第9話 森の見る夢 02


 起きたその時は覚えているのに、すぐに消え去る精神の泡、それが夢である。

 夢は記憶から破片として浮かび上がり、少し歪んだ造形に成って消える。

 手に入らぬものが腕の中に現れることもあれば、いつまでも忘れえぬ記憶に苛まれることもある。

 人は眠っている時でさえ真に休息を得ることは無いのだ。




 執務室にお茶のよい香りが広がる。

 午後の分の書類を持って来たラザルはその香りに目を細めた。黒髪の美しい魔女が、お茶をカップに注いで彼の主人に渡している。その優美な仕草に思わず見惚れていたラザルは、彼女が振り返ったことで我に返った。

「そんなところで立ち止まってどうしたんですか?」

「あ、いえ、なんでもないです」

 ラザルは慌てて書類をまとめると、執務机に座るオスカーに手渡す。加えて簡単に概要を説明した。

 以前宰相を務めていた叔父が亡くなってから、オスカーはその実質的な役目と王の権限の一部を継いでいる。こまごまとした内外の報告は一部の重大なものを除いてオスカーが目を通し、承認や決定を行うことになっていた。

 書類の引渡しを済ますとラザルはティナーシャに向き直る。

「虫干しは恙無く終わられたんですか?」

「何とか。取り扱いが難しいものが多いので、使い魔に任せられなくて。留守にしてすみませんでした」

「とんでもない。むしろ普通に休まれても……」

 よかったんですよ、と言いかけて、魔女がいなかった為に味わった災難を思い出しラザルは一瞬固まってしまった。勿論彼女が悪いわけではないので改めて続きを言い直す。

 彼女はその間を別に不審には思わなかったようだが、代わりに彼の主人がティナーシャに見えない角度で一瞬眉を顰めた。

「留守の間、何も不都合ありませんでした?」

「と、特に何も……」

「無い無い」

「ならよかったです」

 彼女は大輪の花のように微笑んだので、ラザルは内心胸をなでおろす。それを見透かしたようにオスカーは立ち上がると、通りすがりにラザルの肩を叩いた。

「ちょっと親父のところに行って来る」

「あ、はい」

 主人の目には、言うなよ、と書いてある。ラザルは何とか笑顔を作って頷いた。

 オスカーはその反応に小さく頷いたが、魔女が自分の背中を注視している気配に気づいたらしい。振り返って彼女を見た。

「どうした?」

「オスカー、ちゃんと寝てます?」

「寝てるぞ」

「そうですか」

 ティナーシャは不審そうな顔で首を捻ったが、すぐに気にするのをやめたようである。お茶を片付けるために執務机に戻っていった。

 痛くなりつつある胃を押さえながら、ラザルは平然としている主人の神経をその時心底羨ましく思った。



 談話室へ向かっていたティナーシャが、遠回りして城の中庭を通ることにしたのは単に天気がよかったためである。

 強すぎない日差しが木漏れ日を作り、緩やかな風が草を揺らす気分のよい午後。袖のない黒いドレスが緑の中で、鮮烈に散歩する魔女の存在を示していた。

 ふと、前を見ると石造りの池の前に屈みこんでいる女官がいる。女官は水面を覗き込みつつ、袖をまくった腕を池の中に差し入れて、必死に何かを探しているようだった。

 ティナーシャは彼女の背後から池を覗き込む。

「何か落としたんですか?」

「指輪を……」

 女官は振り向かないまま弱弱しい声音で答える。相当大事なものなのだろう。その声は今にも泣き出しそうだった。

 ティナーシャは軽く首を傾ぐと無造作に立ったまま水面に手をかざした。少しだけ意識する。

 と、その手に吸い込まれるように水中から銀色の指輪が浮かび上がり、彼女の手の中に収まった。ティナーシャは濡れた指輪を手の中で転がして水気を取ると、

「はい、どうぞ」

 と女官に向かって差し出す。

 喜びに振り返った彼女の顔が、ティナーシャを認めて一瞬恐怖に歪んだ。魔女はそれを見て苦笑する。

 畏れられるのが魔女の常である。

 ましてやファルサスにはティナーシャに纏わる話が伝わっているのだ。その話が事実と異なるものであっても、聞いて育った子供には関係ない。

 ただ、浸透した誤解を解こうとは彼女は思わなかった。魔女に親しむことが、その人にとって何かよいことをもたらすとは思えない。

 異質には異質の理由があるのだ。それを拭うことも変えることもさして意味がない。

 だから彼女は普段は塔に棲んでいる。覚悟がある者のみに出会う為に。


