第16話 貴方のことを思う



 例えば愛情が人を殺すなら、その感情は矛盾だろうか。

 愛して殺しても、憎んで殺しても、死は死だ。

 なのに何故人はそこに全く異なるものを見出すのか。

 理由など、当人以外には分からない。

 そしてきっと当人にも、本当のことは分からないのだ。

 人は人を殺す。

 その為の感情。

 その為の強さ。

 それを為させるのなら、愛情も憎悪も触れたくない。 思い出したくない。

 ただ、狂いたくないのだ。

 既に自分は最初から、逃れられない狂気の中にいるのだから。




 執務室のテーブルに布を広げ、その上に爪ほどの大きさの水晶を数十個広げていたティナーシャは、突然後ろから抱き上げられて、危うく摘んでいた一粒を落としそうになった。何とか堪えると、それを手の中に握る。

「オスカー! 邪魔しないでください」

 彼女の華奢な体をまるで子供にするように軽々と抱き上げているのは、この部屋の主であり彼女の契約者である男だ。彼は魔女の苦情を聞き流すと、テーブルの上を覗き込む。

「何してるんだ?」

「魔法具を作ってるんですよ」

 言いながらじたばたと暴れると、オスカーは腕を解いて彼女を解放した。ティナーシャはすぐにテーブルに戻り、握っていた一粒を慎重に片側に寄せる。

「素材の質が影響するので、歪みがないものを選んでるんです」

 彼女は布の横においてあった小瓶を開け、転がすようにして中に合格した水晶を入れていった。瓶の蓋を閉め、指を鳴らすと他の水晶は布ごと消えうせる。最後に小瓶自体も違う場所に転送させると、ティナーシャは彼を振り返った。

「何なんですかもう」

 少し怒った貌を見つめる男の目は何故か楽しげだ。オスカーは魔女の頭を撫でる。

「頼んでいたドレスが仮完成らしいから、試着に行くぞ」

「う……」

 ドレスとは三ヶ月ほど前にオスカーが勝手に頼んでいたものである。

 彼女自身が頼んだものは、あっさりした作りの為か割と早く出来上がってきたのだが、これほど時間がかかったとなるととても嫌な予感がする。

「い、行きたくないとか駄目ですよね」

「当然」

「ううう」

「自分の足で歩いていくのと引き摺られるのとどっちがいい?」

「歩きます……」

 ティナーシャは観念して頭を垂れた。



 ドレスを試着して姿を現したティナーシャをまず迎えたのは、見に来ていたシルヴィアの悲鳴に近い歓声である。彼女は両拳を作って叫んだ。

「ティナーシャ様、素敵!」

「似合うじゃないか」

「ありがとうございます……」

 黒を基調にしたドレスは、高価な布と糸をふんだんに使った代物だ。肩から下の両腕と背中は肌が出ており、高く取った襟元から腰の下までが体にぴったり沿った曲線を描いている。そこから下は緩やかに広がり、床の上には長い裾が大きく波打って美しい円になっていた。

 生地は絹と複雑な意匠のレースの二重で、あちこちに銀糸の刺繍と花を模して作られた飾りがつけられている。ティナーシャの白い肌と漆黒の髪、闇色の瞳とよく合って、見る者を魅了し、溜息をつかせる蠱惑がそこにはあった。


「ティナーシャ様、当日の髪とお化粧は私にやらせてくださいね!」

 はしゃいでいるシルヴィアの言葉を聞きとがめて、ティナーシャは顔をひきつらせる。

「当日……?」

「もうすぐ陛下の誕生祝いの式典があるじゃないですか」

「あるのは知ってますが、何故私が。あれは外交用の舞踏会じゃないですか」

 彼女の周りをぐるりと回ってドレスの出来を確かめていたオスカーは、それを聞いて人の悪い笑顔を浮かべた。

「お前が出ないで誰が出るんだ。せいぜい狸共に揉まれて来い」

「何でだ!」

 いつものことではあるのだが、怒りでお湯が沸かせそうになっているティナーシャに、仕立て屋が恐る恐る話しかける。

「あの……寸法などは、如何でしょう」

 しかしそれに答えたのは当の彼女ではなかった。オスカーが楽しげに後ろからべたべたと触るとぞんざいな感想を洩らす。

「腰が少し余ってるな。痩せたのか。ちゃんと寝ろ」

「寝てますよ。気が向いた時に」

「あとこの飾りと同じもので、もう少し大きいものを髪飾りとして作ってくれ」

「かしこまりました」

 仕立て屋が手早く腰の寸法調整を布につけて離れると、オスカーは愛おしげに魔女の肩口に口付けた。傍で見ていたシルヴィアなどは思わず赤面したが、ティナーシャ本人は精神的疲労が滲む顔で、しかし平然としている。

