第22話 夢の終わり 02
かつて滅びし国の景色は、ラナクに郷愁を呼び起こさなかった。それは長い眠りのせいで記憶や感情が断裂しているせいでもあるだろう。過去の風景は一枚薄布を隔てたように、彼に実感を呼び起こさない。ただ今触れている魔女の温かさだけがラナクにとって現実だった。
彼は息を整えると慎重に詠唱を紡ぎ始める。
「―――― 嘆きの海にたゆたいし沈黙。伸ばされる無数の手を我は選択す。朝でもなく夜でもなく。その目はどこにでもある」
ラナクはティナーシャから無尽蔵な魔力を借りて構成を生み、それらを糸のように縒り合わせていった。次々出来上がる小構成を更に他の構成に繋げ、巨大なものとしていく。既に座標を把握している五つの魔法湖を、法則を以って干渉し繋いでいった。広がる構成は魔法湖から更に魔力を吸い上げ、湖同士の同期を促す。
「我初めに生まれし湖に命ず。我は定義者なり。汝の現出を為させた名『憐憫』を以って命ず。夜明けに位置せよ」
―――― これが終わったら何をしようか。
ふとそんな想念がラナクの頭をかすめた。トゥルダールの土地に、彼の妻の為の館を建ててもいい。彼女が心安らかに暮らせるための場所を。
彼女は自分の生まれた祖国を愛していた。今もそれは変わらないだろう。だからこれからはここで平穏な暮らしをさせてやりたい。義務からも孤独からも彼女を自由にさせてやりたいのだ。
「我第二に生まれし湖に命ず。我は定義者なり。汝の現出を為させた名『嫉妬』を以って命ず。朝に位置せよ」
巨大な構成は大陸史上類を見ないものだ。術式にも細心の注意を要する。
だが苦労をするだけの意味はあるだろう。これが完成すれば大陸からは争いがなくなる。人は誰でも生きる権利をまっとうできるのだ。―――― そう思えば長い眠りの日々も、少しは意味があるような気がした。
「我第三に生まれし湖に命ず。我は定義者なり。汝の現出を為させた名『否定』を以って命ず。昼に位置せよ」
今こうして玉座に座していることに不満はない。
ただ少し悲しいことがあるとしたらそれは、かつて自分がどういう人間だったのか、よく思い出せないということだった。何を愛し、何を憎み、何故あのような行為に至ったのか分からない。同じ人間でありながら、夢の中で見たかのように自分のことが定かでなかった。
「我第四に生まれし湖に命ず。我は定義者なり。汝の現出を為させた名『憧憬』を以って命ず。黄昏に位置せよ」
過去を思う時浮かび上がるのは、ただ美しい少女の姿だ。彼女は彼の中で少し恥ずかしそうにはにかむ。その存在のことをどう思っていたのかは相変わらず思い出せないが、ただ特別なのだ、ということは分かった。今は魔女となった彼女。その存在は誰よりも鮮烈に見える。
「我最後に生まれし湖に命ず。我は定義者なり。汝の現出を為させた名『憎悪』を以って命ず。真夜中に位置せよ」
―――― 何故四百年も生き続けたのだろう。どうして死んでしまわなかったのだろう。
四百年前の自分が何を思って魔法の眠りについたのかは分からない。
ただ今の彼はそれを、彼女にもう一度会うためではなかったかと思うのだ。
穏かな感慨を持って、彼は触れている魔女を見下ろした。
彼女は、いつの間にかラナクをじっと見上げている。
闇色の瞳に挑むような光が浮かんだ。
ラナクはその目に思わず怯む。
何かの予感がした。
詠唱が途切れる。
ティナーシャは笑みを浮かべた。
その顔は、まるで知らない女のようだった。
花嫁が不意に立ち上がったのを見て、クスクルの魔法士たちはざわめいた。彼女は自分の肩からラナクの手をどけると、彼に向かい―――― 正確には彼の組んでいる構成に向かって、優美な仕草で手を差し伸べる。
「来い」