 お礼を言ってそそくさと立ち去る女官と入れ違いに、見知った顔の魔法士が、ティナーシャを見つけて駆け寄ってくる。彼女はそれに気づいて軽く手をあげた。

「カーヴ、どうしたんですか?」

「ティナーシャ様ちょっと質問いいですか?」

「分かることなら」

 二人はそのまま近くにあった石作りの長椅子に腰掛けた。


 ティナーシャが魔女だと公表して以来、彼女に魔法の講義を希望する者も多かったが、彼女を忌避する人間もまた同じくらい居た。忌まわしい魔女の魔法など習いたくないという、一部の人間なら激怒するような意見を彼女はもっともだ、と受け入れたのだ。

 もともと彼女の使う魔法は複雑なものが多く、多人数に教えるには不向きである。その為ティナーシャは、一部の人間からの質問には答えていたが、講義は聴くほうに回っていた。


 カーヴが持ち込んできたのもそんな質問の一つである。

 ティナーシャは、彼が持って来た魔法薬の構成書に一通り目を通すと問題箇所を指し示した。

「ここの術式は三番目と逆にした方がいいですね。上書きされて正しく効果が出ません。あと触媒はちょっと入れ替えた方がいいかもですね……。これとこれ……」

 彼女の指示をカーヴは頷きながら書き止めていく。ティナーシャはその修正箇所を確認した。

「これで駄目だったらもう一度教えてください。ルクレツィアだったらもっと確実に分かるんでしょうけど。御免なさい」

「いえ、助かります。ありがとうございました!  ルクレツィアさんてお知り合いですか?」

「知り合いと言えば知り合いです。魔法薬とか精神系の術が得意で、変人ですね」

「変人って……どんな人なんですか?」

「知らない方がいいですよ」

 ティナーシャは真面目くさった顔でそう片付ける。世の中知らずに済めばそれに越したことがない情報はいくらでもあるのだ。


 こうしてティナーシャが帰城した一日目は、もう一人の魔女の存在を上手く覆い隠しながら、平穏に過ぎたのである。




 ※ ※ ※ ※




「オスカー、ちゃんと寝てます?」

 その質問を受けるのは三度目だろうか、オスカーはまだ覚醒しきらない頭で考える。

 彼は早朝、私室から出たところを魔女に捕まったのだ。小柄な彼女はオスカーを見るなり不審な顔で見上げてきた。

「寝てる。別に眠くも無いぞ」

 彼女の柔らかい髪を撫でかけたオスカーは、ふとその顔に一瞬別の光景が重なって手を止めた。

 雪のような白い肌、闇色の瞳、艶やかな赤い唇。ただ微笑めば見る者を虜にするその容貌は、今は少し眉を顰めて怪訝な顔をしている。ささやかな違和感が彼の記憶をくすぐった。

「オスカー?」

「……いや、何でもない。何か思い出しかけたんだが……」

「寝惚けてますね。とにかくもっとちゃんと寝てください」

「寝てるというのに」

 その返事を無視して魔女は空中に浮かび上がると、かき消すように消え去った。

「唐突なやつだな……」

 彼は小さく嘆息する。最早夢の残滓は何処にも残っていなかった。



 次に彼女がその姿を現したのは、出仕途中であったラザルの前である。

 数日前から主人の命令で彼女に隠し事をしているラザルは、廊下で自分を待ち伏せしている魔女に気づいた瞬間、思わず叫びそうになってしまった。慌てて何事もなかったように挨拶をする。

「おはようございます」

 魔女はそれに応えながら、にっこりと空恐ろしい笑顔を見せた。

「少しお聞きしたいことがあるんですけど?」

「な、なんでしょう」

 ティナーシャはラザルのすぐ前まで来ると、闇色の目で彼を見上げた。人の心の奥までを覗き込むような、力ある目である。これで留守中のことを聞かれたら誤魔化せないかもしれない、とラザルは内心冷や汗をかいた。しかし実際聞かれたのは全然別のことである。

「オスカーって最近ちゃんと寝てます?」

「へ……多分。特に遅くなってるということはありませんが」

「本当に?」

「本当です」

 嘘をつく必要がなくなって拍子抜けしながらも、ラザルは何故そんなことを聞くのだろうと気になった。

 魔女は、うーん、と首を傾げると、質問を重ねる。

「最近恋人が出来たってことは?」

「は!? 誰にですか」

「オスカーに」

「……ないです」

 本当に何を聞くのだろう。

 一日のうち一番長くオスカーといるのはラザルであるが、最近変わったことなど特に何も思い当たらない。寝不足には思えないし、ましてや最近オスカーが接している特定の女性など、日頃からかわれている目の前の魔女以外には浮かんでこなかった。