 その表情にオスカーはつまらなそうに頭をあげた。

「本当に微塵も動揺しないな」

「これだけ堂々と触られると何とも反応できません」

「そういう問題なのか」

「違うんですか」

 ティナーシャは分からないことに少しだけ困惑して、契約者を見返した。それを彼は白い目で見やる。

「お前、俺を男として見てないだろ」

「当然見てないというか、誰のこともそんな目でみたことないです」

 オスカーは無言で拳を作ると、魔女のこめかみを両側から締め上げた。

「痛い痛い! 鬼!」

「すまん、つい腹が立って」

 ティナーシャはこめかみをさすりながら男を睨む。しかし彼は笑みさえ浮かべてその視線を受け流した。

「何でそんなになったんだ。精霊術士だからか?」

「それもあるとは思うんですが、あまり人間に執着したくないんですよね。ルクレツィアとか今でこそ大分丸くなってますが、昔は振られた腹いせにその村の湖の水をまるごと別の場所に移動させたりしてましたよ。そういうのを見ちゃうとどうも……」

 ちなみに水は私が戻しました、と続けるティナーシャに、オスカーとシルヴィアは微妙な表情で沈黙した。

 ―――― どうにも八つ当たりの規模が違う。

 それを考えると、魔女の中でも最強といわれる彼女が今まで恋愛沙汰を避けてきたのは賢明な判断なのかもしれない。

 オスカーは軽く頭を振って気を取り直すと、ティナーシャの頭を軽く叩いた。彼女は戸惑った瞳でそれを見上げる。

「まぁそういうのは置いておいて。俺は別物だからな。分けて考えろ」

「そうなんですか」

「そう。あと半年あるから、それまで待つさ」

「待ってどうにかなるものとは思えないんですが……」

 魔女の率直な言葉を、しかし彼は意に介さず笑った。頭に乗せていた手で彼女の頬に触れる。

「結構自信がある。お前は気が変わる。お前に俺は合ってるよ」

「……よく分かりません」

 透き通った貌で首を傾げた魔女は、見えないものを探すかのように、闇色の瞳を宙に彷徨わせた。




 ※ ※ ※ ※




「私は定義する」

 その言葉と共に並べられた水晶球がふわりと浮かび上がった。

 十数個の球はゆっくりと赤い線で構成された紋様の各所に近づき、線の上に固定される。

「この言葉が毒となることを望む。棘が生まれるように種をまく。運命は線を円と成し逃れることはできない」

 魔女の謳う様な言葉が空気を揺らす度、水晶球はくるくると回った。透き通った中身が徐々に白く濁っていく。

「何者も触れることはできない。変える事は出来ない。この言葉は毒となる」

 女の滑らかな額に汗が浮かぶ。慎重に、精密に、彼女は言葉と意思を紡ぐ。

 失敗は許されない。もうあまり時間がないのだ。

 ―――― これだけはやっておかなければ……。

 彼女は精神を一本の糸のように研ぎ澄ますと、更なる言葉を唱えた。




 ※ ※ ※ ※




 夢を見ていたような気がする。

 とても曖昧な夢。

 嬉しかったのか悲しかったのか分からない。ただとても揺り動かされた気がして、オスカーは目を覚ました。部屋の中はまだ暗く、わずかに朝の気配が窓辺に漂うのみである。

 彼は額を押さえながら上体を起こそうとして違和感を覚えた。いつの間にか上を着ていないことに気づく。

 元々着なかったのだろうか、と上手く動かない頭を動かし記憶を探ろうとして、オスカーはふと人の気配に横を見た。そこには彼の魔女が床に座り、上半身を寝台に突っ伏させて眠っている。彼女の周囲には水晶球がいくつも散らばっていた。

