第8話 森の見る夢 01

 使い魔からの報告は、今回も芳しいものではなかった。

 もうその返事には慣れっこである。

 朝起き、夜眠るように生に組み込まれた諦観。

 それでも捨てきれない一欠けら。

 彼女は空に浮いたまま世界を見つめる。

 その何処かに、彼女が求める男がいることを信じながら。




 ※ ※ ※ ※




 城の入り口からすぐの広間には大机の上に色とりどりの布が並べられていた。

 筒状に巻かれた美しい布の山。女官たちがそれを軽い笑い声をあげて物色している。若い女から年老いた者まで、彼女たちは気に入った布を手にとっては自分や相手に合わせ談笑していた。人数は少ないが、男たちも濃い色の布を手にとって見ている。

 素材も色も様々な布は、諸国を移動する布問屋が持ってきたものだ。年に四回、布問屋はこうして城を訪れ選りすぐりの商品を披露する。城に仕える者のうち、希望者は布を選び採寸をして服を注文することができ、女性たちのほとんどがこの日を楽しみにしていた。


 魔法士の一人、シルヴィアもその例外ではなく、彼女は談話室で本を読んでいたティナーシャを機嫌よく呼びに来る。

「ね、ティナーシャ様見に行きましょうよ」

「服は最近買ったばっかりなんですが……」

「まぁまぁ、そんなこと言わずに……異国の珍しい布も多いんですよ」

「うーん」

 黒髪の魔女は渋りながら本を閉じた。手元にあるカップに口をつける。

「行きましょうよ! ティナーシャ様の採寸結果に興味があるんです」

「何で」

 ティナーシャはそれでも、医者に連れて行かれる子供のように渋々立ち上がった。

 魔女は先日買った丈の短い白いドレスを着ている。細い足が無防備に裾から覗き、朝から通りすがる男たちの目を引いていた。

 人外と言っても通る美貌。華奢な体だが、少女の姿であった頃と違いあちこちが柔らかい曲線を描いている。その細い腰回りがどれほどなのかシルヴィアは密かに興味があった。


 うきうきと牽引する彼女とは対照的に、足取りも重く引き摺られながら問屋の部屋に向かっていたティナーシャは、ふと廊下の先にいる男に呼び止められる。

「ティナーシャ!」

 そこには彼女の契約者と、その従者が立っていた。

 魔女は嫌な予感を覚えたが、シルヴィアがどんどん彼らに向かって行ってしまうので、渋々後に続く。

 オスカーは持っていた書類をラザルに渡して、彼の守護者に向き直った。

「ラザルに呼びに行かせようとしていたところだ。ちょうどいい。布を見に行こう」

「私、服には困ってないんですが……」

 既に疲れているティナーシャの頭をオスカーは軽く叩く。

「採寸結果に興味がある」

「お前もか!」

 ティナーシャはやはり来なければよかったと、激しく後悔した。



「ティナーシャ様、腰細っ!」

「もうちょっと胸があってもいいな」

 女官たちがいる部屋とは別の、王族のための高級生地ばかりが広げられた部屋で、ティナーシャは散々採寸をされてぐったりと長椅子に座り込んでいた。

 オスカーとシルヴィアは、職人が書き記した採寸表を覗きこんで勝手な感想をもらしている。それを聞くとなおさら彼女の疲労感は増す気がした。

「私がどんな体型だろうと私の勝手です……」

「さて、布を選ぶか」

 オスカーは魔女の苦情を無視して、目の前にある布を手に取った。彼は中でも彼女の髪の色に合うだろう上質の黒絹が気になるらしい。

「とりあえずこれと……」

 彼は傍に控える職人に無造作に生地を渡していく。魔女はそれを白い目で見ながら立ち上がった。

「自分で払うんで自分で選ばせてください」