 その彼女は顎に指をかけたまま思案顔である。

「どうかしたんですか?」

「いやちょっと……本当に誰も?」

「誰もいません。焼餅ですか?」

「寝言は寝たまま言ってください」

 魔女は眉一つ動かさず切り返した。これは本当に難しそうだ……とラザルはルクレツィアに言われたことを思い出す。

 ティナーシャはそれでも何か考え込んでいたが、不意に諦めたように肩をすくめると、苦笑した。

「何か気づくことがあったら教えてください」

 そう言って空中に消えてしまった魔女に、ラザルはもう一人の魔女のことを言うべきだったろうか、と少しだけ気になった。

 彼がこのことを後悔するのはもう少し後の話である。



 ファルサス城の談話室は、廊下に面した横長の部屋になっており、城に所属する者で時間があれば、誰でも好きなように使えるようになっている。

 その日シルヴィアとドアン、カーヴの魔法士三人組は、午後の休憩時間を誰もいない談話室で過ごしていた。各自好きなようにお茶を飲み、本を開いている。

 他の魔法士たちであれば、一日を講義と訓練に費やしていることがほとんどなのだが、彼ら三人は比較的優秀で、自分の研究に時間を使っていることが多い。だがそれはそれとして、休憩時間はくだらない話に興じていることも少なくなかった。


 そうしてだらけていた三人のところに、ティナーシャがやってきたのは、話題がちょうどつきかけた時のことである。彼女は三人を見るなり、小脇に抱えていた厚く古い本を掲げて見せた。

「はいドアン、頼まれてた本です」

「うわ! 本当にあったんですか。とっくの昔に消失したって聞いたんですが」

 彼は驚愕と喜びの入り混じった顔でその本を受け取る。古ぼけた魔法書は、今はもうどこにもないと言われる貴重な一冊であった。

 ティナーシャは椅子を引くと自分も同じテーブルに座る。

「私、結構そういうの持ってますよ。他にもあったら探してみるから言ってください」

「ありがとうございます!」

 礼に微笑で応えながら、何処かうかない顔をしているティナーシャにシルヴィアは不思議そうに話しかけた。

「ティナーシャ様、どうかなさったんですか?」

 魔女は小さく肩をすくめる。

「うーん、何か最近、オスカーの体調が悪いみたいなんですよね。寝不足じゃないかと思うんですが違うって言うし」

「え、そうなんですか? そんな風には見えませんでしたけど」

 シルヴィアが意外そうな声をあげると、ドアンとカーヴも魔法書を覗きかけていた顔をあげた。一方ティナーシャは背もたれに体をあずけながら足を組む。珍しく動作が乱暴であるところを見ると、少なからず不機嫌であるらしい。

「生気が揺らいでますよ。体調管理はしっかりして欲しいなぁ。恋人がいるならいるで普通に付き合えばいいのに」

「え」

 三人の驚愕の声が重なる。

「こ、恋人!?」

「そんな勇者はいないかと」

「ちょっと考えられないです」

 オスカーがティナーシャを大事にしているのは、城の者なら誰でも知っていることであり、ついでにティナーシャがそれを微塵も意に介していないのは、彼女と親しくしている者なら皆知っていることである。当然、今現在彼女以外にオスカーと親しくしている女性というのは彼らには思いつかなかったし想像も出来なかった。


 しかし率直な感想に、魔女は頭を振る。

「香水の残り香がぷんぷんしてますよ。女性ものだと思うんですが、本人自覚がないんですかね」

 三人はまた顔を見合わせた。ドアンが小さく手を上げる。

「俺、今日お会いしましたけど、気づきませんでしたよ」

「ええ……近くに立てばすぐ分かると思うんですけど……」

 とそこまで言って、ティナーシャは突然動きを止めた。無意識なのか、顎にかけていた自分の指に歯を立てる。何かに気づいたような呆然とした表情から、徐々に怒気を孕んだ貌になっていくのを、三人は息を呑んで見つめた。魔女の華奢な体に、感情の動きに伴って膨大な魔力が凝っていくのが感じ取れる。テーブルが触れても居ないのにギシギシときしんだ。