 何があったのだろう。少なくとも彼にはさっぱり記憶がない。

 オスカーは半身を起こすと魔女に手を伸ばした。その髪をそっと引く。

「ティナーシャ」

 反応がない。

 もう一度引くと、彼女はようやく身じろぎして顔を上げた。とろんと鈍い目で彼を見ると 「……眠い」 と呟く。

「……説明したら寝ていいぞ」

 彼女はその言葉に最初、いやいやをする子供のように頭を振ったが、やがて覚醒してきたのか徐々に目に光が戻った。小さく欠伸をすると寝台に腰掛ける。

「貴方の呪い……解呪しました。正確には解呪ではないんですが、呪いを同じ箇所にぶつけて相殺してあります。一部、定義名がつけられている部分があって……それはかけた術者でないと、どうしようもできないので残してあります。でもそれだけなら単なる祝福の、守護のうちなので支障はないはずです」

 ティナーシャの言葉に、彼は絶句した。解析がもうすぐ終わるとは聞いていたが、ついに解呪されたのだ。十五年間彼を縛り、人生に少なからず影響を与えた呪いが意味をなさなくなったことにオスカーはすぐには何も言えなかった。


 魔女は眠さに重い目をこすりながら、彼の上半身を指差す。

「それ、もう消していいです。風呂にでも入ってください」

 言われて見てみると、彼の体には血で複雑な紋様が書かれていた。魔法のものと思しきその紋様は、乾いているのに艶やかに赤い。

「お前の血か?」

「そうです。触媒として使いました」

「何で寝てる時にやるんだ」

「意識がない方が楽だからです。前眠るの待ってたら嫌がったじゃないですか」

 魔女はそう言うと宙に浮き上がった。「帰って寝ます……」と消えようとするその手をオスカーは掴む。ティナーシャは軽く眉を顰めて彼を見下ろした。

「なんですか」

「いや……ありがとう」

 半ば呆然とした礼を聞くと、彼女は覚めきらない目で蕩ける微笑を浮かべた。自分の手を取っている男の手を握り返し、その甲に口付けるとかき消すように姿を消す。あとには床に散らばる水晶球だけが残された。

 オスカーは改めて、自分の体に血で描かれた紋様をじっと見下ろす。

 この朝を、自分は一生忘れないだろうと確信しながら。




 ※ ※ ※ ※




『魔法士なんて危ないんだから近づいちゃだめよ』

 母親はそう言った。周りの大人たちも皆そう言う。

 同じ人間じゃないの? と聞いても「そう見えても違うのだ、彼らは神に反する穢らわしい生き物だ」と返って来る。

 けがらわしいってよく分からない……少女はいつも首を傾げる。でも皆が喜ばないと知っていたから、彼女は隠れてその小屋に行っていた。

 山の中にある小さな小屋には素敵な魔法使いが住んでいる。花を出してくれたり、傷を治してくれたり―――― 初めて出会った時は、迷子になっていた彼女にお菓子をくれて町の近くまで連れて行ってくれた。

 彼はとっても優しいのよ! と皆に自慢したい。でも少女は口をつぐむ。これは自分と彼だけの秘密なのだ。


 少女は今日も山の中を彼の小屋に向かって走る。手にいっぱいの木の実を抱えて。もうすぐ小屋が見えてくるというところで、向こうから彼が走ってくるのが見えた。彼は少女の姿を見るなり、駆け寄って彼女を抱きしめる。

「ああ! よかった、ルリ。心配したんだよ。間に合わないかと思った!」

 どうしたの? と少女は聞く。

 少し様子がおかしい気がする。

 とても顔が青いし、慌てているわ、なぜ?

「何でもないよ。さぁ小屋にお入り」

 今日はもう戻らないといけないの。お母さんの誕生日なのよ。

「駄目だ! 町に戻ってはいけない!」

 どうして?