その言葉に応じて、巨大な構成がティナーシャに引き寄せられた。慌ててラナクはそれを自分に留めようと意識を集中する。目の前の魔女に驚愕の目を向けた。
「アイティ! 何するんだ」
ティナーシャはふっと息を吐くと辺りを見回した。懐かしむ目が滅びた国の残骸を眺める。
「長かった……」
美しい声が歌のように響いた。
ラナクは信じられない思いで彼の花嫁を凝視する。その彼へティナーシャは、見る者を魅了する、蕩けるような微笑を見せた。白い指が糸を紡ぐように軽く動く。ラナクが持つ構成がその動きに連動して揺れた。
「ずっと貴方を探していた……本当に会いたかった。会えた時は嬉しくて泣きそうだった」
魔女は愛おしむような目を男に向けた。その眼差しは心からの恋情に似て―――― しかし細い指は男の支配する構成を揺らし、引き寄せようとする。花弁のような唇からは震える熱情の声が響いた。
「本当に貴方が必要だった……。私が本当に欲しいもの……魔法湖の定義名を知るのは、術者である貴方しかいなかったのだから」
微笑が、その性格を変える。
どこまでも艶やかで残酷な、力持つ者の微笑みに。
彼女は深淵の瞳でラナクを捕らえる。
「四百年前に貴方が殺した民の、魔法湖に溶け合って縛られた彼らの魂を、ようやく解放できる」
澄んだ宣告。ラナクの顔に理解の色が浮かんだ。事態を掴めない周囲の人間たちは、固唾を呑んで二人のやりとりを見つめている。
魔女は白い両手を広げた。
「おいで」
女の腕に構成が吸い寄せられていく。ラナクが必死で留めようとする、その両の手の中から零れ落ちるように―――― 構成はついに完全に魔女の支配下に置かれた。
彼女は嫣然と微笑むとそれを組み替えようと魔力を注ぐ。魔法湖を支配するのではなく、昇華するための構成に。
ラナクは呆然としてその光景を見つめた。魂の底から、徐々に記憶が湧き上がって来る。怒りと憎悪が、夢の中の彼を塗り潰していく。
何故かつて彼女の腹を裂いたのか、彼は今、はっきりと思い出していた。
「アイティ、貴様……」
「私は今日この日のために死なないでいたんですよ。―――― さぁ、贖罪を始めましょう」
過去と現在を繋ぐ微笑は何処までも美しい。
闇色の双眸に見入りそうになったラナクは、だが我に返ると激昂した。
「させるか!」
彼は攻撃の為の魔法を組み上げる。しかしティナーシャは片手を前に上げ、放たれたそれを防いだ。構成を失った王は声を荒げる。
「この女を殺せ! ……いや殺しては不味い。無力化しろ! 腕や足など無くなっても構わん!!」
形相を変えたラナクから一歩後ろに跳んで距離を取りながら、魔女は笑った。
「久しぶりに見ましたよ、その表情。あの時と同じ顔ですね。ようやく目が覚めました?」
「ほざけ、小娘が!」
レナートとパミラが素早くティナーシャの両側につく。ティナーシャは彼らを一瞥すると、右手の指を鳴らした。魔女の周りに黒曜石が現れる。彼女が右手ですっと階段下の観客を指差すと、四十個の黒曜石は観客全体を取り囲むように転移し、そこに結界を張った。
「ああああ、やっぱり!」
パミラは頭を抱え、レナートは溜息をつく。本来その魔法具は、ティナーシャが詠唱中の自分を守る結界として構成を詰めたものである。しかし「観客」がいる以上、彼らの主君がそれを見捨てることはしないだろうということも二人にはよく分かっていた。
魔女は小声で両隣の二人に囁く。
「パミラ、レナート、いいからお逃げ」
しかし二人は、外周から打ち込まれた魔法を結界を張って弾きながら即答した。
「嫌です」
「お断りします」
そして彼らは、思い思いの詠唱を開始するラナクの側近たちを迎え撃つ。ラナク自身は魔力を消費したくないのか、少し離れたところに退いた。
