浮かび上がると、無邪気な笑顔で契約者の首に両腕を回した。だがすぐに眼前にいる異国の王子に気づいて蒼ざめる。
「ル、ルスト王子……」
「お久しぶりです」
まったく間が悪い、と思いながらもオスカーは魔女の腕をほどくと横にどいた。気まずい顔で床に下りた彼女を振り返ると、少年が着るような軽装を着ている。オスカーは軽く眉を上げた。
「何だお前、ちゃんと着替えて来い」
「すみません」
ティナーシャは慌ててルストに頭を下げると「また後で参ります」と言った。転移しようとする魔女を見やって、だがオスカーは違和感を覚えると白い腕を掴む。
「な、なんですか?」
「足に魔法をかけてないか? どうしたんだ」
魔女はぎょっとした顔になったが、すぐ首を振った。
「気のせいです」
「そんなわけあるか、見せてみろ」
オスカーは、膝から下がむき出しになっている右足に手を伸ばす。片足を持ち上げられ体勢を崩しかけたティナーシャは、宙に浮いて体勢を保った。
「何でもないですって!」
細い足には傷一つない。滑らかな肌を眉を顰めて見ていたオスカーは、空いてる手で腰のアカーシアを抜いた。意図に気づいたティナーシャがばたばたと暴れるが、彼はその足をしっかりと掴んで離さない。
何が起きているのか分からないルストが止めようかどうか迷っているうちに、オスカーはアカーシアの平を魔女の足に当てた。そこに掛けられていた魔法が拡散する。
「お前……」
目くらましの魔法が解かれた彼女の足には、らせん状に赤い痣が浮かび上がっていた。魔女はしまった、という表情で横を向く。骨と筋肉、神経は治せたのだが、痣は消せなかったのだ。
白く細い足を絡め取るようにくっきりと浮かび上がった赤痣は、痛々しいというよりも妙な艶かしさがあった。見てはならぬものを見てしまったような気がして、思わずルストは顔をそむける。
一方オスカーは苦い顔でそれを見つめた。
「油断したな。馬鹿が」
「うう」
「こういう怪我をしてくるようなら次は出さんぞ。もっと余裕で勝って来い」
「はい……」
足を離してやると、魔女は負け惜しみかオスカーに向かって小さく舌を出し転移する。その様子を見送って溜息をつくと、オスカーは対応に困っているルスト王子に向かって
「あんな感じです」
と苦笑して見せたのだった。
三十分後、魔法士の正装を着たティナーシャが酒宴の場に戻ってきた。白い魔法着の彼女は、シルヴィアにでも捕まったのか薄い化粧をしている。そこに居るだけで場の空気を変えるほどの美しい魔女は、改めてルストに挨拶をした。
「先ほどはあのような格好で、失礼しました」
「いえ、討伐大変だったでしょう」
微笑して頭を下げる魔女は、タァイーリの王宮で会った時とまったく違う雰囲気を纏っていた。人を寄せ付けない神秘的な威圧感が消え、木漏れ日のような穏やかな優しさがそこにはある。そのことがルストには嬉しくもあったし、寂しくもあった。
人であり魔女であり玉座にない女王でもあるティナーシャは、その側面を月の満ち欠けのようにくるくると変える。人間誰しもそういった多面性を持つものだが、彼女は魔女として長い年月を生き抜くためにそれぞれの側面が如実に分化しているのだ。
隣の席に座った魔女の繊細な横顔を見ながら、ルストはずっと言おうと思っていたことを切り出した。
「あの時はお世話になりました。貴女に言われたことをずっと考えて……結局私は今まで何も自分で考えてこようとしなかったのだと思い当たりました。神は確かに絶対ですが、その名に隠れて力を揮うことで、あるいは自分が神にでもなったつもりだったのかもしれません」
ぽつぽつと語られる自戒に、ティナーシャは苦笑する。