 彼女はしばらく考え込んでいたが、小さく舌打をすると、

「御免、用ができた」

 とだけ言い残して空中に消えた。固唾を呑んで見守っていた三人は、ようやく胸を撫で下ろす。

「こ、怖い……」

「あれは浮気は出来ないな……」

「何だったんだろ……」

 ともかく三人は嵐に巻き込まれずに済んだのである。


 その嵐の直撃を受けたのは、当事者の従者であるラザルだった。

 彼は書類を持って執務室に向かう途中、眼前に現れたティナーシャに驚愕して足を止める。

 朝とは違う不穏な空気と、紅い唇は笑みを刻んでいるのだが、目だけは笑っていない、というよりかなり怒っていることが分かる表情にラザルは凍りついた。

 彼女は透き通った氷のような声で謳う。

「本当のことを言うと幸せになれます」

「ティナーシャ様……」

 その視線で射られるだけで死ぬ気がする。ラザルは空気を求める魚のように口を動かした。

 もう主人の言いつけを守ることは出来そうになかった。



「オスカー!!」

 執務室の扉が凄い音を立てて開かれたかと思うと、魔女が血相を変えて飛び込んできた。

 怒ったところを見るのは初めてではないが、それにしても尋常ではない。オスカーは嫌な予感に眉を顰めた。

「どうしたティナーシャ」

「どうしたじゃない!」

 彼女は宙に浮かぶと両手でオスカーの頭を挟み込み、自分の方を向かせた。強い力ではないが、その手が怒りでかすかに震えているのが分かる。

「ルクレツィアと会ったって何で黙ってたんですか!!」

「……ラザル……」

 扉の方を見やるとラザルが蒼白な顔で立っている。彼は両手を上げて、無理でした、という仕草をしてみせた。予想は出来ていたことだが溜息を禁じえない。だがティナーシャ相手に嘘をつけというのは、元々ラザルには無理な相談であったろう。

 彼は、今にも怒りで部屋を破壊しそうな魔女の目を見返した。

「大したことじゃないと思ったから黙っていた。悪い」

「魔女と会ったことが大したことじゃないなら世の中些細なことだらけですよ!」

「そうかもしれない」

「その危機感のなさを何とかしてください! 精神系の術はふせげないって言ったでしょう! 自分に自信があるのは結構ですが、それで死んでも責任とれませんよ!」

「……悪い」

 そこまで言って、オスカーとラザルは視線を合わせた。

「……死んでも?」

「間に合ってよかったですね」

 ティナーシャは心底不機嫌そうにそう言った。



 かつて東の国で大層愛されていた王妃が亡くなった。

 王は深く嘆き苦しんだが、ある時から夢の中に王妃が現れるようになったという。

 王は幻の逢瀬を重ねたが、それでも起きれば王妃がいない現実を悲しみ、ある日ついに、眠ったまま亡くなった。

 人々は王妃を追っていったのだろうと王の死に涙したものである。

「切ない美談ですね……」

「夢に現れたのが本当に王妃だったならそうですね」

 ティナーシャは自身の髪をかきあげながらそっけなく返した。不穏な発言をオスカーは聞きとがめる。

「本当は何なんだ?」

 執務室でテーブルを囲みながら、オスカーとラザルはお茶を飲んでいる。ティナーシャは激怒しながらも、少し気が晴れたのかお茶を淹れてくれたのだ。いつもより少し渋い気がするのは気のせいではないだろう。