レナートは無詠唱で空気の刃を生むと、まだ詠唱にかかっていた魔法士二人を薙ぐ。パミラがその側面に防御壁を張った。そこに不意に、強烈な黒い火炎が打ち込まれる。
パミラは全力で防御を強化したが、防ぎきれない熱が彼女を襲った。そのまま押されて数歩よろめく。彼女の視線の先には狂魔法士バルダロスが、喜色を湛えて立っていた。
「やはり裏切ったな! 面白い!」
バルダロスは再び黒い火炎をその手に灯すと、長い詠唱に入った魔女に向かって打ち出す。レナートが慌ててそれを防ごうとするが、彼自身への攻撃魔法が降り注ぎ、その場を動けない。
「ティナーシャ様!」
パミラは悲鳴を上げる。
しかし、膨れ上がった黒炎は魔女には達しなかった。
ティナーシャは少し困ったような目で、眼前にいる男を見上げている。
「いい加減俺を頼れ」
そこには唯一彼女を殺せる男が立っていた。
階段下をオスカーが確認すると、アルスがクスクルの兵士を切り伏せながら、上に向って走ってくるところだった。ドアンら他の魔法士たちは、結界の外に出てクスクルの魔法士たちへ応戦している。ナークは大きさを変え、空中で五体の魔族と戦い始めていた。
他国の人間の中には結界内で硬直している者も少なくない。だが事態を把握した数十人はみな素早く動き出していた。彼らの中には攻防の鍵となる魔女を守る為に結界の外で戦いを始める者や、石段を登って祭壇前に来ようとしている者もいる。
始まりつつある混戦の中、バルダロスは魔女の前に立つ男を狙って光の槍を放った。しかしそれはオスカーの結界にあたって四散する。
「なんだ!?」
驚愕するバルダロスをよそに彼はティナーシャを見た。花嫁姿の魔女は構成を組みなおしながら男を見返す。
―――― 彼が隣りに来ている。
そのことだけで不思議な安堵が彼女を満たした。
「どうして欲しい?」
男の問いに、ティナーシャは目を伏せると計算を巡らす。
詠唱にかかる時間はおよそ三十分。この状態ではそこまで持つかどうか分からない。持っても被害は大きいだろう。
だがこの場所は、紛れも無く彼女の国だった。
魔女は再びオスカーを見上げる。その闇色の瞳には、彼がよく知る光が浮かんでいた。
「十分ください」
「分かった。お前の望むようにしてやる」
オスカーは守るべき魔女を背にバルダロスに向き直る。狂魔法士は楽しそうに笑った。
「アカーシアの剣士か。まみえるのは初めてだ」
「初めてが最後だな」
言うなりオスカーは何の前触れも無く踏み込んだ。その足元を狙って炎で出来た鎌が繰り出される。避ければ彼の後ろで魔女を飲み込むつもりの炎を、オスカーは構成の要を見抜いて打ち砕いた。アカーシアの刃によって四散する炎がちりちりと石畳を焦がす。
―――― 守護結界はティナーシャと連動している。
攻撃を結界で弾くことが彼女にどういう影響を与えるのかは分からないが、これから何かをしようとしているのなら、余計な力を使わせたくなかった。
「どうした? 最後にするなら来ればいい」
バルダロスは言いながら、オスカーから距離を取って後ろに跳ぶ。
アカーシアが剣である以上、届かなければ怖くない。ましてや動けない魔女を守りながら戦うのだ。彼は自分が敗北するとは微塵も思わなかった。
男は次の構成を組もうと右手を上げる。自分の優位を信じて疑わない彼は、だが次の瞬間目を見開いた。
「来たぞ」
ありえない速度、ありえない距離。目前に鏡の如き白刃が煌く。
そうしてバルダロスは、己の甘さを改める暇もなく、防御結界ごとオスカーに首を斬り裂かれた。
派手に血飛沫を上げながら絶命した魔法士長に、周りの側近たちは驚愕の目を送った。ラナクは彼らの後ろで忌々しげに唇を噛む。