「ご無理をなさらないでください。千年も続いた歴史です。貴方一人それに反抗することは難しかったでしょう。でも、貴方のなされたことはとても意味のあることだと、私は思います。そう……とても人間的です」
「人間的?」
「人を殺すのも救うのも人間の業ですよ」
そう言って微笑むティナーシャは、明るい月のように美しかった。
ルストの胸に鈍い痛みが走る。しかし表面的には笑顔で彼は尋ねた。
「ところでご結婚はいつ頃なさるのですか?」
「へ?」
間抜けな声で聞き返したティナーシャに、ルストの反対側に座っていたオスカーが喉を鳴らして笑い始める。魔女はそれでようやく、自分がどうしてファルサスにいるのか体面上の理由を思い出した。
「あ、えーと、その」
「嘘ですよ」
返事に困る魔女に代わってオスカーがあっさりと答える。今度はルストが目を丸くする番だった。
「お気づきかもしれませんが、これを引き取ってくる為の方便です。実際はこれは私の守護者なんですよ」
これ、と言われたティナーシャはばつの悪い顔になった。一方その後ろでは、控えていたラザルが驚愕している。
まさかオスカーがルストに本当のことを言うとは思わなかったのだ。あれだけ魔女を会わせるのも嫌がっていたのに、どういう風の吹き回しだろうと、彼は首を傾げる。
ルストはよく意味が飲み込めず呆然としていたが、左右の男女を見回すとオスカーに問いかけた。
「ではご結婚の予定は」
「特にありませんね」
「守護者というのは……」
その疑問に答えたのは塔の魔女だった。
「契約関係にあります。私が普段は塔に住んでいるのはご存知ですか? この人はそこを登ってきた達成者として、私と契約を結んだわけです」
「契約……ですか」
魔女は柔らかく微笑んで頷く。その笑顔に引き込まれそうになって、ルストはつい口を開いた。
「では仮に私が塔を登れたとしたら、貴女は私の望みを聞いてくれますか?」
ティナーシャとオスカーを除いた周囲の人間が、それを聞いて、うっ、と固まる。ルストが魔女に惹かれていることはどう見ても明らかである。が、そんなことを口にだしてはファルサス国王の機嫌が悪くなるのもまた明らかだった。
しかし側近たちの心配もよそに、オスカーは平然と酒を飲んでいる。魔女は少し驚いたようだったが困ったように苦笑しなおした。
「構いませんが、お勧めしませんよ。あの塔はこの人などは軽々登ってきてしまいますが、本来十人がかりで、百年に一度達成者が出るか出ないかという難度にしてあります。失敗した者は記憶を弄って大陸中に飛ばしてしまいますし、王族のような責任ある方は、出来れば挑戦なさらない方がいいですね」
魔女の忠告は紛れも無い事実で、ルストはその壁の高さに項垂れそうになる。だが、それでも諦めきれないのもまた事実だった。
こんな女は二人といない。
今はその彼女が手の届くところにいるのだ。
自分が魔法士に厳しいタァイーリの王位継承者であることも彼女が魔女であることも、この瞬間には関係なかった。
ルストは彼女の手をとる。目を瞠る魔女に向き直った。
「あの……」
「ティナーシャ」
ルストの言葉を遮った契約者に、ティナーシャは首を傾げる。
オスカーは酒盃を持った手で露台を指差すと「込み入った話なら外で拝聴しろ」と興味なさげに言ってきた。彼女は怪訝な顔ながらも、頷くと立ち上がる。
恐縮するルストが「お借りします」と魔女を伴って外に出て行くと、近くで聞いていたアルスがオスカーに耳打ちした。
「よろしいんですか」
「何で俺が、自分の二十倍も生きてる女の面倒をそこまで見なければならないんだ」
もっともだが意外な返事に、側近たちは顔を見合わせる。
当のオスカーはしかし、平静を保ったまま酒盃に口をつけたのだった。
ルストと魔女はすぐに戻ってきた。どちらも表面上は何ら変わりなく見える。
