第12話 この息は彼方の息



 長い年月はそれだけで人を腐らせる力があると、ティナーシャは知っていた。

 どれほどの強い思いを持って為していたとしても、時が過ぎればそれはやがてただの作業となる。痛みでさえも忘れられる。それは人が生きていく為の不可欠な要素だ。

 だが……自分はどうなのだろう。

 強い思いだけを頼りに永い時を渡る自分は。

 まだあの思いは残っているだろうか。変質していないだろうか。

 もし、思いがまだあると錯覚しているだけならば。

 それが作業になるのならば。

 その時自分は死ぬべきなのだ。かつて死ぬはずだった、あの日のように。




 ※ ※ ※ ※




 ティナーシャはその晩熱を出した。

 看病にあたったルクレツィア曰く、精神的な疲れからくるものらしい。

 ルクレツィアは文句を言いながらもメレディナの治療をし、ティナーシャに薬を飲ませて一晩ついていた。

 魔女二人がその夜どんな会話を交わしたのか、オスカーは知らない。

 ただルクレツィアが帰り、翌日午後から起きてきたティナーシャは、すっかりいつも通りの彼女に戻っているように見えた。



「申し訳ありませんでした。どのような処分も覚悟の上です」

 執務室でアルスとメレディナは、困ったような顔の魔女に頭を下げていた。メレディナは術の影響か、まだ顔色が悪い。ティナーシャは執務机に座る契約者を一瞥すると、二人に向かってかぶりを振った。

「あの、謝らないでください……ああいう術はかけられたら逃れられる人はほとんどいないんです。むしろ気づかなかった私に謝らせてください。御免なさい」

 そう言って深く頭を下げるティナーシャに、メレディナは涙が零れそうになった。

 昨日中庭で転寝をしてしまってからの記憶がまったくない。詳しい話をアルスから聞いて、彼女は自分の迂闊さとしでかしたことに、消えてしまいたいとさえ思った。

 ティナーシャはそんな彼女の心情を感じ取ったのか、顔を上げないメレディナを覗き込んで、その手をとる。

「本当に御免なさい。時間がかかっても、必ず貴女に術をかけた人間には相応の償いをさせます」

 メレディナは言葉が形にならなかった。ただ唇をかみ締めて頷いただけである。



「で、あの胸糞悪い使者の行方はもう分からないわけか」

「昨日のうちに城都を出たようです」

 アルスとメレディナが退出した後、オスカーは足を組みながら傍に控えるラザルに問いかけた。予想通りの答に舌打ちしたくなる。

「九割方黒だが、証拠がないからな」

 まったくとんだ置き土産である。人の気分を害することに血道をあげているとしか思えない。

 オスカーは忌々しさを込めて吐き捨てた。

「クスクルについては調査を出した方がいいな」

「使い魔を出しますよ。人を派遣するより魔法を避けやすいですから」

 ティナーシャはお茶を淹れながら苦笑した。それをラザルが気遣わしげに見やる。昨晩の蒼白な彼女を見ている分、心配なのだろう。

 カップを受け取ったオスカーは魔女を見上げた。

「お前、もうちょっと休んでてもいいぞ」

「平気平気。本当は頑丈なんです」

「あまり説得力がない」

 湯気が彼の顔をくすぐる。口をつけると、よい香りが肺を満たした。

 ティナーシャは横に立ったまま彼をじっと見詰めてくる。その視線に何か言いたげなものを感じてオスカーは顔を上げた。

「なんだ?」

「いえちょっと、仕事が終わったら二時間くらい付き合って頂けませんか?」

 彼女がこういったことを言い出すのは初めてのことである。どういう風の吹き回しだ、とオスカーは思ったが口には出さなかった。

「構わんが何に」

「八つ当たりに」

「…………」

「アカーシア持ってきてくださいね」

「……分かった」

 満面の笑みを浮かべて背を向ける魔女に、オスカーは分からないように小さく溜息をついた。


 ティナーシャの自室の片隅には、いつ用意されたのか小さな転移陣が描かれていた。

 彼女に言われるままオスカーが転移した先は、見覚えのある広い円形の空間である。周囲の壁はうっすらと青い鉱石を滑らかに削って作られていた。見上げれば天井はなく吹き抜けになっており、その先は遠くてよく見えない。