 ティナーシャは平然と指を弾いた。

「おそらく魔物か魔法士の干渉ですね。夢の中で王妃に化けて徐々に相手の生気を移し取るんです。手際よくいけば一週間くらいで死亡します」

「…………」

 本日はルクレツィアに会ってから五日目である。男二人は危なかった事実に、それぞれ沈黙を保った。

「淫魔か夢魔を使役してるのか、全て魔法でやってるのかは分かりませんが、毎晩そういう夢を見ているはずですよ。起きたら記憶が消えるようにしてあるんでしょう」

「覚えてなくて残念だというべきだろうか」

 二人から冷たい視線を浴びたが、オスカーは平然と表情を保った。こういう話はどんどん先へ進めるに限る。

「お前はどうして気づいたんだ?」

「匂いです」

 彼女は、指でテーブルの中央に飾られている薔薇をつついた。

「貴方から女性の香水のような、強い花の香りがするんですよ。だからてっきり普通の恋人がいるかと思ったんですが……」

「いない。というかそんな匂いがするか?」

 オスカーの視線を受けて、ラザルは頭を振った。ずっと一緒に居るのはラザルだが、やはりそんな香りは感じられないらしい。それはオスカー本人も同様だった。

「他の人には分からないみたいですね。私だけが気づくようにしてあるみたいです。あの変態め」

 変態とはルクレツィアのことらしい。旧知の間柄のようだが随分な言い様である。

 しかしそれも最悪の事態にまで陥っていないからこその感想だろう。もしティナーシャが気づかないままであったなら、変態呼ばわりどころでは済まないはずだ。


 思わぬところで魔女に殺されかけていたオスカーは、隣に手を伸ばすとティナーシャの髪を指に巻き取る。

「で、どうすればいい?」

「今夜、解呪します。既に生気に揺らぎが出てしまってるので外から強引に解呪すると命に関わるかもしれません」

「なるほど」

「中から強引に解呪しましょう」

「結局強引なのか」

 魔女は知ったことか、という表情で小さく舌を出した。ラザルが不安げに口を挟む。

「他に方法はないんですか?」

「知識としてはいくつか知ってますが……」

 やりたくない、と目が如実に語っている。オスカーはそれを一瞥すると、魔女の髪の一房から手を離した。

「分かった。全て任せよう。よろしく頼む」




 ※ ※ ※


 夜が大きな窓から沁み込んで来る。

 月光が部屋の中に長い影を作り、全ての雑音を吸い込むように青い静謐な空気を支配していた。

 寝台に腰掛けている女もそれにならい沈黙を守っている。艶やかな黒髪を、横になっている男が軽く引いた。女は軽く眉を上げる。

「何ですか?」

「いや、眠れないぞ」

「いいから寝てください」

「そう言われてもな……」

 男は天蓋を仰いで深く息を吐いた。

 部屋の中にいるのは彼と、彼の守護者たる魔女だけである。

 彼女は薄い黒絹を何枚も重ねた裾の長いドレスを着ている。月光を背に物憂げな顔を伏せているその様は、一枚の絵のようだった。

「魔法で眠らせてもいいんですが、眠りに魔法が干渉すると中で何かが働くようにしてあるかもしれません。ルクレツィアはそれくらいやりかねないんで、自然に眠ってくれるのが一番いいんです。そうすれば眠りに落ちる時に介入できますから」

「努力する」

 オスカーは目を閉じた。一人の暗闇が訪れる。

 意識はしてみるのだが、傍に彼の魔女がいて眠りを待っているかと思うとなかなか落ち着かないものがあった。つい口を開いてしまう。

「ルクレツィアはこういう魔法が得意なのか?」

「あと魔法薬ですね。どちらも私は敵いません」

「魔女にも得意不得意があるんだな」

 目を閉じているので見えないが、彼女が小さく笑うのが気配で分かった。

「ありますよ。魔女は全て基本的な魔法の上に特化した何かを持ってます。そしてそこでは追随を許さない……」

「お前は?」

「攻撃と防御、純粋な力です」

 目を開けてみると、ティナーシャは自嘲的な笑みを浮かべている。

 その力が、彼女を最強と言わしめる所以であるのだ。

 しかし彼女は己の力を最大に揮おうとはしない。理由がなければ塔から出ないという魔女は、過ぎたる力は何ももたらさないということを、よく知っているようだった。しばしば言葉の端々にその意志を感じる。


