第14話 今宵、月の下で 01
月の青白い光が部屋の中に差し込んでいる。
ファルサス城にある一室、窓辺の椅子に腰掛けた魔女は使い魔からの報告を受けていた。
今回はいつも探している男についての報告ではない。先だってティナーシャの幼名を持って会いに来た、北の小国クスクルについての何度目かの調査報告だ。
ティナーシャはそれを、椅子の背もたれによりかかるようにして頬杖をつき、目を閉じて聞いていた。感情の見えない貌を青い月が照らし出す。
やがて報告が全て終わると魔女は、揺らぐ闇色の目でただ空の月を見上げたのだ。
「ようやく結界の穴から入り込んだんですが、魔法士がかなりの数集められていますね。精霊術士も多いです」
翌日彼女は執務室で、オスカーに使い魔からの報告を伝えた。
彼は机の上に置かれた陶器の像を弄びながら聞いている。面白くない、と思っているのが明らかな顔だ。
「そんなに集めて戦争でも起こすつもりか?」
「否定はできません。魔族の召還も試みているようです」
「普通の兵士は?」
「魔法士と同数くらいですね。二百くらいですから決して多くはありませんが、王宮には侵入できなかったので……」
普通の国が擁している魔法士の数は、二、三十。大国で五十に届くかどうかだ。二百人もの魔法士を集めている国など大陸では他に何処にもないだろう。
オスカーは魔女の言葉を捉えて聞き返す。
「王政なのか?」
「そうみたいです。誰が王なのかは分かりませんが、元の領主やタァイーリの王族、貴族ではないようですね」
「魔法中心の国家というからには、そいつも魔法士の可能性が高いだろうな」
オスカーは頭の後ろで腕を組んだ。ついでに足を机の上に乗せる。普段はしない行儀の悪さは、彼が難しい考え事をしている時の癖だ。
「とりあえず定期的に調査を出してもらえるか? 何事もなく終わるとは思えん」
「了解です」
「悪い」
嫌な予感はあっても、今の段階ではどうすることも出来ない。
オスカーは足を下ろすと未処理の書類を手に取った。ふと顎に手を掛ける。
「そういえばエッタードの具合がよくないらしい」
「そうなんですか?」
老将軍エッタードは最年長の将軍であり、名目上ファルサスを代表する一人だ。魔女は壁に寄りかかりながら眉を曇らせた。その手にはルクレツィアから借りた魔法書が抱えられている。
オスカーは気欝そうに頷いた。
「もう年だからな。体が弱っていて起きられないそうだ」
「それにしても急ですね。アルスが心配しているでしょう」
「あいつはエッタードに随分可愛がられてたからな。俺も世話になった」
アルスは城に入る前からエッタードの屋敷に出入りして剣を学んだらしい。若い頃には国一番の剣士だったエッタードは、その腕を子供たちに教える手間を惜しまず、オスカーも幼い頃からよく手ほどきを受けていたのだ。
ある日呪いのことを知らされたエッタードは、彼に剣を教えながら
『絶望が人を腐らせるのです。意思を強くお持ちください。結果はそれに付随します』
と言った。その言葉は今でもよく思い出す。
オスカーは顔を上げると、自分を見ている魔女を見返した。
「お前は俺より後に死ねよ?」
魔女は少し驚いて、困ったような笑顔を見せた。
エッタードはそれから三日後、眠るように亡くなった。
家族のいない彼の遺品は、しめやかな葬儀の後、エッタード自身の希望により全てアルスに託された。そしてエッタードが知らされていた魔女の呪いについても、王の許可の下、アルスへと引き継がれることになったのである。
いまや名実共に武官の頂点に立つ若き将軍は、王太子から長い話を聞いて嘆息する。
「そんな呪いがあったとは……」
「迷惑な話だろ」
埋葬も滞りなく済んだ翌々日、執務室に挨拶にきたアルスは、オスカー、ラザル、ティナーシャとお茶を飲みながら、しみじみとした感想をもらしていた。同じテーブルについている魔女を見やる。
「ティナーシャ嬢が結婚してくれなかったらまずいんじゃないですか」
「断絶だな」
