第20話 感情の形 03



 月が空の真上に皓々と光る真夜中、パミラは主人の部屋に入ってすぐ、長距離転移の構成を組もうとしていたティナーシャを見つけ、声をかけた。

「アエテルナ様、どちらに?」

 部屋の中央に立っていた魔女は、彼女の問いにびくっとして振り返る。

「パミラか。驚かさないでくださいよ。あとその呼び方も」

「失礼しました。ティナーシャ様」

 ティナーシャは悪戯が見つかった子供のような目で頭を掻いた。

 この魔女が、「王の花嫁」として振舞っている性格とは全く異なった本質を持っていると知っているのは、今のところパミラだけである。世話係として付けられてから数日、何かを隠していると思しき魔女を、パミラは二人だけの時に問い詰めて問い詰めて忠誠を誓い、それを繰り返してついに信用を勝ち取ったのだ。

『何があっても味方です。信用できないのなら斬り捨ててください』と訴えるパミラに、魔女は苦笑すると『分かったから……とりあえず二人の時はアエテルナと呼ばないでください』と前より丁寧な口調で返したのだ。そんなところに、彼女の本来の性格が表れている気がして、パミラは嬉しくなる。


 とは言え、ただ喜んでいられるわけでもない。ティナーシャの力は確かに強大だが、彼女は一人しかおらず、そしてこの国においてあまりにも孤独だ。せめてもう少し信用できる者が欲しい、パミラは口惜しくもそう思う。

 或いはあのレナートという男は、主人の本当の支えになってくれるかもしれない。あまり期待をしすぎるのもよくないが、他に人がいないのだ。

 そんなパミラの煩悶をよそに、ティナーシャは再び中断していた構成を組み始めた。

「ちょっと出かけてきます。誰か来たら誤魔化しといてください」

「え、あの」

 行き先を聞こうとパミラは慌てて口を開いたが、一瞬遅く、魔女の姿は綺麗に部屋から消え失せる。

「まったく あの方は……!」

 その呟きを聞く者は誰も居ない。月が青白く空の彼方で沈黙していた。




 ※ ※ ※ ※




 露台から見る月は赤かった。

 まるで血で染め上げたようなそれを、タァイーリの王太子ルストは皮肉な思いで見上げる。後ろで一つに束ねた濃い灰色の髪が背に長い影を落とした。

 ―――― 一万人近い兵を亡くした。 しかも自分の判断が甘かったせいで。

 どう言い繕おうともそれが真実だ。溜息にならない苦渋を以って、彼は月を仰ぐ。


 タァイーリの魔法士迫害の歴史は長い。それは千年以上も続く血塗られた歴史であり、唯一神イリティルディアへの信仰の歴史でもある。厳しい弾圧に対し、魔法士たちの蜂起は過去幾度となく起きていたが、それらは全てタァイーリの王国軍によって鎮圧されてきた。

 クスクルが独立した時もだから、彼は長続きするわけがないと思ったのだ。単に父王の甘さが元凶なのだと。

 しかしそう思ってルストが強引に出させた軍は壊滅した。侮らずにもっと多くの軍を編成すればよかったと後悔し、そして自身で指揮に立てばよかったとも思ったが、もう遅い。一週間後にはファルサス、セザル、ガンドナ、メンサンの四大国軍がタァイーリの城都に到着する。援軍を呼んだ父王を批判した以上、ルストはそれまでになんとしても何らかの結果を出したかった。


 ―――― やはり自分の指揮の下、もう一度軍を編成するしかない。

 明朝、将軍たちを集めようと決めて彼が室内に戻ろうとした時、けれど見上げた視線の先、月下の空がひずんだ。ルストは反射的に抜剣する。あのひずみは魔法士が長距離転移をしてくる際に現れるものだ。彼は今までにそれを何度か見たことがあった。

 その時はいずれも魔法士が姿を現した瞬間に斬り捨てることが出来た。しかし今は手の届かない空中である。ルストは弓を持っていればよかった、と小さく舌打した。


 空間のひずみが広がる。

 次の瞬間そこには―――― 魔女が出現していた。

 その女がタァイーリの街を襲った魔女であることはすぐ分かった。件の魔女は目撃者の前に姿を晒し、自分は魔女であると名乗ったのだ。その報告通りの髪の色、瞳の色。だが美しさは想像を遥かに越えたものだった。月光を人の形に成したかのような女、神の意に背いて在る者がどうしてこのような造作を持っているのか、彼には答が見つからない。

