第23話 夢の終わり 03



「アイティ、おいで」

 遥か遠くから聞こえる声。彼女はその声に呼ばれて目を開けた。長い石廊下の途中に立つ彼女は、無限に続くように思えるその先を見つめる。

「おいで、淋しかっただろう」

 声は背後から響いてくるようだった。懐かしい少年の声に彼女は微笑む。孤独に慣れて、それでも人の手の温かさに縋りたかったかつての記憶を彼女は辿った。自嘲とも寂寥ともつかないものが口元に漂う。

「アイティ」

 ―――― 名は人を定義する。

 呼ばれる名が自身になるのだ。

 だから、どんなに思い出の中で、優しくその名を呼ばれようとも 彼女はもう振り返らない。それは当の昔に死んだ子供の名前なのだから。


「さようなら、ラナク」

 彼女はただ前を見て歩き出す。

 その果てに何があるのか。終わりの先に何が続くのか。

 白い素足に伝わるひんやりとした石の感触は、彼女に何も語らなかった。



 目が覚めた時、彼女は自分が何処にいるか分からなかった。正確には分かったのだが理解できなかった。鈍りすぎて重い頭を振る。寝台の上で上半身を起こし、ぼんやり窓の外の青空を眺めていると、ふと扉が開く気配がした。彼女は視線を動かし、そこに立つ女を見る。

「パミラ……?」

「ティナーシャ様、お目覚めになられたんですか!」

 パミラは駆け寄ると、寝台の前に跪きティナーシャの手をとった。その温かさを確かめるように手の甲に自分の額をつける。

「一週間もお眠りになっていて……心配致しました」

「私、生きてるんですね」

「当たり前です!」

 何だか現実味が湧かない。夜着姿のティナーシャは足を床に下ろした。そろそろと立ち上がってみたが、体が弱っているのか上手く姿勢を保てない。よろめきそうになるのをのをパミラが支えた。

 魔女は礼を言って部屋を見回す。

「で、私は何でファルサスに……」

「色々大変だったんです。ともかくそんな調子ではいけません。まだお休みになられてください」

 二人がいるのはファルサス城にあるティナーシャの部屋だ。引き払ったはずの部屋は出て行った時と何ら変わらない。自分を押し戻すパミラに従って、ティナーシャは寝台の縁に腰掛けた。もう一人の魔法士の名を口にする。

「レナートは?」

「研究室です。呼びましょうか?」

「いえ、無事ならいいです」

 パミラが無事ならそうであろうとは思ったが、改めてティナーシャは安堵する。魔女は一息つくと自分の脈拍を取る女を見上げた。

「パミラ、お願いがあるんですが……」

「何でしょう」

「部屋の外に出たいので……入浴と着替えを手伝ってください」

 回復しきっていない主人のその要求に、苦い顔をしながらもパミラは渋々頷いた。



 入浴は残り僅かな体力を奪ってもいったが、同時に溜め込んでいたものを押し流してすっと意識が覚醒するような心地よさもあった。部屋に戻って魔法で髪を乾かすと、ティナーシャはパミラが持って来た裾の長いドレスを着る。

 足は弱っているが、魔法はいつも通り使える。これは飛ぶか転移をした方が早いかもしれない。そう思った時、部屋の扉が乱暴に開かれた。

「お前、そんな体で出歩くな」

「オスカー……」

 部屋に入ってくる彼と入れ違いに、パミラは礼をして部屋を出ると扉を閉めた。

 ティナーシャは魔法で宙を浮きながらオスカーの前に立つ。少し痩せた細い体を彼は子供のように抱き上げた。

「私、何で生きてるんですか」

「いきなりそれか。元気だったらこめかみ締めてるぞ」

「あれ本当に痛いんでやめてください」

 オスカーはティナーシャを抱き上げたまま寝台に運ぶと、そこに座らせた。自分は近くにあった椅子を引いて座る。

「俺はお前を殺す気はさらさらない。というか殺させるな、後味悪い」

「すみません」

「とりあえず他にも説教したいことは山ほどある」

「……すみません」

「半日くらいかかるから覚悟しとけ」

「…………」

 叱られる子供の顔で黙り込んでしまったティナーシャにオスカーは手を伸ばすと、黒絹の髪を指で梳いた。それは乾かしたばかりでまだほんのり温かい。

 魔女は彼の顔を見返す。深い青の両眼は真っ直ぐ彼女を見ていた。男の言葉とは裏腹に、愛しむような視線が彼女には注がれている。

 ティナーシャの胸に、言い様のない懐かしさが込み上げた。

「触れてもいいですか?」

「好きにしろ」

 ティナーシャは一旦浮かび上がると、彼の足の間に両膝をついて座った。男の首に両腕を回して寄りかかる。確かな温もりに、戻ってきたのだ、という実感が全身を満たした。このままここで眠ってしまいたい程安らかだ。