「しないよ!!」
妙に息を合わせているオスカーとアルスに、ティナーシャは顔をひきつらせながら反論した。
「解析だってちゃんとやってますよ! 今!」
「無理しなくていいぞ」
「やる気をそぐな!」
オスカーに噛みつかんばかりに怒っている魔女を、アルスは不思議そうに見やる。
「殿下のどこに不満が?」
おおよそ欠点がないように思える主君の何が問題であるのか。今まで聞かれたことのない率直な質問が魔女を直撃した。彼女は目を丸くすると、真剣に悩み始める。
「ど……こと言われても……どこですか?」
「俺に聞くな」
それまで黙ってお茶を飲んでいたラザルが口を挟んだ。
「人をからかうことが好きなところが嫌なんじゃないですかね」
「そうかも」
「ラザル、お前……」
ラザルは主人の冷ややかな目に首をすくめた。不毛な泥沼になりそうな会話を打ち切って、ティナーシャが言を引き取る。
「まぁあと半年以上ありますし、何とかなるでしょう」
「期待しよう」
オスカーは目的語を伏せたまま頷いた。
どうも会話が噛み合っていないような気がするが、あえて深く考えない方がいいかもしれない。ティナーシャは立ち上がろうと椅子を引く。
その時、足がテーブルにぶつかり、端に置かれていた砂糖壷が床に落下してしまった。清んだ音をたてて蓋が割れる。
「ああ、すみません」
「大丈夫か?」
ティナーシャは床に屈みこむと砂糖壷を拾い上げた。幸い本体は割れていない。魔女が手をかざすと零れ落ちた砂糖が舞い上がり、元通り壷の中に戻っていく。
ラザルがそれを受け取ると、彼女は蓋の破片を手で拾い集め始めた。隣りから覗き込んだオスカーが怪訝な顔になる。
「治せないのか?」
「壊れ物を戻したりはできないんですよ。時間を停滞させることはできても遡ることはできませんから。もっと破片が大きければくっつける事もできますが、砕けちゃうとちょっと無理ですね……すみません」
「いや構わない。指切るなよ」
「はい」
アルスはその様子を見ていて、誰にともなく嘆息した。
「魔法も万能じゃないんだな」
「それが死すべき生き物の常ですから」
魔女は笑ってそう返した。
※ ※ ※ ※
温かい寝台の上で丸くなって寝ていた少女は、いつの間にか自分がそこから連れ出されていることに気が付いた。眠気に重い目を開けると薄暗い廊下を進んでいるのが分かる。
「目が覚めてしまった?」
心地よい振動と腕。少女は自分を抱き上げている男を見上げた。
よく知っている、誰よりも自分に近い男。少女は安堵の微笑みを浮かべた。
「どうかしたの?」
「これからいいことがあるんだ。是非見てもらいたいと思って」
「大事なこと?」
「大事なことだよ。君と同じくらいに」
男の優しい言葉に少女は噴出してしまう。まだそんな言葉に揺らぐような年ではないのだ。
ただそう思ってくれる男が大好きで、何よりも大切であることは彼女にとっても確かだった。安心すると再び瞼が重くなってくる。
「でもまだ眠い」
「寝てていいよ」
「……眠い……」
少女は再び目を閉じた。
そして二人は長い廊下を進んでいく。
※ ※ ※ ※
日が沈みかけた頃、仕事が一段落したオスカーはクスクルの調査についてティナーシャに確認するため、彼女の自室の前に立った。扉を軽く叩くが何の返事もない。
「ティナーシャ、いないのか?」
扉に手をかけると、鍵はかかっていないのか簡単に奥に開いた。その代わり、入り口に結界が張られているのが見て取れる。オスカーは少し躊躇ったが、そこをくぐった。幸い彼女の契約者であるためか何の違和感もなく通り抜けられる。
彼は部屋に入ってすぐ、魔女の姿を見出した。
彼女は紋様が浮かぶ水盆のすぐ傍で、椅子に座ったまま転寝をしている。歩み寄ったオスカーは軽くその肩に触れてみたが、疲れているのかぴくりとも動かない。
「椅子で寝るなよ……」
オスカーはそう呟くと、彼女の体を抱き上げた。普段まったく重みがない彼女は、さすがに意識がない時は体重を感じられるが、それでも軽い。