 眠りを促すように髪を撫でられ、オスカーは再び目を閉じた。

 しかし一向に来ない睡魔の為に、しばらくするとまた彼女の髪を引く。魔女は苦笑して、オスカーの顔を覗きこんだ。

「寝酒でも持ってきましょうか?」

「いやいい」

「仕方ないですね」

 魔女は再びゆっくりと男の髪を撫でる。紅い唇を僅かに開いて、小さく歌を歌い始めた。

 彼にとっては聞き覚えのない歌だが、子守唄のようである。


 夜の暗きや 星の遠さや

 愛しき子供は腕の中

 千の紅花 月の青

 小さな手と手を繋いだら

 夢の道まで送りましょう


 普段の彼女の声よりは若干低い、緩やかな響きが心地よい。異国の歌なのだろう、不思議な旋律が意識を満たした。

 小さな白い手が彼の髪を優しく撫でる。

 そしてそのまま、彼はゆっくりと眠りの腕の中に降りていった。




 ※ ※ ※ ※




 気づいた時には見知らぬ建物の入り口に立っていた。

 両開きの扉が嵌まっている大きな白い屋敷。振り返ると後ろは霧が立ち込める森である。

 オスカーはさっきまで一緒に居た誰かの名を呼ぼうとして、その名前を思い出せないことに気づいた。頭を軽く振ってみたが、紗がかかったように上手く働かない。

「何だ……? 俺は何を……」

 その時、彼は何かに呼ばれた気がして、入り口の扉に手をついた。扉は少し触っただけなのだが音もなく奥へと開く。

 誘われるように一歩中に踏み入ると、そこは外壁と同じく白で纏められた邸宅のようだった。小奇麗だが人の気配がなく、あるべき生活感もない。

 しかし彼はこの場所に見覚えがあった。―――― そう、確か毎晩此処に来ていたのだ。


 彼は正面の階段を上り、奥に伸びる廊下を歩き出す。先程から自分を呼んでいる相手はその先に居るのだと知っていた。

 長い長い廊下の終わりに、白い扉が見える。そこを開けると、中は広い部屋になっていた。白一色の部屋の奥に、紗幕で遮られた寝台がある。 彼はゆっくりと歩み寄り、薄布をかき分けた。

 その気配に気づいたのか、背を向けて寝台に座っていた女が振り返る。

 ―――― 長く艶やかな黒髪が、広い寝台に広がっている。

 部屋に溶け込む静謐な肌は、同じ色の薄い夜着に隠されていた。

 深い闇色の両眼。

 人にして人ではないその美貌。

「オスカー……」

 彼女はオスカーを見つけると艶やかに微笑んだ。折れそうな細い両腕を伸ばしてくる。彼は手を伸ばしてその華奢な体を抱き取った。

「ティナーシャ」

 壊れ物を扱うようにそっと抱きしめる。

 その時、ふと耳元で「悪趣味……」と嫌悪感に満ちた呟きが聞こえた。

 彼は腕を緩めて目の前の女の顔を見たが、女は微笑んだまま小首を傾げただけだ。

 闇色の大きな目に甘い光が湛えられている。オスカーは両手でその小さな顔を包んだ。彼女は幸せそうに目を細める。



 滑らかな肌を確かめる。

 彼は左手を滑らせて女の細い首に触れた。温かい血潮が柔肌のすぐ下に息づいているのが分かる。その首筋に口付けようとした彼は、だが不意に、自分の手に力が込められたことに気づいた。

「オスカー?」

 彼女は怪訝そうに男を見上げる。

 自分でも不思議に感じたオスカーは、次の瞬間、驚きに目を瞠った。

 左手が独りでに彼女の喉を締め上げ始めたのだ。次いで右手がそれに加わる。

「手が勝手に……!」

 どんなに強く意識しても、それはまるで自分の手ではないようにはずすことができない。むしろ明確な殺意を以って、女の首を締め上げていく。

 彼女は美しい顔を歪めて苦痛に喘いだ。

「オスカー……やめて……助けて……」

 白く小さな手がもがくように彼の手にかかる。

 オスカーはその姿を見て、自分の背筋に汗が滑り落ちるのが分かった。

 言いようの無い戦慄が打ち寄せる。

 女の細い首に指が爪を立てながら食い込んだ。

「お願い……助けて……」

 かぼそい声が耳を打つ。闇色の目に涙が浮かんでいる。

 彼はままならない状況に、自分の唇を血が出るほど噛み締めた。

 ―――― 眩暈がする。

 体は凍りついたかのように動かない。

 手の中には女の細い首がある。

 これから何が起きるのか、分かりきった恐怖が思考を押しつぶした。

「……やめろ……やめろ!!」

 真白い部屋に響く叫びはしかし、何の慈悲も効果ももたらさない。

 思わず目を閉じたその時、骨の砕ける鈍い音がして、女はぐったりと頭を垂れる。

 手がようやく自由になり、その中から彼女の体が零れ落ちた。

 オスカーは震える両腕で、力を失った体を抱き上げてみる。闇色の両眼はその輝きを失い、硝子玉のように鈍く風景を反射していた。わずかに開いた唇はもう動くことが無い。

「……ティナーシャ?」

 信じられない思いで、彼はただの物体になった細い体をかき抱く。

 その時、世界がようやく崩壊した。



 跳ね起きた時、彼は全身にびっしょりと汗をかいていた。横を見ると、黒衣の魔女が不機嫌そうに彼を見つめている。

 冷めやらない恐怖と安堵が体の中に渾然と渦まいた。両手の中にはまだ、女の首を折った時の感触がはっきりと残っている。それを打ち消そうと、彼は両手をきつく握った。

「お疲れ様です。奪われた生気もちゃんと戻りましたよ」

 何処か冷ややかな声。夢の中の女の甘い声とは、同じだが全く違う。

 オスカーはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。両手で前髪をかき上げる。自然と声が零れ出た。