 彼は答えない。

「……ここにしばらく隠れて、それから他の国に行くんだ。出来るだけ遠くに……ファルサスにでも」

 どうして? お母さんもお父さんもいるのに。

 少女は急に不安になった。彼の手を振り解いて、来た道を走り出す。

「駄目だルリ! 行ってはいけない!」

 彼が追いかけてくる。それでも少女は走る。

 走って走って、町が見下ろせる場所まで来た時―――― 彼女が見たものは炎に包まれる自分の町だった。




 ※ ※ ※ ※




「出来はどうだ?」

 開いている扉を一応叩きながら正装した男が入ってくる。魔女はその言葉に顔をあげた。

 もう二時間も髪や化粧のために拘束されているのだ。いい加減解放されたいが、シルヴィアや女官たちは実に楽しそうで離してくれない。

「オスカー……」

 心底疲れた、という呟きを、しかし彼女の契約者は耳に入れているのかいないのか、ただ彼女を見て絶句している。

「これはまた……迫力があるな」

「何ですかそれ……」

「渾身の作ですよ! 元が綺麗だから化粧のし甲斐があります」

 弾むような声でシルヴィアが答える。その言葉に終わったと判断して、ティナーシャは立ち上がった。

 長い髪は一部を垂らして結い上げられ、ドレスと同じ黒い花飾りがつけられている。花の周りを囲むレースはそのまま彼女のむき出しになった白い肩にかかっていた。

 高く通った鼻梁と大きな闇色の目を引き立てるように、顔には薄い青を基調に化粧が施され、普段清冽な印象を受ける美貌は、女王のように誇りと威圧感を伴った美しさへと引き立てられていた。彼女が憮然とした表情をしているのも相まって、実に近づきがたいものがある。


 オスカーは機嫌よく彼女の頬に触れようと手を伸ばした。だがその時、廊下で彼を捜す声がする。

「殿下!」

「何だ」

 返事に気づいてラザルが部屋に入ってきた。彼はティナーシャに気づき、やはり絶句する。魔女に見惚れている従者にオスカーは振り向かぬまま声をかけた。

「用は何だ」

「あ、はい。タァイーリの王子ですが、来られなくなったそうです」

「ほう」

「何でも三日ほど前にクスクルの国境近い町が襲撃を受けたとかで、離れられなくなったとか。代わりに妹姫がいらっしゃるそうです」

「クスクル?」

「襲撃?」

 ラザルの報告にオスカーとティナーシャは表情を険しくした。二人の言葉を受けてラザルは詳しく説明する。

「おそらくクスクルの仕業らしいと……。魔法士が町を焼き払ったらしく、生存者はいなかったようです」

「普通の民草を殺したのか? 何を考えてるんだか。そういう情報を今回公表したということは、タァイーリは他国に助力を要請するつもりかな」

「そうかもしれません。タァイーリだけで対処できるなら、そもそも国教に反する魔法士の国など独立させなかったでしょうから。他国に借りを作ってもクスクルを何とかしたいということでしょう」


 ラザルの報告にオスカーは考え込んだ。

 戦争において魔法士は大きな力を持つが、その使いどころは難しい。

 強力な魔法を使えば自国の兵士を巻き込む可能性があるし、詠唱も長い。そもそも大規模魔法は統御が難しく、使いこなせる魔法士は数も少ないのだ。また距離をとって魔法を打てば、相手の魔法士に防がれる可能性が高い。ある程度近づかなければ、まず出し抜いて魔法を当てることは不可能だろう。

 結果、魔法士たちは兵士の後ろから、小中規模の魔法を放つことになり、相手もそれを防ぎあうことになる。その扱いの難しさに戦闘はほとんど兵士で行い、魔法士は防御と補助に徹する国も多いくらいだ。

 タァイーリなどは特に、魔法を忌み嫌っている為、魔法士は迫害されている。そんな状況では魔法士たちの攻撃を防ぐ術もないのだろう。

 クスクルは何がしたいのか。―――― タァイーリへの復讐か、もっと違うことなのか。

 オスカーは眉を顰めかけて、ふと魔女の様子がおかしいことに気づいた。顔が青い。目には嘆きと怒りの入り混じった光が揺らいでいる。

「ティナーシャ?」

 男の言葉に、魔女はハッと我に返った。揺らぐ視線がオスカーを見上げる。

「どうかしたのか?」

「ああ、いえ、何でもないです」

 魔女は微笑んで、そして少し躊躇った後、オスカーの袖を引いた。

「あの、ちょっといいですか?」

「何だ」

「二人で話したいことがあるんですが……」

 彼は頷いた。どうせ色気のない話なんだろう、と思いながら彼女を露台に誘う。

 露台の手すりの向こうには城の中庭が広がっていた。夕闇に沈む植え込みをオスカーは何とはなしに一瞥する。その後に続いたティナーシャは、窓を後ろ手に閉めるなり口を開いた。