 長い睫毛がゆっくりと動き、伏せられていた目がルストを射抜いた。

 何処までも落ちていくような闇。深淵がそこにはある。

 ルストは彼女のあまりの存在の鮮烈さに、息が止まるかと思った。たった一瞥、それだけで魅入られた。

 魔女は紅く小さな唇を開く。

「ルスト王子?」

 声は冷水のように澄んでいた。彼は咄嗟に返事が出来ない。数瞬の間をおいてようやく、乾いた口が僅かに動いた。

「何の用だ」

 彼女は宙に浮いたまま簡潔に用件を返す。

「クスクルへのこれ以上の手出しは無用。軍を控えてもらいたい」

「ほざくな厚かましい。何が狙いだ」

 あからさまな侮蔑と敵意の言葉に、魔女は小さく溜息をついたように見えた。白い指をルストに向けて指す。

「あと二週間で全てが終わる。援軍も出来ればそれまで進軍させないで欲しい」


 その言葉をどう捉えるべきか、ルストは迷った。

 時間稼ぎか、それとも別の意味があるのか。彼の視界の中の魔女は、無表情で彼を見返している。黒い薄絹のドレスが風に揺られた。彼女をもっと近くで見たいという欲求が頭をもたげる。細い腕に触れてみたくなる。

「物を頼む気ならここまで下りて来い。魔法士風情が」

 魔女は唇を片端だけ上げて、酷薄な笑みを浮かべた。

「魔法士風情? 貴方たちのその態度が今日を招いたと何故分からない?」

 ルストはその笑みに戦慄するような恐怖と高揚を覚えた。人ならざる手によって底無しの淵に押しやられる自分を連想する。黙すれば敗北を認めたことになりそうで、彼は嘲りの微笑を作って彼女に返した。

「魔法士は神の世界を私欲で乱す。その力は罪悪だ。下りて来い。そうすれば話を聞いてやる」

 彼は、魔女がその命令を聞くとは思っていなかった。しかし彼女はすっと高度を下げると、彼と同じ目の高さ、しかし手の届かぬ空中に浮く。そうして正面から見る彼女は纏っている威圧感が不思議な程に小柄な体つきだった。抱き寄せれば簡単に腕の中に収まりそうな華奢な肢体を、ルストは見つめる。

 魔女は少しだけ相好を崩して苦笑した。

「貴方は私より大分背が高いな。その分私より融通がきくこともあるだろう。しかしそれをもとに私が貴方を羨み、排斥しようとするのは滑稽と思わないか? 神の名に拠って異能を狩るのは人の弱さだ」


 女の貌は、月の作る翳のせいかひどく悲しげなものに見えた。闇色の目が夜の海のように波打つ。ルストは「詭弁を」とだけ返したが、出せた声は弱く、心は揺らされていた。

 柔らかな風が吹く。庭の木々がさわさわと音を立てて揺れる。他には何もない。魔女はしばらく彼を見つめていたが 「忠告はした」と言うと両手を広げた。転移をするつもりなのだ、と悟ったルストは思わず叫ぶ。