魔女は一瞬身じろぎをしたが目を覚まさなかった。
「無防備なやつ」
彼は腕の中の魔女の姿に目を落とす。
ほっそりとした柔らかな体。
普段は意識しないよう努めていることだが、この蠱惑的な存在に触れていると、つい手に入れたいという欲求が頭をもたげてくる。白い陶磁の肌に口付け、印をつけて自分のものにしたい。可能か不可能かではない、ただ捕らえたい。気だるい焦燥に似た感情が胸の奥に燻る。
だが、それが望みの本質ではないことも彼はよく分かっていた。
彼女は実に無造作に彼へと預けてくる。心や体ではなく、その命を。
いつでも殺せる。
分かっていてそれをやっているなら不愉快だ。
そして、無意識にやっているのならば―――― 愛しかった。
いつの間にこんなに執着してしまったのか。曽祖父を笑えない、と彼は苦笑する。
彼女が魔女でなかったら、とは思わない。
もしそうだったらおそらく出会いもしなかっただろうし、何より彼女の経てきた永い時を、そこで重ねた決断を否定したくなかったのだ。
彼女は完璧によく似て、しかし不安定だ。
その過去を全て知りたいわけではない。彼女が言わないのならそれでいいのだ。
自分が欲しいのは、心でも体でも魂でも命でもなく、ただ彼女からの執着なのだろう。
自分に執着して欲しい。この手を取って何よりも大事だと言って欲しい。まるで子供だ。愚かだと思う。
でも今はその愚かさも、悪くはないと思うのだ。
オスカーは彼女の体を寝台に運ぶと、起こさないようにそっと横たえた。
しかし支えていた手を抜こうとした時、ティナーシャは急に跳ね起きる。驚愕、或いは恐怖に強張った目がオスカーを見上げた。
彼は見たことのない魔女の顔に驚き、反射的にその頭を抱く。
「ティナーシャ」
「あ……オスカー……?」
「そうだ」
腕の中で彼女が深い息をつき、体から力を抜いていくのが分かった。手を離すと彼女は若干青ざめてはいたが、その目の中にはいつもの光が戻っている。
「すみません、夢見が悪くて……」
「椅子で寝るからだ」
オスカーが頭を軽く叩くと、彼女は微笑みを浮かべたが、それはどこか弱弱しいものだった。ティナーシャは濡れた目で契約者を見上げる。
「何か御用ですか?」
「いや、またでいい。ちゃんと寝とけ」
クスクルのことなど、調子が悪い時に無理して聞き出すような話でもないのだ。
オスカーは頭に置いたままの手をぐりぐりと動かして、黒髪を乱す。
夢の中でさえも、彼女を脅かすものが何一つなければいいと願いながら。
※ ※ ※ ※
今にも雨が降り出しそうな曇天の空を見上げ、城門に立つ兵士はまばたきをした。
交代の時間まではまだまだある。出来れば降り出さないといいな、と彼は心の中で呟いた。
湿った空気は好きではないのだ。革靴は濡れてしまえば元に戻るまで大分かかる。その間の代わりは嫌になるほどくたびれたものしかない。
兵士は溜息を噛み殺して―――― ふと薄暗い街の中に、遠目にも目立つ銀髪の少女を見つけた。
どうやらこちらに歩いてくるらしいその少女は、近づくにつれ非常に可憐な美貌の持ち主であることが分かる。年は十六、七歳、輝くような銀髪で肌は雪のように白い。大きな瞳は淡い緑で、形のよい唇だけがうっすらと赤かった。
兵士が思わず見惚れていると、彼女はまっすぐ彼に向かって歩み寄り、目の前で足を止めた。そして遠慮がちに囁く。
「あの……陛下にお会いできませんか? エッタード様のご紹介なのです」
少女の言葉に、兵士は目を丸くした。
「エッタードの紹介? あの世からか?」
「笑えない冗談はやめてください……」
ラザルは主人の戯言に眉を顰めた。手元の書類に目を落とす。
「エッタード様がご存命中に彼女に書状を送っていたそうです。とにかく陛下がお待ちですのでいらしてください。ティナーシャ様もお願いします」
名前を呼ばれて、茶器を片付けていたティナーシャは振り返る。
「私も?」
「そうです」
「何でしょうね」
「さぁな」