「俺に……お前を殺させるな……」

「あれは私じゃありません」

「それでもだ」

 オスカーの青い両眼と魔女の闇色の瞳が交錯する。

 魔女は唇の両端をあげると、酷薄な笑みを浮かべた。

「どうして? 貴方がその剣の持ち主で、私が魔女である限り、いつか貴方は本当に私を殺さなければならないかもしれませんよ」

 月光が二人を青白く照らす。

 全ての温度がゆっくりと下がり氷結するような錯覚を、オスカーは覚えた。

「本気で言ってるのか」

「勿論」

 ティナーシャは目を閉じて微笑む。

 それは魔女の微笑で、いつも隣で晴れやかに笑っているはずの彼女が、今はひどく遠く感じられて仕方なかった。

 オスカーは手を伸ばして彼女に触れようとする。だが、それより一瞬早く魔女は宙に浮かび上がった。

「ルクレツィアに苦情を言ってきます。明日には帰りますよ」

「待て!」

「今夜はゆっくりおやすみなさい」

「ティナーシャ!」

 女の姿が部屋から消え去る。

 焦燥と孤独が淀む室内で、後には月と、それが作る影だけが残された。




 ※ ※ ※ ※




 魔法薬の調合をしながら酒を飲んでいたルクレツィアは、結界に侵入してくる馴染みの気配にほくそ笑んだ。すぐに玄関の扉が乱暴に開かれる音がする。

「ルクレツィア!」

「久しぶり、ティナーシャ。あら成長したの?」

 悪戯が成功した子供のような顔で迎えると、昔からの友人は渋面のまま唇だけで笑った。

「何ですかあれは。悪趣味な悪戯にもほどがありますよ」

「もっと早く解かれるかと思ったんだけど、彼ら私のこと言わなかったのね。香りをつけといてよかったわ」

 不機嫌そうなティナーシャとは対照的に、ルクレツィアは弾むような機嫌のよさで来客に葡萄酒を出した。

「悪趣味なのは貴女の解呪じゃない?  まさか首を折らせるとは思わなかったわよ」

「手っ取り早いし、私の気も晴れます」

「もっと色気のある解呪を期待したのに……」

「誰が閨房術なんて使うか!」

 ティナーシャが叫ぶと、閉ざされた森の魔女は小さく舌を出した。



 小さな陶器に注がれた葡萄酒に、ティナーシャは溜息の代わりに口をつける。

 普段は理性が鈍るのを嫌ってほとんど酒類を口にしないが、この友人の前では例外である。

 膨れ面の魔女は、向かいに座った女を睨んだ。

「大体どこから見ても私の契約者って分かるようにしてあるのに、何てことするんですか」

「すごい結界よね。威嚇する気満々だし。まぁ久しぶりの挨拶だと思ってよ」

「挨拶で人を殺しかけるな」

 ルクレツィアは楽しげに笑った。戸棚から手作りの菓子を何種類か出してきてテーブルの上にならべる。

「で? その契約者はどうしたの?」

「怒られましたよ。首を折らせた件について」

「それは怒られるわよ……後味悪い」

「アカーシアの持ち主が何を甘いことを」

 ティナーシャの厳しい言葉に、ルクレツィアは肩をすくめた。


 もし、世界が魔女の討伐を望んだ時、 真っ先に討伐者候補として名前が上がる人物がアカーシアの持ち主であることは、魔法士なら皆知っていることである。

 そしてオスカーの腕なら実際、魔女の討伐も可能であろうとはティナーシャにはよく分かっていた。

 だからなおさら、彼は必要以上に魔女に親しむべきではないと思う。ましてや娶るなど論外だ。

「でもいい男じゃない。レギウスよりいいと思うな」

「色んな意味でレグとは比べないでください」

「勿体無い。私にくれる?」

「もってけもってけ」

 ティナーシャはやる気なさげに手を振ってから、あることを思い出し

「やっぱり駄目」

 と友人に告げた。そのままテーブルに頬杖をついて顔を顰める。

「何? 惜しくなった?」

 にやにや笑いを浮かべる友人に、彼女は首を振って否定した。

「いや、魔女の血を入れるのは駄目ってことです」

「ああ、何か面倒なことになってるみたいね」

 ルクレツィアにもオスカーにかかっている呪いが見えたのだろう。 あるいはもっと別のことまで分かったのかもしれない。

