第11話 形に息を吹き込む
太陽に薄く雲がかかる午後、訓練場の片隅でティナーシャはスズトと模擬試合をしていた。
兵士である彼の剣は速さも強さも申し分ないが、実戦経験を積んだ者からすると意外性が少ない。その為スズトの攻撃はものの見事に全て、ティナーシャに読まれ捌かれていた。
軽く立ち位置を変えながら剣を受ける魔女に、スズトは痺れを切らすと上段から渾身の一撃を打ち下ろす。
しかしそれは剣で受けもされなかった。
ティナーシャは体を半身にし、彼に向かって踏み込みながらすれすれで刃を避ける。そのまま舞うように優美に、しかし確実な速さを以って男の首を薙ぐ―――― 直前で手を止めた。
「はい、終了」
「うう……また負けた」
「もっと先まで読むか、速度か力を上げないと駄目ですよ」
「はい……」
がっくりとうなだれるスズトを余所に、ティナーシャは剣を鞘に収めた。この剣は借り物ではなく、彼女自身の剣で普通のものより細く作られている。実戦に立つ時は魔法の力を帯びた剣を持つことが多いが、今は何の変哲も無い練習用の剣だ。
彼女は一つに結い上げた髪が崩れていないか触れて確認する。本当はもっと短く切ってしまおうかと思ったのだが、皆に反対されたのだ。
その頭に後ろから手が置かれて、彼女は背後を見上げた。そこには彼女の契約者が立っている。
「オスカー、どうしたんですか」
「たまには体も動かすさ。相手してやろうか」
「心の底から遠慮します」
ティナーシャは潮時を感じて髪をほどいた。長い黒髪がさらさらと元に戻る。スズトが黙礼をして離れるのと同時に、主君の姿を見つけてアルスが訓練場の端から向かってくるのが見えた。
「そもそも結界があるから、貴方は試合とか出来ませんよ」
「そういえばそうか。一旦解けるか?」
何てこと無いように言ってくるオスカーに、魔女は肩を竦めた。
「すごく手間がかかってるから解きたくないです。でもまぁあらかじめ抜け道は作ってありますよ」
「用意周到だな」
ティナーシャは自分の右手を開いて見せた。 ほんの少し意識を集中させる。それと同時に人差し指に小さな切り傷が出来た。オスカーは滲んでくる血を見て眉を顰める。
「何してるんだ。出血してるぞ」
「出してるんですよ」
ティナーシャは浮かび上がってオスカーと並ぶと、血の滲む人差し指を彼の耳の後ろに這わせた。そのまま口を耳に寄せて囁く。
「私の血が体に付着している間は結界が緩みます。それでも強い魔法とかは弾きますが……笊の目を荒くするようなものだと思ってください。危ないから他の人には言わないでくださいね」
「分かった」
浮いている彼女をオスカーが片手で抱き取る。その時アルスがちょうど目の前にやってきて彼に一礼した。
「殿下、稽古ですか?」
「最近してなかったからな、付き合うか?」
「是非に」
頷いてオスカーは魔女を下ろすと、アルスから剣を受け取った。
分かっていたことだが、オスカーは面白いほど強かった。
最初は苦い顔をして見ていたティナーシャも、途中から乾いた笑いがこみ上げてきたほどである。
普段はアルスが勝ち抜きで何人もの兵士に稽古をつけているのだが、今はそれをオスカーが担っている。将軍位を持っているアルスや武官のメレディナがあっさりと打ち負かされていく様子に、兵士たちは尊敬の念を以って次代の国王を見つめていた。
普段アルスに敵わないティナーシャは、腕を組んだままその光景を眺める。
「まだ誰か居るか?」
肩を剣の腹で叩きながらオスカーは辺りを見回した。しかし一巡したのか誰も名乗り出ない。
楽しげな彼と目が合って、ティナーシャは嫌な予感を覚えた。転移しようと魔力を集中させるが、それより早く契約者は魔女を手招きする。
「ティナーシャ、来い」
「断る!」
「何だその即答は」
「私に何もいいことがないからです」
「修行になるぞ」
しかし魔女は舌を出して拒否する。
オスカーは面白そうにそんな彼女を見やったが、何かを思いついたのか剣をおろした。
「魔法使ってもいいぞ」
「黒焦げになりたいんですか?」
「ある程度ははじくんだろ」
ティナーシャは首を傾けて思案した。
確かに一撃で致命傷になる程の強力な直接攻撃魔法は、彼女自身のものであっても弾くように出来ている。しかしそれらを除いても、簡単に人を戦闘不能にさせる魔法はいくらでもあるのだ。
彼はそれを、前衛を持たない魔法士の戦い方を知っているのだろうか。