「それは構わんが……俺は俺で頼むぞ」

「……好きにしてください」

 ティナーシャはがっくりとうなだれて、しかしあることを思い出すと、オスカーに近づきその袖を引く。

「何だ?」

「勝手に花嫁衣裳とか作ったら呪いますからね……」

 オスカーはその言葉に、かつて彼女が味わった受難を思い出したのか爆笑した。




 ※ ※ ※ ※




「あれ、ティナーシャ様はいらっしゃらないんですか?」

 魔女が採寸責めにあった数日後、談話室を覗き込んでラザルはドアンに問いかけた。魔女はいつも空き時間にはここで過ごしているはずなのだ。

「ラザル、聞いてないのか?  魔法具を虫干しに塔に二日ばかりお帰りになると仰ってた」

「そ、それは……」

 と言いかけてなんと表現するべきかラザルは迷った。

 ティナーシャが城に来て三ヶ月。彼女は魔法湖への遠征以外で丸一日以上城を空けたことはない。

 その彼女が普段何をしているかというと、魔法士の講義に顔を出し、訓練場で稽古をし、本を読み、オスカーにお茶を淹れて、からかわれている。実に平和だ。

 では、その彼女がいないということは……

「平和じゃなくなる?」

「まさか」

 ドアンは魔法書から顔をあげないまま答えた。

 ティナーシャの守護結界は彼女が何処に居ても関係なく作用する。そもそもオスカーは守護がなくても充分問題ないのだ。

 そうですよね、と同意したラザルはしかし、少しも気づいてはいなかった。

 魔女不在でも保たれる平和が、自分をその範疇にいれていないことに。



 二時間後、ラザルは何故か騎乗して城の裏門を出ようとしていた。

「やめましょうって! ティナーシャ様にばれたら怒られますよ!」

「だから行くんじゃないか。あいつがいるとうるさいからな」

「その無謀さ、治ったんじゃないんですか!」

「たまにはいいだろ。文句があるなら留守番してろ」

 主人の冷たい言葉にラザルは項垂れながら、それでも後について馬を走らせる。

 事の起こりは一時間前、執務室で各地からの報告書に目を通していたオスカーが最後の一枚に目を留めて、ラザルに声を掛けたことから始まった。

「これを見てみろ」

「何ですか?」

 お茶の葉をいれた瓶を盆においてラザルはその書類を手に取った。ティナーシャがいないので今日は彼がお茶を淹れているのだが、どうしても味が違う。一度コツを聞いたら「ちょうどいい時間蒸らすんですよ」と言われたのだが、なかなか要領がつかめずにいた。

 彼が受け取った書類に目を落とすと、そこにはある小さな村での怪事件について記されている。深い森の傍に立つその村では、先週から人が行方不明になる事件が頻発しており、いなくなった人間たちは二、三日後、森の中で干からびた死体になって発見されると書かれていた。

「何ですかこれ!」

「気になるだろ」

「……全然」

 非常に嫌な予感がしてラザルはそう答えた。 しかしオスカーはまったくその返事を聞いていないらしい。

「もう九人も死んでるそうだ。ここからそう遠くないな」

「全然気になりません!」

「ちょっと様子を見に行ってみるか」

「聞いてくださいよ……」

 ラザルは執務机に両手をついてがっくりと肩を落とした。


 ティナーシャが来る以前、オスカーには城を抜け出して何処にでも行ってしまう悪癖があったことは周知のことである。

 それも散歩や観光に行くのではない。魔物がいると言われるところや、罠が張り巡らされている遺跡など厄介なところにばかり行ってしまうのだ。毎回ついつい付き合ってしまうラザルにとっては寿命が縮む思いである。