 魔女でさえ注意して見ないと分からない彼の呪いは、祝福と呪いにおいて圧倒的な技術を持つ沈黙の魔女の為せる業である。

 ティナーシャは出された焼き菓子を摘まみながら、その作り方について聞くように、軽く友人に問いかけた。

「あれ解ける?」

「あれは難しいわ……。無理かも。沈黙の魔女でしょ?」

「うん。私も一応解析をすすめてるんですけどね。行き詰まり気味です」


 焼き菓子はほどよい甘さで実に美味しい。 ティナーシャは本当に作り方を聞こうか少し迷った。魔法薬に卓越するルクレツィアは、創作料理の腕も非常に優れているのだ。

 閉ざされた森の魔女は、自分とティナーシャの杯に酒を注ぎ足しながら尋ねた。

「何を解析してる?」

「髪と爪。あと言葉」

「肉体は血と精液にした方がいいわ。多分そこが一番影響を受けてるから」

「なるほど」

 ルクレツィアは部屋の奥にある工房に戻ると、二つの小瓶を持って来た。無造作にティナーシャに投げて渡す。

「はい持ってけ。今回のお詫び」

 それを受け取ったティナーシャは、瓶の中身が問題の物であると分かって唖然とした。思わず食べかけの焼き菓子を取り落とす。

「採ってたのか……その悪趣味な収集癖なんとかしてくださいよ」

「人工生物でも作ろうかと思って」

「人の契約者なんだとおもってるんですか。他にはないでしょうね」

「これだけよ?」

 機嫌よく鼻を鳴らすルクレツィアを胡散臭く思いながらもティナーシャは小瓶を受け取った。割らない様に安全な場所に転送させる。


 ぶつぶつ言う友人を眺めながら、ルクレツィアはうっすら上気した頬に酒瓶を当てた。

 ティナーシャが清冽な印象の美人であるのに対し、彼女は明るい色気を持つ美女である。その人懐こい笑顔に惚れ込む男も多いらしく、現に彼女は今まで多くの恋人を作っている。

 綺麗に紅く塗られた爪で、彼女はティナーシャの手をつついた。

「帰ったら素直に謝れば? 貴女大事にされてると思うけど。大体あの術だって、貴女を現出させようと組んだんじゃなくて、彼の希望を反映するように組んであったんだけどな」

「誰のせいで揉めてると思ってるんですか」

「貴女が頑固なせいでしょ」

 半分は図星である。ティナーシャは反論をやめて酒を一口ふくんだ。

 頭を冷やすとやはり若干の罪悪感が残る。事実だとしても、もっと別の言い方があったかもしれない。小さな後悔が棘のように疼いた。

 彼女はふと窓の外の月を見上ぐ。

 その月が今も照らしているだろう契約者のことを思い浮かべて、帰ったらまず何と言おう、と考えながら。




 ※ ※ ※ ※




 翌朝起きて、体が異様に重いのに気づきオスカーは舌打した。

 ルクレツィアにかけられた術の反動か、昨晩の嫌な記憶の残滓か、心身共にすっきりしない。寝台に腰掛けて、風呂に入ろうかと思案していると露台に続く窓が小さく叩かれた。

 そんなところを叩いてくる人間は一人しか居ない。オスカーは上着を羽織ながら「入れ」と声を掛けた。

 彼の言葉に応えて、黒衣の魔女が入ってくる。

 しかし彼女は窓の傍から寄ってこようとしない。その姿を見てオスカーは苦笑した。彼女の顔にはまるで子供のように、気まずい、と書いてある。

「おいで」

 手招きすると、魔女は躊躇いながらも歩いて彼の前までやってきた。何かを言おうと小さな唇を開きかけて、結局口ごもる。

 オスカーはそんな彼女の様子を少し眺めていたが、手を伸ばすと細い体を抱き寄せて膝の間に乗せた。

 頭一つ分オスカーより高くなった魔女は、困ったように彼を見下ろしている。その頬と、そして白い首を彼は確かめるようにそっと撫でた。

「すまなかった」

 素直な気持ちが言葉になる。

 オスカーの謝罪が意外だったのか、彼女は軽く目を瞠って、しかしすぐに恥ずかしそうに俯くと「御免なさい」と呟いた。

 彼はその背中を軽く叩く。

 たとえ自分がファルサスの王となり、彼女が塔の魔女で在り続けたとしても、これから先、決して彼女を敵とする日が来ないことを願いながら。


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