二人は首を傾げながら、ラザルの引率のもと一同が集まる広間に到着した。そこには既に、王ケヴィンの他に、内大臣とアルス、クムの姿もある。簡略された謁見の間で、臣下たちは玉座を前に思い思いの場所で佇んでいた。
そして彼らの中央には銀髪の少女が不安そうに立っている。誰が見ても美しいと思うであろうその少女は、オスカーの顔を見て期待と恐れの入り混じった表情を浮かべた。
ティナーシャは少女を一瞥して、瞬間怪訝な顔をすると一同に会釈をして壁際に下がる。
「来たか」
ケヴィンは息子とその守護者を確認すると口を開いた。
「彼女はミラリスと言ってな、東の国境のはずれの森に住んでいたそうだ。エッタードが死ぬ前に呼び寄せてくれたらしい」
「それはまた……何故?」
「彼女がお前の妻になれる女性だからだ」
その言葉を、既に知っていたアルスとラザルは表情を消して、ティナーシャは軽く首を傾げて、当のオスカーは呆然として聞いた。
彼はぽつりと父王に返す。
「言っていることがよくわからない」
「ティナーシャ殿の呪いについての説明を聞いてから、エッタードは自分でも手を尽くして探していてくれたらしい。呪いに耐えられる母親となりうる女性をな。それが彼女だ」
ケヴィンはそこで口を挟もうとする息子を目で制止すると、壁に寄りかかっているティナーシャを見た。
「ティナーシャ殿、彼女の力をどう見ますか? 呪いに耐えられそうですか?」
問われたティナーシャは軽く目を細めてミラリスを眺めた。少女がそれに気づいて振り返る。
「ぎりぎりですが可能だと思います。少し魔法で補助してやれば……。貴女、魔法は使えますか?」
突然、見たこともない美女に話しかけられた為か、どこかぼうっとティナーシャに見惚れていたミラリスは慌てて返事をした。
「は、はいっ。あ、いいえ……使えません……」
「その力は生まれつき?」
「いえ、うちは代々女性が力を受け継ぐんです。少し前に祖母が亡くなって……それで私が継ぎました」
「ふむ。補助の為の構成は手が空いたら、作ってクムにでも渡しておきます。身篭ったらかけてあげてください」
ティナーシャの視線を受けてクムは頷いた。王は安堵の息をつくと、少女に命じる。
「ではミラリスはしばらくオスカー付の女官をなさい。ラザル、色々教えてあげてくれ」
「ちょっと待て!」
置き去りにされていた当事者であるオスカーが声をあげた。ケヴィンはしれっとした顔で息子に応じる。
「なんだい?」
「そんなものは不要だ」
「馬鹿なことを言うんじゃない。自分一人で何もかもができるとでも?」
「そうは言っていない。ただ……」
「まだ出会ったばかりだ。彼女もお前も若い。最初から否定しないで時間を重ねなさい」
ケヴィンはそこで話を打ち切ると立ち上がった。反論を聞く気はないらしく、さっさと部屋を出て行ってしまう。その後を追おうとして鍵がかけられる音を聞いたオスカーは、後ろにいたラザルを振り返った。
「……ちょっと待てというのに……!」
「殿下……お気持ちは分かりますが、やめてください……」
腹立ち紛れに首を締められ出したラザルは、されるがままになりながら涙目で呟いた。
ミラリスはその日から、オスカーの世話をする女官となった。
といっても本人も何も分からないらしく、ラザルや他の女官の指導を受けながらのことである。だが何事にも一生懸命で物覚えがいいので、彼女の評判は少しずつではあるが城内になかなかのものとして広まっていった。
もっとも、一番それを面白くないと思っているのは当のオスカーである。いつもと変わらず執務をしていた彼は、少女の淹れたお茶を一口飲むと苦い顔をした。
「あ、あの……美味しくなかったですか? 淹れなおしましょうか」
「いやいい」
男は憮然とした表情を隠しもしない。ミラリスは一瞬泣きそうな顔になったが、ぐっと堪えると一礼して下がった。
彼女が来てからの一週間、ティナーシャはほとんど執務室に姿を現さなくなっていた。
