第6話 湖の畔 02


 かつてファルサスとドルーザの戦があった。

 ファルサス北西にあったドルーザは、ある日魔法湖に眠る魔獣を呼び起こし、敵国に向けて侵攻させたのだが、それは必ずしも全員の同意の下で行われた作戦ではなかったという。

 歴史に残る忌まわしい巨大魔法兵器は、一部の魔法士たちがドルーザ王に隠れて独断で動き、呼び起こしたものであったのだ。

 実際魔獣の統御は不完全であり、その犠牲になったドルーザ人も多い。また魔獣の力の波動は、戦場となった地帯を今でもまともな植物の育たぬ霧に閉ざされた土地に変えてしまっている。

 当時の戦において魔獣は、両軍合わせて千人以上の犠牲者を出し、圧倒的な力に皆が絶望を覚えた。

 しかしそれはついに、ファルサス王が伴った魔女によって地中深く封印されることになる。

 統御に関わっていた魔法士たちはほとんどが魔女に殺され、その虐殺を逃れた者も同じドルーザ兵によって報復の為殺された。そうして魔獣は地下に眠り、霧に閉ざされた土地は表面上の平穏を得た。―――― そして七十年近い時が流れた。



「封印の最終解呪を急げ! 時間がない!」

 骸骨に似た魔法士は地下の洞窟に戻ってくるなり叫んだ。魔法装置に向かって作業していた若い魔法士が驚いて立ち上がる。

「しかしまだ統御の構成が完全では……」

「構わん! 最終解呪の詠唱を開始しろ! 魔女に発見された!」

「魔女に!?」

 若い魔法士は事態を飲み込むと、慌てて魔獣の封印紋章がある洞窟の奥に向かって駆け出す。彼は咳き込みながらその後に続いた。

「ここまで来て、終わってたまるか……」

 彼は自分の生まれ育った故郷を思い出す。その村はいまや、分裂した元ドルーザの中でももっとも貧困に喘ぐ小国に支配されていた。

 だからこそ魔獣の力を以ってドルーザを再統一し、故郷を救って、ファルサスを滅ぼす。

 その為になら七十年前、師や同志たちと共に捨てるはずだった命など、いくらでも差し出すつもりだった。


 上手く動かない体を引き摺りながら、彼は紋様のところにたどり着く。そこには既に十人余りの志を同じくする魔法士たちが集まっていた。

 暗い洞窟の中に、およそ人間業とは思えないほど複雑な紋様が青白く浮かび上がっている。七十年前魔女がほどこしたものだ。

 そしてその紋様の向こう側、巨大な空洞部分に魔獣の閉ざされた目が見えた。

 紋様の放つ光を受けて銀色の体毛が鈍く光っている。離れていても分かる魔力。小さな城ほどもある巨体は神秘的な恐ろしさを見る者に覚えさせた。

 既に五人の魔法士が封印解除の詠唱を開始している。骸骨に似た魔法士は、隣りに立って空洞を見下ろしている魔法士に声をかけた。

「どれくらいかかりそうだ?」

「三日あれば何とか……」

「三日か……ファルサス軍が来るのと同じくらいだろうな。何とか間に合わせよう」

「分かりました」

 話しかけられた魔法士が返事をして顔を上げようとした時、何か軽いものが洞窟の地面に落ちる音がした。

 不思議に思って音のした方を見る。

 そこには骨と皮ばかりの生首が転がっていた。

「な、な……」

 言葉にならない彼の首筋に、冷たい何かが落ちる。彼はそれに気づかないまま絶命した。



 惨劇は一瞬のことである。

 岩陰で目を閉じて詠唱に集中していた魔法士は、いつのまにか自分以外の詠唱が聞こえないことに気づき顔をあげた。不審に思い仲間たちがいた方を覗き込んで、彼は慄然とする。

 そこには彼の同志たちが、無残にあちこちを切断された死体となって転がっていたのだ。洞窟の床は巨大な血溜まりとなっており、その上に転がる首は何が起きたのか分からない表情をしている。

