第25話 海の青 01


 蒸し暑さが当然のように室内にも居座っている晴天の日、執務室でお茶を淹れていたティナーシャは、ラザルの言葉を聞いて振り返った。

「え、誕生日?」

「そうなんです。もう二週間後ですね」

「誰の?」

「だから俺の」

 今まで黙って聞いていたオスカーは、書類に署名しながら口を挟んだ。ティナーシャは驚きを引きずったまま、彼の手元にお茶のカップを置く。

「貴方に誕生日なんかあったんですね……」

「どういう目で俺を見てるんだ」

 盆を抱えた魔女は、まじまじと仕事中の契約者を見下ろした。高貴さの染み付いた端正な顔立ちは、彼女にとっては既に見慣れたものだ。ティナーシャは素直な感想を洩らす。

「二十一になるんでしたっけ。……若い」

「お前から見たらほとんど若いだろ」

「貴方は精神的に老けてるんで、非常に意外です」

「こめかみ締めてやるから頭出せ」

 手を伸ばすオスカーを避けて、ティナーシャは後ろに下がった。彼女はテーブル脇の椅子に座ると、自分のお茶に口をつける。

 一方のんびりとくつろぐ守護者とは対照的に、書類を右から左に手際よく処理しながら、オスカーは聞き返した。

「お前にも誕生日があるんだろ?」

「ありますよ。一応人腹生まれですから。二ヶ月前くらいかな」

「何歳なんだ?」

「もう数えてないので……四百と二、三十じゃないですかね」

「途方も無いな」

 会話の隙に、ラザルが処理済の書類をまとめて手に取る。忠実な従者である彼は王に伺いを立てた。

「それで式典は如何致しましょう」

「親父がやったばかりだから今年はいい。面倒だ」

「でも即位式も簡略化なさったじゃないですか」

「その後タァイーリで散々顔を合わせたから充分だろ」

 仕事はきっちりやってくれるのだが、あまり華やかな場に出たがらない主君に、ラザルは小さく唸った。或いはタァイーリでチェチーリアに散々絡まれていたことが影響しているのかもしれない。オスカーの気持ちも分からなくもないラザルは、諦めて溜息をつく。

「じゃあ既に問い合わせが来ているところにはその様にお返事致しますね」

「ああ、頼む」


 ラザルが部屋を出て行ってまもなく、お茶のカップを置いた魔女がふわりと浮き上がった。泳ぐように宙を舞う彼女は、机のすぐ上まで来るとオスカーを見下ろす。甘い花の香りが微かに降ってきて、オスカーは表情を緩めた。鈴を振るに似た声が問う。

「何か欲しいものあります?」

「何故急に」

「誕生日なんでしょう? 折角だから」

 顔を上げて魔女を見ると、彼女は楽しそうに笑っている。そういう顔はあどけなく見えて、とても四百歳過ぎとは思えない。オスカーは手を止めて少しだけ思案した。

「と、言われても。特に無いな」

「欲が無いですね」

「恵まれてる自覚はあるさ」

 小首を傾げている魔女を手招きで呼び寄せると、彼女は音もなく降りてきて、彼の膝の上に横座りになった。その髪を手で梳いてやると白い耳朶が見える。

 オスカーは魔女の美しい横顔と細い首筋を見て一瞬迷ったが、結局「特に無い」と結論付けた。

 魔女はそれを聞いて、何故か残念そうに彼の顔を見上げたのだ。




 ※ ※ ※ ※




 深い森の中には日もあまり差さない。薄暗い木々の下では鬱蒼とした茂みがあちこちで息を潜めて、来訪者の様子を窺っている。影の中で沈黙するそれらは、迷い込んだ人間にとっては意思を持つ手のように不気味に見えるものなのだろう。

 それでもこじんまりとした木の家の周囲には僅かな木漏れ日がところどころ零れ落ち、そのうちの一つは家の前に置かれた花の鉢にぴったりと注いでいた。この鉢は計算して日の当たるの場所に置いてあるのだろうか。不思議に思いながらティナーシャは友人の家の戸を叩く。

