第17話 深淵の生まれる時



「アイティ、君は僕の妃になるんだよ。分かってる?」

「うん……わかってる」

 幼い彼女がもじもじしながらうなだれると、少年は厳しい表情から一転、ふっと微笑んだ。その優しい笑顔にティナーシャは安心する。

 最初から悪戯をしようと思った訳ではない。ただ少し癇癪を起こしたら、魔力が洩れて部屋の花瓶を割ってしまった。そのことに驚いた女官たちが、たまたま来るところだった彼を呼んできてしまったのだ。

 よりによって一番知られたくない相手に失敗を知られてしまい、ティナーシャは内心がっかりする。彼にだけは嫌われたくないのだ。この場所で彼女のことを思って手を差し出してくれる「家族」は、彼しかいないのだから。

 彼女の傷心を感じとったのか、少年は苦笑すると両手を広げた。

「おいで」

「ラナク!」

 飛びついてきた彼女の頭を少年は優しく撫でる。その温かさに泣きたくなってティナーシャは目を閉じた。不安も孤独も、今だけは忘れられる。きっといつかは完全に忘れてしまえるのだろう。彼の妃となったその後には。

「ラナク、ごめんなさい」

「いいよ。次はもうしないって約束して」

「うん。がんばるから……嫌いにならないで」

「大丈夫だよ」

 頭上にその声を聞いて、ティナーシャは抱きつく手に力を込める。彼に見捨てられないようにと縋るように願う。



 彼が大好きだった。

 本当に、信じていたのだ。

 ―――― でも、どうして。




 ※ ※ ※ ※




 ティナーシャの城の自室は綺麗に引き払われていた 塔への転移陣も消されている。

 何の前触れもなく忽然と姿を消した魔女に、城内では密やかに憶測が飛び交った。だが、それらに真実味はあっても真実と言い切れるものは一つもない。

 彼女がいなくなった翌日、ラザルは執務室から退出すると大きな溜息をつく。その彼へ、廊下で待ち伏せていた男は手を振った。ラザルは顔を上げ、相手の名を呟く。

「アルス将軍……皆も」

 そこにはアルスとメレディナ、加えて魔法士のシルヴィアとカーヴ、ドアンが立っていた。少し場所を移動してから、アルスはラザルに問いかける。

「殿下のご様子は?」

「荒れてます。一見いつも通りに見えますが」

「それでも仕事はするところはさすがだなー」

「何があったか教えてくださらないんですよね」

「知りたいような知りたくないような……」

 二人の会話を黙って聞いていたシルヴィアが、涙目で零した。

「ティナーシャ様何処に行かれたんでしょう……何か私、気に入らないことでもしちゃったんでしょうか」

 ドアンが溜息をついてそれに答える。

「それはないと思う。そういう性格の方じゃないだろ」

 一向に答の出ない不毛さに、彼らは沈黙する。


 その時、話題の中心人物が部屋から出てきた。オスカーは一同が集まっているのを見て眉を顰めたが、近づくとラザルに書類を渡す。

「終わった。後は頼む」

「は、早いですね……」

 それを受け取るラザルの横から、アルスが怪訝な声を出した。

「殿下、帯剣してどちらへ」

「ルクレツィアの森に行って来る」

「え!」

 何人かの驚きの声が重なった。前回のことを思い出し、慌ててラザルが止めに入る。

「お待ちください。危ないことがあったらどうなさるんですか」

「ないから大丈夫だ。離せ」

「殿下、私も行きますからお待ちください」

「わ、私も」

 一同が混乱し、もつれあっていると、頭上からくすくす笑う声が聞こえてきた。顔を上げるとそこには明るい茶色の髪の女が浮いている。

「来なくてもいいわよ? 私はここにいるし」

 閉ざされた森の魔女はそう言って片目を閉じた。



「やっぱりあの子行っちゃったんだ」

 執務室に移動した一同を窓辺に腰掛けて見渡しながら、ルクレツィアは嘆息した。自分の椅子に戻ったオスカーはそれを聞きとがめる。

「やっぱり、って何だ」

「だって私にも誘いが来たもん。クスクルから」

 ラザルが淹れたお茶に口をつけていたカーヴが、それを聞いて咳き込む。ドアンが恐る恐る尋ねた。

「それ、どうしたんですか?」

「勿論断った。他の魔女もそうじゃない? 魔女はそういう国とか政治には興味ないし。あーまぁ一人は違うけど、あの女も断るわね。だから今回あの子が行った事は諸国でも問題になるんじゃないかな」