「魔族を召還しろ! こいつらを殺せ!」
王命を受けて外周にいる魔法士たち数十人が詠唱を始める。祭壇の前でも一人の魔法士が召喚の詠唱を開始した。しかしその体を、駆け上がってきたアルスが切り捨てる。パミラとレナートが応戦していることもあり、もともと祭壇周辺にいた側近たちは既に半数以上が無力化されていた。
だがその代わり、外周にいた魔法士たちがどんどん中央へ転移してくる。そしてその中にはまばらではあるが魔族も混じり始めていた。
「嘘よ! アエテルナ様が裏切るなんて!」
混戦の只中にあって、トリスは叫んだ。
彼女はティナーシャを攻撃することもできなければ、パミラたちのように守ることもできず、ただ立ち尽くしていた。少女は転移してくる魔法士たちに押しのけられ、後ろに下がる。
幼い夢が現実によって踏みにじられていく光景。やがて彼女は目に涙を滲ませながら、その場に背を向け走り去った。
メレディナは、ドアンとカーヴの結界を受けながら、外周に斬り込んでいた。眼前に迫る魔法の光球に思わず目を閉じるが、それは結界に弾かれる。 代わりに彼女の背後から小さな雷がクスクルの魔法士たちを打った。
メレディナは左に踏み込むと、その雷を防御した一人の腕を斬りおとす。絶叫をあげて倒れる男を避けて、彼女は更に剣を振るった。
「メレディナ! 進むの早い!」
後ろでドアンが怒鳴る。
メレディナは肩をすくめると、二歩後ろに下がって蜥蜴人が振り下ろす剣を受けた。金属音が混戦の中高く響く。彼女は三合を打ち合うと、鱗に覆われた胸に剣をつき立てた。
その剣を掴もうとする別の蜥蜴を、背後からメンサンの将軍が斬り捨てる。メレディナは剣を引くと会釈をした。それに返して将軍は軽く手を振る。
戦いに集中している時は、時間の感覚がない。やけに早く過ぎることもあれば、ちっとも進まないこともある。
押し寄せる魔族と切り結びながら、ルストは石段上にいる魔女を見上げた。彼女の白いドレスが遠目にもはっきりと見える。
思わず気を取られた、その隙をついて小さな槍の形をした魔力が彼の右肩をかすった。飛んで来た方向を見ると、まだ少年と言っていい魔法士が恐怖と憎悪を浮かべた表情で彼を睨んでいる。
―――― これがタァイーリの罪だ。
ルストは苦々しく思いながら少年に向かって間合いを詰めると、彼の放つ魔法を間近で避けた。剣を持たぬ方の肘をその腹に打ち込む。声もなく体を折って倒れる少年を、ルストは軽く支えてから地面に横たえた。考え込みたくなる意識を抑えて、今は顔を上げる。
そして彼は、打ち込んでくる新たな魔族の剣を受けるために、右手に握った剣を上げた。
有翼の魔族が急降下しながら魔女に爪を突きたてようとする。その体を魔法で焼きながら石段を登ったシルヴィアとクムは、詠唱する彼女の傍に駆け寄った。魔女は顔を上げ、二人の顔を認めて微笑む。
シルヴィアは変わらぬ彼女の姿に歓喜の声をあげたくなった。 が、そんなことをしている場合ではないので代わりに詠唱を叫ぶ。クムは応戦に前へ出るオスカーの代わりに、結界を張りながら魔女の前に立った。その耳に魔女の詠唱が聞こえる。
「……二重詠唱!?」
思わず上げた驚きの声に、周囲で戦っていた魔法士たちが振り返った。その驚愕の表情を見るだに彼らも知っているのだろう。
―――― 二重詠唱はトゥルダールと共に絶えて久しい魔法高等技術だ。
記録ではそれは、一つの詠唱に二つの構成を持たせることで同時に二つの魔法を行使すると言われている。別々に二つの魔法を唱える場合の数倍の構成力を要する、まさに魔法技術の極みだ。
「しかもこれは……」
クムは絶句する。傍に来ていたパミラが彼の後に続けた。
「トゥルダールの……王位継承……」
