第7話 水の中に落ちる


 城に戻り魔女であることを公表したティナーシャに、各人の反応は様々であった。

 事実とは大分違う御伽噺を元に、彼女がオスカーの守護者をしていることを忌避する人間も多かったが、彼女を直接知る人間のほとんどは程度の差こそあれ好意的に受け止めた。

 そこには少なくない葛藤もあっただろう。だがそれを表に出さない彼らにティナーシャは複雑な微笑を見せただけである。


 そんな中、オスカーは父王を始め、呪いのことを知る数人に改めてティナーシャを紹介することになった。

 謁見の間ではなく、王家の人間が私的に使う広間の一室に集められたのは、王ケヴィン、内大臣ネサン、老将軍エッタード、魔法士長クムと、オスカーと共に育ったラザルの五人である。彼らは思い思いの表情で、魔女を伴ったオスカーの説明を聞いていた。

「という訳で、俺の妻になる予定」

「ならないよ! 黙って聞いてればひどい説明を!」

 身長差の為、浮遊しながらオスカーを揺さぶっている魔女を王は立ち上がって宥めた。

「無茶なことを言うやつで申し訳ない。お詫びします。道理で貴女を何処かで見たことがあると思いましたよ。昔、祖父の日記を盗み見てしまったことがあるんですが、そこに貴女の肖像画がはさまれていました」

「まだあるなら処分して頂きたいです……」

 ティナーシャは赤面しながら床に下りる。王は立ったまま彼女に向き合った。

「実際問題としてどうでしょう。何とかなるのでしょうか」

 魔女はそれに困ったような笑みを浮かべる。

「一応解析も試みてはいるのですが、この分野に関しては私より遥かに沈黙の魔女の方が上なんです。解析だけでも数ヶ月かかると見ていいでしょうし、解析できても完全な解呪は望めないかもしれません。でもまぁ最終的には何とかしますよ。安心してください」

「駄目だったらお前が責任とればいい」

「駄目とか言うな!」

 再びオスカーを揺さぶり始めたティナーシャを見てエッタードは隣のラザルに囁いた。

「仲がよいように見受けられるが……」

「仲いいんです」



 訓練場の木陰で、メレディナは膝を抱えていた。

 魔法湖への遠征以来、どうも気分がすっきりしない。原因は分かっているのだが、それをどう消化していいのか分からないでいた。

 腕の上に伏せた目から捉えられるわずかな視界の中、アルスが近づいてくるのが見える。彼は目の前に立つとメレディナを呆れたように見下ろした。

「お前いい加減しゃきっとしろ」

「ほっといてよ」

「しょうがないやつだな」

 アルスは剣をしまうと、無造作に隣りに座り込んだ。

「お前なぁ、負けん気が強いのは結構だけど、魔女に勝てないからって凹むなよ。生きてる時間だけでお前の何倍だと思ってるんだ」

 そんなことはメレディナにもよく分かっている。それでもすっきりと割り切れないのはきっと彼女の仕える王太子という存在のせいだろう。

 けれどもし魔女が現れなかったら、彼が自分を選んでくれたかというと到底そうは思えない。彼女は子供のように頬を膨らませる。

「あと一日だけ。そうしたらもうちゃんとする」

「よし」

 アルスは腰を浮かして立ち去りかけ、だが何かを思い出したように振り返った。

「そういえばあの噂聞いたか?」

「何それ」

 メレディナが顔を上げると、アルスはにやっと笑った。



「幽霊が出るって?」

「そうなんですよ、今噂なんです」

 城の談話室で、オスカーとティナーシャ、魔法士のシルヴィアとカーヴはお茶を飲みながらラザルの話を聞いていた。

 突然持ち出された奇怪な話に一同は耳をそばだてる。ラザルは相槌を受けて頷いた。

「夜になると廊下を水びたしの女性が歩いているそうなんですよ。彼女が通った後は床がこうびしゃびしゃーっと」

「掃除が大変そうですね」

 しれっと答えたティナーシャの横で、シルヴィアが青い顔をしている。この可愛らしい魔法士はどうやらこういう話が苦手らしい。向かいでカーヴがカップを覗き込んでいた顔を上げた。