 ルクレツィアの指摘に、オスカーを除いた全員が重苦しい表情で息を呑む。


 確かに今まで、魔女が一国に肩入れして他国への侵略を手伝ったことはない。ティナーシャが七十年前、戦線に立ったのも侵略に対抗してのことであり、その力の行使も魔獣相手に限定されていたのだ。

 魔女に対して国々が今まで不可侵であったのも、その力の強大さのためもあるが、国同士、人間同士の争いに彼女たちはあまり介入しないためという理由も大きい。そういった歴史の中で、最も力ある魔女が他国に侵略を仕掛けようという国に身を寄せた事実は、世界を揺るがすに十分な問題となるだろう。


 オスカーは苦い顔で足を組むと机に載せた。背後に座る魔女を見上げる。

「あのラナクとかいう男とティナーシャはどういう関係なのか知ってるか?」

 臣下たち全員は、初めて聞く男の名前に緊張した。その男がティナーシャの失踪に関係があるらしいと悟ると同時に、オスカーの機嫌を慮って声を出さない。

 ルクレツィアは楽しげに笑った。

「知ってるわよ。あの子は魔女になってからずーっとあの男のこと探してたもの。ようやく再会できてよかったんじゃない?」

「あの男、おかしいぞ」

「嫉妬?」

「それもあるが、何かおかしい。まともには見えんな」

「でもあの子がそれでもいい、っていうなら別にいいじゃない」

 ルクレツィアは浮かび上がると、逆さになってオスカーを覗き込んだ。

「放っといてあげれば? しつこい男は嫌われるわよ」

「嫌だ」

「頑固だなぁ。あの子はちゃんと自分で選んでるのにあなたが首を突っ込む権利があるの? もっと自分のことをしたほうがいいんじゃない?」

 魔女は嘲るような微笑を浮かべてオスカーを見つめる。

 人の心を篭絡し、圧し、支配する魔女の目。彼はそれを正面から見返し―――― 断言した。

「何と言われても譲る気はないな。あれは俺にとって唯一無二の女だ。あの男を殺して連れ戻して、それでも他の男がいいというなら、その時放してやるさ」

 オスカーの挑むような目をルクレツィアは黙って見つめる。

 そのまま長いような、短いような時間が流れた。


 やがて彼女は美しい顔から嘲りを消した。深い深い溜息をつくと、執務机の上に座る。

「まず約束して。一つは私が教えたって言わないでね。殺されたくないから。あと、これはあの子が私に語ったことと私の知っていることをそのまま伝える。あの子は自分の話について、何の感想も加えなかった。ただあったことを淡々と教えてくれただけ。だからその時、あの子がどう思ったかは自分たちで考えて」

 彼女はそこで言葉を切って、一同を見回す。

「……最後に、あの子と殺し合いが出来る覚悟がある人間だけに伝えるわ。それが出来ないなら聞かない方がいい」


 オスカーは目を閉じて動かない。

 アルスはメレディナを見た。彼女はしばらく躊躇っていたが席を立つ。ラザルとカーヴも立ち上がった。彼らは少しだけ逡巡したが、残る人間を見渡すと、一礼して部屋を出て行く。

 ドアンはまっすぐ魔女を見返して、シルヴィアはその拳をきつく握り締めて残った。アルスがそんな彼らを見て苦笑する。

 目を閉じたままオスカーは口を開いた。

「いいぞ。始めてくれ」

 魔女は嫣然と微笑むと、長い昔話を始めた。



「まずこの話を始めるにあたって、あの子の本名を教えましょう。―――― 彼女の名はティナーシャ・アス・メイヤー・ウル・アエテルナ・トゥルダール。アイティはアエテルナの愛称ね」

「トゥルダール!?」

 魔法士二人が驚きの声を上げる。シルヴィアは恐る恐る確認した。

「トゥルダールって、四百年前に滅んだ魔法大国ですよね……。その国の名前が末尾に入ってるって……」

「王族か」

 オスカーは少しだけ驚いたが、すぐに納得した。時折ティナーシャが見せていた育ちの良さや威厳はそこに由来するものだったのだ。

 ルクレツィアは可笑しそうに笑う。

「王族なんだけど、ちょっと違うかな。正確には次期女王候補。トゥルダールって王政だけど、血脈で受け継いでいくんじゃなくて純粋に力で王を決めるのよね」

「変なやつが強かったらどうするんだ」

「だから候補は子供の頃から城で教育するの。あの子は生まれてすぐ両親から引き離されて、城で育てられたらしいわよ。それだけ力がとびぬけてたってこと」

 アルスが天を仰いで嘆息するのが聞こえた。

「で、候補は男女一人ずつ選んで、それがそのまま許婚になるんだけど、男の方は国王の一人息子だったの。それがラナクね。彼は立場的にはあの子と同等だけど、実力は比べ物にならなかったから、皆があの子が女王でラナクがその夫になるんだと思っていたらしいわ」