魔女はそれに応えるように、右手を前に差し伸べる。同時に彼女を中心に、祭壇周辺の石畳いっぱいに白く光る円環が現れた。戦火を逃れて空中に浮いていたラナクはそれを見て激昂する。
「アイティ! どこまで愚弄すれば気がすむ!?」
ティナーシャはそれには答えなかった。
円環の中を複雑な紋様が白い光を伴って描かれる。一時に位置する場所に大きな光が灯った。次いで二時に、三時に、次々と光が現れる。
光の現出は円環を一周して、最後に十二時の箇所に灯った。外周の石段からそれを見たドアンが呟く。
「十二体全部かよ……嘘だろ」
オスカーは魔族の胴を両断し、振り返ると魔女を見て笑った。
「もう十分経ったか? 何を見せてくれるんだ?」
他の者たちは皆、両陣共戦いながらも魔女の方を窺った。恐ろしいほどの魔力がそこに渦巻いている。魔女の魔女たる真髄を示す場。ここが歴史の転換点になると、誰もが本能から予感した。
ティナーシャは詠唱を中断すると声を上げる。それは混戦の中を美しく響いた。
「現出せよ! 古き契約によりトゥルダールに繋がれし精霊よ。我が名はティナーシャ・アス・メイヤー・ウル・アエテルナ・トゥルダール! 汝らの王として定義を宣言す……此処に成れ!」
白い光が空間に満ちる。
あまりの眩しさに全員が視界を失う。打ち寄せる力の奔流。砂混じりの風が顔を叩く。
そしてそれが過ぎ去った時―――― そこにはトゥルダールに伝わる十二の精霊が出現していた。
精霊の正体は、前にドアンがメレディナに言ったように上位魔族である。
彼らは遥か遠い昔に契約によってトゥルダールに縛られた存在だ。そして上位魔族のほぼ全てがそうであるように、彼らは全員が人間の姿を取っていた。
「ひっさしぶりの人間界だ」
「そう? まだ眠り足りないけど……」
「というか国が滅びてるぞ、おい」
「人間の作るものなんて脆いからね」
口々に勝手な雑談を始める精霊たちに、周囲の人間は絶句する。老人の姿をとった者、若い男女に見える者、子供の姿をとったものなどその外見は雑多だ。ただ人ならざる真紅の髪や超然とした威圧感が、彼らの真の姿を暗黙のうちに示していた。
放っておけばいつまでも続きそうな彼らの話を遮ったのは、魔女の一言である。
「命ず……」
その声に、全ての精霊が同時に膝を折った。十二時の位置にいた白髪の老人が厳かに口を開く。
「我らが主人よ……なんなりとご命令を」
「敵を殲滅せよ。戦意の無い者は放置して構わん。可能なら殺すな」
「承りました」
十二体の精霊は立ち上がる。その中には目を閉じたままの者や、あからさまに、にやにやと笑っている者もいた。若い男の姿をした精霊が、旧知であったのかティナーシャに向かって揶揄の声をかける。
「お嬢ちゃんは大人になっても甘いなぁ」
「さっさと行け」
追い払うように手を振る魔女の、その声を切っ掛けに全員が散る。
次の瞬間、召喚されていた百近い魔族のほとんどが消し飛んだ。
※ ※ ※ ※
精霊の出現はクスクルの魔法士たちの戦意を失わせるに充分なものだった。彼らは混戦の中次々と投降、或いは逃走し、戦闘は縮小していく。
そんな中、かつて自分が滅ぼした国の遺跡を間を縫って、ラナクは息を切らしながら逃げていた。喧騒が背後に遠ざかる。ティナーシャを触媒として詠唱していた魔法の反動か、或いは四百年の眠りが肉体を蝕んでいたのか、今の彼は魔力を集中することがほとんどできなくなっていた。
「……アイティ……アエテルナ……」
ただ一人の少女の名を彼は呼び続ける。そこに憎しみがあるのか、それとも違うのか今は分からない。かの名を呼ぶことが、自分をこの世に繋ぎとめる唯一の方法であるかのようにラナクは呟き続けた。額を落ちる汗が乾いた砂の中へ消えていく。