「でも私も他の魔法士から聞きましたよ。廊下でびしょ濡れの女に出会ったって。無言で顔を覗き込まれたそうです。で、怖くなって目を閉じて、何も起こらないので目を開けたら、誰も居なくて床が濡れていたっていう」

「いやぁぁ」

 シルヴィアは耳を押さえてテーブルに伏せてしまった。ティナーシャは苦笑して彼女の肩を叩く。

「幽霊なんて存在しませんよ。魂は一種の力の在り方ですが、死後は自然と四散します。死後も形や意識を保っているなんて魔女でも無理です」

「本当ですか?」

「本当本当。だからそんなのがいるとしたら人間じゃないですね」

「いやぁぁっ」

 シルヴィアは再び突っ伏してしまう。 魔女はしまった、という表情で舌を出した。今まで黙っていたオスカーがそれを聞きとがめる。

「何かが入り込んでるとでもいうのか?」

「多分。出来るとしたら魔物の類じゃないですかね。見てないので何とも……」

「とんだ幽霊騒ぎだな。後で調査を出そう」

 オスカーは時計を見ると立ち上がった。

「さて仕事だ。ティナーシャ、お前はどうする?」

「私、服買いに行ってきます。体に合わなくなっちゃったんで。シルヴィア、案内してくれるって約束ですよ」

「あ、はい」

 シルヴィアは恐怖をふっきろうとしているのか、気合の声を上げて立ち上がった。黒髪の魔女と金髪の魔法士が並ぶのを見て、カーヴはラザルに耳打ちする。

「あの二人が一緒にいると目立ちますね」

 それが聞こえたのか聞こえないのかオスカーは振り返って二人を眺めると、まだ顔色の悪いシルヴィアに声をかけた。

「黒か白の服を選んでやってくれ」

「何で」

「俺が好きだから」

「知るか!」

 魔女は右手で小さな光球を作ると、部屋を出て行くオスカーに投げつけた。しかしその光球は背中に当たる直前で彼女自身の守護にぶつかって四散する。

 彼は振り返らないまま、笑い声を上げて扉の向こうに消えた。




 ※ ※ ※ ※




「ファルサスの服って薄着ですよね」

 城下町で服を選びながらティナーシャは後ろにいる魔法士に話しかけた。

「え、あ、はい、暖かいですから……」

 シルヴィアの反応にティナーシャは苦笑して振り返る。

「そんなに怖いんですか? 幽霊話」

「私、本当にそういうの駄目なんです……」

 彼女は申し訳なさそうに俯いた。魔女は明るく笑いながら手を振ってみせる。

「気にしない気にしない。誰だって苦手なものはありますよ」

「ティナーシャ様も苦手なものあるんですか?」

「様はやめてください……」

 ティナーシャは選んだ服を腕の上で揃えると、その上に棚からすっきりとして丈の短い白いドレスを乗せた。普段から走り回るわけではないが、動きやすい服の方が何かと便利だろう。

