第15話 今宵、月の下で 02


 その日は曇天が続く中で、珍しく晴れ間が見えた日であった。

 とは言え中庭に置かれた椅子に座り、先ほどからずっと悩んでいるアルスにはその天気も関係ない。ただ鬱屈とした表情で足を組んでいるだけだ。

 彼はこの数日の間もやもやとした不安要素を抱えていたが、それを相談できる人間が一向に捕まらないことに頭を抱えていた。いつもの相談相手であるメレディナには言うことが出来ないし、言いたい人間は見つからない。―――― いっそ、他の人間に言うべきだろうか。

 手持ち無沙汰に指を鳴らしながら考え込むアルスの視界に、ふと上空から何かが降りてくる。顔を上げるとそれは赤い小さなドラゴンだった。何やら紙包みを咥えている。

 彼が腰を浮かせてその名を呼ぼうと口を開きかけた時

「ナーク!」

 と同じ言葉が先に中庭に響いた。

 細い笛に似てよく通る声。ドラゴンは主人の呼びかけに小さく首を振って応える。

 黒髪の魔女は中庭に面した上階の回廊からふわりと下りてきた。その姿を認めてアルスは思わず大声を上げる。

「ティナーシャ嬢!!」

 突然横から名前を叫ばれ、ティナーシャは驚いてアルスの方を見た。

「な、なんですか」

「ずっと探してたんだが捕まらなくて……」

「う。すみません」

 ティナーシャは肩を竦めて地面に降り立つと、改めてアルスの前に立った。ナークがその肩に止まる。

「どうかしたんですか?」

 アルスは無言で彼女の手を取り、建物から少し離れた木陰に誘う。一方ナークは紙包みを主人の手の中に落とすと、緩やかに飛び去った。それを見送ってから、アルスは魔女に顔を寄せると小声で話を切り出す。

「ミラリスのことなんだが……」

「はい」

「エッタード様の遺品を調べたが、彼女をどうやって見つけたかが分からないんだ。東の国境に使いを出した形跡もないし、手紙のやりとりもない。彼女が持参した書状は確かにエッタード様の筆跡だったが、どうも怪しいと思う」

 ティナーシャは顎に指をかけ真剣な表情で聞いていたが、聞き終わると、うーん、と小さく呟いた。言いにくそうに口を開く。

「実はですね、オスカーがうるさくなりそうだから黙っていたんですが、この城に来てすぐ、一度大陸全土を対象に彼の妻になれる可能性を持った女性がいないか調べてるんです。……で、その時の結果ですが、魔女以外はいなかったんですよ」

「当時はミラリスの祖母が力を持っていたからじゃ?」

「年齢で弾いたりしてませんよ。それなら魔女は真っ先に除外です。にもかかわらず、今のミラリスほどの力を持つ女性は誰もいなかったんです。だからちょっとおかしいとは思ったんですけどね」

「それ他の人には?」

「言ってません。折角の機会なので、ちょっとオスカーには先入観なしで彼女のことを見て欲しいと思ったので……」

 アルスは思わず天を仰いだ。

 意外なところで鈍感というか抜けているというか。この美しい魔女の変な気遣いが、状況を複雑にしている気がした。


 そんなアルスの心中を知らないティナーシャは、腕組みをして考え込んでいる。

「あとですね。もし何か裏があって来ている場合でも、ファルサス王家が目的なのか、私をここから引き離すのが目的なのか分からないんですよ。どっちか分かれば、出方もあるんですが」

「あーなるほど」

 アルスは二ヶ月ほど前に来たクスクルの使者のことを思い出す。黒幕が彼らであるならば、ティナーシャをファルサスから引き離せれば王家には用がないはずだ。

 一体今回の目的は何なのか―――― 再び考え込んだアルスはふと、中庭に面した一階部分の柱の影に誰か立っていることに気づいた。向こうはアルスが自分を捉えたと分からなかったのか、ぼんやり中庭を眺めている。

 彼はあまりそちらを見ないようにそっと相手を確認すると、魔女に向かって人の悪い笑顔を見せた。

「ティナーシャ嬢、いい手がある」

「うん?」

「あなたが目的か、殿下が目的か炙り出そう」

 アルスはそう言うと、ティナーシャの腰に手を回し細い体を引き寄せた。もう片方の手で彼女の顎を捕らえると上を向かせる。彼女は一瞬驚きに目を瞠ったが、すぐに理解したのか苦笑して目を閉じた。白い両腕を彼の首に回す。

