第18話 感情の形 01



 タァイーリの北西部に独立建国したクスクルは、名目上は「国」と自称しているが、その領土にあるのは城が一つだけである。灰色がかった壮麗な城は、切り立った岩山を背にして建っており、その周囲は高い城壁と厚い結界によって囲まれていた。


 本来ならば高地の冷え切った空気に包まれているはずの城はけれど、精霊術士たちの力によって内部は温暖な空気に包まれている。クスクルの「国民」として城で暮らす魔法士のエルヴィラは、灰色の砂が敷かれているだけの外庭から、遥か上の露台を見上げた。そこに佇んでいる貴人の女は、闇色の目で茫洋とした景色を眺めている。黒い魔法着が風にたなびいて、頼りない体をより一層か細く見せていた。

 エルヴィラは絵画の中のような眺めを眩しく思って目を細める。一方貴人の女は誰かに呼ばれたのか振り返った。くすんだ金髪の女が現れ、頭を下げて黒い魔法着の上から厚手の外衣を羽織らせる。そのまま二人は露台の上から消えた。


 無人になった景色を見上げて、エルヴィラは視線を庭に下ろす。その時ちょうど兵士詰め所の方からよく知る男がやって来た。すぐ彼女に気づいたらしい恋人に、エルヴィラは笑顔になる。

「サント!」

「そんなところでどうしたんだ?」

「召集までまだ時間があるから、散歩でもしようかと思って……」

 タァイーリとの戦争について、まもなく魔法士たちを集めて指示が下されるのだ。

 自分が戦場に出なければならないという覚悟はエルヴィラにも勿論あったが、それでも緊張はいかんともしがたい。少し外の空気を吸おうと出てきたところで恋人の男に会えたのは、思ってもみなかった幸運だろう。エルヴィラは、内心の不安は減らないまでも、安堵が沸き起こってくるのを感じた。


 帯剣し兵士の制服に身を包んだサントが、感心の目で辺りを見回す。

「それにしても、この城は凄いな。いつどうやって作ったんだろう」

「魔法で作ったらしいわ。暗黒時代にはそういう魔法が研究されていたみたい。ほら、戦争が酷かったでしょう? だから」

「ああ、なるほど」

 大きく頷くサントの横顔を、エルヴィラは盗み見る。元はタァイーリ人である彼が、魔法への嫌悪を見せていないか気になったのだ。

 幸い彼の目には子供のように素直な賛嘆しか窺えない。エルヴィラはほっとして―――― だが別のものを見つけてしまった。制服の高い襟に隠れるようにして、軽い火傷の痕が見える。彼女は驚いて男の肩に手を置いた。

「サント、それは……?」

 男ははっとして、だがすぐに困ったような苦笑を見せる。

「ああ、何でもないよ。少しお湯を跳ねさせてしまって」

「見せて」

 手を伸ばす女に、サントは少し躊躇う素振りを見せたが、結局は大人しく襟元を開いた。エルヴィラはあまり得意ではない治癒の構成を、詠唱の手を借りて組み上げながら、男の火傷に触れる。

 ―――― お湯が跳ねたなど嘘だ。

 そのことが分かってしまった彼女は、心中に暗く重い気分が広がって行くのを自覚する。軽くはあるが間違いない、魔法を受けた傷だ。おそらく魔法士の誰かが彼へと嫌がらせをしかけたのだろう。今までも二人でいる時に侮蔑の視線を感じたことや、陰口を聞いたことは何度もある。

 エルヴィラは、そのことに関して何の文句も苛立ちも見せない恋人に、申し訳なさを拭うことが出来なかった。



 二人が出会ったのはもう二年以上前のことだ。

 魔法士であることを隠して、迫害に耐えながら街を転々としていたエルヴィラは、ある街で兵士をしていたサントと知り合ったのだ。

 彼は誠実な人柄の持ち主であり、流れ者の女だからといって彼女を軽く見たりしなかった。むしろ女一人で不自由はないかと色々気を配ってくれたのだ。その何気ない優しさは、彼女の気持ちを徐々に惹いていった。