 その最たる場所で出会った魔女は、今は城にいない。

 彼女をからかうのを日々の楽しみとしているオスカーは、どうやらその不在を逆手にとることを思いついたようだった。

 これから向かう場所の物騒さと、契約者の行動を後で知った時の魔女の怒りを想像してしまったラザルはただ青ざめる。そして自分も休みをとればよかった、と心底思った。



 バイルの村は城都から程近い北東の山際にある。

 村のすぐ外には山に繋がる深い森が広がっており、その厚い木々は昼でも薄暗く森を閉ざしていた。

 夕暮れ前に村に到着したオスカーとラザルは、面倒を避けるために身分を隠し、城からの調査ということで村人から話を聞いた。

 最初に話しかけた男は庭で薪割りをしていたが、二人に声を掛けられて作業の手を止めると積んだ木材に腰掛ける。

「最初のやつは、森の中で何か見つけたって言ってなぁ……。何だか教えてくれんまま妙に機嫌がよさそうで。で、急にいなくなったかと思うと、ああなっちまった」

 ああ、とは干からびた死体のことだろう。ラザルは後ろでげっそりした。絶対ろくでもないことが起こっているのだ。

 出来れば関わり合いにならないうちに帰りたかったが、それが無理であることは今までの経験からよく分かっている。

 オスカーは他の村人にも一通り話を聞くと、予想していたことだが

「じゃあ森に行ってみるか」

 と言い出した。まるでお茶でも飲み行ってみるかというような気軽さである。ラザルは予想通りすぎて泣きたくなった。

「本当にもう……貴方は……」

「結界に接触するとティナーシャにばれるからな。何か来ても全部避けないと」

「いっそもうばれてください」

 干からびるよりその方が幾分ましだ、とラザルは思った。



 鬱蒼とした森の中は、それでも普段村人が立ち入っているのか幾分歩きやすい。ただ最近は変死事件のせいか森に入る人間はほとんどいないのだという。

 迷わないように、木にところどころ目印をつけながら二人は森の奥に歩み入って行く。

「どれくらい広いんですか」

「地図上ではあの村の十倍は軽くあるな」

「それ全部調べるなんて無茶ですよ」

「村人が死んでるんだ。歩いていける距離にあるさ」

 なにがあるのか分からないまま、二人は地図を見ながらよく村人が行くという東方面に向かって進んでいる。その奥では薬草類がとれ、魔法士にいい値で売れるのだそうだ。


 教えられた場所に二人がついたのは、村を出てから一時間ほど経った頃だった。

「見事にどれが薬草だか分かりませんね」

「みんなただの野草に見えるな」

 魔法とは縁遠い二人は、当然なのだがあんまりな感想をもらした。

 その場所は、他と比べればほんの少し開けているようにも思える。あくまでそう意識すれば、の話であるが。

 村の人間や魔法士ならば有用な草が分かるのだろうが、二人に出来ることはせいぜい草を踏まないようにするくらいだ。しかしそれは不可能なので、実際は大股にその広場へと踏み入った。

「花でも咲いてれば分かりやすいんでしょうけどね」

 辺りは見事に緑一色である。

 きょろきょろと周囲を見回していたラザルはしかし、開けた場所から少し右に外れた奥に、白く小さな花を見出して歩み寄った。

 近づいて見下ろして、彼はそれが花ではないことに気づく。

「……真珠?」

 鈴蘭によく似たその草は、白い花の代わりに真珠をたわわに実らせていた。

 ラザルは我が目を疑いながら膝をつきその真珠に向かって指を触れさせる。硬質な感触がそこにはあった。

「殿下! 真珠がなってますよ」

「お前は馬鹿か」

 簡潔な返事が返ってきた。

 振り返るとオスカーは、少し離れたさっきの広場からラザルを見下ろしている。

「いやでも本当……」

「本当だったらますます馬鹿だ」

 オスカーがアカーシアを抜くのが見えた。ラザルはそれほど失言をしてしまったかと身をすくめる。

 でも確かに本当なのだ。

 そう言いかけて、何かが足に絡みつく感触にラザルは目を落とした。

 つる草が、足首に何重にも巻きついている。それはまるで蛇のように頭をもたげるとシュルシュルと動きだした。

「うっわぁぁっ!」

「馬鹿が!」


 ラザルが悲鳴をあげるのと、駆け寄ってきたオスカーがアカーシアでその背後を切りつけるのとはほぼ同時であった。

 オスカーに引っ張り上げられ、足の束縛が解けたラザルは振り返る。そこには巨大な真珠色の蔓、或いは触手が数本、二人に向けてその太い先端を延ばそうとしていた。

 地面には今切断された一本がのたくっている。ラザルは生理的嫌悪に口を押さえながら後ずさった。

「これは……植物ですか?」

「色と大きさ以外はそう見えるな。捕まったらいかにも水分を吸い取られそうだ」

 触手の根元には巨大な真珠のようなものが見える。それを緑色の花弁が覆うように取り囲んでいた。先程の小さな真珠の草とどう見ても同種である。



 隙を伺いながらゆらめく蔓に、オスカーは火をつけてみたくなったが、生憎そのための道具はない。ナークがいればよかったのだが、あのドラゴンを連れているということはその主人に全てが筒抜けということである。