 滑らかな陶器に似た頬にアルスはそっと顔を寄せた。建物の中から見ていれば口付けているように見えるはずだ。柱の影にいた人物が、慌てたように立ち去っていく気配を確認して彼は腕をほどく。見るとティナーシャが喉を鳴らして笑っていた。

「人が悪いですよ」

「役得だし、一石二鳥」

 アルスはそう言って片目をつぶってみせた。


 柱の影にいたのはミラリスである。目で確認したアルスも彼女に監視をつけていたティナーシャもそれが分かっていた。

 分かっていて二人が恋人同士であるかのように見せたのだ。彼女の目的がオスカーなら喜ぶだろうが、もしティナーシャの方が目的なら、ファルサスの将軍が恋人であることに対し何らかの手を打ってくるだろう。

 アルスは自分の肩をぽんぽんと叩く。

「これで尻尾を出してくれるなら早いな」

「危ない橋を渡った甲斐がありますか?」

 魔女は子供のように悪戯っぽい笑顔を浮かべた。アルスは他人事と思っていることが明らかな彼女に、首をすくめて見せる。

「殿下にばれたら殺されると思う……」

「メレディナにばれるのはいいんですか?」

「……」

 黙り込んだアルスにくすくす笑いながら魔女は浮かび上がった。男の耳に口を寄せる。

「何か分かったら知らせます」

「頼みます」

 彼女はそのままふっと宙に消えた。

 胸につかえていた不安要素が消えてほっとしたアルスは、肩の荷が下りた気分で厨房に飲み物を取りに行くと、訓練場に向かう。

 三階の回廊部分から彼を見ていた人物がいたことなど、少しも気づかずに。


「アルス! 何処行ってたのよ」

 訓練場へと出る回廊入り口。そのすぐ外で待っていたらしいメレディナは幼馴染の男を見つけると、剣を磨く為の布を力いっぱい投げつけてきた。

 アルスは苦笑しながらそれを片手で受け止める。

「悪い悪い。すぐ訓練に出る」

「殿下がお待ちよ。何かしたの?」

「え……」

「かなりご機嫌がよろしくない。しごかれるわね」

 アルスは瞬時に全てを理解した。自分の顔から血が音を立てて引いていくのが分かる。

 これは本当に死ぬかもしれない……と思いながら彼は訓練場に向かって、何も知らない幼馴染に引き摺られていった。




 ※ ※ ※ ※




 ミラリスが女官の控え室の扉を開けた時、中には二人の女官がいた。彼女はそのうちの一人におずおずと尋ねる。

「あの……殿下がどこにいらっしゃるかご存知ですか?」

「先ほど訓練場にいらっしゃったわよ」

 ありがとう、とお礼を言いかけた時、もう一人の女官が口を挟んだ。

「もう帰ってこられたたわよ。先ほど宝物庫の方に行かれたみたい」

「宝物庫……ですか。何処にあるんですか?」

「場所なら教えられるけど、私たちは入れないわよ」

「あ、でも場所だけでも教えてください」

 女官の説明を聞き終わると、ミラリスはお礼を言って部屋を出た。

 その目に不穏な光が宿るのを見た人間は誰もいない。




 ※ ※ ※ ※




 自室に戻っていたティナーシャは、オスカーからの呼び出しを受けて彼の私室の前に立った。いつものように窓から入ろうかと最初は考えたのだが、ミラリスという存在がいる以上、あまりそういう真似は控えた方がいいだろう。彼女は珍しく普通に扉を叩く。中からはすぐに返事が返ってきた。

「オスカー、御用ですか?」

 小首を傾げながら入ってきたティナーシャを、窓辺に立っていた男は無言で手招いた。魔女は何の警戒心もなく、いつものようにその隣りに立つ。

 無表情のオスカーは、彼女を見下ろすと大きな手を白い頬に触れさせる。

「今日は何してた?」

「いつも通りです。解析して使い魔の報告を聞いて。ああ……ナークにお使いを頼んでいたんですよ。ルクレツィアから珍しい茶葉をもらったので。後で淹れますね」

 機嫌よく笑う彼女は、契約者を見上げてその表情が変わらないのに気づいた。

「オスカー?」

 魔女は彼の顔に触れ、宙に浮こうとする。その手をオスカーは無造作に掴んで引き寄せた。ティナーシャは空中で体勢を崩し、男の体に激突する。

 訳の分からぬ事態に彼女が目を丸くしかけたその時、近くでカシャンと金属が鳴る音が聞こえた。掴まれた手に目をやると、魔女の細い手首には契約者の手によって、幅の厚い銀色の腕輪がはめられている。