ティナーシャはオスカーの隣に座ると、酒盃を見て美しい眉を寄せた。
「あまり飲まないでください」
「何故」
「死ぬから」
「意味が分からんぞ」
魔女はそれ以上答えなかった。オスカーは不審に思ったが酒盃を置くと代わりに水を手に取る。それからしばらく一同は歓談していたが、ティナーシャが「お先に失礼します」と部屋に戻ると、それを皮切りに自然と酒宴は終わりになっていった。
自室に戻ったオスカーは着替えながら、僅かに残る酔いに、風呂で酒気を抜いてしまうべきかどうか迷っていた。魔法で動く時計を確認すると、日付が変わろうかという真夜中である。
さて、どうしようかと上着を脱いだ時、窓が外から叩かれた。返事をすると、魔女が硝子戸を開けて入ってくる。オスカーはその姿を見て唖然とした。
「何だその格好は」
「動きやすさ重視」
ティナーシャは袖の無い黒いドレスを着ていた。上半身の曲線にぴったりと添うその服は、腰から下が若干膨らんでいるが、その代わり丈が異様に短い。白い滑らかな足がほぼ全部見えている。さすがに下に何か履いているようだが、それでもぎょっとしてしまう。足の痣は魔法で消し直したのか綺麗になくなっていた。
オスカーは彼女の白く細い脚をまじまじと見つめる。
「目の毒というか保養というか……」
「貴方も動きやすい格好してください」
見ると彼女は厚手の綿織物を数枚抱えている。何のつもりか不思議に思いながらも、オスカーは薄い上着を着た。
「あ、ナークも連れてってくださいね」
「何なんだ……アカーシアは要るのか?」
「別にどっちでもいいです」
とりあえず物騒な用事ではないらしい。オスカーは部屋の隅で既に寝ていたナークを起こし肩にのせた。迷ったが結局アカーシアも帯剣する。
魔女は彼の手を取ると、転移門をその場に開いた。
二人は広い草原の上に出た。月が皓々と明るい夜だ。魔女はナークを抱き上げると、大きくなるように頼んだ。
その背に乗って彼らは更に移動する。向かう方向の遥か遠くに街の光が見えた。徐々に近づくその明かりを見て、オスカーは隣の魔女に尋ねる。
「何処の町だ?」
「ニスレです」
海魔退治が終わったばかりの街の名に、オスカーは息を呑んだ。建物の明かりの向こうに海が広がっている。月光が広がる水面に青白い光を注ぎ、それを受けて漣が白く光った。映り込む月は僅かに揺らぎながらも宝石のような輝きを帯びている。
初めて見る自然の圧倒的な姿にオスカーは何も言えなかった。何処までも続く夜の海は静寂と神秘を湛えている。
ティナーシャは黒髪をかき上げて微笑んだ。
「本当は昼来れればよかったんでしょうけど、お忙しいですからね」
「……いや、充分だ」
感嘆混じりの返事に、魔女は満足そうに微笑んだ。ナークの頭近くに移動すると彼女は何事か指示をする。ドラゴンは新たな指示に、海の上をゆっくり旋回した。オスカーは眼下を覗き込む。
「クラーケンでも見せてくれるのか?」
「そうだと言ったらどうしますか」
「アルスに言ったことを撤回する」
魔女は、彼が何を言ったのか知らないはずだが、大体想像はついたのか笑い出した。ドラゴンは向きを変えると、陸沿いに飛び始める。
やがて街から少し離れた岩ばかりの絶壁の上に、ナークは二人を下ろした。元の大きさに戻ったドラゴンはオスカーの肩に乗る。
「じゃあ、行きましょうか」
魔女は契約者の手を取ると彼を伴って浮かび上がった。断崖に沿って徐々に降下する。何もかもが新鮮で海を見下ろしていたオスカーは、断崖の途中に洞穴が開いているのに気づいた。魔女は彼の手を取ったままそこに入っていく。
中は斜めの空洞になっており、ゆっくりと下りていくとやがて海水が湛えられた広い空間に出た。空洞を通って僅かに入り込む月光が水面を青く照らしている。