「援軍を留めて欲しいと思うなら、明日もう一度頼みに来い! 俺のところに! でなければお前の要求は聞かんぞ」

 答えは得られなかった。

 魔女は詠唱もなく構成を生むと、その場からかき消える。存在が幻であったかのように、ただそこには風が通っていく。

 ルストは魂を捕らえる女の影に、しばらく露台から動けなかった。そして彼にはもう少なくとも、明日自軍を集める気はなくなっていたのだ。




 ※ ※ ※ ※




 ラナクは玉座に深く座り、気だるそうに天井を見上げていた。何の画も描かれていない白い石の向こうに、彼は夜空を見る。

「月が欠けて行くな。あと三日だね」

「同期の準備は全て完了しました」

 玉座の前に跪く魔法士の報告に、彼は頷く。

「これで皆の苦しみも消える。住み良い世界になるね」

 ふっと息を吐いて王は目を閉じる。機嫌がよい主君の言葉に、傍に控えていた別の魔法士が遠慮がちに声をかけた。

「本当にこのようなことが実現するのでしょうか……」

「アイティがいる。きっと上手くいくよ」

 安心させるように微笑みながら、ラナクは心の中で呟く。

 今度こそ失敗はしない……と。



 そのティナーシャはレナートを伴って王宮の廊下を歩いていた。魔法着姿の彼は、美しい主人から渡された走り書きに目を通す。

「黒曜石を四十個でいいんですね」

「お願いします。出来るだけ歪みがない、色の濃いものを」

「分かりました。今日明日中にはご用意します」

「貴方も念のため自分の防御陣を用意してくださいね」

 ティナーシャの言葉にレナートはただ笑って答えなかった。自暴自棄であるわけではないが、彼にとって優先すべきは自分よりも主人だ。まるで押しかけたように忠誠を誓ったにもかかわらず、笑ってそれを受け入れてくれた彼女には何としても報いるつもりだった。

 密やかに決意を固くするレナートの耳に、その時柱の影から皮肉げな声が聞こえる。

「何のご相談ですか?」

 現れた人物を見て、レナートは苦い顔をしそうになるのを何とか堪えた。

 そこにいたのは、魔法士長であるバルダロスだったのだ。


 ティナーシャはかつてクスクルの王宮に来るなり、気分を損ねたという理由で一人の魔法士を追放させている。その男の名はカガルと言ったが、それ以来他の魔法士は彼女の不興を恐れてあえて接触を避けていた。

 しかしバルダロスだけは事あるごとにティナーシャに絡んでくる。どこまで聞かれたのかレナートは気をもんだが、彼の主人は平然としていた。細い首を軽く傾げて返す。

「首飾りを作ろうと思って。石を頼んでいる」

「首飾りですか……確かに黒曜石は貴女の髪や瞳によく合うでしょう。ですが花嫁様はもう少し別の色がよろしいのでは? 例えば真珠の白や……柘榴石の赤など」

「花嫁に赤もどうかと思うが」

 バルダロスの前を通り過ぎようとする彼女に、なおも男は食い下がって前に立った。彼は元々細い目を更に細める。それは爬虫類が獲物を見る目に似ていた。

「赤も似合うと思いますよ。貴女の血の色に似合う。その美しい肢体の中にどんな艶やかな内腑が隠されているのか実に興味があります」

「ラナクに聞け」

 痛烈な皮肉はしかし、その場の誰にも意味が伝わらなかった。バルダロスは愉悦の窺える笑いを浮かべると一歩退いて道を空ける。それを薄気味悪く思いながら、レナートは魔女を庇うように男の視線を自分の体で遮って歩き出した。




 ※ ※ ※ ※




 タァイーリは結局、アスドラ平原での大敗の後、クスクルへの進軍を見合わせていた。軍だけは編成されていたが、城都に留め置かれたままである。

 城都にはそれに加えてタァイーリの要請による四大国の軍が集まり始めていた。タァイーリの城に入城したオスカーは、到着から四日、未だのらりくらりと作戦を重ねるばかりで進軍を始めない一同に苛立ちを溜めつつある。

 その一番の原因はタァイーリで、軍についての主な権限を握っている王子ルストがとにかく慎重に、と繰り返し主張するので中々話が定まらない。自分たちで呼んだくせにどういうことだ、といい加減言いたくなるくらいだ。

 それだけならまだしも、毎日のようにルストの妹のチェチーリアに付きまとわれ、彼の忍耐力は限界に達しそうだった。


「こんなところまでいらして、どういうおつもりです」

「貴方様に会いたかったからでは駄目ですか?」

 嫣然と笑う彼女を見ているだけで頭痛がしてくる。オスカーはその目に皮肉をこめて彼女を見返した。

 場所はタァイーリの城内に与えられた彼の客室である。日も沈み、空は彼の目の色と同じ仄かに明るい夜空になっていた。この女を通したやつは後で説教だ、と思いながら彼は溜息をかみ殺す。

 あからさまに迷惑に思っている態度が伝わったのか、チェチーリアは眉を軽くあげると、対面の椅子を立ち上がって彼のすぐ横に立った。肘掛に座り彼に寄りかかりながら、毒々しくも紅い唇を男の耳に寄せ囁く。

「あまりにつれないと私にも考えというものがございます」

「ほう、どのような?」

「貴方がファルサスでお連れになっていた、あの魔法士の女。あれが青き月の魔女だったのでしょう? いつかは誰かが気づくかもしれませんが、今私がそのことを触れ回れば、少しまずいのではないのかしら」