ティナーシャは彼の、自信の溢れる目を見つめた。ふと、希望と好奇心と諦観の混ざり合った不思議な感情が頭をもたげる。
今まで、戦争に最も特化したティナーシャはおろか、他の魔女たちさえも殺せるような人間は誰一人として現れなかった。
しかし目の前の男にはその可能性がある。彼女を殺せる可能性が。
ティナーシャは意を決してオスカーを見返した。
「いいですよ。ただし条件があります」
「何だ?」
「アカーシアを使ってください」
その言葉に場が騒然となった。
絶対魔法抵抗を持つアカーシアは魔法士の天敵である。かつて魔女ではないが、その魔法を以って猛威をふるった狂魔法士を一刀の下に切り伏せたこともあるのだ。結果が読めない勝負が持ち出されたことに、皆が囁きを交わす。
しかし当のオスカーは、目に面白げな光を浮かべただけだった。
「構わないが、あれは刃を潰してないぞ」
「潰してあったら大変ですよ……。その代わり私も得物を変えさせてください」
「分かった」
オスカーは楽しそうに笑うと、近くに居たメレディナにアカーシアを持ってこさせるよう命じた。
十分後、用意の整った二人は、普通の試合より少し広く場所を取って相対していた。
いつも通りアカーシアを帯びたオスカーに対し、ティナーシャは細身の、普通の剣より少し短めの剣と短剣の二振りを携えている。
それらは塔から下りる時に念のため使い魔に持って来させていたものだ。オスカーは意外そうに彼女の武器を眺めた。
「お前、双剣なのか」
「本来は。とは言え、普段は手を空けて置くんですが、その剣相手じゃ魔法障壁が意味無いですからね」
「なるほど」
ティナーシャの持つ剣はいずれも魔法を帯びたものであるが、どの道アカーシア相手では効力を持たない。ただ手に馴染んでいるというだけである。彼女は久しぶりに握る柄を手の中で確かめた。
向かいに立つ男が軽い声をかけてくる。
「いつでもいいぞ」
兵士たちは魔法の巻き添えを恐れて大分距離をとっている。それでも訓練場にいる全員が固唾を呑んで、前代未聞の試合を見守っていた。
ティナーシャは息と共に精神を整える。 顔をあげるとオスカーの青い目が正面に見えた。
「ではお言葉に甘えて……全力でどうぞ」
言い終わると同時に、彼女の回りに七つの光球が浮かび上がる。
オスカーはわずかに目を細めた。
「―――― 行け」
ティナーシャの呟きに合わせて、速度の異なる光球がオスカーを襲う。
彼は、正面から飛来した一つと右から来た一つを共にアカーシアで切り落とした。次の一つは捉える前に軌道を変える。右に円を描いて彼の背後に回ろうとした。
オスカーは咄嗟に前へ跳ぶと、左から飛んで来る球を二つ同時に薙ぐ。その時右側から魔女の剣が突き出された。正確に首を狙ったそれを、彼はアカーシアの柄で受け、弾く。
「……っ」
意識していなかった左足首に痛みが走る。背後に回った光球が遅れてぶつかってきたのだ。
彼は腰を落とすと、魔女の短剣を避けた。彼女は舞うように、しかし苛烈に切り込んでくる。その剣を強く弾いて距離を取ると、オスカーは更に向かってきた光球を切り落とした。
しかし、最後の一つが避けきれず右肩に当たる。痛みと痺れが腕を伝った。
「風よ」
息をつく間もなく、魔女の声が上がる。
生み出された風の刃が、四方から襲い掛かった。オスカーは痺れの残る足首を酷使して左に跳ぶ。致命傷になりそうな位置の刃だけをアカーシアで相殺し、他のものは皮膚一枚を犠牲にすり抜けた。
経験したことがない攻撃の連続に、不思議な高揚感がオスカーの全身を支配する。
いつも以上に集中していく意識。魔法が来る場所は空気が違う。
普段はまったく感じ取れない魔力がどこに凝り、どんな軌道を描いて現出するのかが、研ぎ澄まされた視界に見える気がした。
風の刃を囮として背後を取ろうとしていた不可視の縄が、あっさりとアカーシアに切り捨てられる。四散する己の構成を見て、ティナーシャは微笑んだ。
―――― 彼には元々素質があるのだ。そして勘がよい。 一瞬ごとに強くなる。
彼女は右手の剣を横に薙いだ。切り裂かれた空間から熱風が巻き起こり、渦を巻いてオスカーに向かう。その後を追って走り出した。熱風の渦をすかさず切り裂いたオスカーの左側面に跳んで、短剣を投擲する。
常人ならまず反応出来なかったであろう間。それを狙って投げたにも拘らず、オスカーの左手があっさり短剣の柄を掴むのを見て、さすがに魔女は唖然としてしまった。