「昔は結構苦手なものあったんですけどね……。今はそうですね、『寝かされること』がまだ苦手ですね」

「何ですか、それ。子供にする寝かしつけのことですか?」

 シルヴィアは首を傾げて聞き返した。

 だが魔女はそれについては何も言わず、代わりに別のことを思い出して舌打する。

「あとオスカーが苦手。全然分からないから」

「仲よく見えますよ」

「ええ……?」

 釈然としない顔で黙り込む魔女に、シルヴィアは噂話の恐怖も忘れたのかくすくすと笑った。



「幽霊がいるんだって?」

 詰め所内で休憩中の兵士たちにもその話は広まっていた。まだ若い兵士であるスズトは、剣を磨いていた手を止めると顔をあげる。

「幽霊? 初めて聞いた」

「つい最近だよ、ほらお前が帰省から戻ってから」

「魔女が正体を現してからじゃないのか」

「まぁその辺だよな」

「ふーん」

 仲間が口々にスズトに教えてくれる。彼は再び剣磨きに戻りながら生返事をした。

「お前、魔女はもう見た? すごいよ。前も美人だったけど」

「戻ってきてからは見てない」

「あれは見るべきだと思うな。傾世の美女ってああいうのを言うんだよ」

「殿下も夢中みたいだし、ついにファルサスは魔女の手に落ちるな」

 楽しそうに笑いあう仲間たちにスズトは冷たい目を注いだ。

「お前らひでぇな。彼女がここに来てた時話しただろ。優しいしいい子だったじゃないか」

「まぁそうなんだけど……」

 無責任な噂話は、空気が抜けたようにあっという間にしぼんでしまった。




 ※ ※ ※ ※




 その日の真夜中、仕事を終えたオスカーとラザルは暗い廊下を歩いていた。等間隔で壁につけられている燭台が二人の影を長く照らす。

「こんな時間までお仕事をなさっていて、幽霊に会ったらどうするんですか……」

「ティナーシャがそんなものいないって言ってただろう。いるなら魔物だ」

「余計悪いです……」

 オスカーはふと自分の腰を見た。城内にいる時は基本的にアカーシアを帯剣していない。簡素な護身用の剣を持つのみである。

 アカーシアを持ってきていた方がよかっただろうか、と剣の柄に手を掛けて彼はその感触を確かめた。

「大体殿下は……」

 そこまでいいかけて、ラザルは不意に体勢を崩した。オスカーは尻餅を打つ音に、立ち止まって振り返る。

「何もないところで転ぶな」

「何も無いというか……滑って……」

 ラザルは不審に思って、床についた手を蝋燭のか細い光にかざす。

 その手は何故かびっしょりと濡れていた。彼は思わず悲鳴を上げようと口を開きかける。

 だがそれより早く、背後から冷たい女の腕が伸びてきて、ラザルを包み込むように抱きしめたのだ。



「ティナーシャ! 起きろ!」

 自室で既に眠りについていた魔女は、突然ドアを開けて入ってきた男に白い手を捕まれた。

 彼女の部屋は、王の計らいによって七十年前に使っていた客室を再び割り振られている。レギウスの命でその部屋は七十年間ずっと全ての調度品がそのままで、掃除だけがなされていたのだ。かつての自室に通された時、彼女は複雑な笑みを浮かべたものである。

 魔女は安寧の寝台から引きずり出されて眠い目をこすった。

「うーどうしたんですか」

 闇色の瞳を開いて、ティナーシャは幼児を抱くように自分を抱き上げている契約者を見下ろす。窓から差し込む月の光のせいか、彼の顔色は若干青ざめて見えた。

「ラザルが……死んだのか?」

「何で疑問形」


 彼女はその理由をすぐに知ることとなった。

 事情を聞いて駆けつけた現場には既に数人の人間が集まっている。廊下の隅に横たえられているラザルには外傷はないが、何をしても目を覚まさず、体は氷のように冷え切っていた。