 しかしそうは言ってもエルヴィラは、己の感情を自覚した後も長く自分の思いに踏み切れなかった。魔法士だと知られれば、彼も石を持って自分を追うに違いない。そのことが何よりも怖かったのだ。


 けれど黙っていることも怖くて、期待を持ちたくなくて、エルヴィラはある日ついに自分の素性を告白した。それを最後に彼の前から姿を消すつもりで。その日の記憶は曖昧で今でもよく覚えていない。


 だが予想に反して、サントは彼女が魔法士であることを知ってもその態度を変えなかった。むしろ彼女を守ると言ってくれたのだ。

 エルヴィラは、生まれて初めて人の温もりの中で眠る日々を迎えた。彼の腕の中で幸せを知った。

 そして、迫害された魔法士たちが国を作ると知った時、彼がついて来てくれると言った時、これで自分は平穏な一生を送ることができるのだと信じたのだ。

 ―――― しかしその時の喜びは、今は少しだけ色褪せてしまっている。



「サント、無理しないで」

 治癒が上手くいったことに胸を撫で下ろして、エルヴィラは微笑む。

 彼はその言葉を額面通りに受け取ったのだろう。「大丈夫だよ」と強く頷いて返してくれた。見回りの任務があるのだというサントは、別れを告げると城壁沿いに奥の方へと歩いていく。

 エルヴィラはその後ろ姿を見送って、再び城を仰ぎ見た。


 美しく壮麗な城。新しい魔法士の国。

 希望に満ちているはずのこの国で二人を待っていたものはけれど、魔法士ではないサントに対する明らかな差別だった。

 兵士として国に仕えるサントに石を投げる者はいない。けれど、そこに何の違いがあるのだろう。エルヴィラは虐げられていた魔法士たちの新たな姿に胸を痛める。

 果たしてこれが、本当に自分の望んでいた日々なのだろうかと。




「タァイーリの軍勢は既に城都を出て我が国へと進軍しつつある。タァイーリ王は我らからの宣戦におののき諸国に助けを求めたようだが、息子のルストはまだ状況をよく理解していないようだ。一万騎程度で我らをねじ伏せられると考えているのだろう。子飼いの将を投入してきた」

 壁に張り出された地図を叩いて力説している若い魔法士の名前を、エルヴィラは覚えていない。物思いにふけっていたため後ろの扉から遅れて入室してきた彼女は、身を屈めながら近くの席に座った。講義室に似て並んでいる長机と椅子はほぼ満席で、クスクルの魔法士たちは真剣に話を聞いている。


 幸いエルヴィラは誰にも見咎められずに済んだが、部屋の前方、地図の横に椅子を置いて座っていた男が、一瞬彼女の方を見た。

 五十人以上の魔法士がいるこの部屋の中で、もっとも上の地位を持つ男―――― クスクル魔法士長バルダロスと目があい、エルヴィラは身を竦める。

 元々東の小国出身であるというこの男は、祖国で魔法による大量殺戮を行って追放されたのだという。そのような危険人物がどういう経緯でクスクルに現れ魔法士長となったのか、エルヴィラは知らないし知りたくもないが、部下に説明を任せて椅子に座しているだけの男が不穏な雰囲気を持っていることはよく分かった。


 地図の前に立つ若い魔法士は、熱の入った調子で続ける。

「迎撃する為の準備は早速今日から取り掛かる。主軸になるのは二十人の精霊術士だ。他に普通の魔法士にも百人ほど加わってもらう。基本構成はこれから口頭で説明するが、あとで部隊長からも指示をする」

 それを聞いて、何人かの魔法士が力強く頷いた。自分たちを圧してきた国を迎え撃つことに高揚を覚えているのだろう。そのように積極的な姿勢を示さぬまでも、暗い復讐心を両眼にたぎらせている者もちらほらいる。