うろのようなそこは、周囲一面岩壁に囲まれているせいか波はない。彼女はその脇の、海水の届かない小部屋ほどの足場に彼を下ろした。白い両手を広げ、いくつもの光球を生む。それらは魔女の手を離れるとあるものは岩の天井に、あるものは海中に沈み辺りを照らした。
空間が青い輝きに染まる。
水面は光を受けて鮮やかな明るい青に輝き、深くなるに従ってその色も濃くなっているが、海中に沈められた光球のせいか、ところどころ目の覚めるような美しい青に光っている。
溜息を禁じえない水の神秘にオスカーは思わず見惚れた。魔女は会心の笑みを浮かべる。
「どうですか?」
「絶景」
「下は砂なんで、安心して泳いでください。魚もいませんよ」
「泳ぐのか!」
「泳げるんでしょう?」
抱えていた綿織物は体を拭くためのものだったらしい。彼女はそれを濡れない場所に置くと、おもむろに海中に飛び込んだ。水飛沫が宙に輝く。
オスカーは、それであの格好なのか、と納得しながら上着と靴を脱いだ。アカーシアを眠そうなナークと共に脇に置く。水に入ると一瞬ひんやりと冷たかったが、すぐに慣れた。底まで潜ってみると、白い砂が敷き詰められている。外海に通じているのであろう水中の洞窟も岩壁の中に見えたが、曲がりくねったその先がどうなっているかは分からなかった。
体が軽くなる錯覚。泳ぐのは子供の時以来だが、体が覚えていた。
息を継ぐために海面に顔を出すと、髪から水を滴らせたティナーシャが宙に浮いて上から彼を覗き込んでいる。その肌と瞳は青い光に照らされて、蠱惑的な魅力を放っていた。
オスカーは濡れた前髪をかき上げながら尋ねる。
「ここ、お前が作ったのか?」
「自然の産物です。昔はよく来てたんですけどね。人を連れてきたのは初めてです。あ、足場がないと不便なので昼間ちょっと壁を削りました」
そう言って彼女は、物が置いてある場所を指差す。オスカーの上着の上で、ナークが丸くなって眠っていた。
「で。誕生日おめでとうございます」
ティナーシャは両手を合わせて楽しそうに微笑んでいる。
ようやく彼はここに連れてこられた理由を理解した。手を伸ばして彼女の髪を引くと、魔女はゆっくりと下りてきた。その頬に触れると不思議と熱い。
「ありがとう」
男の礼に、ティナーシャは子供のように声を上げて笑った。
一通り泳ぎを堪能してから足場に戻ると体の重さが身に沁みた。
オスカーが振り返ると魔女はまだ海面で遊んでいる。その姿は本当に子供のようで、彼は苦笑すると布をとって髪を拭いた。上半身を拭いてから、着替えについて聞こうと振り返ると水面に座った魔女がまじまじと彼を見つめている。
「何だ」
「いえ、綺麗だなーと思って」
「何が」
「貴方が」
「何だそれは……」
綺麗とは一般的に男に使う誉め言葉ではないと思う。
しかし魔女はそんなことは気にしていないらしく、男の秀麗な顔立ちと、均整のとれた体を首を傾けて眺めていた。遠慮の無い視線を受け止めながら、オスカーは魔女を手招きで呼び寄せる。
「服はどうするんだ。持ってきて無いぞ」
「乾かしますよ」
水面を無造作に歩いてきた魔女は、白い手を彼の濡れた足に触れさせた。熱が布に伝わり、みるみるうちに乾いていくが、熱いということはない。
感心しながらそれを見ていたオスカーは、ふと今まで忘れていたことを思い出した。
「そう言えばルストは何だって?」
「ああ、結婚を申し込まれました」
「またか」
「断りました」
「瞬殺だな」
「別に好きでも何でもないので……」
「そう言って断ったのか。なかなか痛烈だ」
オスカーはルストが少し気の毒になった。しかしずぶ濡れの魔女は嫌な顔をする。
「そんなこと言って国交が悪化したらどうするんですか。当たり障り無く断りましたよ」