「塔か」

「当たり」

 ティナーシャが軽く手を振ると転移陣は見えなくなった。彼は辺りを見回すと、素朴な疑問を口に乗せる。

「何でここに」

「ここなら壁に当たった魔法は吸収されますし、私の結界が満ちてるんで守護結界をほぼ無効にできます。あとはまぁ、あまり人目につきたくないんです」

 黒い魔法着姿のティナーシャはそう言うと、歩いてオスカーから少し離れた。同時に彼に手を振って距離を取るように示す。オスカーはそれに従って下がった。

「今日から一ヶ月。一日二時間、ここで私に付き合ってもらいます。死なないようには気をつけるんで頑張ってください」

 彼女はおもむろに右手で空を掴んだ。その手の中に一振りの剣が出現する。

 半瞬、唖然としたオスカーは、事態をようやく認識して緊張の笑みを浮かべた。

 ティナーシャはついで左手を差し伸べる。白い手の中に青い炎が燃え上がった。

「では、行きます」

 魔女はそう言うと、軽く床を蹴った。



『八つ当たり』は壮絶なものだった。

 模擬試合をした時、あまり手加減していないと魔女は言ったが、それはあくまでもオスカーにあわせて戦っている場合であり、距離を保って攻撃してくる彼女と戦うことがどれほど大変なのか彼は思い知ることになった。

「まぁ初日ですし、こんなものですかね」

 塔の最上階に移り、ぐったりと椅子に座っているオスカーの傷を治し終わるとティナーシャは何ということのないように言った。

 リトラが持って来た水を彼は受け取る。冷水を口に含むと疲れが少し引く気がした。オスカーは一息つくと、水をしぼった布で顔を拭いてくれるティナーシャを見上げる。

「訳を聞いても?」

 彼女は笑って頷いた。

「色々あって、一概には言えないんですけど、大雑把に言うなら、選択肢を多く持って欲しいってことですかね」

「選択肢?」

「これから何かあったとき、『もっと力があれば他の道があるのに』って後悔をしてほしくないんです。出来る限り多くの選択肢の中から貴方が望む道を選んで欲しい。それが理由です」

 彼女はそう言うと、いつも自分がされているようにオスカーの頭を撫でた。

 ゆっくりと触れられる手は母親のように優しい。

 或いは、選択肢がなくて辛い思いをしたのは過去の彼女なのかもしれない。オスカーは漠然とそう思ったが、その想像は何故か正しいような気がした。

 彼は黙って目を閉じる。髪を梳く彼女の手が心地よかった。



 それから毎日、オスカーは魔女の訓練を受けるようになった。

 たった二時間だが毎日少なからず魔法を受けるので、その疲労を癒す為に彼は夢も見ずに眠った。勿論傷は治されているのだが、疲労は魔女にもどうにもならないらしい。

 こんなに厳しい訓練をしたのは、呪いのことを理解してただひたすらに力を欲した少年時代以来かもしれない。強大な力を持つ魔法士の遠距離攻撃、そしてある程度立ち回りをこなす魔法士の中距離攻撃に、どう単身で対応するか魔女は徹底的に教え込んだ。相手は彼女一人だけのこともあれば、彼女の使い魔が前衛として加わることもあり、その攻撃は多彩を極めたのである。

「そもそも貴方は魔力が見えるはずなんですよ」

 不可視の蔓に足を絡め取られて隙を作ったオスカーに、ティナーシャは手を止めると溜息交じりにそう言った。

「模擬試合の時は見えてたじゃないですか。精神状態に左右されるようじゃ駄目ですよ」

「そうは言ってもな……見えるというか感じるだけで」

「貴方は本来なら魔法士にもなれる素質があるんですが……。まぁ向いてないからなれないとは思いますが」

「なれるのかなれないのかどっちだ」

 ティナーシャは肩をすくめると呪縛を解いた。

「そろそろ二時間ですね。終わりにしましょう。少し糖分と睡眠を取った方がいいですよ」

 指摘されると改めて体の疲労が実感として押し寄せてくる。 急激な睡魔が彼の全身を襲った。

「あ、ちょっと、ここで寝るな」

 振り返った魔女の慌てた声が聞こえるが、それに返事も出来ないままオスカーは目を閉じていた。



 目が覚めた時、オスカーは暗い部屋に寝かされていた。

 彼の私室ではない。体の傷は全て塞がれ、血は拭い取って新しい上着が着せられていた。

 起き上がって窓の外を見ると、月が荒野を照らしている。これほど高い場所にある部屋など他にない。塔の最上階にある魔女の寝室だった。

 振り返ると隣へと続く扉の隙間から光が零れ出ている。彼が扉を開けると、明るい部屋の中央に背を向けて立っている魔女が見えた。先ほどまでの格好とは違い、長い髪を結い上げて、左足の部分に深い切れ込みが入った魔法着を着ている。