「すごい世界だな」

「王室なんてそんなもんでしょ。ラナクは五歳年下のあの子を随分可愛がってたみたい。赤ん坊の頃から一緒だもんね。実の兄妹のように仲がよかったそうよ。でも彼らの外側は雲行きが怪しくなってきていた」

 ルクレツィアは目を細めて、オスカーの顔を指差す。

「当時はファルサスを始め他の国が力をつけてきていてね。他国と国交を断絶しているトゥルダールの中で、そのままでいいのか議論が持ち上がったそうなのよ。……で、他国と交流を持ち、その技術をやりとりすべきだと言い出したのが革新派。トゥルダールは神聖なる国だから今のまま他国とは馴れ合わないと言い出したのが旧体制派。どちらもゆずらないまま、やがて国王が病気になった。革新派はティナーシャに、旧体制派はラナクに支持する人間が分かれて争った」

「争ったといっても、ティナーシャ嬢が即位するのは確実なことだったんじゃ?」

「そう。だから旧体制派は一計を案じた。ティナーシャの即位を妨害し、ラナクの力を強める一石二鳥の策をね」



 ルクレツィアは息をついた。赤い唇を舌で湿らす。そうして再び物語を紡ぎだした。

「―――― あの子が十三歳の時だった。ある夜あの子が目覚めると、ラナクが自分を抱き上げてどこかに向かっていた。彼女は不思議に思ったけど、ラナクが『いいことがある』と言ったら疑わなかった。親と引き離され城で育った彼女には、ラナクが唯一自分と同じ立場にいる一番の理解者だったのね。……それでラナクは彼女を抱き上げて大聖堂に来ると、彼女を祭壇に横たえ―――― おもむろに短剣でその腹を裂いたの」



『何処にでもあるような話ですよ』とティナーシャは言った。

 まるで他人事のように、闇色の目を閉じて微笑みながら。



「な?」

「はぁ!?」

 全員の叫びが重なる。

 オスカーは机に乗せていた足を下ろして起き上がり、シルヴィアは目をこれ以上ないくらい大きく見開いていた。

 ルクレツィアは薄っすらと笑う。その目には怒気が満ちていた。

「強力な力を持つ彼女の腹を裂いて、その血と腸を触媒にラナクと旧体制派の魔法士たちは禁呪を用いて魔力を召還したの。途中で死なれては困るから延命の魔法だけをかけて、苦痛はそのままに。そして現れた魔力をラナクに取り込もうとした」

「妹のように思ってたんだろう!?」

 アルスは思わず腰を浮かしそう叫んだ。ルクレツィアの目の光は変わらず、皮肉げに唇だけがあがる。

「思ってたんでしょうね。でも誇りが傷ついていたんじゃないの? 自分だけが頼りの幼い少女が、自分を遥かに凌駕する力を持っていて、王子の自分を差し置いて即位することが確実だってことに」

「何それ……」

 か細い声と共にシルヴィアの瞳から涙が零れ落ちた。隣りではドアンが珍しいことに怒りに唇を噛んでいる。


 オスカーは、前にティナーシャを抱き上げて寝台に降ろした時に異常に反応していことを思い出した。遥か遠い四百年前の出来事が、しかし彼女にとっては忘れられない傷になっているのだ。

 魔女の物語は全員の嫌悪の中を進んでいく。

「けれど召還された魔力は予想以上に強大なものだった。ラナクたちはその統御に失敗したの。彼らはある者は逃げ、ある者は魔力に飲まれて死んだ。そしてティナーシャを中心に渦となった魔力は……トゥルダールを滅ぼした。一夜にして滅びた原因はこれね」

 ルクレツィアがそう言うと、魔法士二人はハッと顔色を変える。彼らは古き魔法大国の原因不明の滅亡を学んでいたのだろう。魔女は少しだけ微苦笑すると、話を友人についてのものに戻した。