「魂が抜かれてる」

 ティナーシャはラザルを見るなり、ぽつりとそう言った。

「助かるのか?」

 オスカーの言葉に彼女は唇を噛んだ。魔力を両手のひらに集めて、ラザルの体に触れる。

「体は私が維持しますが……魂はもって三日です。早く取り戻さないと四散します」

 ティナーシャは周囲にいる兵士に声を掛けて、ラザルを別室に運ぶよう頼んだ。

「一応探してみますが、魂はきっともう城内にはありませんね……。持ち去られたと思っていいでしょう。幽霊を見ました?」

「見た。青白い肌で緑の髪の女だ。剣をすり抜けた。水でも切ったような手ごたえだった」

「水妖かな……」

 振り返ると廊下に水溜りが出来ている。ティナーシャは眉を顰めた。

「とにかく城にいる者全員に、最近水辺にいかなかったか話を聞いてください。水妖は普通自分の棲み家を離れませんから。何かここに来てしまった理由があるはずです」

「分かった」

 魔女は慌しく運ばれるラザルを追って駆けて行く。

 一方オスカーは人を集める為にそのまま踵を返した。



 詰め所に残っていた者は深夜にもかかわらず、慌しく起こされ一人ずつ話を聞かれた。

 スズトも勿論その中の一人として話をしたが、黙って彼の話を聞いていたアルスはスズトを伴うと城内の一室を訪れた。

 普段城内にほとんど立ち入らない彼が、部屋に入ってまず気を取られたのは正面窓際に置かれている寝台だ。そこには誰かが寝ており、傍らに女が背を向けて立っている。長い黒髪をスズトはどこかで見た気がした。

「来たか」

 右手から男の声が掛けられる。その声はスズトのよく知るものであったので、彼は声のした方に向かって最敬礼をした。

「聞かせてくれ」

 オスカーは椅子に座ったままスズトを促した。

「は、はい。先日お休みを頂いて家に戻った際に近くにある湖に寄りました。散策していたところ、その湖の付近に枯れた噴水がありまして、水が出る部分に石が詰められていたので、それを……」

「取り除いたのか」

「はい」

「その時何か変わったことは?」

「何も起こりませんでした。水が少し出ただけです」

 オスカーは腕組みをすると窓辺を見やった。

「ティナーシャ、どう思う?」

「当りだと思います」

 振り返った女の姿を見て、スズトは声を失った。

 黒絹のような髪に白磁の肌、闇色の瞳は薄暗い部屋の中不思議な引力を帯びていた。人外の美貌は、青く冴える月夜を人の形に閉じ込めたようなそんな比喩をスズトに抱かせる。仲間たちが騒ぐのがよく分かった。