 彼女は一瞬怪訝に思い、すぐにその意味に気づいた。

「こ、これ……」

「アカーシアと共に伝わっている封飾セクタだ。材質が同じらしいぞ?」

 ティナーシャは魔力を手に集めようと意識したが、腕輪の干渉によって力が形にならない。その効果とこんなものが存在することに、彼女は戦慄した。

「オスカー!」

 意味の分からぬ行いを批難しようと顔を上げた彼女は、男の目を見て硬直した。

 明らかな怒気がそこには浮かんでいる。ティナーシャは彼がこんな目をするのを見たことがなかった。―――― そして魔女になって以来初めて、彼女は心の底から、怖い、と思ったのである。


 オスカーは固まってしまった彼女の顎に手をかけて上を向かせると、闇色の瞳を睨む。

「分かっていないと思っていたが、これほどまでとは思わなかった。気長に待つつもりだったが、それにも限界がある」

「オスカー……?」

 ティナーシャは自分の声が震えているのが分かった。

 目をそらしたいのだが、顔を固定されていてそれが叶わない。 血の気が引き、眩暈が彼女を襲った。男の低い声が全身を伝う。

「ティナーシャ、俺はお前を他の男にくれてやるつもりでつれてきたわけじゃない」

 魔女はその言葉にようやく事態を理解した。つまり先ほどの出来事が原因なのだ。ミラリスが彼に告げたのなら監視にかかるはずである。ならばおそらく彼本人に見られていたのだろう。


 ティナーシャは弁解を言葉に乗せようとしたが、それより早くオスカーは彼女の体を抱き上げた。冷ややかな目が彼女を一瞥する。

 自分を抱き上げたまま歩き出す男を見上げて、ティナーシャはもう一つ別の恐怖が手を伸ばしてくるのを感じた。思い出すまいと封じ込んでいた記憶がせりあがってくる。過去が現在を黒く塗りつぶす。