 エルヴィラはけれど、彼らほどこの戦に熱心さを抱くことは出来なかった。何処かぼんやりとした目で他の魔法士たちの背を眺める。

 そうしている間に場は解散し―――― 他の魔法士と共に退出しようとしたエルヴィラは、だが何故か魔法士長に呼び止められてしまった。


「逃げ出したそうな顔をしていなかったか?」

「え……」

 口元だけに薄く微笑を浮かべるバルダロスの目は、捕食者のように爛々と輝いていた。

 獲物を探る蛇であればこんな目をしているのかもしれない。エルヴィラはすっかり相手に飲まれてしまって硬直する。助けを求めて周囲を見やるが、部屋にはもう他の魔法士はほとんど残っていなかった。


 何故自分が捕まってしまったのか。バルダロスはずっと目を閉じていたはずだ。―――― 彼女はそんなことを考えながら力なくかぶりを振る。

「そんなことは……ありません」

「本当に?」

「本当です」

 それ以外にどんな答があるというのか。たじろぐエルヴィラを覗き込んで、バルダロスは目を細める。まさか自分まで殺されるのではないかという緊張がよぎり、冷や汗が背を伝い始めた時、だが男は何事もなかったように笑った。

「そうだな。戦う気がないのなら、最初から他の国に逃げただろうしな」

「…………」

 答につまるエルヴィラを放置して、男はさっさと部屋を出て行く。

 放り投げられたかのように取り残された彼女は、黙って自分の足下を見下ろした。バルダロスの言葉がぐるぐると頭の中を回る。

「他の国に……」

 その選択肢を、どうして今まで自分は選ばなかったのか。何故恋人を魔法士の国に伴ってきてしまったのか。

 エルヴィラはすぐには答が見出せず、ただ呆然と立ち尽くす。放心しながらも部屋を出ようとした時、よろめいた体を後ろから男の手が支えた。礼を言おうと振り返ると、そこには茶褐色の髪の魔法士が立っている。

 顔は見たことがあるが名前は知らない男に、エルヴィラは軽く頭を下げた。

「ごめんなさい……ありがとう」

「具合が悪いなら少し休めばいい。心身の不調は魔法の出来に響く」

「そうね……」

 元々エルヴィラはそう強い魔力があるわけでも、技術があるわけでもない。このように不安定を抱えていては振られた役割にも支障が出るだろう。彼女は男と並んで部屋を出ると、一旦自室に帰ることにした。今は何故かサントの顔を正面から見られない気がしたのだ。


 沈黙が息苦しく思えて、エルヴィラは隣の男を見上げる。

「あなたは、どうしてこの国にいるの?」

 言ってすぐ、彼女は不躾な質問だったかと思ったが、相手の男はさして気にしなかったらしい。前を向いたままさらりと返してくる。

「復讐の為だな」

「……そう」

 やはり皆、そういった理由があるのだ。

 エルヴィラは溜息をつきそうな自分に気づくと、慌ててかぶりを振った。不審そうにそれを見やった男へと、当たり障りない笑顔を向ける。

「ごめんなさい。ちょっと疲れてて……。あ、私、エルヴィラというの。よろしく」

「ああ……レナートだ」

 そう言う男の横顔はやはり何処か遠くを見ているようで、彼女には理解出来なかった。



 どうしてこの国に来たのか、という問いは、どうしてタァイーリから逃げなかったのか、という前提と一対であるように思える。

 けれどエルヴィラに明確な答はない。タァイーリで生まれ、魔力を持っているがゆえに親に捨てられた彼女は、ずっとこの広い国を放浪して生きてきた。

 他の国に逃げようと思ったことは何度もある。それでも国境を踏み越えられなかったのは、きっとただ臆病だったのだろう。ずっと自身を否定する言葉ばかりを聞いてきたエルヴィラにとって、別の国など生き方も分からない彼方だ。それよりは、魔法士であることさえばれなければ何とかやっていけるタァイーリの方がいい。勿論一つところに長居は出来ないが、それでも生きていくことは出来るのだ。