「オスカー、ナークのこと好きですか?」

「は?」

 さすがに予想外の質問だった。彼は呆気にとられて、だが何とか答える。

「まぁ嫌いじゃないぞ。何でだ」

「じゃあもらってやってくれませんか?  今は私が主人になってますが、それを書き換えたいんです。貴方ならナークも懐いてますし……」

「何で書き換えたいんだ」

 ティナーシャはそれには答えなかった。困ったような顔で彼を見上げる。化粧や服と合わないその表情は、彼女の存在を不安定に見せていた。いつになく頼りなげに思える魔女に、オスカーは頭をかく。

「分かった。構わんぞ」

「ほんと!? じゃあ書き換えますね」

 破顔すると、彼女は音もなく宙に浮いた。オスカーの額に手のひらを当て、口の中で小さく何かを詠唱する。彼がその体をそっと抱き取ると、彼女はオスカーの腕に座った。

「これで貴方が主人です。名前を呼べば来る様になります。餌は自分で何とかするので特には要りません」

「分かった」

 微笑んだ彼女は美しかった。月の光が白い肌をうっすらと青く染めている。確かに彼を見ているはずの眼差しは何処か遠く、まるで夜そのものと繋がっているようだ。見つめすぎると魅了される気がして、オスカーは嘆息を飲み込んだ。

 彼は空いている右手で滑らかな頬を撫でる。ティナーシャは猫のように目を細めた。そのままオスカーは、小さな頭の後ろに手を差し入れて引き寄せる。

 彼女は逆らわない。オスカーの両肩に手をついて、そうすることが自然であるように口付けを受け入れる。

 柔らかい唇が離れた時、オスカーは苦笑した。

「中々、予想外」

 その言葉に、魔女は指を伸ばして彼の唇についた紅をぬぐいながら

「緩急つけないと駄目ですよ」

 と笑った。



 オスカーが魔女を伴って広間に現れた時、まるで絵画のような美しい一対に場の注目が集まった。ざわめきが波のように伝わるのを感じて、ティナーシャは心の中で溜息をつく。隣に立つ男の腕に手を回して歩きながら小声で囁いた。

「こういうところに姿を見せるなんて前代未聞です……」

「ちゃんと素性は黙っておくさ」

「婚約者とか言ったらふっ飛ばしますからね」

「覚えておこう」

 二人はケヴィンの前に立つと礼をした。ティナーシャは一歩下がり、オスカーが祝辞を述べる。ケヴィンは面白そうにそんな二人を見返していたが、祝辞が終わるとティナーシャを手招きで呼び寄せた。彼女はそれに応じて王の隣りに並ぶ。

 王は彼女だけに聞こえる声で話しかけてきた。

「貴女も付き合いがいい」

「押しが強い契約者がいましてね……」

「折角だから皆に紹介されてはいかがか」

「それは勘弁してください。それより諸国の姫君がてぐすね引いてファルサスの次期国王を待ってますよ」

 ティナーシャの言葉に王が広間を見渡すと、あちこちにいる華やかなドレスを着た女性たちが、期待に満ちた目でオスカーを、敵意を滲ませた目でティナーシャを見つめている。

「それは大変」

 ケヴィンが小さく笑うと、ティナーシャは他の人間には分からないように溜息をついた。

「私も他人事でありたいものです」

 彼女はその言葉を最後に、王に頭を下げオスカーの隣に戻る。オスカーは怪訝そうに彼の魔女に尋ねた。

「何を話してたんだ?」

「人生の苦労についてです」



 ティナーシャは一時間ほどオスカーに付き合うと、きりのいいところで広間を離れて庭に出た。華やかな舞踏会を振り返って、踊れるドレスでなくてよかったと安堵する。勿論踊ることは出来るのだが、そんなことをしたらただでさえ針のむしろであるのにいいことになるとはとても思えない。さっさと逃げ出そう、と決定した彼女に、だが背後から声がかけられた。