 彼女が怒ってもそれほど怖いわけではないが、不機嫌になられることを思うと、ばれないならそれにこしたことはなかった。

 そんなことを考えながら、彼は突き出される蔓を結界に触る寸前で切り落とす。無言で巨大な真珠への間合いを計った。おそらくあれが核だろうとあたりをつける。

「ラザル、ちゃんと下がってろよ」

「は、はい」

 呼吸を整える。

 残る蔓は四本。

 それらが狙いを定めるように上方から先端をもたげる、その瞬間を狙ってオスカーは蔓の根元へと飛び込んだ。投げられる槍のように襲ってくる蔓を、まとめて二本切り落とす。更に上体を伏せて横に薙いで来る一本を避けた。

 すぐに左から真っ直ぐに一本が伸びてくる。あと少しで結界に触るというところで、オスカーは太い先端をアカーシアの刃で受けた。勢いのまま蔓は二つに切り裂かれ、力なく地面に落ちる。

 間をおかず彼は再び跳躍して巨大な真珠の前に下りると、短く息を吸い込んでアカーシアを中心に突き刺した。硬質な感触が返ってくることを予想していたオスカーは、蛙の卵のようにぶよっとした手応えのなさを感じて眉を顰める。

 その直後、アカーシアが刺さり破けた表面から、紫色の体液らしきものが飛び散った。


 彼は慌てて後ろに跳んで飛沫を避ける。

 残った一本の蔓が苦しげにのたうちまわり、彼の体を打ち下ろそうとするのを、更に下がって空を切らせた。オスカーはアカーシアを下から上に振るい上げ蔓を切り落とす。

 その間にも萎んでいく真珠から噴出す液体は、それがかかった周りの草花を泡を立てて溶かしていった。

「毒か!」

 蔓を失った真珠からは、体液と同じ色の霧が漏れ出し始める。オスカーはそれを見て舌打をしたくなった。

 紫の霧はまるで意志があるかのように、風のない森の中を二人に向かってその手を伸ばす。

「ラザル、退くぞ!」

 短い命令に、しかし何も返ってこない。オスカーが肩越しに振り返ると、ラザルは森の中に口と鼻を押さえてしゃがみこんでいた。その顔色は真っ青で脂汗が浮いている。

「ラザル!」



 充満していく霧が二人を捉えようと広がってくる。

 オスカーはラザルの腕を取り、強引に走り出そうとした。だが彼の背後から不意に涼やかに笑う女の声が響く。

「何してるの?」

 気を失う直前、ラザルがオスカーの肩越しに見たのは空中に浮かぶ髪の長い女の影だった。

 主人の魔女が来たことに安堵して、彼は意識を手放した。



「あんなところにいるなんて物好きね。何人か死んでたんじゃなかったっけ」

 若い女の声が聞こえる。面白がっているような声音だ。それに男の声が答える。

「そういうお前は何で居るんだ」

 多少の警戒と興味が滲む声。それはラザルのよく知る人間のものだった。 彼は妙に痛む頭を努力して覚醒させる。

 目を開くと、そこはどこか木造の家の中のようだった。まばたきをして体を起こすと、少し離れた食卓椅子に彼の主人が座っている。

 向かいに座るのは見たこともない華やかな印象を受ける美人だった。 明るい茶色の巻き毛に琥珀色の瞳と象牙色の肌を持っている。

「あら、起きた?」

 彼女はラザルに向かってひらひらと手を振って見せた。

 その言葉を聞いて彼は寝台に寝かされていたのだということに気づく。オスカーが首だけで振り返った。

「殿下、私は……」

「あの場所は瘴気が出てたらしい。気づかなくて悪かった」

 女は席を立つと、寝台脇のテーブルから水差しを取り、グラスに水を注いで差し出してきた。彼は礼を言ってそれを受け取る。一口飲むと、心地よい冷たさが体の中に広がった。ラザルは深い息をつく。

「ありがとうございます……。貴女は?」

「私?」

 女は自分を指差すと楽しそうに笑った。

「私はルクレツィア。でも名前で呼ばれることはほとんどないわ。『閉ざされた森の魔女』と皆が呼ぶから」

 ラザルは驚愕で口を開けたまま二の句が継げなかった。

 その反応を見て魔女はますます楽しそうに笑い、オスカーは苦い顔で溜息をついたのである。



 森のさらに奥、普段は結界で立ち入れない場所にある魔女の家で、オスカーとラザルはお茶を出されていた。

 木で出来た家は一人で住むには若干大きいが、あちこちに薬草の干されたものや、それを調合するための硝子器具が並んでいて雑然とした印象を受ける。壁の一面は本棚になっており、魔法書らしきものがぎっしりと詰め込まれていた。隣の硝子戸棚には茶器に混ざって何が入っているのか分からない瓶が並んでいる。