「……オスカー……やめて……下ろして……」

 囁くような懇願を、しかし彼は無視した。

 オスカーは寝台に彼女を横たえると、その手を自分の手で拘束する。幼い子供のように恐怖に震える彼女の耳に囁いた。

「お前は何も分かっていない。あんまり分かっていないようだから、骨身に沁みるほど教えてやろうか」

 顔を離すと、ティナーシャは死人のように蒼白な貌をしていた。闇色の目は焦点があっていない。ただ虚空を睨んで微かに震えている。

 オスカーは小さく溜息をつくと、白い頬を軽く叩いた。しかし彼女はそれに気づかないのか硬直したままだ。

「……やめて……いやだ……」

「ティナーシャ」


 様子がおかしい。

 彼は魔女の上体を起こそうと、背中に手を差し入れた。

 その手が振り払われる。

 テーブルの上に置かれていた水差しが軽い音を立てて砕け散った。押さえ切れない魔力が部屋中に渦巻き始める。

 まずい、とオスカーが思った時、彼女は体をよじって彼の手の届く範囲から逃れた。寝台の上でうつ伏せになると、折れそうな両腕で体を起こし振り返る。

 再び彼を捉えた彼女の目は、まさに手負いの獣と言えるものだった。闇色の瞳に男に対する殺意が浮かぶ。オスカーは、彼女が自分に殺意を宿した目を向けるのを初めて見た。


 純粋な力を伴う意志はしかし、封飾のせいで彼には向かわず部屋中の物を破壊するに留まっている。いくつか吹き飛ばされた物の破片が飛んでくるが、結界がそれを弾いた。

 魔女の瞳がオスカーを射抜く。

 一目見るだけで他の誰もが逃げ出したであろう双眸。だが彼はそれを真っ直ぐ見返しながら、躊躇わず体ごと乗り出しその頬に手を伸ばした。

「ティナーシャ」

 強張った小さな顔に男の手が触れる。

 夢ではない、確かな温度。

 彼女は瞬間、ハッと我に返り、そしてすぐに目を伏せた。そこには一瞬前の刺す様な雰囲気は微塵も残っていない。物の壊れる音がやむ。

 オスカーはもう片方の手も伸ばすと、ティナーシャの体を腕の中に引き寄せた。小さな背中を軽く叩く。

「悪い。少し脅かすつもりだった。趣味が悪かった」

「……いえ、私……すみません」

 その白い顔は、むしろ殺意を見せたことを恥じているようであった。彼女はまだ僅かに震えている両手で彼の服を掴む。

「すみません……本当に……」

「いや普通謝るのは俺だろう」

 オスカーの言葉に、ティナーシャは血の気の戻りきらぬ顔で、しかし怪訝そうに

「何で?」

 と見上げる。

 その稚い目に思わず吹き出して、彼は自分の魔女を抱きしめた。



「え、もうぼこぼこにしてきちゃったんですか……」

「すまん」

「それはアルスに謝ってくださいよ……」

 ティナーシャはオスカーの膝の上で頭を抱えた。

「一応、何か言いたいことがあるなら言えと言ったんだが」

「言えないよ! そんな衆人環視の中で!」

「申し開きの言葉もありません、と言われた」

「アルスも言葉を選べよ!」

 オスカーは、憤慨していく魔女の頭に顎を乗せる。彼女の手に触れて確かめると、やっと震えはやんだようだった。

「大怪我はさせてないぞ。十回ほど連続で試合をしたから、多分全身に打ち身ができてるだろうが」

「後で治療に行ってきます……」

 腕の中の彼女は、何とかいつも通りに戻っているように見える。

 少し怒って脅かしてやるだけのつもりだったのだが、彼女の予想外の反応を見て、オスカーは馬鹿なことをしたとひどく後悔した。大事にするつもりだったのに自分が傷つけるとは本末転倒だ。二度とすまい、と固く心に刻み込む。

 だがその心中を隠して、彼は目の前の魔女の頬をつねった。

「しかしそういう情報を俺に隠すなよ。滅茶苦茶怪しいじゃないか」

「うう」

 ミラリスについて、アルスから聞いた不審点を加えて彼に報告した魔女は、しょんぼりと自分の手のひらに目を落とした。

「いやでも無実だったら可哀想だし……。それに折角の可愛い女の子じゃないですか。貴方が彼女を好きになる可能性を潰したくなかったんですよ」

「お前は……」

 オスカーは盛大な溜息を共に両手を拳にすると、左右からティナーシャのこめかみをぐりぐりと締め上げた。

「そういうのを分かっていないというんだ!」

「痛い痛い痛い!」

 魔女がバタバタと暴れるので手を離す。解放されたこめかみを涙目で押さえる彼女を見ていると、オスカーは自分の中に何とも言えない疲労感が満ちていく気がした。

 このままあとどれくらい同じことを繰り返さなければならないのか。今のうちに打てる手は打った方がいいだろう。

「お前ちょっと一緒に来い」

 猫を抱くように脇の下に手をいれて彼女を立たせると、オスカーは自室を出て大声でラザルを呼んだ。

「お呼びですか?」

 と現れたラザルは、部屋の中を一目見て嵐でも来たかのような壊れっぷりに絶句する。

「一体何が……」

「気にするな。ちょっと親父に会う。ミラリスとかいうあの娘も連れて来い」

「陛下は今、謁見の間で重臣の方々や文官たちと、誕生祝いの式典についてご相談なさってます」

 一年に一度、国王の誕生日を祝うための式は、実質的には他国との外交の為に開かれている。ファルサスは近隣では最も大きく、武力的にも文化的にも他国の追随を許さない安定した国家であるため、その日は近隣諸国の王族貴族、政治家がファルサスに集まりそれぞれの関係を調整する場になっているのだ。

 オスカーは大きく頷いた。

「丁度いい。そこに行く」

「ええ!?」

「いいからあの娘を連れて来い。急げよ」

 ラザルが戸惑いながらも慌てて立ち去ると、オスカーは同様に困惑するティナーシャの手を引いて歩き出した。



 魔女の手を引いて突然入ってきたオスカーに、一同は目を丸くして注目した。

 彼は「少し邪魔する」と言ってようやく彼女の手を放すと、一段高いところにいる父親の前に歩み出る。

 重臣と文官たちは慌てて壁際に下がり、ティナーシャは所在なくその場に立ち尽くした。

 まもなくラザルに連れられてミラリスが入ってくる。彼女はやはり困ったように辺りを見回すと、ティナーシャから少し離れた場所に立った。

 ケヴィンは突然の来訪に呆れた顔になる。

「何だい。どうしたんだ」

「色々分かってないやつが多いから、この際はっきり言っておきたい」

 オスカーはそこで言葉を切るとティナーシャを振り返った。彼女は、まったく分かりませんという表情のまま首を傾げて応える。

 その闇色の瞳を見たまま、オスカーは部屋の全員に聞こえるように声を上げた。

「俺は選択肢がないからあいつを傍に置いてるわけじゃない。あれ自身が気に入ってるから置いてるんだ。どんな他の女を連れてきても意味がないし、迷惑だ。あれ以外を選ぶ気はない」