「戻れ」
小さく命じると、短剣はオスカーの手の中から本来の持ち主のところに戻る。
「何だそれ」
「こういう剣なんです」
オスカーは呆れ顔をしながらも、距離をつめてきた。
彼女は振り下ろされるアカーシアを一合、二合と右手の剣で受ける。アルスの剣より速い攻撃へ対処するのに精一杯で、魔法を使うための集中がなかなかとれない。何とか距離を取ろうと後ろへ跳ぶが、同じだけの距離を同時に踏み込まれる。魔女は舌打をしたい気分でアカーシアを受け流した。
その時、彼女の肘にアカーシアの剣の腹がかする。 冷たい感触―――― 体内の魔力が刃に触れた部分から外に散っていった。
驚愕する意識を押しのけて、彼女は短剣をオスカーの心臓に向かって突き出す。
しかし、切っ先が彼の肌に達する前に、オスカーは剣を引いて短剣を弾いた。アカーシアの刃を受けた場所が、硝子のように砕けるのをティナーシャは見る。
「嘘っ!?」
地を蹴り、意識を集中させて、魔女はアカーシアの届かぬ範囲に転移する。
そうしてティナーシャは両手を上げた。
「こ、ここまでにしてください……」
左手の中を見ると、短剣の刃はぼろぼろに壊れ、使い物にならなくなっていた。
「お前には怪我はないのか?」
「特には」
オスカーの全身に出来た細かい裂傷や火傷を魔法で治療しながら、ティナーシャは簡潔に答えた。木陰に座り込んでいる二人を除いて、興奮が冷めやらない兵士たちは訓練により一層の熱気を以って取り組んでいる。
「ならよかった。あまり怪我をさせたくないからな」
「そんなこと言ってると痛い目に合いますよ」
頭の上に乗せられた手をどけて、ティナーシャは苦笑した。治療を全て終えると、彼の隣りに腰掛ける。オスカーは草の上に置かれた短剣の柄に目をやる。
残念ながら、この刃の修復は不可能だ。単なる魔法の媒介であった剣の方とは違い、短剣は構造自体に魔法が組み込まれていたため、アカーシアによって解体されてしまったのだろう。
短剣の柄を懐にしまう彼女に、オスカーが素朴な疑問を投げかける。
「手加減してたのか?」
「あまり。複雑な魔法には詠唱と集中が要りますし。正直もう貴方と近距離戦をしたくはないですね」
魔女の脳裏にアカーシアが肌に触れた時の衝撃が蘇る。
単なる魔法の効かない剣だと思っていたが、触れられると魔力が乱され魔法が使えなくなるとは思っても見なかった。おそらくオスカーはそのことを知らないのだろう。知っていたらもっと違う戦い方をしたはずだ。短剣を砕いたことといい、空恐ろしい効果である。
しかしあまりにも強烈なその効果を、ティナーシャは彼に教える気にはなれなかった。
彼女は思い出して白い指を伸ばすと、彼の耳の後ろに薄くついた自分の血をぬぐう。
隣り合いながら分かち合えない思考を抱えあう時間、オスカーはそんな魔女の仕草をじっと見つめた。彼女の横顔は、木の陰のせいか少し物憂げに儚い。
「俺はやはり、お前を殺したくないな」
「甘いですよ」
闇色の目には何の感情も見出せない。ただ少し微笑んでいるようにも見えた。
オスカーは絹のような黒髪に指を差し入れてゆっくりと梳いてみる。彼女の孤独が、その漆黒に溶け込み透けているような気がした。
「お前は死にたいのか?」
ティナーシャは首を傾けて、一瞬清冽な目でオスカーを見つめた。
透明な意思を込めた視線。
しかしそれはまばたきと共にすぐに消え、彼女は破顔する。
「いいえ。まだ色々やることがありますから。……貴方の呪いを解いたりとかね」
「妻になってくれればそれでいいぞ」
「断る! 私はどちらかというと年上好みなんです」
「死んでるだろそれ」
オスカーは立ち上がるとティナーシャに手を差し伸べた。 彼女はその手を取る。
そうして華奢な体を立たせてやるように、一人立つ魔女を、その遠い世界から連れ出してやりたいと彼はぼんやり思った。
※ ※ ※ ※
初めて会った時には実際拍子抜けした。
確かに申し分ないほど彼女は美しかった。
しかしそれでもほんの少女に見えたし、笑い、怒るさまが稚く見えたのだ。
その姿を面白いと思った。好感を持った。呪いのことも勿論あったが、彼女を伴侶に出来たらきっと退屈しないだろうと思ったのだ。
だからその折れそうな体を、彼女の屈託のなさを大切にしてやろうと思った。
だが、それが勘違いであると気づくのに、そう時間はかからなかった。