 オスカーが相対したあの植物は、生き物を食らう種で普段は人が立ち入らぬ森の奥にいるのだとルクレツィアは説明した。

「多分、物好きがそこまで立ち入っちゃったんじゃない? その人間の香りを追ってあそこまで行って、真珠に引かれて近寄ってきた人間をどんどん吸収して、あっという間に大きくなっちゃった、と」

「最初の犠牲者が原因か」

「あんな大きいのは初めて見たわ。標本にしたかったかも」

 陶然とする魔女を見ながら、オスカーは標本になる巨大な蔓を想像して、何とも言えない気分になった。横では起き立てのラザルが、げっそりを絵に描いたような顔をしている。

 ルクレツィアは二人に意識を戻すと、出されたお茶に手をつけていないオスカーに気づいて首を傾げた。

「あれ、お茶飲まないの?」

「無用心だと怒るやつがいるからな。悪い」

「ふーん……ティナーシャは相変わらず?」

「知ってるのか」

 軽く目を瞠ったオスカーに、ルクレツィアは人の悪い笑みを向けた。

「勿論。あの子が魔女になったばかりの頃から知ってる」

 その何気ない言葉に、オスカーは少なくない衝撃を受けた。


『魔女に成る』

 ティナーシャは魔女として生まれたのではなく、魔女に成ったという。『体は成長を止めてあるだけ』というからにはあの外見の年齢になる前に、彼女はおそらく魔女になったのだろう。