「お一人ですか、美しい方」

 気持ちの悪い呼びかけに思わず砂を吐きそうになったが、何とか堪えて笑顔を作るとティナーシャは振り返った。そこにいるのは長い赤茶の髪を後ろで縛った秀麗な男だ。確か北のゼラスという国の王子だと紹介された覚えがある。

 彼女は当たり障りなく答えた。

「少し夜風にあたりたいと思いまして……」

「それはいい。僕もちょうどそう思ったところです」

 男はティナーシャの隣まで来るとごく自然にその手をとった。

「よろしければご一緒させてください」

「はぁ……」

 逃げ出す機会を逸してしまったことに、魔女は心の中で途方にくれた。思わず夜空を仰いだ彼女の内心に気づかないらしく、男は流麗な声音で続ける。

「まさかファルサスの王太子殿下がこのように美しい魔法士を傍に置いていらっしゃるとは思いませんでした。ひょっとして恋人とか……」

「それはありません」

 ティナーシャはきっぱりと即答する。オスカーがいたらまたこめかみを締め上げられたかもしれない。

 一方男はその返答に喜色を浮かべた。取ったままの彼女の手を撫でる。

「でしたら僕が立候補しても?」

 魔女の全身を寒気が走った。言葉や声がねっとりと糸を引いている気がする。触られている手が気持ち悪い。

 男は彼女の返事がないのをいいことに白い肌の肩を抱く。その感触に、ティナーシャは心身ともに鳥肌が立ちそうになった。

 どうしてくれよう、と魔女が目に不穏なものを宿し出した時、庭の小道を通って誰かが現れる。やって来た男は、体を寄せ合い遠目からは恋人同士にも見える二人の姿に気づいて小さく苦笑した。彼女に向かって声をかける。

「おや、ティナーシャ嬢。そろそろ時間では?」

「あ、はい。参ります」

 ティナーシャは慌てて男の腕の中から逃れると「では、殿下、失礼致します」と足早に逃げ出した。名残惜しそうな王子に一瞥もくれず、声をかけてくれた男と並んで歩き出す。

「助かりました。もう少しでふっ飛ばすところでしたよ」

「ちょっと面白かった。けどまぁ貴女を悪い虫から守るのも警備のうちかな」

 アルスは喉を鳴らして笑いながらそう言った。ティナーシャは忌々しげに、触られていた肩を払いながら吐き捨てる。

「本当に気持ち悪いです。当たり前のようにべたべた触らないで欲しい。気安い」

「殿下には触られても平然としてるのに」

「……あれ」

 魔女は自分でも気づかなかったことを指摘され、首を傾げた。

 当然のように触れてくる契約者の手を、温かいと思ったことや、心地よいと思ったことはあるが不快だと思ったことはない。 せいぜい邪魔なことがあるだけだ。

 この違いは何だろう、と考えかけて彼女はやはり考えるのをやめた。答が見つかったとしてもそこにはもう何の意味もないのだ。

 かぶりを振る彼女は、その時ふと、全身に違和感を覚えた。皮膚の表面がざわめく。

 ―――― 見られている。

 しかし、不穏な感覚は一瞬で消え去った。辺りには二人の他に誰も居ない。アルスは気づかなかったようだ。鼻歌を歌いながら歩いている。

 魔女はゆっくりと顔を上げ、月を仰ぐ。

 そこに、求める誰かの姿を見出すかのように。




 自室に戻ったオスカーは、内心うんざりしながら椅子に座っていた。さて、どうしようかと思う。

 彼の目の前には、淡い紅色のドレスを着た気位の高そうな姫が座っていて、じっと彼を見つめている。あからさま過ぎるほどに期待に満ちた眼差しを向けてくるのは、兄の代わりに出席してきたタァイーリの王女、チェチーリアであった。

 オスカーはクスクルの件について話を聞きたいと思い、彼女に話しかけたのだが、チェチーリアは「込み入った話なのでここでは出来ない」と彼の私室にまで押しかけてきたのだ。にもかかわらず彼女は、先ほどから全然関係ない話ばかりしている。どうやら様子を見るだに何も政治の話が分からない姫であるらしい。