彼女は繰り返し訴えかける。
自分は魔女で、
魔女は異質であると。
どんなに近くで穏やかに笑うとしても、その優しさを人に向けるとしても、彼女は周りの人間に傾倒していくことは決してない。常に一人で立っている。とても遠い場所に。
それを知った時、オスカーは初めて彼女の本当が気になった。
笑顔や、怒った顔、その残酷さ、矜持、優しさ、孤独。
そんなものの中に分有されている本質。
魔女であり続ける彼女の真実に触れて、出来るなら……大事にしたいと思ったのだ。
※ ※ ※ ※
「いや実際吃驚した。ティナーシャ嬢にもだけど、殿下も。本当に人間なんだろうか」
城の中庭に置かれたテーブルを挟んで、アルスとメレディナは昼休みを過ごしていた。男はパンを一欠けら口に放り込む。話題は先日の模擬試合のことである。
「見てよかったとは思うんだけど、見ても自信ないな……あれは俺勝てないと思う」
「どっちに?」
「どっちにも」
いつになく気弱な幼馴染の様子に、メレディナは笑ってお茶に口をつけた。
「もっと自信持ちなさいよ。兵士が聞いたら士気に関わるんじゃないの?」
「うーむ」
「でも魔法を近接戦闘に用いるとあんなになるのね。かなり厳しいわ。あれで手加減してたんでしょう?」
「手加減してたかは分からんが、小回りのきく術ばかりだったみたいだ。まぁ普通の魔法士はあんまりああいうことしないから、その点はましだけどな」
「そうなの?」
そう、とアルスは頷いた。水差しから水を自分のグラスに注ぐ。 メレディナは自分で持ち込んだ焼き菓子を摘んだ。
「うちの魔法士で剣振るってるやつなんかみたことないだろ。普通魔法士は前衛は剣士とかに任せて、後ろから大きい魔法を撃つものなんだよ」
「ああ、そっか」
「で、当然相手も魔法士を使って防御する。ティナーシャ嬢みたいに、自分の結界をほとんど張らないで、剣で攻撃と防御を補う魔法士はほとんどいないと思う」
「魔法湖では普通に大魔法で辺りを焼き払ってたわよ」
「やっぱりそういう普通の戦い方もできるわけか。長く生きてると違うな」
メレディナは男の溜息交じりの感想を聞いて微笑んだ。
前に、魔女と争っても仕方ないと彼女に言ったのはアルスであるのに実際その力の程を見ると、彼も思うところがあるらしい。
「でも彼女は殿下を、試してるというか……教えてる? そんな感じがしたわ」
「そうか?」
「うん。自分みたいな魔法士がどういう戦い方をするか、見せたかったんじゃないかな、なんとなくだけど」
長い時を生きてきた女が見せる目は、時折ひどく切なげで愛おしげだ。
人と関わることを厭いながら、何かを残したいと願っているかのような目。或いはティナーシャが残したいと願っているものは、オスカーに対して与えられるものなのかもしれない。
アルスにはだが、メレディナの感じたものが見えなかったようだ。彼は頬杖をついて、空を見上げる。
「前はあまり手の内を晒したくないって言ってたけどな」
「気が変わったんじゃない? だって彼女途中で微笑ってたもの」
メレディナは苦笑するとお茶を飲み干した。
今日もいい天気である。 雲が歩むようにゆっくりと、城壁に囲まれた空を流れていった。
※ ※ ※ ※
謁見の間へと続く王族側の広間では、オスカーが珍しく父王に呼び出されていた。
緊急だからと仕事の途中で連れてこられた彼は、怪訝そうに父の差し出した書状を受け取る。
「何だこれ」
「クスクルという北の小国からの使者が来ている。青き月の魔女に会わせてくれとのことだ」
その内容にオスカーは二つ引っかかることがあったが、まず些細な方から聞くことにした。
「そんな国聞いた事無い」
「一年前にタァイーリから独立したそうだ。小さな国だが、魔法に力を入れてるらしい」
「魔法ね……」
少しの沈黙が落ちる。
タァイーリは、ファルサスとは国境を接していない大陸最北の大国である。距離もかなり離れており、その為交流も年に二、三回ほどしかない。
ただ彼の国は独自の信仰が国に浸透しており、魔法に対する風当たりが強い。一部が独立し、そこが魔法重視の国になっているなどと、外聞が悪い為タァイーリもあえて喧伝しなかったのだろう。ましてや遠いファルサスにはまったく伝わっていなくてもおかしくない。
オスカーは納得すると次に重大な方の疑問を口に出した。
「で、どうしてティナーシャがファルサスにいるって知ったんだと思う?」