 ではそれ以前、彼女は何だったのか。どうして魔女になったのか。

 そんな疑問が次々に浮かんでは、心の中に沈殿していった。

「そんな守護結界張れるのあの子だけだから、すぐ気づくわ。今はティナーシャ何してるの? まだ塔に引きこもってる?」

「いや、普段は俺の守護者をしてる」

「へぇ、じゃあ貴方、あの塔を登れたんだ。結構意地悪な作りになってたと思うけど……」


 ルクレツィアは思い返すように視線を中空に漂わせた。

 害意の感じられない、あけすけな態度にラザルは少しだけほっとする。ティナーシャの知り合いであるということもそれを手伝った。

 魔女といえば、彼の主人に呪いをかけた『沈黙の魔女』に代表されるように、数百年間その圧倒的な魔力と気紛れで大陸を畏怖させてきたのである。

 魔法士たちからは魔女の時代とも呼ばれるこの時代、ティナーシャとルクレツィアは少なくとも、世間の印象とは異なった魔女であるように、ラザルには思えた。



 無防備にいつもの人のよい笑みを浮かべ始めたラザルを横目に、オスカーは表面には出さないが緊張を崩さなかった。

 森の中で霧を払い、ラザルを連れた彼を家に招いて治療してくれたのは確かに彼女だ。

 しかし、だからといって初対面の、しかも魔女である。ティナーシャの知り合いとは言うが、即信用するのは危険だろう。

 そんな彼の心中を見抜いているのかいないのか、ルクレツィアは琥珀の瞳に輝きを帯びて、オスカーを見つめた。

「それで、契約内容は? 世界の王にでもなりたいとか?」

 好奇心でいっぱい、といった表情で彼女は問いかけてきた。

「そんな望み、あいつが聞き入れるとは思えんがな……」

「そうだけど、でもその剣とその守護なら不可能じゃないんじゃない?」

 彼女の目がすっと細くなる。

 口元には笑みを湛えたまま、探るようなからかうような、しかし確かに魔女の底知れぬ影を以ってルクレツィアはオスカーを見上げた。

 しかし彼はそれを平然と受け流す。

「俺一人が強くても戦争に勝てるわけじゃない。それに、わざわざそんなことをしたいとは思わんな」

「……ふぅん? じゃあ何を望んだの?」

「さぁ?」

 答えを言わないオスカーに、ルクレツィアは目を和らげて実に残念そうな顔をした。剣呑な雰囲気は消え、ごく普通の女のように口をとがらせる。

「ただ知りたいだけなのに。ティナーシャに直接聞きに行こうかしら。十年くらい会ってないし」

「殿下はティナーシャ様を奥方に迎えられたいんですよ」

 オスカーは思わず椅子からずり落ちそうになった。今までの用心が台無しである。横を見るとラザルはにこにこと笑いながらカップのお茶を手に取っていた。

 文句を言おうとして、しかしそれは魔女の笑い声にかき消される。

「あははははははは、そっかそっか、ありがとう」

 ルクレツィアはテーブルにつっぷして笑っていた。笑いすぎのためか目には涙が滲んでいる。心底面白いらしい。

「……まぁ断られたけどな。そんなわけで守護者だ」

 オスカーは苦虫を噛み潰したような顔で諦めの溜息をついた。

「あははは……ごめんなさい。でもいいんじゃない?  かなり難しいとは思うけど」

「難しいんでしょうか」

 ラザルは真剣な顔で乗り出している。すっかり気を許してしまったようだ。城に帰ったら説教だな、とオスカーは心の中で決定事項に加えた。

 ルクレツィアは自分のカップに砂糖をいれながら答える。

「難しいわよ。延々精霊術士やってる堅物だし。今は人懐こいから人と暮らせばすぐ馴染むけど、男は作らないでしょうね。昔色々あったし」

「昔ってファルサス王のことか?」

 ティナーシャに馬鹿王と言われた曽祖父のことが脳裏をよぎる。ルクレツィアは再びテーブルを叩いて笑い出した。

「あ、あれは傑作だった。当時もかなり笑ったわ。強引なんだもん。あの子ぐったりしてたわよ? あれでもうちょっと頭がよかったら可能性あったかしら……?  いえやっぱり無理ね」

 魔女は自己完結すると膝を打った。あれだけ笑っていたのに何事もなかったように普通の微笑に戻っている。

「そういうことなら私は応援するけど?  何なら媚薬でも持ってく? 普通の魔法薬は効かないけど、私の作るものは薬草自体に効果があるから、あの子にも多分効くわよ」

「……いやいい」

 オスカーは背もたれに体を預けた。

 ティナーシャに初めて会った時とはまた違うつかみ所のなさに妙に疲労を感じる。そもそも堂々と媚薬を勧める辺りが魔女ということだろうか。

 ルクレツィアは何を考えているのか分からない微笑を浮かべた。

「あの子を手に入れられれば、世界も手に入るでしょうね」

「だから、そういうことには興味はない」

「……そう」


 魔女は音もなく立ち上がった。形のいい指をすっとオスカーに伸ばす。

 オスカーは反射的にアカーシアの柄を握った。

 しかしそれを抜く前に、ルクレツィアはテーブルの上に浮かび上がる。右手をオスカーの頬に添えると、青い瞳を覗き込んで嫣然と笑った。

「じゃあ媚薬よりもっと面白いものをあげる」

 不穏な言葉にオスカーが抜剣しかけた時、魔女はさっと後ろに下がった。

 その琥珀色の両眼が彼を覗き込んだのはほんの一瞬である。しかしその色は妙に頭の中で印象に残った。

「怖い怖い。私はあの子と違って戦うのは苦手だから見逃して?」

「どうだか」

「で、殿下……」

 突然の緊迫した空気に、ラザルは慌てて間に入った。

「助けていただいたのは確かですし、変死事件の原因も何とかなったみたいですから、今日はお暇しましょう。ティナーシャ様も心配なさいますよ」

「……ああ」

 オスカーは魔女から目を離さないまま立ち上がった。男の鋭い視線をものともせず、魔女は艶やかに笑う。

「またいつでもどうぞ?」

 その妖しさを隠さない笑顔は、まぎれもなく人を畏怖させる魔女のものだった。



「お前、もっと用心しろ」

「すみません……」

 変死事件の原因を討伐したことを村に告げ帰る途中、オスカーは馬を走らせながらラザルに説教をしていた。

 ラザルは申し訳なさそうにしおれている。

「あとティナーシャには、あの魔女と会ったことは言うなよ」

「……分かりました」

 短気なところのある守護者が、今回の件を知ったらいらぬ揉め事になりかねない。オスカーはラザルが頷くのを確認して、前へむき直した。

 城都へと向かう二騎を、青い月が照らす。

 その影は長く、閉ざされた森に吸い込まれるかのように伸びていた。


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