 彼女は水盆に手をかざし、その上に浮かび上がる紋様に詠唱をかけていた。余程集中しているらしく、彼が部屋に入ってきたのにも気づかないようである。

 オスカーは彼女の後ろに立つと、むき出しになっている彼女の白い足を撫でた。細い肩に口付ける。

 魔女はそれで初めて彼の存在に気づいたようだった。背後を見上げ 「起きました?」 と苦笑する。余りの平然ぶりにオスカーは手を離すと眉を顰めた。

「お前、無防備すぎるぞ」

「集中してたので……さすがに侵入者がきたら気づきますよ」

「そうじゃなくて。べたべた触られたらもっと怒れ」

 べたべた触る本人に言われて、ティナーシャは理不尽さを感じたのか眉を寄せた。彼女は術をかけて紋様を固定すると、彼の方に向き直った。

「怒れと怒るくらいなら、最初から触らなきゃいいんですよ。それに、くすぐったかったり邪魔だったら文句言ってます。貴方に関してはもう慣れちゃいました」

「…………」

 何ともいえない複雑な表情で黙り込んだオスカーをその場において、魔女は飲み物を入れるために部屋を出て行った。五分後、甘い果実酒に砂糖を入れて温めたものを持って戻ってくる。

「城には伝言を出しときましたよ」

「ああ、悪い」

 オスカーはカップを受け取ると口をつけた。

 かなり甘い。

 眩暈がするほど甘い。

 一口飲んで思わず、顔を上げる。

「飲め」

 だが、それを見透かしたように魔女の声が頭上に投げかけられた。彼は渋々カップを口に運ぶ。一口飲むごとに知らない世界が近づいてくる気がした。


 甘さという暴力の代物を半分まで何とか胃に入れると、オスカーはカップを置いた。魔女に注意される前に別の話題を上げる。

「大体、魔力とか魔法って何なんだ?」

「随分根本的な質問をしますね……」

「知らないからな」

 ティナーシャは窓辺に置かれた大きな箱に腰掛けた。月光が彼女を照らし、床にうっすら影を作る。

「魔法は、個の意思による魔力を用いた現象への干渉です」

「……さっぱり分からないぞ」

「最後まで聞いてくださいよ……」

 魔女は呆れ顔で指を鳴らした。部屋を照らしていた照明が消える。外と同じ暗さが室内を支配した。

「例えば、私が今、この部屋が明るければいいと思う。―――― そこで私は明かりを灯します。魔法で明かりを出現させても、ランプに火を灯しても、結果としては同じ。明るくなります」

 彼女はもう一度指を鳴らした。 部屋の明かりが一瞬で戻る。

「これが個の意思による現象への干渉です。つまり人間が普通に生活する上で行っていることです。で、魔法はそれを肉体や言葉ではなく、魔力で行います」

「ああ、そういうことか」

「です。もう少し踏み込んだ話をするなら、物が上から下に落ちる、物に接して力を込めれば動くなど、肉体で行う干渉に使われる法則は多々ありますよね。一方、魔法にもこういった法則が世界に存在しています。ただそれは目に見える世界とは空間的には同じですが、位階的にはちょっとずれた場所にある為、普段は自然に作用したりしていません。存在しているだけです。ここまでいいですか?」

「ああ」

 オスカーは頷きながら、甘い後味を消す為に、水差しから水を汲んで飲み始めた。


「魔法士は魔力でその法則を引き寄せ、それを使って現象に干渉します。ただ、肉体での干渉でも重い石を正面から押しても動きませんけど、梃子を使ったり車輪を使えば楽ですよね。そういった仕組みが、魔法では構成にあたります。構成を組んで、魔力でそれを動かせば、構成を使わないより同じ魔力でも大きなことができるわけです。複雑な構成ほど組むのは大変ですが、大きい効果が得られます」