魔女はその居場所を明確にしていない者がほとんどだが、唯一の例外はティナーシャである。
ただそれも塔に住んでいるということが知れ渡っているだけで、塔にいない場合、何処に行ってますなどと置き書きがあるわけでも何でもない。ティナーシャが魔女であるということは城内には公表されているが、城外では国内でも固く口止めされているのだ。それをどうやって、遥か遠い出来たばかりの国が知っているのだろう。
父王ケヴィンは息子の問いに首を振った。
「分からない。とにかく会わせてくれと言ってる」
オスカーは少し考え込んだ。この時間ならティナーシャは執務室だろうか。
「分かった。まず俺が会う」
ケヴィンはその答えを予想していたのか軽く頷いた。
クスクルからの使者は、小柄でどこか嫌な感じを受ける男だった。
醜い容姿をしているわけではないのだが、爬虫類に似た粘着質の目をしており、それと似た空気が全身から染み出してくるようである。
オスカーはその目と笑顔に不快感を覚えたが、内心を隠して男に応対した。
男はカガルと名乗った。
「この度は突然のご無礼をお許しください。魔女様をご紹介頂ければすぐ退出させて頂きますので」
慇懃にそう挨拶するカガルに、オスカーは不敵に対応した。
「魔女と言われても、そのような者に心当たりはないが。どこで話を聞いたのか教えていただきたい」
「ご冗談はおやめください。殿下のお時間をとらせはしません」
カガルは大げさな身振りでそう言うと、人の悪い笑みを浮かべた。
「少し前にはドルーザの愚か者どもが魔獣を復活させようとしたとか。もし実現していれば諸国で大問題になったことでしょう。幸い、魔女様のご活躍により未然に防がれたそうですが、魔獣を殺した力の持ち主が一国に身を寄せていると知られれば、やはり問題になってしまうかもしれませぬな」
脅しであることを隠そうともしないカガルの態度に、オスカーは怒りに目を細めた。
限られた者しか知らないはずの魔獣の話を把握しており、なおかつティナーシャの存在をファルサスの弱味として扱おうとしている限り、中々に大胆な立ち回りだ。
彼はこの使者をどう片付けてやろうかと思案する。元々ティナーシャを会わせるつもりはほとんどなかったが、いまやそのつもりは微塵もなくなっていた。
しかし、オスカーの決意は次のカガルの一言で翻ることになる。
「この城にいらっしゃるのでしょう? アイティ様は。ああ、今はティナーシャ様と名乗られていらっしゃるのでしょうか」
カガルはそう言うと、自信たっぷりに彼を見返した。
※ ※ ※ ※
オスカーが使者と会う少し前、ティナーシャは執務室にオスカーがいないことを知り自室に帰ってきていた。
魔女は戻るなり、途中であった呪いの解析を再開する。部屋の中央に置かれた水盆の上に手をかざすと、いくつもの円環が絡まる複雑な紋様が立体として浮かび上がった。
彼女は慎重に詠唱を足していく。紋様はそれに応じて少しずつ形を変える。終わりの見えない作業に集中していたティナーシャは、誰もいないはずの部屋の中から突然自分の名を呼ばれた時も、別段驚きもせず手を振って返した。解析途中の紋様を留めるように術をかける。
「ちょっとは驚いてよ」
声を掛けた女は窓際に立ったまま不服そうに口を尖らせた。
明るい茶色の巻き毛が光の加減で金に見える。腰には珍しく、魔法の品か装飾短剣を佩いていた。
「はいはい。で何の御用ですか? ルクレツィア」
「役に立ちそうな本があったから持ってきてやったのよ!」
ティナーシャは彼女が差し出した本を受け取る。どうやら随分前に書かれた祝福についての本らしい。中を開くと構成と言葉について細かく記されていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
気紛れにしか動かない友人だが、このような助力はありたがい。
ティナーシャは本を机に置くと、来客のためのお茶を淹れ始めた。椅子に座ってその様子を眺めるルクレツィアは、皮肉げな顔をする。
「貴方、あの契約者と模擬試合なんかしてやったんだって?」
「……なんで知ってるんですか?」
「中庭で兵士が話してた」
「盗み聞きか」
ルクレツィアはテーブルに頬杖をつくと、呆れを隠さない顔でもう一人の魔女を見つめた。
「何考えてるの? 手の内さらしてやるなんて。自殺願望でもあるんじゃない?」
「同じこと言われましたよ」