 その言葉に場は騒然となる。

 重臣や文官たちは、ある者は唖然とし、ある者は絶望に顔を曇らせた。

 ケヴィンは、息子の宣言が予想の範囲内だったのか片手で顔を覆うと溜息をつき、ミラリスは強張った顔で立ち尽くしている。

 そして或いは、一番驚いていたのは彼女だったのかもしれないティナーシャは

「え?」

 と彼に向って小さく聞き返しただけだった。

 そのぽかんとした顔を、呆れたようにオスカーは見つめる。

「ここまではっきり言っても分からないのか。選択肢が一でも百でも千でも、俺は必ずお前を選ぶ。変な気を回すな。ややこしい」

 魔女は、あまりのことに二の句が継げないらしい。その美しい顔が真っ青になり、次に真っ赤になるのをオスカーは面白く眺めた。


 しかしとりあえず彼女のことは放置し、彼はミラリスに向き直る。

「そういうわけだ。お引取り頂こう。いやその前に、本当は何者なのか話していってもらおうか。エッタードはお前を探してはいなかったし、お前の言う力のあった祖母などいなかった。俺は他のやつらのように甘くはないぞ?」

 ミラリスは怯えた顔で硬直していたが、オスカーの言葉を受けて息を吐くとゆっくりと目を閉じた。

 ほんの少しの時間。それは転換を促す間である。

 次に緑の目が開かれた時、大人しく控えめな少女はどこにも居なかった。彼女は不敵な顔でオスカーを見返すと右手を上げる。

「形あるものをその手により焼却せよ! 炎よ! 我が手に来い!」

 次の瞬間巨大な魔力が炎の塊となってミラリスの手を包んだ。一気に部屋の温度が上昇する。彼女はそれを、躊躇いもなくティナーシャに向かって打ち出した。

 魔女は眉を顰めると、軽く手をかざしてそれを防ごうとし―――― 手首に銀色の腕輪がはまったままなのに気づく。

「うわぁ!」

 叫び声を上げる彼女に、ミラリスは片端だけ唇を上げて笑った。


 ―――― 炎が魔女を飲み込む。

 誰もがそう思って目を閉じたその時、しかしオスカーがアカーシアを抜いて間に入った。一閃で構成ごと炎を打ち砕く。そのまま彼はミラリスに向かって踏み込もうとした。

 だが少女はすかさず呪文を詠唱すると、その場から転移して消える。ティナーシャは慌てて彼の服を引いた。

「オ、オスカー、これとって!」

「悪い。忘れてた」

 彼が軽く腕輪の表面に指を滑らせると、王族の気配に反応して封飾が開く。ティナーシャは腕輪を取ると、オスカーに投げて渡した。

「宝物庫の方に向かってるようです。追います」

 そう言うと魔女は少女を追って転移した。



 宝物庫には結界が張られており、少女の力では直接転移することは叶わなかった。

 もともと転移はかなりの構成を要する高等魔法なのだ。ほいほい使えるものではない。

 彼女は近くの廊下に転移すると、その足で宝物庫に向かって駆け出した。見張りの兵士が慌てて制止しようと遮るのを空気の球で弾き飛ばす。もつれそうになる足を必死に動かして、ミラリスはようやく宝物庫の前にたどり着いた。大きな扉を魔法で破ると、中に駆け込む。中には雑然と、しかしある程度の秩序をもって目のくらむような財宝が収められていた。