元々ルクレツィアの助力を得て解析が僅かながらも進み始めてから、彼女は空き時間のほとんどをそれに費やすようになっていたのだ。ミラリスが来たことで「ちょうど時間が出来た」と、 魔女は自室か塔に引きこもり、解析にかかりきりになっている。
自分の為だと分かっていたが、そのこともオスカーは面白くないし、また魔女をよく思っていない人間が、明らかに花嫁候補として迎えられたミラリスのことを歓迎していることも腹立たしかった。
ティナーシャは、今まで何だかんだ言いながらいつもオスカーの守護以外の雑事に力を貸していてくれたのだ。そのことを魔女だからといって正当に評価できない人間の視野の狭さが気に入らない。王である父は分かっていると思っていたのだが、ミラリスを彼に押し付けていく始末である。
オスカーは無意識のうちに長い溜息をついた。壁際に控えていた少女が恐る恐る声をかける。
「あの、何か失礼をしてしまいましたか?」
「何でもない。呼ぶまで下がっていてくれないか」
「……はい」
彼女が項垂れながら部屋を出ると、入れ違いにラザルが入ってくる。彼はオスカーの不機嫌たっぷりの顔を見て内心で頭を抱えた。
「殿下……」
「なんだ」
「何でもないです……」
ラザルは持って来た書類をオスカーに渡した。それを彼はむすっとした表情を崩さず受け取る。
「ティナーシャは?」
「今日は塔にお戻りになっているようです」
「……」
オスカーは目を閉じてこめかみをしばらく押さえていたが、唐突に立ち上がった。渡された書類をラザルに突き返す。
「殿下!?」
「その書類は親父のところに持ってけ。たまには仕事しろとな」
言い捨てて扉に向かおうとする主人の後を、ラザルは慌てて追った。
「ど、どこにいらっしゃるんですか」
「塔。夜には戻ってくる」
そう言い残すと、オスカーは乱暴にドアを閉め出て行ってしまう。
残されたラザルは手の中の書類をまじまじと見つめて、がっくり肩を落とした。
「やー、暇してる?」
「ように見えますか?」
解析の為の詠唱をしていた魔女は、いつの間にか塔の窓に腰かけているルクレツィアへと簡潔に返した。水盆から顔を上げると、幾分相好を崩す。
「でも、貴女のおかげで大分進んでます。あと少しで全部解析できそうです」
軽く微笑んだティナーシャの言葉に、ルクレツィアは目を瞠った。
「あなたの努力と才能には頭が下がるわ」
「ルクレツィアよりは真面目ですからね」
ティナーシャは手を止めると、リトラに命じて茶器とお湯を持って来させた。休憩するにもちょうどよい頃合だろう。友人の為にお茶を淹れ始める。
「今度あの焼き菓子の作り方教えてください」
「いいわよ。そんな難しくないし」
ルクレツィアは窓から下りると当然のようにお茶の席についた。自分の茶色い巻き毛を指で巻き取りながら、カップを用意する黒髪の魔女を見上げる。
「そんなに根を詰めてやらなくても、あなたが子供を生んでやればいいじゃないの」
「本気で言ってるんですか? ……それにその件についてはもうお役御免です」
「へ?」
きょとんとした友人に、ティナーシャはミラリスについての話をしてやった。話しながらお茶の葉がほどよく蒸らされたので注ぎ始める。
ルクレツィアはぽかんとして聞いていたが、全て聞き終わると呆れた目でティナーシャを見た。
「何それ。かなり怪しいじゃない」
「そうなんですけど……いい子ですよ。一応監視はつけてますけどね」
「黒幕がいたらどうするのよ」
「尻尾が出たら対処しますが。まぁ生半可な魔法士じゃ今のあの人をどうにもできませんよ」
契約者への信頼ともとれる言葉に、けれどルクレツィアは途端に嫌そうな顔をした。
「分かってるなら、なおさら手綱をとれっての」
「手綱って、オスカーの?」
「あんな危険人物に鍛えといて、野に放たないで欲しいわ」
ティナーシャは痛いところをつかれて小さく唸った。特に何を教えたわけでもないが、この友人は彼女がオスカーを訓練してやったことを知っているらしい。白い目を浴びてティナーシャは力なくかぶりを振った。