 試すような女の視線に、オスカーは口だけで笑みを形作りながら考えを巡らせた。


 ―――― 確かにいずれは気づかれるかもしれない。

 しかしこの女が今それに気づいたのは何故か。タァイーリに伝わった目撃情報は黒髪黒目の美しい女というものだけだったはずである。ティナーシャのように両方とも深い黒の人間は珍しいが、それとてまったく居ないわけではない。わずかな目撃情報が即、ファルサスの魔法士に繋げて考えられるとは思えなかった。


「どうです? 少しは効きました?」

 チェチーリアはその目に、自分が上位に立ったと疑わない悦びを湛えて彼を見つめる。そのまま男の首に両腕を回ししなだれかかった。むせ返るような甘い香りが鼻腔をくすぐる。それは男を誘う香りだ。オスカーは彼女の細い顎を手で捕らえると、顔を寄せた。女の唇に自分のそれを重ねる。

 魂を蕩けさすような長い口付けを、チェチーリアは勝利に陶然としながら受け入れた。顔を離した男が耳元で囁く。低い響きに全身が震えた。

「何故そう思われるのです。よく似た女かもしれない」

「そんな言い逃れはできませんわ……。私、あの女を見ましたもの。間違うわけがない」

 女の白い首筋に指を滑らせる。そこに口付けながらオスカーは更に問うた。

「何処で? とても信じられませんね」

 チェチーリアは声を上げて笑った。

「あの妖女のことがそんなに気にかかりますの?  男を虜にする魔法でも使っているのかしら……? あの女は毎夜、お兄様のところに来ているのですよ。私に見られているとも知らずに、とんだ売女だわ」

 その言葉に、オスカーは危うく触れていたチェチーリアの首を捻り潰しそうになってしまった。何とか自制すると、彼女を押しのけながら立ち上がる。呆然とする女の顎を掴んで上を向かせると、彼は甘さの欠片もない目で彼女を見下ろした。

「ルスト王子の部屋を教えて頂こう」

 有無を言わさぬ力がそこにはあった。

 チェチーリアはこの時ようやく、自分の敗北を悟ったのである。




 明日また来い、と言って本当に来るとは微塵も思っていなかった。

 しかし魔女は律儀にもやってきた。同じ月の下、決して手の届かぬ距離に浮かんで。

 彼女は来る度に、人を差別することの愚かさをルストに説いた。それはまわりくどい比喩の時もあれば、直接的で実に痛いところをついてくることもあった。見下すわけでもなく、懇願するわけでもなく、ただ淡々と彼女は言を紡ぐ。長居はしない。問答が終わると忽然と姿を消す。

 しかしルストはその時間が終わることが余りにも惜しくて、毎夜、明日来なければ軍を出すと言ってしまうのだ。

 また逢いたい、話を聞きたいと素直に言えればどんなによいだろう。しかし魔女は敵国の人間で、忌むべき魔法士で、その言葉はタァイーリの歴史に反するもので、ルストはどうしてもそこを踏み越えることが出来なかった。

 ただそれでも、彼は既に揺らいでしまっている。それが彼女の存在のせいなのか、言葉自体のせいなのかは分からない。だが繰り返しその言葉を聞いているうちに、何故魔法士を殺さなければならないのか、いつの間にか彼にはよく分からなくなってきていた。


 魔女が期限を切った二週間まで、あと三日。

 それまで軍を引き止めることができれば、何かが変わるのだろうか。

 ルストは露台に出て夜空を見上げる。その時部屋の扉が叩かれた。

「誰だ」

「……お兄様……私です」

 聞き覚えのある声は、彼のただ一人の妹の声だ。ルストは遅い時間の訪問を不審に思いながらも、扉の前に戻るとそれを開けた。

 そして驚愕に固まる。

 蒼ざめた妹の後ろには、小さな赤いドラゴンを肩に乗せ、剣を携えた若きファルサス国王が立っていたのだ。

「……何の御用でしょう……」

「魔女討伐を依頼されたのは貴国では?」

 挑発的な目。告げられた意図に全身が凍る。思わず硬直したルストの横をすり抜けてオスカーは部屋の中に入った。まっすぐ露台に向かう彼を、ルストは慌てて追う。自分から注意が離れたのを見て、チェチーリアは素早くその場を逃げ去った。