「その噴水はもともと水妖の棲む湖底に繋がってたんじゃないですかね。誰かがそれを封じてあったんでしょう」

「封印が解けたことで繋がったのか」

「多分スズトに封印を解いた際の水がかかって……それを追ってここまで来たんじゃないですかね。何故ラザルが連れ去られたのかは分かりませんが」

 自分の名前を呼ばれてスズトは一瞬ぎょっとしたが、すぐこの女性が一緒に稽古をしていた少女と同一人物であることを思い出した。ついでラザルの名前に不安になる。

「あの……俺何かまずいことを……?」

「いや……」

 アルスとオスカーが顔を見合わせる。ティナーシャはすぐにまた背を向けて、寝台に向かって何かをしているようだ。

「ともかくすぐに出立しよう。お前、湖まで案内を頼むぞ」

「は、はい!」


 スズトはアルスと共に馬の準備をする為部屋を出て行った。

 オスカーは立ち上がると窓辺に歩み寄りラザルの顔を覗き込む。目覚めない従者にオスカーは呟いた。

「少し待ってろ」

 静かな声に、ティナーシャが契約者を少し心配そうに見上げる。

「やはり貴方が行くんですか?」

「他に誰がいる」

 魔女は帯剣されたアカーシアをみて小さく息をついた。

「守護結界は一部の魔物や妖精が使う精神系の術は防げないことがあるので気をつけてください。虚実に囚われないように……。あと……」

「何だ?」

 ティナーシャは若干言い渋ったが、口を開いた。

「もし貴方が命の危険にさらされた場合、私は貴方のところに向かいます。その場合ラザルの延命はできなくなる、分かりますね?」

 オスカーは少なくとも表面的には動揺を見せなかった。彼女を見下ろすと小さな頭を撫でる。

「分かってる。だからそんな顔をするな」

 彼女の顔がひどく心細げな、泣き出しそうな表情に見えたのは、或いは月の作る陰影の為だったかもしれない。

 しかし魔女は何も言わなかった。口元だけで微笑んでみせる。

「余裕で勝ってくる」

 オスカーはラザルの、青白い顔を一瞥して部屋を出て行った。



 月の下、城を出立したオスカー、アルス、ドアン、スズトの四騎はスズトを先頭に東へと馬を走らせた。問題の湖までは普通に向かって三時間、急げば二時間ほどで着く距離である。

 城を出た際、闇の中を音もなく大きな鳥が飛び掛ってきてオスカーは剣を抜きかけたが、すぐそれがナークであることに気づいた。

 ナークは一声鳴くとオスカーの肩に止まる。

「な、なんですかそいつ」

 スズトは初めて見るドラゴンを恐る恐る指差した。オスカーは首を伸ばしたナークの喉を掻いてやる。

「心配性がよこしたんだろう」

 それを肯定するかのようにナークは小さく鳴いた。



 一行が湖の傍についた頃には空が白み始めていた。

 木立を抜けて湖水が見えるところまでくると、その風景にドアンは感嘆の溜息をつく。

「これは……すごいですね」

 大きな湖の西半分には森がかかっている。東半分には湖に接する丘があってその上に古い城があった。城の朽ちかけた庭園は丘の下まで広がり、湖水がそれを半ば浸している。水の中に立ち並ぶ柱はまるで既にここが異界であるかのような幻想的な印象を、一行にもたらした。

 ティナーシャを連れて来たら喜ぶかな、とオスカーはここに来た理由も忘れ一瞬のん気に思ったが、その後ろではスズトが絶句している。

「こ、この前来た時には、こんなに水が東まで浸食してなかったんですが……」

「…………」

「すみません……なんだかあの時は詰め込まれている石が気持ち悪くて……」

 事態の重大さを再認識したのか、うなだれるスズトを励ますように、アルスがその肩を叩いた。

 オスカーは馬を下り、手綱を木に繋ぐ。

「さて、ひょっとして潜るのか?」

「いえ、森の方に濃い魔力を感じます。先にそちらに行ってみましょう」

 ドアンの指摘の信憑性を示すように、ナークがオスカーの肩を離れゆっくりと森に向かって飛び始める。

 オスカーは、なるほど、と小さく呟くとその後を追った。



 森の中は鬱蒼と暗く、上り始めた日もその手を及ぼすことがほとんどできずにいる。

 ナークは道もない森の中をふわふわと飛んで行くが、それについていくために、先頭にいるアルスは剣を抜いて枝を切りながら進まねばならなかった。

「殿下、足元にお気をつけください」

 オスカーは上を見上げて森の様子を窺ったまま「ああ」と答えた。

「魔力が随分濃いですね……霧のようです」

 魔法士がそう言うが、他の三人にはさっぱり分からない。とにかくはぐれないように、とアルスが念を押すのに一同は頷いた。


 抜かれた魂はもって三日だというティナーシャの言葉が、オスカーの脳裏に蘇る。

 だがまだ一日も経っていない。充分間に合うはずだ。こんなところでラザルが失われてしまうはずなどないのだから。

 幼い頃から共に城で育ち、彼の後をついて回っていた少年の、人を疑わない微笑が記憶をかすめた。

「……貧乏籤を引くって分かってるのに、何で俺について来るんだか」

 そう苦笑はしてみたものの、胸に疼くのは悔恨だ。幽霊をあれ程怖がっていた幼馴染が、目の前で襲われたにもかかわらず何も出来なかった。オスカーは己への苛立ちに内心歯噛みする。