 凄惨な現実を認識した途端、強い血の臭気が遅れて彼を襲った。―――― しかしそれより何より彼の目を奪って離さなかったのは、血の海に佇む一人の少女である。

 血に濡れた剣を携えた魔女は、彼に気づくとにっこり笑った。

「一人刈り損ねたか」

 涼やかな声に、恐怖で腰が抜けた。全身に力が入らず、逃げることもできない。

 魔女は無造作に近づいてくると彼に問う。

「何? 封印を解きたいのか?」

 男は口をパクパクと開閉しながら何とか頷く。魔女は大きな闇色の瞳を瞠って微笑した。

「なら解いてやろう」

 彼女は剣を壁に向かって一閃させると、血を払って鞘に収めた。紋様に向かって片手をかざす。

 濃い血の匂いの中、その姿は震えるほどに美しかった。



 封印が効いている間は、何人たりとも魔獣に触れることが出来ない。それは術者であるティナーシャも例外ではなかった。彼女は右手をかざすと複雑な封印を詠唱なしで解きほぐしていく。横では魔法士の男が蒼白になりながらそれを見つめていた。

 三つ……四つ……

 ティナーシャは心の中で小封印の数を数えながら解いていく。七つの小封印で構成された紋様は魔女の前にあっという間に解呪された。

 紋様が消える。

 そして魔獣の目がゆっくりと開き始めた。




 ※ ※ ※ ※




 イヌレードの砦についた一行は、門をくぐりかけたところで突然の地揺れを感じ、慌てて振り返った。魔法湖の方角から地響きが聞こえる。

「で、殿下……」

 動揺するドアンの声に、しかしオスカーは鋭い目を荒地に向けているだけで何も答えなかった。



 ※ ※ ※ ※




 爆煙の中、ティナーシャは上空に浮かんで眼下を見下ろしていた。

 魔獣が目覚めた爆発のせいで地中に落盤が起こっている。おそらく生き残った魔法士もその他の死体もろとも地中に眠ることとなっただろう。

 ティナーシャは周りを飛んでいるドラゴンに声をかけた。

「ナーク、終わるまで危ないから下がってろ」

 ドラゴンは主人の命をうけて、土煙と霧の混ざる中にその赤い姿を消した。

 地上の砂煙が徐々に晴れてくる。

 魔法湖の中央、巨大な銀色の狼が頭を上げてティナーシャを睨んでいた。銀の体毛に覆われた額には大きな紅玉がはまっている。同じ色の瞳は敵意に輝いて、宙に立つ小さな魔女を捉えていた。ティナーシャは嫣然と微笑む。

「七十年ぶりだな。よい眠りだったか?」

 魔女はそう言うと右手を掲げた。白い手の上に光球が現れる。

 光球はあっという間に膨れ上がると耳障りな音を立て放電し始めた。それに応えるかのように魔獣が咆哮する。

 びりびりと空気を振るわせる威嚇。同時に大きな口から衝撃波が放たれる。それを横に跳んでよけながら、ティナーシャはすかさず光球を魔獣の開いた口に向かって放った。

 しかし魔獣は、攻撃が口に飛び込む直前で頭を伏せ額で受ける。光球は銀色の長い体毛に吸い込まれ、放電しながら拡散していった。ティナーシャはその眺めに呆れた顔になる。

「どれだけフサフサなんだ……」


 鋭い爪の光る魔獣の足が、ティナーシャを薙ぎ払おうとする。彼女はその一撃もすんでで避けると、浮遊を操って魔獣の足元に滑り込んだ。白いふくらはぎに固定してあった円筒を引き抜くと、小さな蓋を指ではじいてあける。中から赤く光る球が彼女の手のひらに転がり出た。彼女はその球に向かって構成を注ぐ。


 爪の二撃目が襲ってくるのを地面を蹴って避けながら、魔女は構成を纏った赤い球を太い後ろ足に向かって投げつけた。それは見えない刃を纏っているかのように、銀色の体毛とその下の肉を引き裂きながら生まれた肉の裂け目に飛び込む。

 次の瞬間、魔獣の後ろ足が爆発した。

 獣は苦悶の咆哮をあげる。怒りで真っ赤に染まった目が魔女を探して動いた。

 牙をむき出しにして食らいつこうとする魔獣の顎を、魔法湖に立つティナーシャは防御結界を展開しながら受け流す。先ほど攻撃をした後ろ足を横目で見ると、見る見るうちに傷がふさがり真新しい肉が盛り上がっていくのが分かった。紅色の肉の上に銀の体毛が生えだす。