「あんたか。いらっしゃい」

 現れた家の主人は何かの実験中だったらしく手に小瓶をいくつも持っていたが、それを片付けながら客を招き入れてくれた。勝手知ったる家なので、ティナーシャは自分でお茶を淹れ始める。


 まもなく二人の魔女は向かい合ってお茶の席についた。ティナーシャはカップを持った指で天井を指し示す。

「この前のお菓子の作り方教えてください。媚薬抜きで」

「抜くと味が変わるわよ」

「何だそれ!」

 ルクレツィアに無断で魔法薬の人体実験をさせられることは以前からたまにあったが、せいぜい五十年に一回なので、いつも忘れて口にしてしまう。普段はそんなこともないのだが、ティナーシャはこの件に関しては、自分が喉もと過ぎると熱さを忘れる傾向にあると自覚していた。

 ルクレツィアは白々とした顔で話題を戻す。

「で、今日は何の用?」

「ああ、相談相談。男の人って普通何をあげるものなんですか?」

「……何それ」

 脈絡のない質問に、閉ざされた森の魔女は呆れ顔で友人を見返した。ティナーシャは執務室でのやり取りを簡略化して説明する。他愛もない事情に、ルクレツィアはあっさりと返した。

「要らないっていうなら別にいいじゃない」

「ちょっと最近借りが多いですからね。機会があったら返済していきたいんです」

「借りねぇ」

 ルクレツィアは頬杖をついて、焼き菓子を用心深く選んでいるティナーシャを見つめた。

 ―――― 誕生日に物を贈りたいなどとは、普通の思考過ぎて普通ではない。そのことに本人は気づいているのだろうか。


「それで何で私に聞きにくるの」

「だってこないだの指輪ルクレツィアが……」

「何!?」

 据わった目で遮られてティナーシャはそれ以上触れるのをやめた。

 先日ルクレツィアに捜索を依頼された指輪は、かつて恋人だった男に贈ったものらしい。何故かそれはティナーシャの使い魔である精霊の一人が持っていたのだが、詳しい話は聞かない方がよさそうだ。彼女は大人しく口をつぐむ。


 ルクレツィアはそっけない投げやりさで結論づけた。

「何でも適当にあげればいいじゃない」

「そうですよね。トゥルダールの宝物庫に整理がてら見に行ってこようかな。何か面白い装備があるかも」

「頼むから! これ以上あの男を強化しないで!」

「…………」

 平然とした顔を作ってティナーシャはお茶を飲む。

 そうは言っても実用品がいいと思うのだが、何がいいのだろう。後に残らない食べ物がいいだろうか、と焼き菓子をつつきながら考える。

 思えば誰かの誕生日に物を贈るなど、ほとんど経験がない。下手をしたら魔女に成る前まで遡らないといけないかもしれない。欲しいものが特にない人間に物を贈ることが、こんなに茫洋としたものだとは思ってもみなかった。

「全然思いつかない……」

「自分をあげなさい。喜ばれるわよ」

「変態ですよそれ」

 ティナーシャは焼き菓子を半分に折ると嘆息した。




 ※ ※ ※ ※




 ファルサスの南端は海に接している。

 大陸の南部海岸であるその一帯にはいくつかの港町があり、古くから漁業や交易で賑わっていた。交易は遠く離れた東の大陸と行うものもあれば、山脈があるため陸路では行きにくい大陸東部の国が相手のこともある。

 ある日港街ニスレを出港した貴族の商船もその例にもれず、東部の国メンサンに向かって航路をとっていた。真珠や絹織物を積んだ船はメンサンでそれらを売り、代わりに穀類や香辛料を買って帰ってくるはずだったのだ。

 ―――― しかし船は結果として目的地に着くことはなかった。ニスレを出てまもなく、忽然とその姿を消してしまったのだ。

 消息不明になった船に、人々は海賊に襲われたか何かの事故にでもあったのかと疑った。だが海賊船らしきものの目撃情報は入ってこず―――― 代わりに被害の知らせは一隻だけでは終わらなかった。