「何もしなくても充分あの男は強いじゃない。これ以上鍛えられたら私も迷惑よ」
「すみません」
もっともな苦情にティナーシャは素直に謝った。
確かに魔女であるルクレツィアにとっても、アカーシアの使い手が力をつけることは好ましいことではないだろう。何がどう転んで面倒事になるか分からない。人の運命の数奇さは、長い時を見てきた彼女たちにとっては自明のことであった。
ティナーシャは自分も椅子に座ると深く溜息をつく。
「何か最近疲れたというか……」
「休みなさいよ」
「そうなんですけど、そうじゃなくて……」
友人の闇色の瞳が揺らぐのを見て、ルクレツィアは仕方ないな、といった目をした。
「どっちつかずでいるのが負担なら、いい加減諦めるなりなんなりしなさいよ」
ティナーシャは答えなかった。黙って自分の手のひらを見つめる。
―――― 何故オスカーと戦う気になったのか、自分でもよく分からない。
ただもしもの時、自分を殺せる存在が在ればいいなと少しだけ思った。そして彼がそうなるならそれでもいいと。
多分ほんの気紛れなのだろう。或いはやはり少し疲れたのかもしれない。返らない便りを待ち続けることに。
しかしだからといって諦めようとは思わなかった。それをすれば魔女として生きてきた時間が、全て無為になってしまうような気がしたのだ。
黙り込んだティナーシャを眺めていたルクレツィアは、不意に軽くテーブルを叩く。
「とにかくしゃんとしなさい! あなたは私たち魔女の希望であり象徴なのよ!」
「……冗談ですか?」
「うん」
「……」
ティナーシャは盛大な溜息をつく。
二人の魔女が同時に口を開こうとした時、扉が激しく叩かれた。
「ティナーシャ様、よろしいですか?」
どうぞ、と彼女が返すとラザルが慌てた様子で入ってきた。彼は ルクレツィアの姿を認めてぎょっとする。魔女はそれを見てからかうように手をひらひらと振って見せた。
「どうかしたんですか?」
ティナーシャの言葉に気を取り直したラザルは、用件を告げる。曰く、青き月の魔女に会わせろという来客が来ていると。ルクレツィアは小さく口笛を吹いた。
「うっわ、怪しいじゃない」
「怪しいですね。でもまぁ行ってきます。貴女は?」
「折角来たんだし、終わるまで城でも見物して待ってるわ」
「悪戯しないでくださいね」
閉ざされた森の魔女は、何かたくらんでいるようにも見える美しい笑顔で、勿論、と答えた。
※ ※ ※ ※
「アイティ」
控えの間に呼び出されたティナーシャは、待っていたオスカーにいきなりそう呼ばれて自失してしまった。数秒後、ようやく
「はい?」
と聞き返す。オスカーはこれ以上ないくらい苦い顔をした。
「やはりお前の名前なのか」
「……幼名です。その来客が言ったんですか?」
「ああ」
ティナーシャは予想外のことに、うまく働かない頭を振った。
かつて一度だけ、魔女としてその名を名乗ったことがある。魔女に成ったばかりの頃、まだ塔に住んでいなかった頃だ。
しかし魔女の名前は基本的に忌まわしいものであり、好んで伝える者は少ない。七十年前ファルサスで名乗った名も残っていなかったのだ。それなのに今頃昔の名を知っている者が会いに来るとはどういうことなのだろう。
ティナーシャはいくつかの可能性を考えたが、どれも楽しいものではなかった。
「会いたくなかったら断るぞ」
オスカーは心配そうに彼女の頭を撫でる。しかし彼女は頭を振った。
「いえ、会います」
そして魔女は謁見の間へと続く扉に手をかけた。
カガルは、ティナーシャを見て感嘆の溜息をもらした。 膝をついて最上級の礼をする。ティナーシャはそれを傲然と見下ろした。
「お目にかかれて光栄です。アイティ様」
「その名で呼ぶのはやめてください」
「失礼。ではティナーシャ様とお呼びしてよろしいですか?」
「お好きに」
カガルは立ち上がると、芝居回しのような仕草で彼女に向かって手を広げてみせた。
「我々クスクルは建国にあたって、タァイーリに迫害されていた魔法士の権利を取り戻し、彼らを国民として魔法を基盤に置いた上で、その活用と発展を第一の課題として参りました。ティナーシャ様は、今は途絶えている強力な古い魔法の数々を使われる唯一の方だと聞き及んでおります。どうか我が国にいらして、更なる発展の為にお力をお貸し頂けませんでしょうか」