「大丈夫。無闇に力を振るいたがる人じゃないですよ……」
「いくらしっかりしててもまだ二十歳そこそこでしょ。あなたみたいに枯れてる人間と一緒にしない方がいいわよ」
「私、枯れてるんですか……?」
「ある意味、非常に」
そう言われても喜ぶべきか怒るべきか分からない。
ティナーシャは返答を思いつかないまま、お茶を注いだカップをルクレツィアの前に置いた。
真っ白な陶器に薄い紅色の澄んだ液体が湛えられている。胸のすく香りを漂わせるそれにルクレツィアは満面の笑みで口をつけた。
「あなたの淹れるお茶は本当好きよ」
「ありがとう」
ティナーシャは自分も椅子につくと、行儀悪くテーブルに両肘をついて顎を支える。契約者の抱える問題について、改めて状況を振り返った。
「でも、選択肢が増えるのはいいことだと思うんですけどね。特に結婚相手なんて、選びようがあった方がいいと思いません? 私しかいないってのはちょっと気の毒かと」
「あなた本気で言ってるの?」
「冗談を挟む余地は特にないです」
ルクレツィアは、普段は聡い友人の無自覚さを鈍感と言っていいのか頭を抱えた。
―――― 彼女は本当に気づいていないのだろうか。
他の人間のように恐れによってではなく、レギウスのように崇拝と憧憬を持ってではなく、ただそこに在る人間として、オスカーが彼女を見ていることに。
彼女が自分の価値を、その力と技術のみであると思っているなら、それ故に大事にされていると思っているなら、自分を知らないにも程があると思う。
具体的な指摘をしてやろうとして、ルクレツィアはしかし口をつぐんだ。代わりにもっと本質的なことを忠告する。
「あなたは魔女である前に人間だからね」
ティナーシャはそれには答えずに、ただはにかんだ。
※ ※ ※ ※
ルクレツィアが帰った後、再び解析に集中していたティナーシャは、リトラに何度か声を掛けられてようやく顔をあげた。目の前に立っている使い魔を見下ろす。
「何?」
「ですから、挑戦者がいらっしゃってます」
ティナーシャはその報告に眉を寄せた。
「入り口は閉めてあるはずだが」
「転移陣でいらっしゃったみたいですよ。オスカー様です」
「え」
魔女は驚きにあやうく解析中の紋様を崩しそうになった。慌てて固定の術をかける。
「仕掛け止めてある?」
「動いてます。でも……」
「ティナーシャ!」
ドアを開ける乱暴な音がして、彼女の契約者がアカーシアを手に入ってくる。彼女は何とも言えない表情でそれを迎えた。
「うわぁ……」
「なんだ、その反応は」
「最少人数記録と最短時間記録を同時更新ですね……。そろそろ本当に人間の域を越えてきましたよ」
「そんなことはどうでもいい」
オスカーは剣を収めると、背の低い魔女を幼児にするように、しかしそれより幾分ぞんざいに抱き上げた。呆気にとられる彼女の闇色の瞳を見上げる。
「お前、どうして顔ださないんだ」
「忙しいからです」
魔女は隣りに置いてある水盆を一瞥した。オスカーもつられてそれを見る。
台座に置かれた水盆の上には、赤い糸が複雑に絡み合った紋様がうっすらと光を帯びて浮かび上がっていた。誰よりもその意味を知っているオスカーは、けれど苛立ちを抑えた声で返す。
「急がなくてもいいだろう」
「出来るうちにやっておきたいんですよ」
率直な、淡々とした返事は、遠さを感じさせるものだ。長い年月を、そして魔女と人を区切ろうとするかのような声音。
オスカーは溜息の代わりに目を閉じる。腕の上から魔女を下ろしてやった。軽くよろけながら彼女が床の上に立つと、その腕を支える。
「最近、お前生き急いでる気がするぞ」
「いい加減長く生きてますから。今更です」
魔女は破顔した。その目に翳りが見えないことに、オスカーは少しだけ安堵する。まだ隣に彼女がいると、無意識のうちに自分に言い聞かせた。
オスカーは漆黒の髪に指を通してその感触を確かめると、独り言のように呟く。
「お前がいないとお茶が不味くて困る」
「まさか、そんなことをあの娘に言ってるんじゃないですよね」