 次々と入ってくる消息不明の報告が十隻を越えた時、人々は思い知る。

 いつの間にかニスレ東は、船の通れぬ魔の海域となってしまったのだと。




「先日、諸国に返答した誕生祝いの件ですが、タァイーリのルスト王子が、戦争時の礼を兼ねて訪問に来られるそうです」

「断れ」

 主君に即答されたラザルは嫌な顔になった。諫言が溜息と共に零される。

「無茶を仰らないでください。ファルサスは決してタァイーリに強く出れる立場じゃないんですよ」

「…………」

 それはオスカーもよくわかっていることである。

 前回の戦争ではタァイーリの要請で軍を出し、結果としてはいい方に片付いたが、 その終結時にティナーシャを元々擁していたのがファルサスであったということが諸国に明らかとなってしまったのである。 魔女に対して監督不行き届きも何もないが、いい事ではないのは確かだ。幸い表立って批難する国はなかったが、当分大人しくしているのが無難であろう。

 またこれはほとんどの者が知らぬことではあるが、オスカーはティナーシャの来訪を隠匿していたルストに剣をつきつけたという一件もあり、正直言ってあまり会いたい相手ではなかった。


 ラザルが手元の書類をぱらぱらと捲る。

「大体今からお断りしても入れ違いになりかねませんよ。あと三日ですから」

「言ってみただけだ。ルストが何で来たいのか想像はつく」

「何でですか」

「あれに会いたいんだろ」

 オスカーが面倒そうに顎で扉を示すと同時に、本を持ったティナーシャが入ってきた。二人の注目を浴びて魔女は怪訝そうに首を捻る。

「何の話ですか?」

「この節操なし」

 部屋に来て早々覚えの無い批難をされて、魔女は顔を顰めた。

 しかしオスカーはそれを無視してラザルに「準備はよろしく頼む」と書類を渡している。追及する気も起きないのか、魔女は憎憎しげに小さく舌を出すと椅子に座った。分厚い魔法書をぱらぱらと開き始める。その耳にオスカーの驚いたような声が届いた。

「何だこれは」

 彼女が顔を上げて見ると、彼は次の書類を見つめて眉を寄せている。不思議そうに契約者を見やるティナーシャにラザルが説明してやった。

「南部の海で船が何隻も行方不明になってるらしいんですよ。原因が掴めないんですが、被害総額がすごいことになってるらしくて貴族や商人が連名で人の派遣を依頼してきたんです」

「海賊じゃないんですか?」

「少し前まではいたんですけどね。やっぱり解決を依頼されて、アルス将軍が討伐なさったんですよ」

「へー。じゃあ海魔かな」

「そんなものがいるのか?」


 オスカーは書類を置いて腕組みした。

 魔物の類を相手にするのは厄介である。それが遠い港の海上だとしたらなおさらだ。魔法士を同行させるべきかと考え出す彼に、ティナーシャは暢気に説明する。

「いますよ。でっかい魚とか、よく分からない形の生き物とか。海の生物は大きくなりやすいですからね。あとは普通の魔族かもしれません」

「よく分からない形の生き物ってなんだ」

「イソギンチャクのでっかいのとか……見たことありません?」

「俺は海自体、見たことないからな」

 横でラザルが「私も見た事ないです」と手をあげる。ファルサスは国土が広い為、城都に生まれた人間は一生海を見ないことも多い。そのことを知らなかったらしくティナーシャは驚きの声をあげた。

「ひょっとして泳げなかったりします?」

「泳げる」

「つまらないですね」

 ともすれば脱線していきそうな話を、オスカーは引き戻した。

「どういう面子なら対応できると思う?」

「腕にもよりますけどね。アルスとか混ぜれば、魔法士込みで十人ちょっとで何とかなるんじゃないでしょうか。あまり大きい生物だったらちょっと分かりません」

「土地勘もあるし、アルスに編成させるか……」

 決定を下しかけているオスカーをよそに、魔女は宙に浮かぶと書類を覗き込んだ。

「ニスレですか。懐かしい。ニスレって言えば……」

 そこまできてティナーシャは、何かを思いついたのか手を打った。小気味の良い音にオスカーは顔を上げる。

「どうした」

「それ、私が行きます」

「何だいきなり……」

「いいからいいから。きっちり解決してきますよ」

 急に機嫌がよくなった魔女に、オスカーは不審の目を送った。何を思いついたのか吐かせてやろうかとも思ったが、彼女が行けば一番被害が少なく確実に解決するであろうことも確かである。どこで妥協すべきか顎に指をかけて考え込んだオスカーは、ふともう一つのことを思い出した。