「生きていくことは、できるんだけど……」

 とぼとぼと歩いて自室に辿りついたエルヴィラは、寝台に横になって目を閉じる。

 眠りに落ちる瞬間、瞼の裏に見たのは、何故か露台に立っていた貴人の女の、遠くを見ている眼差しだ。


 ―――― 彼女はどうしてこの国に来たのだろう。


 そんなことを考え、消化しきれぬ不安を募らすうちに、タァイーリの軍勢は着実にクスクルへと近づきつつあった。




 アスドラ平原はタァイーリからクスクルへ繋がる街道の途中に位置し、クスクルに程近い場所にある。

 指示されたその平原に、迎撃の為の構成を敷くにはゆうに半日以上かかった。しかしそれはエルヴィラが参加してからのことで、実際作業の最初から関わっていた精霊術士たちは三日近くつききりになっていたらしい。

 ただそれだけの手をかけたものだけあって、出来上がった構成は類を見ない規模のものとなっていた。エルヴィラは自分が関わったそれに、満足感と同時に空恐ろしさも感じる。このようなものを作ってタァイーリを撃退して、魔法士がより恐れられることになりはしないかと危惧したのだ。


 だが周囲の戦意の高さを見るだに、そんなことを口には出来ない。

 エルヴィラは気になって自分の目で構成の最終確認をすると、近くにある森の中に戻った。緊張に震える手を握り締める。

 同じ様に森の中で時を待つ仲間の中、彼女は無意識に恋人を探して視線を彷徨わせた。その目が目的の人物を見つける。

「サント!」

 名前を呼ぶと彼はまっすぐ彼女のもとに向かってきた。

「どうした?」

「御免なさい。少し不安で」

「きっと上手くいく。心配ない」

 彼は安心させるように言うと、彼女の肩を抱いた。それを周囲の魔法士が冷ややかな目で見る。

 エルヴィラは魔法士の視線に気づいて、また不安が増してくるのを感じた。その表情に気づいたサントが、心配そうに彼女を覗き込む。

「エルヴィラ?」

「……何でもないわ。頑張らないと」

 いくら自分の気持ちが定まらないように思えても、今手を抜くことは出来ない。

 すぐそこに迫っているタァイーリの軍勢が、長い歴史において魔法士に何をしてきたか、勿論彼女も知っているのだから。



 タァイーリの王には二人の子供がいる。王太子であるルストと妹姫のチェチーリアだ。

 このうち後継者であるルストは、父親よりも余程厳しい性格の持ち主であり、他国へ救援要請を出すという父王の決定にも難色を示した。

『たかが魔法士風情の国など、すぐに落とせる。魔法士は五百もいないそうじゃないか。他国に弱みを見せる必要はない』

 彼はそう言って一万騎の軍を手配し、その指揮を側近である将軍に任せたのだ。

 勿論を軍を束ねる将軍にも自信はあった。タァイーリは勇猛でならす国である。白兵戦でなら五大国の中で最も大きいファルサスにも負ける気はしない。

 ―――― 穢らわしい魔法士どもを両断してやろう。 生き残りがいたら拷問でもしてやろうか。

 そんな考えにほくそ笑みながら進軍していた将軍はしかし、先頭から伝令が大慌てでやってくるのに気づいて眉を顰めた。

「しょ、将軍、大変です!」

「どうかしたのか」

「それが、見えない壁があってこれ以上進めません」

「何!?」

 そんな馬鹿な、と口を開こうとした時、足元の地面が光る。馬上からそれを見下ろした将軍は、そこに魔法の紋様が浮かび上がっているのを見た。紋様は見渡す限りの地面全てに行き渡っている。

「何だこれは……」

 将軍がもっとよく見ようと乗り出した時、だが不意に紋様から真っ赤な炎が燃え上がり、彼の体を包み込んだ。



「いい眺めだなぁ」

 バルダロスは宙に浮きながら燃え盛る平原を眺めた。炎の中で無数の黒い人影がもだえ、倒れていくのが見える。

 平原にあらかじめ敷かれていたものは広範囲に及ぶ炎の構成だ。タァイーリの軍勢がその上を通過する時を狙って、魔法士たちは構成に魔力を通す手筈になっていた。そしてその狙いは充分に果たされたのだ。