 ―――― その時、考え事をしていた彼の頭に、引き返してきたナークがぶつかった。

「なんだなんだ」

 オスカーは頭に張り付くナークを手を伸ばして引き剥がす。

 周囲が目に入って、そして彼はいつの間にか自分とナークしかそこに居ないことに気づいた。

「……しまった」

 どういう方法をとられたのかは分からないが見事に分断されたらしい。

 アルスはともかく他の二人は大丈夫だろうか。オスカーは臣下たちを心配しながらも枝を切り除くために剣を抜いた。



 アルスは気配のおかしさに背後を振り返って、後ろに誰もいないことに気づくと愕然とした。

「嘘だろ」

 よく見ると、枝を切って歩いて来た筈なのにどこにもその跡がない。

 最早何処から来て何処に向かっているのかさえ分からなくなっている。

 彼は溜息をついて天を仰ぐ。

 その視界の中、上空から影のようなものが三体、襲い掛かってくるのが見えた。



 ドアンとスズトは思わず顔を見合わせた。

 目の前には先ほど木に繋いだ馬がいる。そしてその他には誰もいない。

 先頭を歩いていたアルスの姿が急に見えなくなり、慌てて木々を掻き分けて前に進んだ結果がこれである。

 そして勿論後ろにいるはずのオスカーはいなかった。

「ど、どうしよう……」

 スズトはぽつりと自失の呟きを洩らした。



 オスカーはとりあえず、ナークが首を伸ばして示す方向に、枝を取り除き足元の根を避けながら進んでいった。

 魔力を感じ取れるドアンとはぐれた以上、ナークが自分のところに残っていてくれたのは非常にありがたい。オスカーは小さなドラゴンと、その主人である魔女に感謝した。

 不意に足元で、ぴしゃん、と音がする。

 見ると張り巡らされた木の根の隙間には、僅かな水が溜まっていた。どうやらそこから先は徐々に湖が浸食しているようである。彼は一層の注意を以って足を踏み出す。


 その時背後から、何かが凄い勢いで近づいてくる気配がした。身をかがめたオスカーの頭上を風が通り過ぎていく。「それ」は前方の枝に止まると、キッキッと笑い声をあげた。蝙蝠のような羽を持つ、緑色の小鬼だ。

 さざめく笑い声は背後からも複数聞こえてきた。

「やれやれ……」

 オスカーはもう一度木の根と水に覆われた足場を確認して、アカーシアを構えた。それを待っていたように小鬼たちが飛び掛ってくる。

 彼はまず、左上から跳んできた小鬼に空の左手をかざした。小鬼は手にぶつかる直前で、彼に張られている守護にぶつかって空中でよろめく。オスカーはそれを、正面の小鬼と共に薙ぎ払った。

 彼は一歩重心を後ろに下げて、右から飛び掛ってきた小鬼を避ける。一匹一匹は弱いのだが、羽虫のように際限なくまとわりつくそれらに辟易しながら、オスカーは数歩木の根を選んで進んだ。ナークが方向を示して小さく鳴く。


「どんどん行くか」

 小鬼や枝を避け、邪魔なものは斬り落としながら、彼は飛び石状の足場を探して進んで行った。次第に水が深くなっていき、水上に出ているのは太い根ばかりになって、その数も減っていく。