「お待ちください。何のことでしょう」

「とぼけると立場が悪くなりますよ」

 オスカーは冷淡に返すとアカーシアを抜いた。その剣身が月の光を反射して白く輝く。魔法士を殺す為の剣。タァイーリが喉から手が出るほど欲しかった剣だ。

 しかしルストにとって、この剣の存在が今までこれほど呪わしいと思ったことはない。天敵たる彼に魔女を会わせてはいけない。でもそれをどう彼女に伝えればいいのか。

 逡巡するルストをよそに、オスカーは空を見上げた。

 その空間にひずみが生まれる。

「来るな!」

 ルストの叫びが響いた。

 オスカーは魔女の名を呼ぼうと口を開く。

 だが、次の瞬間そこに転移してきたのは、くすんだ金髪の見知らぬ女だった。



「毎晩何処に行かれてるのかと思ったら、そんなことなさってたんですか!?」

「そうなんですよね……」

 呆れるパミラの前で、テーブルの前に座る魔女はがっくり肩を落とした。ここしばらく問答を重ねている相手についてぼやく。

「そんなに頭が悪い人には見えないんですけどね。物分りが悪くて……いつも分からないからまた明日って言うし。やっぱり刷り込まれた価値観を変えさせるのは難しいですね」

 参った参った、と呟きながら自分の肩を叩く主人に、パミラは言い様のない疲労感に襲われて盛大に溜息をついた。

「……そんな男に付き合う必要ありませんわ。押しに弱いのも大概になさってください」

「すみません……」


 ティナーシャは申し訳なさそうに頭を下げると、テーブルに広げた黒曜石の粒をとりあげた。横ではレナートが苦笑しながらそれを磨いている。

 一方パミラは腰に両手を当てて、一人憤慨していた。タァイーリの王子が彼女に惹かれていることなど話を聞いただけですぐ分かった。気づいてないのは当の魔女くらいだろう。まったくどの面下げて彼女の大事な主を呼びつけているのだ、と言ってやりたい。主人は忙しいのだ。馬鹿に関わっている時間はない。

 しかしその主は黒曜石を手の中で弄びながらぽつりと呟く。

「でも、彼の態度が軟化すれば、将来的に絶対、魔法士にとってよい結果を生むと思うんですよね。魔法士は血筋によらず生まれ続けるものですし……。タァイーリがその性質を変えない限り、悲劇はなくなりません」

 溜息混じりの慨嘆にパミラとレナートは主人の意図を理解し、その思いに胸が熱くなった。


 魔法士が血によってのみ生まれるのなら、タァイーリの迫害の歴史はとうに終わっていただろう。差別のない他国に一族ごと移住してしまえばいいのだ。

 しかし魔力の有無は血だけで決されるわけではない。まったく魔法を使えない親からも魔力を持った子は生まれるのだ。そしてそれら子供たちのうち五割は、魔法によって力を制御する術を学ばねば自分や周囲を傷つけることとなる。悲劇の萌芽は常にどこにでも存在しているのだ。


 パミラは苦笑すると、優しい目で主人を見つめた。

「ともかく、今夜はティナーシャ様は魔法具に専念なさってください。もう日もないことですし、タァイーリの王子は、私が行ってびしっと断って参ります。座標をお教えください」