その言葉に、オスカーは不機嫌を隠さない顔で眉を顰めた。ファルサスが魔女を擁していることをうんぬん言っていたくせに結局自分たちも彼女の力が欲しいだけなのだ。
だがティナーシャは、男の要請を聞いても無表情のままである。
「聞き及んでいるって誰に聞いたんですか?」
「いらして頂ければ分かります」
「私の名前を教えたのと同じ人ですか?」
カガルは笑っただけで答えなかった。
「私がここにいると分かったのは?」
「我が国にも優秀な魔法士はおりますので……」
「そう」
魔女は一息つくと、途端に酷薄な笑顔を浮かべた。見る者を魅了し、威圧する微笑にカガルはたじろぐ。
彼女が小さな紅の唇を開くと、よく響く美しい、しかし凍りつくような冷ややかな声が紡ぎだされた。
「私がここにいるのは、この人の守護者としてです。それ以上でもそれ以下でもない。貴方が私に会えたのも、彼が取り成したからですよ。塔を登ってきても無い人間の話をどうして私がただ聞いて、ましてや助力しなければならないんです? 覚悟も力もない者に何かをしてやる慈悲が魔女にあるとでも?」
カガルは弁明をしようとしてか口を開閉した。自分が優位にあると信じていたのだろう態度が崩れ去る。追い払われる鼠のようにうろたえて魔女に何かを訴えようとした。
しかしその間をティナーシャは許さない。
「消えなさい」
それ以上言うことはない、とばかりに魔女は踵を返すと、背後で聞いていたオスカーの隣りに立った。オスカーはその髪を撫でながらカガルを刺すような視線で一瞥する。
カガルは悔しさの滲む目を二人に注ぐと、ようやく言葉を発した。
「分かりました。今日は帰りましょう。しかしクスクルは必ず貴女の祖国となる。再びお会い出来る日を楽しみにしておりますよ」
魔女はそれに答えぬまま、部屋を出た。
※ ※ ※ ※
謁見室から退出したカガルは激しく舌打をした。
彼女を連れて帰る自信があったのだ。その為に、知られない名を持ち出した。その名を聞けば、彼女は誰がそれを教えたのか必ず知りたがると思ったのだ。
彼の脳裏に、国を出る前に聞いた主人の言葉が甦る。
『別に急いでないからいいよ。僕のことは伏せておいて』
そう言っていた主人はだから、彼女を伴わぬまま戻ってもカガルを咎めることはしないだろう。だがそれでも彼は、そのまま素直に駄目でした、と帰る気にはなれなかった。
―――― せめて彼女と、あの生意気な契約者だけでも引き離さなければ……。
ふと窓の外に目をやると、中庭が見える。
その木陰で、武官の服装をした女が転寝をしているのを見つけたカガルは、卑しい笑顔を浮かべたのだった。
※ ※ ※ ※
謁見の間から執務室へと戻るオスカーとその少し先を行く魔女は、そろって非常に苦い顔をしていた。
カガルの吐いた言葉の一つ一つが拭いきれない染みのように纏わりついている。食事の前のテーブルを汚されたような気分だ。
飲み込みきれない苛立ちを嚥下するオスカーの耳に、だが何処からともなく軽い声が聞こえた。
「終わった?」
その言葉と共に、ティナーシャの隣りに魔女が現れる。友人を見返したティナーシャは端的に吐き捨てた。
「終わった。気分悪い」
肩を竦めるルクレツィアに、オスカーは若干驚いて目を瞠る。
「来てたのか」
「先日ぶりね」
罪悪感の欠片もなく手を振るルクレツィアに、彼は唇を片端だけあげて笑った。
「あの時は殺しかけてくれてありがとう」
「えー? 楽しくなかった? 記憶が残るようにすればよかった?」
「一度痛い目みますか?」
楽しげなルクレツィアと、ひきつった顔のティナーシャの間に比喩ではなく魔力のぶつかる火花が散る。オスカーは顔を顰めて首を振った。
「城が壊れるからやめてくれ」
魔女同士が戦うなど聞いたことも無い。そんなことになったら少なくとも建物はただでは済まないだろう。
ティナーシャは契約者の言葉に、小さく舌を出すと魔力を収めた。
一件を聞いたルクレツィアは赤い爪で自分のこめかみを叩いた。
「クスクルねぇ。私も聞いたことないわ」
「もともと単なる一領地だったらしい。それがある日突然魔法士たちが集まってきて独立したとか」
「胡散臭いですね」
「……ああ、でもそういえば最近時々、北の方で妙な魔力の波紋がない?」
ルクレツィアは人差し指を立てて、隣を歩くティナーシャを見た。ティナーシャは黙ってかぶりを振る。
「私が此処より北に住んでるせいかしら。微弱なんだけどね。たまに感じるわよ。魔法湖の波紋みたいな魔力の揺れがくるの」