「瀕死になりながらも意識は保たれていたあの子は、ラナクたちが逃げてしまったのを見て必死になった。……もともとの才能とか力とかそういう問題じゃないと思うな。これについては。死に掛けの人間の意地か執念か、あの子は結局その魔力を統御して自分の中に取り込むことに成功したの。取り込みきれなかった魔力は世界中に飛び散って、魔法湖が出来た。けれど、魔力の嵐が消え去っても、もう国は滅びて辺りは瓦礫の山になっていたし、あの子は裂かれた腹は治ったものの、その場で三日間激痛に苦しんだそうよ。―――― そして、それが過ぎ去った時、あの子は魔女に成った」



 目を閉じると、その風景が浮かぶ気がする。

 荒涼とした大地に一人立つ少女。

 何もかもをなくし、魔女と成った彼女。

 そこにどれほどの絶望があったのだろうか。

 皆の前では普通に微笑んでいた彼女は、その微笑を取り戻す為にどれだけの月日をかけたのだろう。



「あの子はそれからトゥルダール領地の片隅に塔を建てて、そこに住んだ。そしてずっとラナクを探し続けていた。何の為にかは聞いたことがないわ。これでおしまい。どう?」

 ルクレツィアはオスカーを見る。

 魔女は笑っていたが、笑っていなかった。

 オスカーは肺の中の息をゆっくりと全部吐き出す。


 彼の美しい魔女のことを思う。

 その折れそうな体。

 誇り高い魂。

 気紛れ、慈愛、孤独、残酷を。


 彼は小さく笑うとルクレツィアを見上げた。

「お前は、あいつが自分の腹を裂いた男をまだ愛していると思うか?」

「さぁ?」

 魔女は不敵に目を閉じる。

「じゃあ、あいつは俺のことをどう思っていると思う?」

「分かりきってることを聞かないで欲しいな」

 魔女は赤く塗られた爪でオスカーを指差した。

「その結界、そのままにしていったんでしょ? あとドラゴンも残していったんだって? 答なんて、そこにあるじゃない」

 オスカーは無意識に自分の左耳の後ろを触った。

 あの夜、ティナーシャが自分の血で書いた紋様は、彼の守護結界を一時的に封じるものだった。もしこの結界が見えていたなら、ラナクは彼を見逃すことはできなかっただろう。

 オスカーは立ち上がった。

「基本方針に変更はなしだな。あの胸糞悪い男を殺して、ティナーシャを連れ戻す。それだけだ」

 周りの人間を見回す。

 アルスは目を閉じて頷き、ドアンは一礼する。シルヴィアは泣きながら何度も頷いた。

 閉ざされた森の魔女は彼らを見て、よく出来た子供を見る母親のように笑った。




 ※ ※ ※ ※




 目が覚めると見知らぬ部屋だった。ティナーシャは長い夜着をひきずって体を起こす。

 何度かかぶりを振ると、意識に記憶が追いついてきた。彼女は寝台を下りて歩き出しながら、ふと壁にかけられた鏡を見る。

 年齢は動けども、四百年もの間見慣れた造作がそこにある。

 鏡の中で闇色の瞳を伏せる彼女は、微かに自嘲げな笑みを湛えていた。



 ティナーシャが簡単に身支度をしてラナクのいる広間に入った時、そこには三人の魔法士が王に向かって立っていた。白い玉座に座すラナクが彼女の方を見る。

「アイティ、おはよう。よく眠れた?」

「うん」

 ティナーシャは、王に何やら報告をしていたらしい三人を見た。全員が男で、物珍しげに彼女を見ている。

「この人たちは?」

「これからタァイーリの街に行くんだって」

 ラナクは笑ってそう答えた。軽い、他人事のような物言いである。ティナーシャはあどけなく首を傾いだ。

「街を焼くの?」

 童女のような問いに、三人のうち一番ティナーシャに近い位置に立っている男が、挑戦的な目で頷く。

「はい。それを以って宣戦の狼煙とします」

「私がやろう」

「は!?」

 髪をかき上げながら、さらりという魔女に三人は絶句した。

「しかし……」

「私には我儘が許されている。そこには私が行く。おまえたちは戦争の準備でもしてなさい」

 ティナーシャは不敵に笑う。

 反論を許さない力がそこにあった。




 ※ ※ ※ ※




 その五日後、彼女がいる場所から遠いファルサスの王宮でオスカーは外交の為の資料に埋もれていた。