 同様に追ってくる小鬼もほとんどいなくなり、ようやく一息ついた時、ナークは彼の肩を離れてゆらゆら前方に飛び立った。

 紅い小さなドラゴンの頭の中には主人の美しい声が聞こえる。

『―――― 結界を破壊しろ』

 その命に答えて、ドラゴンは息を深く吸い込むと空間を焼く炎を吐いた。



 炎が晴れた後に現れたのは、木々の切れ目であった。

 木を焼いたのではない。切れ目を見えなくしていた何かを焼いたのだ、ということは太い幹に少しの焦げ跡もないことから窺える。

「凄いな。どういう仕組みだ」

 感心しながらオスカーが中に入ると、そこは小さな広場になっていた。平坦な地面には脹脛までの透明な水が湛えられており、周りはぐるりと木々で囲われている。

 そしてその中央に横たわる流木に、緑の髪を持つ美しい女と彼の幼い頃からの友人が座っていた。

「ラザル!」

 名を呼ぶとラザルはゆっくりオスカーを見る。

 彼の体は城の魔女のところにある。だからこれは実体ではない。それを頭の中で確認しながらオスカーは手を伸ばした。

「迎えに来た。帰るぞ!」

「殿下……」

 ラザルの呟きに、隣に居た女が不安な表情を浮かべた。細く青白い手で傍にある彼の腕を掴む。

 彼は、女のその悲しげな顔を見つめた。穏かな感情が眼差しに浮かぶ。ラザルは再びオスカーに視線を戻すと、目を伏せて頭を振った。

「こんなところまで私の為に来てくださって恐縮の至りです……。でも私は帰りません。申し訳ありません」

 予想だにしなかったラザルの返答に、オスカーは一瞬耳を疑った。眉を顰めて聞き返す。

「何だそれは。冗談は生身で言え」

 冗談以外であるはずがない。だが今この場にあってそれは、受け入れられるものでもなかった。彼はアカーシアを握り、一歩踏み出す。女が怯えてラザルに縋り付いた。


 ラザルは彼女を安心させるようにその手を一度握ると、流木を下り彼女を庇って前に出る。

「待ってください、殿下……。彼女は恋人に裏切られたんです。結婚の約束もしていたのに、別の女性のところに……」

 オスカーは不愉快さに顔を歪めた。

 水妖の過去について聞きに来たわけではない。どんな不幸があろうとも、それがラザルを連れ去っていい理由になるはずもないのだ。

 被害者にも拘らず人の善すぎる男に向かって、オスカーは吐き捨てた。

「だったらその恋人を連れに行けばいい」

「もう何百年も前の話なんです。あの朽ちた城をご覧になったでしょう。とっくに死んでます。でも彼女には……」

 ラザルは女を振り返る。

 彼女はラザルの視線を受けて、にっこりと微笑んだ。

 ようやく見つけられた迷子のように、憐れを思わせる笑顔。何百年も愛した男を求めて、焦がれて、憎んで、待って、擦り切れてしまった正気と魂がそこにある。

 彼は彼女の笑顔に愛おしげな目を向けた。

「……お前が死ぬぞ」

 オスカーは緊張を隠して言った。

 ―――― ラザルの人の善さはいつか命取りになると、昔から思っていた。

 しかしまた、自分の傍にいる限りは何とかできる自信があったのだ。こんな風に伸ばした手を拒否されるとは思っても見なかった。

 ラザルは彼の主人を見て、いつものように申し訳なさそうに微笑んだ。

「それでも構いません。何百年も彼女はずっと独りだった。死にたくて死ねなくて……恋人を殺したくて殺したくなくて……。私は彼女を救ってあげたいです。それが無理なら慰めを」