「口には出していない」
顔には出していると言外に言うオスカーに、ティナーシャは呆れた目を向けた。彼女は少しだけ宙に浮き、オスカーと同じ目の高さに立つ。
「もっとお父上の気持ちを汲んでください。貴方のことを考えてなさってるんですよ」
「方向性が悪いぞ」
「だとしてもです。魔女の呪いが貴方に及んでることに責任を感じているんですよ。その為に魔女を娶る羽目になるなんて本末転倒です。お父上は貴方に魔女に関わらせたくないと思ってるんです」
「俺と親父は違うし、お前と沈黙の魔女も違う」
「オスカー……」
たしなめる魔女の声に、オスカーは譲歩の必要を感じた。意識して頭を冷やす。
すぐ正面にある闇色の瞳が自分を見ている。それは稀有なる女の目だ。
「分かった。悪い」
非を認めると、魔女はほっとした笑顔を見せた。彼女は「ああ、そういえば……」と白い手で空を掴む。そこに小瓶が現れた。中には赤い液体が入っている。
「これどうぞ」
「何だこれ、血か?」
小瓶を受け取ったオスカーはそれを目の上にかざした。とろりと揺れたのは柘榴石を溶かし込んだような艶かしい赤色である。
「私の血です。必要がある時に使ってください」
「分かった」
結界を緩ませる必要がある時に、ということだろう。オスカーは小瓶を服の内にしまった。
それを確認した彼女は床に下りると、形のいい指で水盆を指し示す。
「もう少しで解析も完了します。そうしたらまた貴方の傍に戻りますし、その時まだ彼女が気に入らなかったら、そう言えばいいです。まぁ、中々いない、いい子だと思いますけど」
「そんなに進んでるのか」
「努力してますから」
彼女が水盆に向き直り手をかざすと、紋様はゆっくりと回転し始めた。不気味に繊細なそれを、オスカーは魔女の頭上越しに覗き込む。
「お前は、あの娘が怪しいとは思わないのか?」
「少し思いますけどね。一応監視をつけてますので、貴方は気にしないでください。何かあったら私が対処しますよ」
「いつもは用心しろと煩いくせに」
「無実だった時に可哀想じゃないですか。せめて貴方だけは信じてあげてくださいよ」
変なところで優しいな、と言おうとしてオスカーはその言葉を留めた。
もっとなりふり構わず嫉妬する彼女を、自分は見たかったのだろうか。
そうではないと言い切れば嘘になる。だが今の状態ではそんな反応は望めないことも分かっていた。彼女の何物にも拘泥しない優しさが、少し憎たらしい。
だがまだ時間はあるのだ。焦る必要はない。彼には不思議と自信があった。
ティナーシャは両手をかざしてしばらく詠唱を加えていたが、一息つくと複雑な紋様を悲しげな眼差しで眺めた。嘆息が床の上に落ちる。
「私がこういう戯言を言ったってことはここだけのことにしてくださいね」
「何だ?」
「この、沈黙の魔女が貴方たちにかけた『祝福』。構成を見るとですね……本当に美しいと思うんですよ。複雑で繊細な構成を綺麗に纏め上げていて、余分なものがなくて、溜息が出ます」
「そういうものなのか」
見ると、二十近い円環とそれに付随する糸で構成される紋様は、まるで一つの芸術作品であるかのように美しいと言い得る形を作っていた。今までそんな目で自分の呪いを見たことがなかったオスカーは、改めて複雑な構成に見入る。すぐ傍で魔女が小さくかぶりを振った。
「これを見ていると、愛情と憎悪は表裏であると思い知ります。とても……怖いですよ」
オスカーは、彼女の言う意味が取れずに沈黙する。
―――― 何が愛情で何が憎悪なのか。彼女は何を怖れているのか。
だが聞いてもおそらく答える気はないのだろう。
だから彼は、不安定に見える魔女の華奢な体に後ろから両腕を回した。顎を小さな頭の上に乗せ、白い貌を覗き込む。彼女が小さく笑うのが分かった。
「手が空くなら、夕食作ってくれ」
「はいはい」
彼女は温かい手で、彼に応えた。
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