「なるほど」
同じ魔女でもルクレツィアあたりなら喜んで引っ掻き回しそうだなとオスカーは思ったが、口に出さなかった。しかし彼女の言葉に、少しの違和感を覚えてその内容を反芻する。
理由はすぐに分かった。
今まで彼女は人との交わりを断る理由として『魔女だから』と再三言っていたのだ。それを「好きではない」という理由で断るとは、どういう心情の変化なのだろう。オスカーは幾分不思議に思ったが、突き詰めてもルストが気の毒なだけな気がしたのでそちらも口には出さない。
黙り込んだ男を魔女が覗き込んだ。
「お疲れですか? 帰りましょうか」
「いや、もうちょっと見ていく」
男の返事に、ティナーシャは見惚れるほど美しい微笑を見せる。憂いや淋しさを帯びたものとは違う嬉しそうな闇色の目に、彼女を至近で見下ろしていたオスカーは瞬間忘我してしまった。小さな顎を指で捕らえると、ごく自然に顔を寄せる。
「え、ちょっと」
ティナーシャが顔色を変え男の体を押しのけようとしたが、その手も空いている方の手で捕らえた。
そのまま慌てる魔女の唇を奪う。
青く染まる非現実的な空間の中、彼女の存在をその温かさで確かめた。女の長い睫毛が自分の顔をくすぐるのが分かる。
軽く触れるだけの、しかし長い口付けの後、オスカーは角度を変えて再び魔女に口付けた。そのまま彼女の熱を、息を、自分の物とするように、焦がれるような口付けを繰り返す。
精神が溶け合う気だるい熱情が彼を満たした。
ティナーシャは突然のことに逃れようと抗ったが、彼はそれを許さない。息が出来ないほどの口付けの雨に、立っているのもやっとである。水に濡れたままの肢体の奥から不思議な熱が湧き上がり、彼女の思考を絡め取った。
気が遠くなる。
魔法を使うことさえ忘れた。
熱が、痺れを伴って全身を支配する。
―――― その時、空間を満たしていた明かりが揺らいだ。
オスカーは光のまたたきを感じ取って顔を離す。魔女の意識が乱れて光球が点滅したのだ。そのことに気づいた彼女は、赤面して空いている手で顔を覆った。どんな苦痛の中にあってもこのように簡単な術の維持が揺らいだことなど今までなかったのだ。
「何するんですか……」
オスカーは掴んでいた彼女の手を離した。かなり強く握っていたが幸い痣にはなっていない。彼は耳まで真っ赤になっている魔女の頭を軽く叩くと
「すまん、つい」
と表面上は平静に言った。ティナーシャは契約者を睨み返す。
無防備にも見える魔女の華奢な体を一瞥して、オスカーは溜息をつきながら頭を振った。
「もうちょっと泳いでいく」
「……え?」
そっけなく言い残した彼は、さっさと海中に入ってしまう。取り残された魔女は、動悸がやまない胸を押さえた。
「服、乾かしたのに……」
呆然とした呟きは、誰の耳にも届かなかった。
※ ※ ※ ※
翌日、ルストはファルサスを出た。
魔女は転移を申し出たが、彼はそれを固辞して、行きと同様通常の行路を取る。従者や護衛の兵と馬を並べての帰り道、昔からルストを知っている護衛隊長が彼に話しかけてきた。
「よろしかったのですか、引き下がって」
それが何のことを指すのか分かったルストは軽く笑う。
「綺麗に振られたからな。仕方ない」
「ファルサスには契約で縛られているのでしょう?」
「いや……」
ルストは苦笑した。昨晩の記憶が蘇る。
同じことを聞いた彼に、あの美しい魔女はかぶりを振ったのだ。
『あの人は特別なんです。あんな契約者が他に居たら困りますよ』
彼女自身、自覚がないのかもしれない。
けれど少し困ったように微笑む彼女に、ルストはその時完璧な敗北を悟ったのである。
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