 せめてそれぐらいの救いがあってもいいだろう。

 ラザルは彼女の手を握った。氷のように冷たい手がそっと握り返してくる。髪と同じ緑色の目に安らぎが浮かぶのが見えた。憐愛を覚えるその様に胸が詰まる。

 主人の冷ややかな、しかし焦りの滲む声がかかった。

「思い上がるな。それがお前のすることか?」

 厳しい言葉に、ラザルは苦笑する。彼は主人の青い双眸を見返して、一番聞きたかったことを問うた。

「殿下は彼女を見て、何とも思われないのですか?」



 意図の分からない問いを、オスカーは一瞬怪訝に思い、だがすぐに理解した。

 何百年もの孤独。

 人にして人に非ず。

 ラザルは言外に、この憐れな水妖に、絶大なる魔力を持って一人生き続ける、彼の魔女を想起しないのかと問うているのだ。

 自然とオスカーは溜息を零した。

 目を閉じる。

 塔の上で見た彼女の愁いが、 魔法湖に出立する時に見た淋しげな微笑が瞼の裏に浮かぶ。

 そんな目をほんの時々にしか見せない彼女を、だからオスカーはまるで守る人間が必要な、本当の少女のように思っていたのだ。

 今はもうとっくにそうではないことに気づいている。彼女がやはり、人とは違うのだということも。


 オスカーはゆっくりと目を開くと、アカーシアを握りなおした。子供のように無垢な瞳で自分を見てくる女へと歩を進める。

 女の横に立つラザルを一瞥すると、彼はひどく悲しげな顔を浮かべていた。その目を一生忘れることはないかもしれないと、オスカーは思う。

「恨み言は城で聞く」

 返事はない。

 そして彼は剣を振り上げた。




 ※ ※ ※ ※





 城に戻った一行は、城門で魔女を始め十人ほどに出迎えられた。魔法着姿のティナーシャはオスカーを見ると頷く。

「お疲れ様です。魂ちゃんと戻りましたよ」

 にっこりと微笑む彼女の肩にナークが降り立った。彼女は自慢げなドラゴンを見上げると、ご苦労、とその頭を撫でる。アルスは馬を兵士に渡しながら溜息をついた。

「俺とか同じところをぐるぐる回ってちょっと泣きそうだった」

「見事にひっかかってますね」

「うう……」

 同じ目に遭っていたらしくげっそりしているドアンとスズトを労うと、オスカーはティナーシャにラザルの居場所を尋ねた。

 魔女は自分もすぐ戻るから、と先ほどの病室を答える。


「殿下……」

 部屋に入ってきたオスカーを見てラザルは半身を起こした。魂を抜かれていたためか、まだ体の動きがぎこちない。

「寝てていい」

 オスカーはそう留めたが、ラザルは寝台を下りて彼の前に跪いた。深く頭を垂れる。

「ご無礼を……申し訳ありません」

「俺は謝る気はない。……お前もその必要はない」

 ラザルは顔をあげなかった。代わりに涙の混じる声を洩らしただけである。

「明日からは……また全力で仕えさせていただきます」

「調子が戻るまで休んでろ」

 どれ程親しくとも、言葉にしてしまえることは多くない。

 だからオスカーはそっけなく、しかし親愛のこもった声で返した。



「まだ本調子じゃないんだから起こしちゃ駄目ですよ」

 水の入った円器を持って魔女が入ってきた時、ラザルは既に寝台に戻り、疲労の為あらがえない眠りに落ちていた。

 彼女が円器を置いて布を絞っているのを眺めながら、オスカーはその背に声を掛ける。

「お前、俺と結婚してファルサスに永住しないか?」

「しないよ! ……ってどうしたんですか」

 オスカーの言葉に、いつものからかいと違うものを感じてかティナーシャは振り返った。彼は真剣な眼差しで魔女の闇色の目を見返す。

「お前は何百年も一人で、淋しくないのか」

 魔女は一瞬きょとんとしたが、その質問に苦笑した。

「そりゃちょっとは淋しいですけど、そういうものだと思ってますから」

 急にどうして? と答える彼女の目に、オスカーは少しの哀切と、そして残酷さを見た。


 この魔女には、森に消えた憐れな水妖のように、失っては生きていけない、いつまでも心を捕らえて離さない存在がいないのだ。

 だから永い時をわたっていける。

 ただ美しく、泰然と、孤独に。

 彼女は儚い人間たちの生を、遠くの出来事として眺めている。

 その別離に、死に、悲しむことはあっても狂うことは無い。

 彼女の絶大な力より、その寂漠より、この残酷さこそがより彼女を魔女たらしめている。

 そしておそらく彼女は、自分のその残酷さを知っているのだ。


 オスカーは、目を閉じて微笑んだ彼女を見て、今、その頬に触れたいと思った。

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