 或いは彼女に課せられた役目は、クスクルに対抗するため有力国の実力者を味方につけることなのかもしれない。ただオスカーに媚態を示してくる。


 いい加減追い出すか……と彼が腰を上げかけた時、外から軽く窓が叩かれた。オスカーは自然とその名を呼ぶ。

「ティナーシャ、どうした」

 窓を開けて入ってきた彼女は、チェチーリアに気づいて驚いた顔をした。

 どうせまた「お邪魔しました」とかややこしいことを言うのだろう、とオスカーは予想していたのだが、その予想に反して魔女は毅然とチェチーリアに向き直る。

「申し訳ありませんが大事な用がございますので、お引取り頂けますか」

 丁寧ではあるが反論を許さぬ物腰に、当然ながらチェチーリアは怒りを露にした。魔女に向かって厳しい声を上げる。

「そんなところから突然来て厚かましい。殿下、この方はどなたなのです!」

「私の魔……法士です」

 危うく魔女と言うところだったのを彼は修正する。

 だが、魔法を嫌う国の王女は男の返答に眉を跳ね上げた。立ち上がりティナーシャの眼前にまで来ると、深い闇色の目を睨みつける。

「魔法士ですって?  魔法士風情が無礼な……。穢らわしい。出ておいき!」

 傲慢にそう言い放つ王女へ頭に来たオスカーが何か言うより先に、しかしティナーシャ自身が口を開いた。

「魔法士風情? 口を慎め、痴れ者が」

「なんですって!?」

「―――― 去ね。二度言われなければ分からないのか?」

 魔女の瞳が、底知れぬ闇そのものの力を帯びる。

 空気までもを支配する静かな威厳。チェチーリアはその迫力に押されて後ずさった。オスカーは唖然として魔女を見つめる。


 魔女である彼女が、恐ろしい威圧感を放つのを見たことはある。

 しかしこのように人を芯から縛り、従わす目をしたことは今までない。

 それは彼も持っているもの、すなわち人の上に立つ人間の―――― 王者の目だ。

 チェチーリアはすがるようにオスカーを見たが、助けを得られないと分かると逃げるように部屋から出て行く。

 後には魔女と、その契約者が残された。


 オスカーには、正装をした彼女が纏う雰囲気を変えたことで、まるで知らない女のように見えていた。彼女はゆっくりと振り返ると、オスカーの前に立つ。大きな瞳には消せない自嘲が滲んでいた。

「ティナーシャ?」

 彼女は微笑みながら口に人差し指を当て、黙るように示す。そのままふわりと浮かび上がると右手を軽く振った。細い人差し指から血が零れ始める。

 そうしてティナーシャはオスカーの首に両腕を回すと、左耳の後ろに血のついた指で何かを書き始めた。その作業に集中しながら、男の耳に囁く。

「オスカー……私は本当は四百年前に死んでいるはずの人間なんです……。今の私は魔女ですらない。死すべき子供の残滓に過ぎない。死者に魅入られてはいけないんです」

 彼女は書き終ると両手でオスカーの顔を挟んだ。日の落ちたばかりの、澄んだ空色の瞳を正面から見つめる。

「貴方は貴方の為すべきことをしてください。貴方の肩にこの国の民の未来がかかっていることをどうか忘れないで」


 真摯な目。

 その闇は深淵である。

 オスカーは理由のない不安に捕らわれた。

「ティナーシャ? どうかしたのか?」

 彼女は目を閉じるとかぶりを振る。そしてもう一度、契約者を見つめると美しい紅色の唇を開いた。

「ルクレツィアの術を解いた時の……私の言葉を覚えていますか?」

 オスカーは目を瞠る。

 彼女は答えを待たなかった。白い、悲しげな貌を寄せてそっと男の唇に口付ける。

 そして彼女は音もなく床に降り立つと、男に背を向けた。

 闇色の目が見つめる先の空間が歪む。

 次の瞬間、そこには見知らぬ男が転移してきていた。



 長く白い髪は、乳白というより溶け入りそうな雪の白さだった。肌も同じく白い。

 細い体に添う薄青い魔法着。秀麗な容貌のその男は、ティナーシャを見つけると微笑んだ。

「アイティ、迎えに来たよ。随分大きく……美しくなったね」

 その言葉にオスカーは思わず声を上げそうになった。そして自分の声が封じられていることに気づく。注意してみれば体も動かない。さっきの口付けで魔女が術をかけたのだ、ということに彼はようやく思い当たった。