 全体の指揮をとったバルダロスは実に楽しそうに炎の海を見物する。


 祖国で大量殺戮をしてきたと噂される彼は、その噂通りかつて東の小国カトリスで百人以上を殺して国外追放になった人間だ。

 魔法での殺戮を欲しいままにした彼に、カトリスの宮廷は討伐隊として軍の中隊を差し向けたのだが、それがあっさり全滅してしまうと、国は彼の殺害を諦めた。二度と国内に立ち入らないと誓約した代わりに財産を持って出ることを許された彼は、しばらくその行方を巧妙に隠していたが、今やクスクルの魔法士長として再び歴史上にその残酷な本性を現し始めていた。


「バルダロス様!」

 声がした方を見下ろすと男の魔法士が叫んでいる。彼はつまらなそうに軽く眉をあげて「何だ」と尋ねた。魔法士は慌てた様子でタァイーリ軍の方を指差す。

「南から突破されます!」

「ほう。それはそれは。じゃあ迎え撃とうか」

 バルダロスは、面白いことになった、と顔に出しながら騎上に戻った。



 タァイーリの騎馬兵たちが狂気の形相で突進してくる。魔法士たちはそれを森の中から迎え撃った。次々と放たれる魔法が近づく兵士たちを弾き飛ばす。

 しかし向ってくる騎兵の数はなかなか減らず、ついに奔流が一番前にいた魔法士に襲い掛かった。槍の一突きで崩れ落ちた魔法士を踏み越えて、騎馬兵が更に剣をふりかざす。

「殺せ! 殺せ!」

 その声がどちらの軍勢のものなのか、戦闘の只中にある者たちには分からない。ただ己の剣を、或いは魔法をひたすらに振り絞るだけだ。

 エルヴィラは騎馬の入れぬ森の中に下がりながら詠唱する。完成した魔法を放とうと振り返った時、だが目前に、徒歩になって追ってきていた兵士の剣が突き出された。言葉にならない悲鳴と共に構成が崩れる。

 しかしその剣は、横から割り込んだサントの剣によって防がれた。

「エルヴィラ! 逃げろ!」

 サントの言葉に彼女は慌てて敵兵から距離をとると、再び詠唱を始める。


 ―――― 焦ってはいけない。確実に構成を組まねば。

 そうして完成した魔法をエルヴィラが打ち出そうとした時、だが他の魔法士が放った空気の刃が閃いた。刃はエルヴィラの眼前でサントごと敵兵を切り裂く。喉を切り裂かれ一瞬で絶命した敵兵と腹に深い裂傷を負ったサントは、重なりあって倒れる。あまりの光景に、認識より早く悲鳴が口をついた。

「サント! どうして!」

 駆け寄ったエルヴィラに、刃を放った魔法士が冷たく言い放つ。

「魔法士じゃないんだ。死んでも構わないだろ」

「何を……!」

 その時、すぐ傍で爆発が起こった。 エルヴィラはサントをかばって彼の体の上に伏せる。頭のすぐ上を熱風が通り過ぎていった。

 彼女は震えながら恐る恐る頭を起こす。そして愕然としてしまった。


 ―――― 森が、彼らのすぐ後ろでなくなっていた。 バルダロスが笑い声と共に騎上から魔法を放っている。

「ほら、さっさと殺せ。早くしないと敵がいなくなるぞ」

 彼はそう言うとまた、短い詠唱と共に巨大な炎の球を敵に向かって放った。炎が着弾すると同時に爆発が起こる。逃げ惑っていた魔法士たちは、圧倒的な彼の力に安堵するとその後を追ってタァイーリの兵士を逆に押し込み始めた。