 魔女はそう言うとまた指を弾いた。彼女の眼前に赤い糸が複雑に絡み合った紋様が現れる。おそらくこれが、構成というものなのだろう。ティナーシャは手の一振りで紋様を消すと話を続けた。

「魔法の為の法則は、そのいくつかが知られているだけで発見されていないものもおそらくありますし、既に知られている法則でも、どのような構成を用いるかによって全然異なった術になるわけです。……分かりました?」

「大体は」

 理解は出来たが、魔法士の講義に出た気分である。オスカーは続けて問うた。

「魔力のあるなしはどこで決定されるんだ?」

「肉体によるのか魂によるのかは分かっていないことなんですが、完全に先天性です。血筋も多少影響があるようですが、絶対じゃありません。魔力がある人は生まれた時からありますし、ない人は訓練して魔力がつくということはありません」

「俺は?」

「……あります」

「知らなかった」

 ファルサス王家の直系に魔法士が出たことは今までない。血筋が絶対ではないとのことだが、それでも意外に感じた。或いは今までの王族も素質はあったが気づかぬまま終わった者がいたのだろうか。


 ティナーシャは苦笑して彼の持っている剣を指す。

「でもアカーシア持ってる限り魔法は使えませんよ。体内の魔力を集中できませんから。私の守護結界だってアカーシアと共存するためにかなり複雑な構成組んでます」

 大変だったから結界を解きたくない、という魔女の言葉が ようやく実感を持ってオスカーの中に響いた。確かに魔法を切り裂く剣と、その使い手をあらゆる攻撃から守る魔法は普通に考えて共存しえるものではない。彼女がどれほどの技術をつぎ込んで実現してくれたのか、改めて在り難さが身に沁みる。

 魔女は微笑んで首を傾ぐと続けた。

「ただ魔力を持ってる以上、魔力を見ることもできるはずなんですよ。自分には見えないと思ってるから見えないのかもしれませんよ?  明日から意識してみてください」

「……分かった」

 ティナーシャは座っていた箱から下りると、オスカーの前に立った。可愛らしい仕草で両手の平を前に向けてみせる。

「さてどうします? 城に戻りますか? お腹すいてるなら何か作りますよ」

 オスカーは最後の選択肢に少し意表をつかれた。

「料理できるのか」

「そりゃ出来ますよ。何年一人で暮らしてると思ってるんですか」

「千年ぐらいか?」

「本気で言ってたら明日ふっ飛ばします」

 今にもふっ飛ばしそうな笑顔を浮かべる魔女の頭を、オスカーはいつものように軽く叩いた。

「じゃあ作ってもらう」

「はいはい」

 魔女は踵を返すと厨房に消えた。約束の一ヶ月まで、あと二週間の夜である。



 翌日、ふっ飛ばされはしなかったが、オスカーは火の海に囲まれていた。

 ティナーシャが放った火の円環が彼を大きく取り囲んでいる。ただ立っているだけでも汗が止まらず、かなりの熱気に気が遠くなりそうだった。

「倒れたり焦げたりする前に脱出してくださいね」

 空中に浮いた魔女がオスカーを見下ろしながら軽く言った。遊びに行くなら昼までには帰ってきてください、というくらいの気軽さである。

「かなり熱いぞ……」

 試しにオスカーは目の前の火の壁を切ってみた。

 赤い壁はアカーシアを避けるように一瞬隙間が開いたが、剣が通り過ぎる端から再び火が燃え盛り、またたくまに元通り塞がってしまった。魔女の助言が降ってくる。

「普通に切らないで魔力の流れを見てください。構成の楔となっている箇所があるはずですよ」

「と、言われてもな……」


 この二週間で分かったことだったが、ティナーシャは教えると決めたら容赦がない。勿論気をつけてくれてはいるのだろうが、今まで死ななかったのが不思議なくらいの苛烈さだ。

 だがその分、オスカーも自分の身についているという実感はあった。元々剣の腕はティナーシャを凌駕しているし、実戦の勘もある。彼は、守護者の的確な訓練によって、魔法士との戦い方を乾いた砂が水を吸うように吸収していった。