 しかし彼女はそれらに目もくれず、魔力を使って周囲を探ると、部屋の片隅に隠すように置かれていた小さな白い石の箱を手に取った。

 蓋を開けると、そこには赤い鉱石を磨いて作られた、手のひらより少し大きい珠が入っている。表面には複雑な紋様が彫られていた。

「これだ……」

 ミラリスは蓋をしめると、箱を大事そうに抱え込む。宝物庫を出ようと踵を返して―――― びくっと全身を強張らせた。

 そこに待っていたのは最強と言われる魔女である。彼女の白い両手の中には、巨大な構成が既に組まれていた。自分との圧倒的な力の差に、ミラリスは戦慄する。

 ティナーシャは細めた目で少女の持つ箱を見た。

「何を持っていこうとしているのか分かりませんが、それを置いていけば見逃してもいいです」

 力ある警告に、少女は乾いた唇を舐めた。緊張に凍りそうな体を奮い立たせる。

「私にはどうしてもこれが必要なの……。あなたにはきっと一生分からない!」

「そりゃ言ってくれなきゃ何も分かりませんけど……」

 言葉でどうにかなる相手ではない。ミラリスは構成を練り始めた。

 一方ティナーシャは、小さく嘆息して構成に魔力を通す。不可視の蔓が背後から少女の持つ箱を奪い取った。もう一本の蔓がその体を束縛する。

 ミラリスは慌てて攻撃のための構成を自分を束縛する蔓に向けた。

「断ち切れ!」

 蔓が四散する。威力が強すぎたそれは彼女自身の肌に裂傷を走らせた。軽い痛みに目を瞑ると、ミラリスは箱に向かって手を伸ばす。しかしその細い体を、ティナーシャの放った光球が弾いた。

 ―――― どうしても手に届かない小さな箱。

 それが孕む運命を思ってミラリスは唇を噛む。淡い緑の瞳から涙が零れた。

 何にかえても守りたい大事なものがあると、どうして分かってくれないのだろう。この身を越えても、取り戻したいものがあるのだ。

 ミラリスは手を伸ばす。

 もっと……もっと……力があれば……。

 意識が拡散する。

 魔力が体内で渦巻く。

「やめなさい!」

 魔女の制止が響く。

 だが、彼女の耳にはもう聞こえない。

 どうか届いて、それだけを思って。

 そして決して戻らない、ただ一人の顔を脳裏に浮かべて。

 彼女は目を閉じた。



 オスカーが警備の兵を伴って宝物庫に来た時、魔女は意識のない少女の体を膝の上に抱いていた。少女の顔は白く、銀髪には輝きがない。閉ざされた瞼をオスカーは覗き込む。

「死んだのか?」

 魔女はかぶりを振った。

「体は生きていますが、魂はもうありません。自分で魂を力に変換して……なくなってしまいました」

 オスカーは改めて少女の顔を見下ろした。涙の跡がそこにはある。

 投げ出された細い腕。傍には小さな白い石の箱が置かれていた。



 全てが終わったその晩、ティナーシャは城の露台に腰掛けて月を見上げていた。結局、何も明かさないまま消えた少女のことを思う。

 自分がいなかったら或いは彼女は幸せになれたのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。全てはもはや闇の中だ。

 埒もない考えを巡らせる魔女に、後ろから酒盃が差し出される。彼女は礼を言うとそれを受け取った。

 そこに立っているのはオスカーの父、ケヴィンである。ティナーシャは露台の手すりから下りると頭を下げた。

「今回のこと、色々申し訳ありません」

「いや、こちらこそ申し訳ない。どうも気が急いていたようだ……オスカーにも散々絞られました」

 ケヴィンは肩をすくめて舌を出した。妙に子供っぽい仕草はオスカーにはないものだ。その表情に魔女はつい笑ってしまう。

「あの宝珠は何なんですか?」

「貴女はご存じないのか……。いやあれは……妻の形見です」

 ティナーシャは軽く目を瞠ると黙って頷いた。簡単に触れてはいけない気配を王の表情から感じ取ったのだ。ケヴィンは苦笑すると自分の杯に口をつける。

「あいつのこともご迷惑をおかけしました。宝物庫から封飾まで持ち出して。まったく」

「あんなものあったんですね……」

「私の父が宝物庫の隅に死蔵されていたのを掘り起こしてきたんです。確かあいつが子供の頃に一度見せてやったことがあります」

 レギウスがその存在を知らなくてよかった、とティナーシャは心から安堵した。ケヴィンは彼女に並ぶと月を仰ぐ。

「あいつは変なところが親に似てしまったようで……。やたら頑固だし……。私から頼むのも何ですが、もしよろしかったら一緒になってやってください」

「とめてくださいよ……」

「私にその資格はありませんよ」

 王は晴れやかに笑った。

 その目に過去を想う温かさが揺れるのを見たティナーシャは、かける言葉をなくして静かに目を閉じた。

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