 クスクルはファルサスと国境を接していない。かの国に向かうには北西の旧ドルーザか、北東のセザルを通過してタァイーリにまず行かなければならないのだ。

 そして、クスクルはそのタァイーリの北西にある。

「或いは一旦西に出て旧トゥルダールを北上して、クスクルの西から回り込むか、か」

「旧トゥルダールは磁場がおかしいらしいですよ」

 ラザルが横から地図を見て指摘すると、オスカーは黙って頷いた。

 そもそも心情としては彼一人で行ってもいいのだが、それは皆が許さないだろうし、あまりにも軽率だ。問題外である。

 しかし私情で軍を動かすことはもっと問題外だった。

「タァイーリが泣きついてくるのを待つか」

「その間にティナーシャ様がご結婚されてたらどうするんですか」

「……面白いことを言うじゃないか」

 彼は手招きをしてラザルの頭を下げさせると、そのこめかみを拳で締め上げる。悲鳴をあげる従者を見下ろしながらオスカーは口の端を上げて笑った。

「ルクレツィア曰く、ラナク自身も精霊術士なんだそうだ。式を挙げるとしたら、全てが終わってからだろう」

「そ、そうなんですか……」

 オスカーは手を放してラザルを解放してやる。 彼は素早く主人の手の届く範囲から離れた。

「ともかく、どういう神経か知らんが、何もなかったような顔でティナーシャを迎えに来たあの男は四十八箇所くらいに切り分けるしかないな」

「もうちょっと少なくてもいいと思いますよ……」

 話し声で起きたのか、机の端で丸くなって寝ていたナークが首をもたげて小さく欠伸をした。



 結論から言うと、待つ必要はなかった。

 その日の夕方ファルサス宛に二通の書状が届いたのだ。

 ケヴィンは息子と将軍たちを含む重臣を広間に集めると、その内容について口を開いた。

「一通目はタァイーリからだ。現在クスクルからの攻撃が激しく、諸国の援助を要請したいとのこと。クスクルはタァイーリに留まらず、大陸全部の掌握を企んでいるようだと言ってるね」

 将軍のうちの一人、グランフォートが手を上げて進み出る。彼は体格のいい壮年の男で、髪には白髪が混じり始めていた。

「しかし、本当にクスクルにその意思があるのか、タァイーリの言葉だけでは信用できかねます。タァイーリもクスクルも遠い地での内紛ではないのですか? 無闇に兵を出すのは如何なものかと」

 ケヴィンは軽く頷いた。

「まぁ普通はそう思うね。ただもう一通なんだが……。これはそのクスクルからだ。大陸の五大国、タァイーリ、セザル、ガンドナ、メンサン、ファルサスに対し従属を要求している」

 それを聞いて失笑交じりのざわめきが場に溢れた。大陸を支配する国々の中でも五大国と言われる国は、どれも長い歴史と大きな規模を持つ列強といっていい国々である。

 それらに対し、つい一年ほど前に出来たばかりの小国が従属を要求しようというのだから、履き違えてるとしか言いようがない。


 しかし、オスカーとアルスは笑わなかった。

 もしそれが、魔法大国と呼ばれその力によって孤高を貫いていたかつての王国だったらどうであろう。

 クスクルには強力な力を持つ精霊術士を始め、次々と魔法士が集められている。それと戦うということは、主に対魔法戦になるということだ。ここ数百年、魔法士を主軸にすえた戦争は起きていない。その為、いったいこの戦いがどんなものになるのか誰にも想像がつかなかった。

 ケヴィンは神妙な顔で、忍び笑いをしている一同を見渡す。

「笑い事で済むかどうかはまだ分からない。大勢を見誤って取り返しがつかないことにしたくないからね。タァイーリは先日、大きな街五つが同時に壊滅したそうだよ。犠牲になった者は数千人に及んでいる。クスクルに近かったわけではない。大きい街を選んで狙ったようだ。中にはセザルに程近い街もあったそうだよ」

 水を打ったような静けさが一転して一同に広がる。


 結局、ほとんどの国は魔法という分野において、解明され資料化された部分以上のことをまだよく分かっていないのだ。

 宮廷仕えの魔法士は多い国でせいぜい五十人ほどである。それを遥かに越えた人数の魔法士を動かしての攻勢は、一体いつどこにその手を伸ばすのか、多くの人間には可能と不可能の判別が出来ない。或いは明日にはファルサスの街にそれが訪れるかもしれないのだ。