「心眼で見ろとかは言いませんよ。その目で見てください。魔力の構成が炎の中にあるはずです」

「分かった」

 気を抜けば倒れてしまいそうである。オスカーは額の汗をぬぐうと、炎の壁を見つめた。ゆらゆらと色と形を変えながらそれでも本質を保つ炎は、見る者を惑わすように揺れている。

 オスカーはゆっくりと息を吸い、止めた。

 頭の中を綺麗にする。ただ魔女の言葉を信じる。

 細く息を吐きながら目を閉じ、開いた時、炎の中に同じ色の細い糸が揺らいでいるのが見えた。それは螺旋を描きながら火の壁の中を巡り、大きな円と成っている。

 彼は頭だけでぐるりと円環を見渡す。一箇所だけ線が凝っている箇所があった。オスカーはアカーシアを構えると炎に向かって歩み寄り、解くようにそっとその箇所を切る。

 剣の切っ先が楔に触れ、それを断ち切った瞬間のことである。

 炎の円環は現出のための構成を失い、まるで時を巻き戻したかのように四散した。後にはむせかえるような熱気だけが残る。

「お見事」

 彼がアカーシアを鞘に収めて見上げると、魔女は嬉しそうに手を叩いていた。



 魔力を見ることができるようになってからは早かった。ティナーシャが「一ヶ月要らなかったかな?」と言ったほどである。

 魔法の構成は勿論、構成以前の魔力も感じ取れるようになると、訓練はほとんどが実戦形式になった。

「うーん、ちょっと人間と戦わせてみたいですね」

 訓練用に召還した魔物をあっさり倒されたティナーシャは、壁によりかかるとそう洩らした。オスカーは剣についた魔物の血を布でぬぐっている。

「虫を戦わせるように言うな」

「そんな遊びしたことないですよ……」

「俺はある」

 ティナーシャは嫌そうな顔をした。手を振って床の上の魔物の死体を消す。

「うちの魔法士に相手をさせるか?」

「普通の魔法士が貴方の相手をしたら、魘されて夜寝れなくなります。もっとしがらみのない相手がいいんですけどね」

 魔女は頭を振った。その時、彼女が寄りかかっている壁と反対側の壁が、音もなく内側に開く。扉の外に人間が何人か立っているのが見えた。

「あれ」

「閉めてなかったのか?」

「みたいです」

 失敗失敗と呟きながらティナーシャは、中央付近にいるオスカーの隣まで来た。

 外にいるのは五人の男である。彼らは恐る恐る入ってくると、既に中にいた二人を見て驚いた顔になった。特にティナーシャの美貌に気をとられているようである。

「あんたたち、こんなところで何やってるの?」

「塔に挑戦か?」

 オスカーとティナーシャは返答に困って顔を見合わせたが、彼女はいいことを思いついた、というように無邪気な笑顔になると手を打った。どんなことを思いついたのか、オスカーには大体分かったが、その予想がはずれることを心の底から願う。