「いいだろう。行って来い。同行者は好きなやつを選んでいけ」

「ありがとうございます」

「一週間くらい行って来るといいぞ。ついでにゆっくり休んで来い」

「陛下……」

 オスカーが何を考えているのか分かったラザルは呆れた声を出した。ルストに会わせたくないのだ。変なところで大人気ない。

 しかしそんなことを知らない魔女は花のように笑う。

「誕生日までには帰ってきますよ」

 そうして彼女は契約者の髪を撫でると、ふっと執務室から転移して消えた。




 ※ ※ ※ ※




 魔女に同行するのはアルス、スズト、パミラ、レナートである。

 土地勘があるアルスは、まず共に行く人間としてスズトを選んだ。ティナーシャに怯む人間もまだ少なく無い中、スズトは彼女と親しいからだ。またパミラ、レナートは、所属はファルサスであるが、実際はティナーシャ個人に仕える魔法士である。他の魔法士たちが見たことが無い海に怖気づいたのに対し、彼らは躊躇無く同行を申し出た。


 五人は城の転移陣で南部の砦に移動し、そこから馬で南下するとニスレに到着する。三ヶ月前に海賊討伐をしたばかりのアルスを街の者たちは歓声を以って迎え、一同は街で一番の有力者であるブロギア侯の邸宅で歓待されることになった。

 客用の広間に通され、南部の名産品を振舞われながら待つことしばらく、現れたブロギアは、恐縮してアルスに会釈する。

「次から次にお手を煩わせて申し訳ない」

「いえ、船が行方不明になるとは由々しきことですので、きちんと調査解決させて頂きます」

 アルスは真面目くさって挨拶をした。今回の指揮を取るのはティナーシャだが、そのことは彼女が魔女であるということと共に伏せられている。ブロギアは、アルスの後ろにいる美しい女に目を瞠ったが、次にその人数の少なさに不安になったらしい。自分の私兵をつけると言い出したが、アルスはそれを断った。

「船と、それを動かせる人間だけお貸しください」

「それくらいは当然のことだが……平気なのですか?」

「平気な人間たちで来ておりますから」

 アルスが視線をやると、窓の外を見ていた魔女がにっこり笑って手を振った。



 ブロギアが仕事の為部屋を退出し五人だけになると、今回の基本的な作戦が練られることになった。テーブルについてお茶を飲みながらアルスは首を捻る。

「そもそも何が相手になるんだろう」

「魔族か海魔でしょうね。私は魔族の方が楽でいいですけど。海魔は見かけが嫌です。大抵ぬるぬるしてるし」

 そういう問題なのだろうか、と魔女を除いた四人は沈黙した。パミラが手を上げて質問する。

「クラーケンの可能性ってありますか?」

「うーん」

 魔女は眉を寄せた。クラーケンは海に棲む巨大な海魔として有名で、イカか蛸に似た姿をとっていることが多い。これが相手となればかなりの強敵になるだろう。

 しかし魔女は考えた末、軽くかぶりを振る。

「クラーケンってもっと北の沖にいるんですよね。召喚されたのでなきゃ、この辺には出ないはずです」

 そこにスズトが遠慮がちに手をあげた。

「あの、海の中にいるものって魔法が効くんですか?」

 魔法士の三人は顔を見合わせる。口を開いたのはレナートだった。

「やはり海上にいる場合よりは効きづらいと思う。完全に潜っていたらほとんど効かないだろうな。自分が海中に入ると詠唱も出来ないし、海上で戦うに越したことは無い」

 魔女とパミラが頷くのを見て、アルスは

「釣り上げるしかないか」

 と深く息をついた。



 翌日、船を借りる為港に案内された五人は、二十人程は乗り込める中くらいの大きさの船を借りることになった。ブロギアはもっとも大きな武装船を貸し出そうとしたのだが、ティナーシャが「沈んだらもったいない」と言ったのだ。