 魔法士たちが去り、辺りは幾人もの死体だけになった森の中でエルヴィラは我に返るとサントの体にすがりつく。

「サント……お願い……死なないで……」

 治癒の魔法をかけるが、力が足りないのか傷がふさがらない。今までどう構成を組んでいたのか混乱で分からなくなっていた。

 ―――― どうしてこんなことになってしまったのか。

 ただ平穏に暮らしたいという自分の望みは、こんな代償を払わねばならないほどのものだったのか。

 こんなことならもっと早くタァイーリを出ていればよかったのだ。己の臆病を甘やかすことなく、誰よりも自分たちの為に。

 エルヴィラは唇を噛む。 絶望が彼女の精神に手を伸ばした。涙が恋人の体に零れ、その血と混ざって落ちる。

「お願い……」


 その時、彼女の顔の横に、後ろから女の白い手が差し出された。何の詠唱もなく魔力がサントの傷に注がれる。

 深い傷が見る間に塞がっていくのをエルヴィラは信じられない思いで見つめた。傷痕も残さず治癒が終わると、彼女は恐る恐る振り返る。

「あなたは……」

 闇色の目を伏せた女は、それには答えず唇の前に人差し指を当て、黙るように示した。白い両手を広げ、別の複雑な構成を組み始める。

「これから貴方たちを転移させます。セザルの街道近くの森に出しますから、この国から逃げなさい」

 エルヴィラは濡れた目を瞠ると、黙って頷いた。

 女の魔力が構成に注がれる。辺りの景色が歪んだ。

 彼女はサントの手を固く握る。己の知らない場所へ、自分たちの未来を得る為に。




 ※ ※ ※ ※




 アスドラの戦いは、クスクル側の勝利で終わった。

 タァイーリは当初の一万騎を五百騎余りの敗走者を除いて全て失い、クスクルは魔法士五十人足らずが犠牲になった。この結果に諸国は魔法士たちの力を改めて認識すると共に戦慄し、クスクルへの見方を改めることになる。

 それはしかしアスドラの戦いだけが原因ではない。

 この戦いとほぼ同時刻に、タァイーリを除く四大国の街が一つずつ、やはり建物だけ残して住人全員が忽然と姿を消したのだ。被害にあったのは、それぞれ中規模から大規模の街ばかりで、それまでタァイーリの危機を他人事として傍観していた国も クスクルの書状について真剣に考えざるを得なくなった。


 即位式を四日後に控えたオスカーは、その報告を受けて渋面を作る。本来なら各国の要人を招き、盛大に行われる即位式はしかし、非常時ということもあり国内だけで簡略に行われる予定になっていた。

「で、どんなだった?」

 オスカーの前に報告に立ったスズトは、緊張しながらも消えた街を見に行った時のことを説明した。

「建物には損壊が見られませんでした。中もこう……まさに今人がいなくなった、という感じでテーブルに湯気の立つスープが乗っていた店もあったほどです」

「怪奇現象だな」

「人気はまったくないんですが、時々……幽霊がいるようなそんな感じを受けました」

「どんな感じだ」

「視線というか感触というか、そういうものを時々感じます。でも誰もいないわけです」

「……なるほど」

 スズトを退出させると、オスカーは部屋の隅に控えていたドアンに話しかけた。

「どう思う?」

「……正直どうやればそんなことができるのか、さっぱり分かりません」

「あいつの仕業だと思うか?」

「おそらく。違うとしたらそれはそれで大変ですよ。そんなことが可能な魔法士が他にもいるということですから」

「それもそうか」

 深く息をつくオスカーに、やはり部屋にいたアルスが口を開く。

「どうなさいますか。セザルとガンドナは出兵を決めたそうです。メンサンはまだ迷っているようですが」

「そうか」

 オスカーは足を組むと机に載せる。乾いた唇を舌で濡らした。

 ―――― 答は最初から決まっている。

 ただ時期を探っていただけだ。そしてその時は来た。彼は小さく笑うと足を下ろして立ち上がる。

「軍を編成しておけ。即位が終わったら出る」

 アルスとドアンはその言葉に恭しく頭を下げた。

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