 彼女は一歩進み出ると空中に浮かび上がった。驚愕する五人の来訪者を観察する。

 剣士が二人、弓を持った中距離装備の魔法士が一人、遠距離装備の魔法士が一人、防御専門の魔法士が一人といったところだろうか。

 申し分ない、と魔女は妖艶な笑みを浮かべた。

「ようこそ、私の塔に。いきなりで失礼します」

 彼女の挨拶にざわめきが起こる。下ではオスカーが頭を抱えていた。剣士の一人がティナーシャに剣を向けて問う。

「お前が魔女?」

「ええ。私に用があっていらしたのでしょう?」

「望みを叶えてくれるのか?」

「力があるならば」

 魔女の言葉に男たちの間で囁きが交わされる。もう一人の若い剣士が歩み出た。

「どんな願いでも叶えてくれるのか?  ……例えば、随分佳い女に見えるが、あんたを欲しいと言ったら叶うのか?」

「構いませんよ」

「ティナーシャ!」

 魔女はくすくす笑いながら、不機嫌たっぷりの契約者の隣りに降り立った。

「ただし力があればの話です。本来なら塔を最上階まで登っていただくのですが、今日は特別です」

 彼女が指を鳴らすと開きっぱなしになっていた扉が閉ざされた。退路を無くした男たちは息を呑む。

 ティナーシャは白い指でオスカーを示すと、艶やかに告げた。

「彼と戦って打ち勝ってください。そうすれば貴方たちの望みを叶えましょう」

 男たちの緊張が若干緩む。挑戦者が帰らないという塔に挑戦するよりは容易いと思ったのだろう。弓を持った魔法士が前に出た。

「一対一か?」

「いえ、全員でどうぞ」

 ティナーシャは再び浮かび上がると、オスカーの耳元に口を寄せた。

「死人は出ないように介入するんで、存分に戦ってください」

「お前な……」

「がんばれー」

 実に楽しそうである。オスカーは自分が虫になったような気がした。

 だが文句を言っても始まらない。彼はアカーシアに手を掛ける。

 つられて男たちが次々戦闘体勢に入るのが分かった。彼は空中から観戦している魔女を見上げ、次いで相手の若い剣士を見る。先ほどからティナーシャに見惚れている男だ。

 オスカーは皮肉げな顔で呟いた。

「まずはあいつからだな」

 ティナーシャが手を叩く。

 それを合図に戦闘は開始された。



 結果はほとんど瞬殺だった。

 恐ろしい速度で若い剣士に向かって踏み込んだオスカーは、相手の魔法士が張った防御結界をアカーシアで突破してその剣をはじくと、剣士の体を薙いだ。

 アカーシアが体に触れる直前で、その姿が掻き消える。致命傷と判断してティナーシャが転移させたのだろう。

 オスカーは打ち込んでくるもう一人の剣士の剣をはじくと、弓を番えようとしていた魔法士の前に飛び込み、その体を切り上げた。

 驚愕の顔で転移させられた魔法士を見ぬまま、オスカーは一旦後ろに跳ぶ。

 剣士がそこに踏み込んでくる。

 彼は魔法士が攻撃魔法を詠唱し始めているのを横目で確認した。剣士と剣を打ち合わせ、五合目にその肩口にアカーシアを振り下ろす。

 その時、詠唱を終えた魔法が、巨大な風の顎となって襲い掛かってきた。

 彼は右手だけを伸ばし、構成の核を打ち砕く。あまりのことに呆然とする魔法士に向かって跳躍した。背後からもう一人の魔法士が伸ばした不可視の呪縛を感じ、それを一閃して切り落とす。慌てて別の詠唱を始める魔法士に剣を突きこむとその姿が消えた。

 振り返り、最後の魔法士が尻餅をついたのを見て、相手の喉元に刃をあてる。

「終わりだ」

 一拍の間をおいて、最後の一人が転移した。

「呆気ないですね」

「趣味が悪いぞ」

「すみません」

 魔女は謝りながらも機嫌がよさそうに下りてくる。オスカーはアカーシアを鞘におさめると、その体を抱き取った。ティナーシャは乱れたオスカーの髪を梳いて戻しながら微笑む。

「予想以上の仕上がりです。今日で終わりにしましょう」

「いいのか? まだ五日あるぞ」

「これ以上はたいして意味がありませんよ。お疲れ様です」

 魔女はオスカーの腕の中から床に下りた。その華奢な姿を見てオスカーは不意に言うともなしに呟く。

「全力のお前と戦ったら勝てるか?」


 そんなことを本当に思ったわけではない。

 相手は最強たる魔女である。ただ口をついて出ただけだ。

 しかしティナーシャは小首を傾げると、その目に収まりきれない寂漠を抱えてオスカーを見上げた。

「そんなの……今分かったらつまらないじゃないですか」

 彼女は長く黒い睫毛を伏せる。闇色の瞳に透明な輝きが湛えられる。

 小さな唇は笑みを刻んで、その時の彼女は、ほんの少女のようにも、永い時を生きてきた魔女のようにも見えたのだ。


 オスカーは彼女の眼差しに少し怯んで、しかしそれに気づかないふりをして小さな頭を撫でた。

「俺が勝ったんだから何か叶えてくれ」

「すぐに出来ることでしたらいいですよ。今まで頑張りましたし。……結婚以外だったら受け付けます」

「先手を取るな」

「学習しました」

 ティナーシャはしれっと返すと、城に帰るための転移門を開いた。オスカーに向かって手を伸ばす。

 彼がその手を取ったとき、彼女は何故か、安堵したような、それでいて少し悲しげな笑顔を見せた。

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