「それって沈む可能性があるってことですか」

 五人の船員の操船で問題の海域に向かう途中、スズトは青い顔で呟く。

「ないとは言えない。飛んで帰ればいいんですよ」

 軽く言うのは当の魔女だ。パミラとレナートがその横で苦笑する。


 ティナーシャは、執務室や自室などでは宙に浮いていることが多いが、実際には魔法で飛ぶのにはそれなりの構成や集中がいる。普通の魔法士ならば飛んでいると他の詠唱が出来ない者も多いのだ。

 幸いパミラとレナートは共に腕の立つ魔法士で、飛びながら戦うこともできるし、戦わなくていいのなら他の人間を伴って飛ぶことも出来るだろう。この面子ならば船を失っても対応出来るはずだ。

 魔女は暑いせいか、水に入ることを前提にしているのか、少年のような軽装をして髪を結っている。腰には一振りの細身の剣を佩いており、すらっとした立ち姿は意外にも船の上によく似合った。広がる海原を眺める彼女を、アルスは振り返って眺める。

 他の臣下たちがどうであるかは知らないが、アルス自身は時折彼女がファルサスにいることが当たり前に感じすぎて、魔女であることを忘れそうになる。正確には魔女である彼女が、いつか城からいなくなることが信じられない。

 だから彼女がクスクルに去った時にはかなり驚愕したことを覚えているし、戻ってきたことに安堵した。実際アルスは、オスカーが彼女以外を娶るところを想像できないのだ。

 だが未来のことは分からない。

 結果を受け入れるしかないし、いずれはそれに慣れるのだ。



 問題の海域へは港を出てから一時間ほどで到着した。遠く離れた陸地にはちょうど絶壁が見える。アルスは何の異常も窺えない周囲を見回した。

「さて、ティナーシャ嬢、どうしようか」

「襲われるのを待つのも暇ですし、偵察出します」

 ティナーシャはそう言うと小さく詠唱した。彼女の手の中に剣ほどの長さの、魚に似た生き物が現れる。よく見るとそれは生き物ではなく、薄ぼんやりと光る粘土をこねてつくったような物体だった。

 彼女はそれを船の縁から海に投じる。水の中に入るとそれは、まるで生きた魚のように水中に滑り込んだ。

「魔力を探しながら一周してきます。何かあったら私に伝わるはずです」

「それは便利。酒でも飲んで待ってるか」

「海に落ちた時に死にますよ」

 緊張感のない二人をよそに、船を動かす船員たちは青い顔をしている。ブロギアの命令とはいえ、今まで消えた船は十隻を越え、例外はない。今すぐ旋回させて逃げ帰りたい気持ちでいっぱいだった。


 天気はよく、海原の遥か遠くまで見通せる。強くは無いが追い風に恵まれて、船は海域の中ほどにまで達していた。アルスは周りと、遠くの陸地を確認する。

「この辺前にも来たな」

「海賊討伐ですか?」

「そうそう。この辺りで沈めたんだ」

「それが幽霊船になってたりして」

 そんな馬鹿な、と言いかけて、アルスは不意に風がやんでいるのに気づいた。

 海が凪いでいる。

 帆を操作していた船員が辺りをおどおどと見回しているのが見えた。縁から海を覗き込むと、少し前方で水中から泡が湧いているのに気づく。

 ティナーシャはそれを見て

「あ、ごめん」

 と言った。皆が振り返る。魔女は鮮やかな笑顔を見せた。

「やっぱりクラーケンでした」

 言葉にならない悲鳴が満ちる。

 次の瞬間海中から、太い柱ほどの触手が十本出現した。



 船を全方向から襲おうとした半透明の触手はしかし、見えない壁に遮られそこに張り付いた。ティナーシャが全体に結界を張ったのだ。

 だがほっと安堵したのもつかの間、触手は結界ごと船を海中にひきずりこもうとする。魔女は眉を跳ね上げた。

「これはまずい。あと十秒で一旦結界を解くので、追い払ってください」

 ティナーシャの言葉にアルスとスズトは剣を抜く。魔法士の二人も詠唱を開始した。魔女が数字を数え始める。

「……九! 十!」

 最後の宣言で結界が解かれた。

 クラーケンの足が、留めるものを失って甲板に押し寄せる。それをパミラとレナートがそれぞれ魔法で焼いた。船員を掴み取ろうとする足をスズトが受け、アルスが切り落とす。切り落とされた足は甲板をのたくり暴れた。レナートがそれを魔法で海にはじき出す。