その時果てのない荒野を行く彼の周囲が、不意に翳った。空を仰ぐと真上にドラゴンが飛んでいる。ドラゴンは彼を確認すると高度を下げた。その背から一人の男が飛び降りる。
白く輝く剣身。行く手を遮るその男を見て、ラナクは自分の終わりを知った。
※ ※ ※ ※
セザルの東部に住む薪売りの少年は、ふと不思議な感覚を覚えて東の空を見上げた。
東国境沿いにある森には、かつて邪神とその崇拝者が村を作っていたという伝説があるが、四百年前空から落ちてきた魔法がその村を跡形も無く消し去ったのだという。―――― その後村の跡地は「魔法湖」とやらになった。
何となくそちらの方角を眺めた少年は、不意に空が明るく光ったのを見て目を瞠る。気のせいかと思ったのは一瞬、たちまち森の中から白い光が広がると、ゆらりと空へ立ち昇り始めた。
不可思議な、けれど美しい光景。
まるで神の存在を信じさせるようなその有様に、少年は息を飲んだ。柔らかく温かい空気が風もなく一帯に満ちていく。彼は次第に薄らいでいく光の外縁を、魅入られたかのように注視した。
やがて、ゆっくりと舞い上がっていった光は全て染み込むように宙に消える。
残るものは何もない。
ただいつも通りの空が広がるそこを、少年は呆然と立ったまま見つめていた。
※ ※ ※ ※
長い詠唱を終えた魔女は、戦いの終わった周囲を感情を消した目で眺めた。
血と、肉の焼ける匂いが辺りに漂う。黒焦げになった死体や、伏して動かない幾人もの背中を彼女はじっと見つめた。耳にこびりつく誰かの断末魔が、まだ脳裏で反響している。
―――― 泣くことは容易い。
だがそれはしたくなかった。たちこめる死の全ては、はなから彼女が負うべきものなのだ。
戦いに生き残った者たちは、魔女を不思議な高揚を伴った目で見つめたが、結界内に残っていた人間たちは、恐怖に満ちた目で強大すぎる魔女を睨んだ。その敵意から主人を庇うように、パミラとレナートが前に立ちふさがる。
満身創痍の二人に「もういいのだ」と言おうとして魔女は顔を上げた。その漆黒の目が、戻ってきたナークから下りるオスカーを見つける。真っ直ぐこちらに歩いてくる彼をティナーシャは無言で待った。
途中でガンドナの将軍がオスカーを引き止める。
「アカーシアの剣士として、何をすべきかお分かりですね」
それを聞いた周囲に緊張が走った。彼に魔女討伐の依頼が出されていたのは、ここに居る人間たちには周知のことだったのだ。
オスカーは軽く頷くと、魔女に向かって歩を進めた。 敵意をむき出しにするパミラとレナートの前に立つ。主人を守って構成を組もうとする二人を、しかし後ろから魔女の声が遮った。
「二人ともありがとう。彼を通してください」
主人の命に、二人は躊躇いながらも道を空ける。その間を通ってオスカーは再びティナーシャの眼前に立った。
彼女は目を閉じて微笑む。
魔力を使い果たし、立っているのもやっとなのだ。
でも最後まで立っていたかった。そして笑っているつもりだった。
魔法湖が消え、ラナクが死に、そして自分が死ぬ。
トゥルダールの亡霊はこれで消える。違えられた運命は四百年の時を経て元に戻るのだ。
ティナーシャは、口付けを待つように僅かに顔を上げてアカーシアが彼女を貫くのを待った。
目を閉じた彼女の顔に、オスカーは手を伸ばした。滑らかな頬に触れる。
「ルクレツィアの術を解いた時、俺が言ったことを覚えているか?」
返事はない。
アカーシアの刃を、彼は白い折れそうな首にそっと当てる。
次の瞬間、彼女の体はオスカーの腕の中に崩れ落ちた。
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