 彼女の頭を撫でながら、オスカーは「そういえば」と呟く。

「お前は俺の婚約者ということになってるから」

「何でだよ!!」

「そうでも言わんと連れて帰って来れなかったぞ。お前を殺せと言うやつも居たが、それ以上にあれだけの力を見せられて、お前を欲しがるやつも多かったんだ」

「私の意見を尊重しようよ!」

「まぁ折角だから、残り半年、しっかり奉公しろ」

 相変わらず強引な物言いだ。ティナーシャは体を離すと大げさに溜息をついてみせた。しかし顔が笑ってしまうのは如何ともし難い。彼女は長い睫毛を上げて男を見つめる。

「お望みのままに。私の契約者殿」

 もっともらしく頷く契約者に魔女はあどけなく微笑むと、もう一度彼を抱きしめてその耳に「ありがとう」と囁いた。



 オスカーは魔女の部屋を出ると、少し離れたところで控えていたパミラを手招きで呼び寄せた。彼女は臣下の礼儀をもって一礼すると、王に尋ねる。

「もうよろしいのですか?」

「ああ。あいつの無防備は久しぶりに見ると破壊力があってまずい。俺は仕事に戻るから、食事を持っていってやってくれ」

 そう言って立ち去ったファルサス国王を見送りながら、パミラは、本当にどういうご関係なのだろう……と首を傾げた。




 ※ ※ ※ ※




 魔女の身柄はファルサス預かりというところで落ち着いた。

 本当は魔女が目覚めれば、彼女を制限できるものは何もないということは皆が分かっていたことだ。だから選択として意味があったのは、彼女を殺すか殺さないか、しかない。

 最強の魔女を殺せるこんな機会は二度とこない、と強く主張する者も多かったが、人が消えた街が戻ったと明らかになると大勢は変わった。彼女が実質、戦争において民衆の被害を減らす為に立ち回ったことや、彼女自身が魔法大国トゥルダールの技術を持つ最後の一人であることに対し、魔女の殺害に反対する者の方が優勢になったのだ。

 オスカーがティナーシャを引き取れたのは旧知の間柄だったからということも勿論あるが、もう一つ重要視されたのは彼が魔女を殺せる唯一の人間だということだ。 彼の管理下に委ねるということが、今回の中心人物の一人であった魔女に対する諸国の妥協点ということだろう。


「投降したクスクルの魔法士たちはタァイーリが引き取ったんですが、その後クスクルに戻されました。ルスト王子が、かの国を魔法士のための自治領として不可侵を決めたらしいですよ」

「……意外」

 ティナーシャは、寝台の上で野菜のスープを口に運びながら話を聞いていたが、ルストの決定を聞いて思わず唖然とした。パミラは主人の反応に苦笑する。

「ティナーシャ様の説教が身に沁みたんじゃないですか。国民の中でも今回のことを機会に、魔法士迫害を問題とする声がいくつかあがったらしいんですよ。有力者の中にも、魔力を持って生まれた子供を国に殺された人とか居たそうですから」

「ああ……」


 タァイーリでは結局、最初に焼かれた村の住人とアスドラ平原での死者が、今回の戦争の主な犠牲者となった。しかし同時にもっと大きなものが、彼の国では終わりを告げたのかもしれない。それを正確に把握するにはまだまだこれからの年月が必要だろう。


 ティナーシャは自らが関わった歴史の流れにぼやけた感慨を抱く。空になった皿をパミラに返すと、気にかかっていた最後の一人の名を挙げた。

「トリスはどうしたか、知ってます?」

「行方は掴めてませんが……どこかでちゃんとやってますよ。きっと」

「そう」

 ―――― 全てを助けることはできない。

 そうすべきではないと、遥か昔に決めたのだ。 魔女として生きることを選んだ時、今、生くる人より死した者たちの為に生きようと思った時に。

 ただ悲しむことは自由だと、彼女は思う。それがたとえ偽善でも、自己満足であっても、自由は自由なのだ。

 ティナーシャは天蓋を見つめて嘆息する。

「何かこう……ずっとあった目的を達成して、ぽっくり逝きそうです」

「そういうご冗談はおやめください……」

 レナートと共に、表向きはファルサスの魔法士として引き取られたパミラは皿を片付けながら嫌な顔で返した。

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