「断るって何を……?」

「……」

 主人の鈍感さに若干呆れながらも、パミラは転移座標を彼女から聞きだすことに成功した。魔女は心配そうに構成を組むパミラを眺める。

「貴女に何かあったら私も行きますからね」

「心配ご無用。レナート! ちゃんとティナーシャ様を見てなさいよ」

「言われなくても」

 そして彼女はタァイーリの王宮に転移した。


 空中から見下ろした先にいるのは二人の男。そのうち片方の男の持つ剣は、本で見たことがあった。素早くその意味を理解し、パミラは激昂する。

「おのれ、謀ったな!」

 彼女は両手を前にそろえる。

 そこに強い光が生まれた。



 転移してきた女はアカーシアを認めると激怒した。その手から光が打ち出される。オスカーは舌打すると、愛剣を一閃し放たれた構成を砕いた。肩の上のドラゴンに命じる。

「ナーク! 捕らえろ!」

 命令に応じてドラゴンが大きさを変える。飛び上がりながら小屋ほどの大きさに変じたナークは鋭い爪を女に伸ばした。女は空をよろめきながらも短い詠唱でそれを防ぐ。

 その間にオスカーは女の足を狙って短剣を投擲した。痛みで集中が乱れれば、大概の魔法士は飛べなくなるはずだ。

 しかし女はそれも魔法で相殺する。かなり腕が立つ魔法士だ。だがその一瞬の隙を縫って、ナークが大きな翼で彼女を打った。

 苦痛の声をもらしながら踏みとどまる女に、ドラゴンは再び爪を伸ばす。大きな鉤爪が彼女を掴もうとした時、けれど両者の間にひずみが生まれた。刹那で空中に新たな女が転移してくる。彼女は防御壁を張ってドラゴンの爪を弾くと

「ナーク!?」

 と素っ頓狂な声を上げた。

 漆黒の長い髪が宙に揺らぐ。

 華奢な肢体が月の下に白く浮かび上がった。

 彼女はゆっくりと顔を露台に向ける。その目が一人の男を捕らえた。

 魔女は呆然と男の名前を言葉に乗せる。

「オスカー……」

「来い」

 彼は不機嫌そうに手を伸ばした。



 彼がタァイーリ城に来ていることは知っていた。

 しかしそれでも会うことはないとたかをくくっていたのだ。或いはこんな風に会う事をどこかで期待していたのだろうか。

 ティナーシャは自失して、かつての契約者を見つめる。彼の青い目には彼女を捕らえる力があった。当然のようにその腕の中に収まっていた頃の記憶が脳裏をよぎる。そう昔でないはずのことが、今はひどく懐かしい。

 魔女は唇をわななかせて―――― このまま何もなければ、そうして男の手を取ったかもしれない。だがその時、もう一人の男の声が場の空白を打ち破った。

「逃げろ!」

 ルストは自分の剣をとると、オスカーに斬りかかった。オスカーはそれを難なくアカーシアで受ける。

 動かないティナーシャをの肩をパミラが引いた。

「ティナーシャ様、行きますよ!」

 パミラが空を見上げると、空中に転移陣が浮かび上がった。個人が転送する為の構成ではない、多人数を運ぶ為の門が開かれる。そこからレナートが顔を出した。

「長くは持ちません! お早く!」

 パミラはティナーシャの腕を引いて上昇する。ナークは前の主人の出現に戸惑い、新しい命令を求めるようにオスカーを見た。そのオスカーは、ルストの剣を手から弾き飛ばすと、門に押し込まれようとする魔女を見上げる。

「ティナーシャ!」

 魔女はひどく不安げな、困ったような目で彼を見ている。

 そしてそのままレナートとパミラに引っ張られ、門の中に姿を消した。



 折角の好機を逃がした。

 燃えるような苛立ちを何とか抑えると、オスカーはアカーシアを鞘に戻した。その肩に小さくなったナークが戻ってくる。ドラゴンの頭を撫でてねぎらうと、彼は傍らに呆然と立つルストを睨みつけた。