 背を向けているティナーシャの表情は分からない。

 しかし彼女は不意に床を蹴ると、男に向かって駆け出した。その首に腕を回して抱きつく。

「ラナク……ラナク! 本当に生きていたのね!」

 喜びに溢れた声は、オスカーも聞いたことがないものだ。ラナクと呼ばれた男は彼女の髪を愛しそうに撫でた。

「君が僕を探していることは知っていたよ。でもずっと動けなくてね……すまない。もう淋しい思いはさせないよ」

 ティナーシャは浮かび上がると男の額に口付ける。その横顔を見て、オスカーは少なからず衝撃を受けた。

 ―――― 彼女は本当に幸せそうな、喜びに泣き出しそうな顔をしていたのだ。

 仮面としてのそれではないことは、彼にはよく分かった。


 ラナクは、オスカーの存在にまったく気づいていないかのように、ティナーシャの頬に触れる。彼女は目を閉じてその手に自分の手を重ねた。

「ずっと探していたの。絶望するかと思った。でも諦め切れなかった。―――― 夢じゃないのね」

「ちゃんといるよ。ここに。君の傍に。君の為に祖国も作った。クスクルというんだ。小さい国だけど、すぐに大きくなる。きっと気に入るよ。君はそこの王妃になるんだ」

 オスカーは愕然とした。

 突如できた魔法士の国、それを作ったのは目の前の男なのだ。ティナーシャを迎えに来た使者の捨て台詞が蘇る。優しげで、しかしどこか不穏な危うさを持つこの男が彼の国の王だというのだろうか。

 ティナーシャは陶然とした表情で答えた。

「私の国なら、我儘いっぱい言うよ?」

「いいよ」

 ラナクは彼女の体を左手で抱えるように抱く。そして初めて気づいたかのように、オスカーを見た。

「彼は?」

「契約者だった人よ」

「アカーシアの剣士か。危ないな」

 ラナクはオスカーに向かって右手をかざす。それを見て彼女の顔が一瞬歪んだ。オスカーの呪縛が解ける。

 彼は素早くアカーシアを抜こうとして―――― だが男の前にティナーシャが飛び込んできた。彼女はラナクの方を向いて微笑む。

「放っておきましょう。剣に力があっても所詮は剣。使い手に力がなければどうにもならないわ」

「ティナーシャ!」


 悪い夢を見ている気がする。

 彼の魔女がひどく遠く感じられた。

 今彼女は何処にいるのだろう。

 ティナーシャはゆっくりと振り返る。

 その闇色の目には敵意が湛えられていた。


「貴方との契約は今夜で終わりです。呪いは解いた。もう私に用はないでしょう?」

「まだ時間はあるはずだ」

「もうない」

 酷薄な笑みが魔女の貌に浮かぶ。

 オスカーはついにアカーシアを抜いた。切っ先をティナーシャの向こうへと構える。

「その男とは行かせない」

「……ラナクを傷つけるつもりなら、私がお相手します」

 ティナーシャが両手を広げると、そこに一振りの剣が現れた。彼女は長剣を無造作に取る。


 空気が緊張する。

 オスカーは、ともすれば混乱に乱れそうな精神を制御し、統一した。ティナーシャが剣を構えるのが見える。

 ―――― この距離なら殺せる。

 オスカーはそう確信した。

 そしてだからこそ、踏み込むことができない。戦いに集中する意思と、それを拒む意志の二つが彼の精神を二分していく。


 時が固形になり、沈黙が永遠になるかと思われたその時、彼女の体を後ろからラナクが抱きしめた。

「もういいよ、行こう」

 ティナーシャは苦笑すると頷く。魔力が二人を包んだ。

「ティナーシャ!」

 オスカーが叫んだ時、彼の魔女の姿は部屋の中から忽然と消えていた。

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