「魔法湖……」
唇を噛んで考え込み始めたティナーシャを、ルクレツィアが一瞬ひどく憐れなものを見る目で見たことに、後ろを歩いていたオスカーは気がついた。
当のティナーシャは考え事に集中している。彼がどちらにともなく声を掛けようとした時、廊下の角を曲がってアルスが現れた。すぐ後ろにはメレディナもいる。
アルスは、ティナーシャと、その隣りの見知らぬ美女を見、ついで二人の後ろのオスカーを見つけて礼をしようとした。
しかしその時、誰も予想だにしなかったことが起こる。
メレディナが無言で剣を抜くと、ティナーシャに切りかかったのだ。
「な!?」
アルスは驚愕に一瞬固まる。
オスカーは届かない。
ルクレツィアが防壁を張るより早く、切っ先がティナーシャに到達する。
誰もが手遅れを予感したその瞬間、ティナーシャは無造作に、しかし素早くルクレツィアの腰の短剣を抜くと、その剣を眼前で弾いた。剣を取り落とし、無防備になったメレディナの喉元にそのまま刃を滑らせる。
メレディナには防ぎようのない、その反撃を反射的に遮ったのはアルスが抜いた剣であった。彼はティナーシャの短剣を弾きながら、メレディナを押しのけてその体を庇い、切っ先を魔女に向けようとする、寸前で動きを止めた。
―――― 彼の喉元にはアカーシアが突きつけられていた。
「何のつもりだ」
怒気を孕んだ声がアルスを打ち据える。
アルスは思いも寄らない失態に体を硬直させた。膝をつこうと体を落とした時、背後で彼の幼馴染が狂ったような声をあげる。
「人心を惑わす妖女め! この国から立ち去るがいい!!」
「メレディナ!」
男二人の叱咤が重なる。誰のことを指して言っているのかは明らかだった。
ティナーシャは、長い睫毛を伏せて闇色の目でメレディナを見つめる。
魔女の顔。
しかし今は笑みさえも浮かんでいない。 人形のような、作り物めいた貌はただ空虚だった。
彼女はメレディナに向かって唇を僅かに開く。
「……いつもいつも似たようなことを言われますが……私が自分から人心を惑したことなんてありませんよ。そっちが勝手にざわついてるんじゃないですか」
その声は何も読み取れない表情とは異なり、感情がむき出しになったものだった。ただ窺える感情は少しずつ複雑に入り混じり、彼女が抱いているものが、悲しみなのか怒りなのか、それとももっと違うものなのか、聞いている人間には分からない。
ティナーシャは唇を少し噛む。
小さな声が絞り出される。
「……人の心なんて……欲しくもない」
震える声。
明確な拒絶。
けれどその時、彼女の闇を凝縮した目に一瞬瑕が光るのをオスカーは確かに見たのだ。
アカーシアを引くと、彼は手を伸ばしてティナーシャを腕の中に収めた。 薄い背中を軽く叩く。
彼女はそれ以上何も言わなかった。
ルクレツィアは友人の様子を気にかけていたが、オスカーがティナーシャを抱き取るのを見ると、アルスとメレディナの方に向き直った。苦々しい顔で二人を睨む。
「その女、操作されてるわよ」
「え」
「精神を弄られてる。中々手練がやったようね」
ルクレツィアは無造作に手を振った。メレディナの体が崩れ落ちる。床にぶつかる寸前で、それをアルスが受け止めた。
「治せるか?」
オスカーが背を向けたままルクレツィアに問いかけた。だが魔女の返答は不機嫌極まるものである。
「何で私が」
「頼む」
ルクレツィアはしばしの逡巡の後に、聞こえよがしに舌打した。
「高くつくわよ」
「お願いします」
ティナーシャの声に、ルクレツィアは呆れたっぷりに溜息を一つついた。
アルスとルクレツィアが治療のために立ち去った後の廊下に、魔女と契約者は二人残された。
オスカーは両手で魔女の頬に触れると、上を向かせる。彼女はまばたきを一つすると、にっこり微笑んだ。
嬉しそうな、幸せそうな微笑。
しかしそれが本当ではないことをオスカーは知っている。仮面としての笑顔だ。人ならざる女が人を装う為に身につけた面だ。
ただ彼は、だからといって己の魔女を憐れむことはしたくなかった。それは決して彼女に向ける感情ではない。
「最後に泣いたのはいつだ?」
オスカーは問うた。
闇色の瞳に自分の顔が映る。
彼女は笑ったまま
「覚えていません」
と答えた。
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