「さて、どういうことだかご説明頂こうか」

 ルストは乾いた唇を噛む。

 月が赤い。

 問題の日は声もなく近づいていた。



「ティナーシャ様、お怪我は?」

 クスクルの魔女の自室に転移したパミラは、顔色の悪い主人を覗き込んだ。その場に呆然と立ったままのティナーシャは小さく頭を振る。

「大丈夫です。それよりパミラは……」

「少しぶつけただけです。お気になさらないでください」

 魔女はその返事を聞くと、力が抜けたように床に座り込んだ。慌てて二人は膝をつく。

「本当に大丈夫ですか? お加減がよろしくないのでは」

「いえ……ちょっと驚いただけです」

 レナートは眉を顰めた。

「アカーシアの剣士と面識が?」

 魔女はその指摘に小さく体を震わせた。闇色の目を閉じ、何かを堪えるように眉を顰める。

 そして不意に苦笑した。ゆっくりと息を吐いて自嘲気味に笑う。

「あの人は……私の契約者で、私が鍛えた、私を殺せるただ一人……なんですよ」

 魔女はそれ以上は言わなかった。

 二人の驚愕する気配が伝わってくる。

 ティナーシャは彼らの動揺には構わず、もう一度目を閉じ、そして感情を閉じた。

 それはもう彼女には不要のものだったのである。




 ※ ※ ※ ※




 四百年の眠り。

 彼はその半分を夢の中で過ごした。祖国を滅した魔力の渦から逃れた彼は、しかし助かった代償に自身の魔力がずたずたに乱れ、肉体も衰弱しきっていた。

 誰も立ち入らぬタァイーリの山奥の洞窟で魔法の眠りについた彼が、夢の中で度々逢ったのは、共に育った美しい少女である。花のように笑い、無邪気に自分を頼る彼女。でもどうしてもその彼女に触れることが出来ない。幾千もの夢において、彼女は必ず最後には消え去る。

 時折、夢の切れ間に彼女の気配を帯びた使い魔が近くを通るのが分かった。それが自分を探す為に放たれていることも。

 彼女は独りで泣いていないだろうか。不安に震えていないだろうか。ずっと心配だった。

 だが今、その彼女は目の前にいる。

 もう幼い少女ではない。見る者を虜にする美しい女に、そして魔女になっていたのだ。


「アイティ」

「何?」

 魔女は呼ばれて顔を上げる。

 彼女は王の間に置かれた長椅子に寝そべって本を読んでいた。怪訝な顔を玉座に座るラナクは愛しそうに見つめる。

「いや……何でもない」

「変なの」

 ティナーシャは小さく笑って本に視線を戻す。少し伸びた黒髪が床に垂れていた。その様は何故か大輪の花によく似ている。ラナクは絵画の中のような眺めに満足を半分、そして微かな不安を覚えた。

「アイティ、怒ってない?」

「何を?」

 本を見たまま彼女は聞き返した。ラナクは、彼女の睫毛が上下するのをじっと見つめる。

「四百年前のことさ」

 再会してから今まで触れられなかった話題に、彼女は少しだけ驚いたようだった。豹に似た優美さでゆっくりと体を起こすとラナクを見る。

「今更、何故? 忘れてるかと思った」

「忘れないよ」

 薄い腹を裂いた時の、彼女の驚愕と恐怖の表情を忘れることはどうしてもできない。ただその代わり、自分がその時どんな感情で少女の顔を見たのか、それはぼんやりと長い眠りの中で磨耗して、取り戻すことはできずにいる。

「怒ってるかと思って。気になった」

「怒ってない」

 彼女は即答した。そしてこの話は終わりと言わんばかりに、再び読書に戻る。

 それに構わずラナクは口を開いた。

「強大な力で圧すれば争いはなくなると思う?」

「そういうこともあると思う。けど根本的な解決にはなってないよ」

「でも今不幸な人は救えるかもしれない」

「うん」


 思考が上手く纏まらない。長すぎた眠りのためだろう。彼は自分の記憶や人格が時折断裂するのを薄々感じていた。

 ラナクは嘆息混じりに自分の花嫁となる女をまじまじと見つめる。彼女には個人として大陸で最も強大な力が内在しているのだ。

「アイティは魔女になって、そういうことをしようと思わなかった?」

「思わない。それは独善だから」

「誰かが死んでも?」

「いつかは皆死ぬわ。それに私が抑止力として世界に介入すれば、人の思考を殺すことになるかもしれないよ」

 完全に限りなく等しい不干渉を示す言葉は冷酷ともとれる。

 ただそれは、彼女が選んだ判断なのだ。何物にも優しかった少女の姿しか知らないラナクは、少し淋しくなった。

「僕がやろうとしていることも独善?」

「うん」

「冷たいな」

「聞かなきゃいいのに」

 魔女はそう言って笑った。そしてその笑いを収めると、少し真面目な顔になる。

「でも、ラナクが私を呼んだから、私はタァイーリと魔法士の争いに少しだけ介入できたよ。ありがとう」

 ラナクは微笑んだ。

 悲劇の連鎖を断ち切るためには、どこかで何かが起こらなければならない。そしてそれは今だ、と思う。

「タァイーリの城都を五大国の軍が出たそうだよ。転送陣で西の砦に跳んだらしいから、明日にはクスクルに着く」

「ここに来ても意味ないのにね。まぁでも罠はちゃんと仕掛けてあるわ」

「周到だなぁ」

「邪魔されたくないし」

「もう明日か……」

 ラナクは目を閉じた。夢の終わりはもう充分だった。

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