 襲い掛かる足を焼きながら、ティナーシャは再度結界を張りなおした。思わぬ反撃を受け、クラーケンはその足を一旦海中に仕舞う。パミラは足が這った後のぬるぬるした甲板を見下ろして「生理的に嫌ですね……」と肩をすくめた。

 ほんの数十秒の邂逅は、非現実的過ぎて恐怖も沸かない。ただ異様な高揚だけが甲板に立ち込めている。アルスは動悸が激しくなっていることに気づくと、深呼吸した。

「クラーケンがいるということは召喚主がいるのか」

「おそらく。でも目的がさっぱり分かりませんよ」

「ティナーシャ嬢殺せるか?」

「もうちょっと海上に出てくれないと難しいですね。あとクラーケンてどこを潰せば死ぬのやら……」

 その時、船体が大きく揺れた。皆が体勢を崩して転びそうになる。

 滑りそうな魔女の腕を支えてアルスが船首を見ると、そこには三本の太い足が絡みつき結界ごと船を斜めに持ち上げていた。

「嘘だろ」

 どんどん持ち上がる船首に、皆が船尾の方に転がり落ちそうになる。アルスに捕まったまま魔女が叫んだ。

「パミラ! レナート! 空に! 船捨てますよ」

 二人の魔法士の詠唱がそれに応える。魔女の手がアルスを逆に掴んだ。

 足場がなくなる。

 間一髪で魔法によって空に逃れた一同は、クラーケンの足が船体を傾け、船ごと飲み込んでいくのを上空から見届ける羽目になった。

 ティナーシャは波打つ海面を呆れたように見下す。彼女は唖然とする周囲を振り返ると

「やっぱり大きい船じゃなくてよかった」

 と軽く呟いたのだった。



 クラーケンは沈めた船に獲物がいないことに気づいてか、あちこち探すように足をうごめかせていたが、やがて再び水中に姿を消した。

 上から俯瞰するとその大きさがよくわかる。足しか見ていないが全体は小さな村程あるかもしれない。

「どうしようか」

「追跡はしてるんで、何とかしましょう。とりあえず船員さんたちは港に返しますか」

 パミラは主人の命を受けて、空中に門を開くと船員たちをそこに押し込んだ。その間ティナーシャは腕組みをして水面を見下ろしながら考え事をしている。

 船員たちがいなくなると、魔女は口を開いた。

「どうもここ周辺に固定されてるみたいですね。そして命令を受けていないようです」

「放置されてるってことか?」

「いや、召喚主がここにいるんじゃないですかね」

 アルスは自分の顔を指差して怪訝な顔をした。他の三人を見回すが全員首を振る。魔女は苦笑すると、眼下を指差した。

「多分死んでます。アルスが沈めた海賊船の一員じゃないですか?」

 美しい彼女の顔を見返してアルスは呆然と目を瞠った。主人の言葉をレナートが補足する。

「召喚しただけで命令せずに死んだからここに囚われたということですか」

「おそらく。召喚の完成に時間がかかったのかは分かりませんが、アルスが討伐してる時じゃなくてよかったですね」

 事実をようやく把握したアルスは、自分がすんでのところでクラーケンの手を既に逃れていたのだと言う事実を知ってぞっとした。蛸だかイカだか分からないが、あんなものと戦って死ぬのは御免である。

「ティナーシャ様、どうなさいますか? 本体を叩くか、召喚紋を破壊するか」

 パミラの問いにティナーシャは唸った。

「どっちも水中ですね。どうしようかな」

 いずこともなく彷徨わせた視線がアルスを捕らえる。魔女はそれでも少し悩んだが、両手を合わせてアルスを拝むと

「餌になってください」

 と頼んだのだった。

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