 ケヴィンは場が静まり返るのを確認してから、一通の書状を取り出し目を落とした。

「最後に、これはオスカーに対してかな」

 名前を呼ばれて彼は眉をあげる。

「何でしょう」

「被害を受けたタァイーリの街……建物を残して人が皆消失させられたそうだが、それをやったのは青き月の魔女だということだ」

 驚愕が人の間を波のように伝わっていく。

 今まで歴史の裏側に立ちほとんど表にでなかった魔女が、ついに絶大な力を以って戦争に干渉し始めたのだ。その異例さを理解した者は戦慄し、困惑と恐れに唾を飲み込む。はっきりとは示さないが、魔女を最近まで傍においていたオスカーに批難の目を送るものもいた。

 しかし、ケヴィンとオスカーの表情は変わらないままである。王は息子を見て言を続けた。

「そこで、アカーシアの現使い手であるお前に魔女討伐の依頼が来ている。ファルサスへの助力要請とは別に、お前に魔女を殺してもらいたいとのことだ。可能か?」

「可能です」

 即答に、後ろでアルスが顔色を変える。彼は発言しようと手をあげかけるが、続くオスカーの声にその手を止めた。

「ですが、お断りします」

 ケヴィンは首を傾げる。皮肉な目で息子を見た。オスカーは真っ直ぐそれを見返す。

「勝てないのなら危ないから行かなくていいんだよ」

「あれを殺せるのは俺しかいませんよ。でも、俺は殺さない。タァイーリが助力を欲しいというなら行きましょう。だが、それはクスクルを敵とする場合においてです。あいつは別だ」

「彼女は選んでかの国にいるんじゃないか?」

「目に見えることだけが真実とは思わない」

 眉を顰めた王は、極めて珍しいことにその顔に怒りを漂わせていた。普段は収められている威圧感が剥き出しになる。緊張で蒼ざめる重臣たちをよそに、ケヴィンは椅子から立ち上がるとオスカーを見下ろした。 短く息を吸うと怒気と共に吐き出す。

「魔女に魅入られたか、この愚か者が! お前の肩に民の命がかかっていることを忘れたか!」

 切り裂くような叱咤の声に皆が身をすくめる。

 しかし当のオスカーはただ苦笑していただけだ。


 ―――― 同じことを魔女にも言われた。つい最近のことなのに妙に懐かしく思う。皆が皆、説教くさく自分を試すのだ。


 彼は明るい夜空の色の目に力を込めて、父王を見た。

「親父殿、駆け引きは不要だ。俺は既に決めている。負ける気はないし、何かを手放すつもりもない」

 迷いのない言葉だ。

 自信に満ちた言葉だ。

 その答えに、ケヴィンは先ほどまでの怒気もどこやら、一瞬の間を置いて肩をすくめた。深い溜息をつくと「血筋かな……」と呟く。王は苦笑しながら軽く椅子に座りなおした。

「分かった。お前はしたいようにしなさい。その代わり……」

「その代わり?」

「お前が王になりなさい。私はそろそろ退位しよう」

「へ、陛下!」

 内大臣のネサンが慌てた声を上げる。しかしケヴィンはしれっと返した。

「ちょっと早いが構わないだろう。執務はもうほとんどこいつがやってるんだし。ちょうどいい機会だから色々学びなさい」

 オスカーはさすがに唖然として父の決定を聞いていた。しかし、端整な顔に徐々に笑みを浮かべると、軽く頭を振る。

「まったく……皆で俺を鍛えることを楽しんで……。分かった。その王位ありがたく頂戴する」

 ケヴィンは人の悪い笑みで頷く。それはオスカーによく似た笑顔だ。肘掛に頬杖をつきながら、父は釘を刺すことも忘れない。

「お前の決定が国を左右することを常に意識しなさい」

「肝に銘じる」

 魔女が聞いたら何と言うやら。

 オスカーは彼女の言葉を想像しようとしたが、自分の中の彼女は小さな背を向けたままだ。

 去り際に彼女が示した言葉を、彼は思い出す。

『貴方がその剣の持ち主で、私が魔女である限り、いつか貴方は本当に私を殺さなければならないかもしれません』

 それは戯言で、だが真実だ。

 ―――― この戦争において、彼女は自分にどういう役回りを望んでいるのだろう。それとも舞台にあがることを望んでいないのだろうか。


 答えは得られない。

 そして物語は速度をあげて回り始める。

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