「治りが早い早い」

 魔女は謳う様に皮肉ると、円筒を更に振ってもう一つ赤い球を取り出す。 空中で一回転すると、今度は別の前足に向かって赤い球を放った。

 肉が飛び散る鈍い音が辺りに響く。



 もし七十年前、レギウスの傍に青き月の魔女がいなければ、魔獣はそのまま城都までも蹂躙していたであろうとは、多くの学者たちが主張していることだ。

 魔法を受け付けぬ強靭な体。巨体からくる無尽蔵の体力に、森を薙ぎ払う膂力。人間が太刀打ちしえないその力は、数万の軍勢をものともしなかった。当時の戦争を傍観していた諸国でさえ、ファルサスが滅びた後、魔獣に対しどのような対策を取ればいいのか、答の出ぬ問題に騒然となっていたくらいだ。

 だが、彼らの心配は杞憂で終わった。

 戦場に現れた王の魔女は、半日にも及ぶ苛烈な戦闘の後に魔獣を眠らせ、その後ファルサスを去ったのだ。

 或いは彼女に救われたのは、ファルサスだけでなく他の多くの国や人もそうだったのかもしれない。人々はこの一件により、魔女の力の強大さを改めて理解した。



 魔獣の攻撃を寸前でかわしながら、ティナーシャは持っていた七つの球を攻撃で使い果たしてしまった。しかしそれらの傷は瞬時にふさがり、今は何事もなかったように銀色の体毛が揺れているだけである。

 一方休む暇もなく飛び回ることで、彼女の息は上がってきていた。鋭い爪の一撃を避けて高く跳躍すると、ティナーシャは再び魔獣を上空から見下ろす。

「鈍ったつもりはなかったんだが……体力のなさは仕方ないな」

 少女の華奢な体は、額にも首筋にも汗が粒になっている。べったりと張り付いた黒髪を背後に流すと、彼女は自嘲ぎみに独りごちた。

「さて七十年前の繰り返しになるか?」

 魔女は深く息を吸う。淡々と詠唱が始められた。

「上昇せよ。囚われし牢獄は未だ闇の中にあり。汝が見るはただ七つの束縛のみ」

 その呪文に呼応して、魔獣の体内に埋め込まれた赤い球が肉を貫いて光を放つ。体のあちこちから湧き出る光に、魔獣は苦しげなうなり声をあげた。

「意味を求めぬ安寧は盲目。拒絶せし愚鈍の洞窟に眠る」

 七つの赤い球から魔力の線が次々生み出される。それらは互いに絡み合いながら魔獣を束縛し巨大な紋様を織り上げていった。獣が銀の足を振るってそれから逃れようとしても、網状になった紋様は柔軟に巨体に絡み付いて離れない。

 赤く巨大な紋様が完全に魔獣を捕らえた時、ティナーシャは詠唱をやめて一息ついた。


「悪いが、今度は死んでもらう。お前もここにいても何も得られないだろう」

 魔女は哀切さえこもった目で銀色の狼を見下ろす。―――― そしてそれを殺す為の詠唱を開始した。

「我が意志を命と認識せよ。全ての空間に満ちる沈黙者よ。我が言葉なくしては力は在らず。消失の為の光を定義せよ……」

 彼女の頭上に巨大な光の紋様が現れる。円環状の紋様は、ゆっくりと回転しながら魔法湖の魔力を吸い上げ始めた。

 みるみるうちに光を増す紋様に、魔獣が気づいて顔をあげる。憎悪に燃える赤い目が魔女の闇色の目とぶつかった。低い唸り声が地を揺るがす。


 殺意と空虚。似て非なる想念が両者の間に交差した。

 永遠に等しい数秒。

 次の瞬間、魔獣の体が跳ね上がる。赤い戒めをつき破り、巨大な顎で魔女の体を捕らえようとした。

 ティナーシャは舌打しながら自身の外套を右手ではずす。それを以って白く光る牙から自分の体を遮った。黒い布が空気を孕んで主人を庇うように広がると、布に込められていた防御陣が発動する。

 しかし魔獣の牙は、その防御を一瞬で突破した。白く巨大な牙は刹那で肉薄すると、止めるまもなく薄い腹部に深々と突き立つ。細い魔女の体はあっけなく魔獣にくわえ込まれた。

「…………っ!」

 ティナーシャは衝撃と激痛に弓なりになる。苦悶の声を何とか堪えたが、頭の中が痛みで真っ白になりかけた。魔獣はなおも彼女を咀嚼しようと口を開く。

 ―――― ここで気を失っては組みかけた構成が消えてしまう。

 彼女は顎が大きく開かれた隙に、全身の力を揮って牙を蹴った。爪先に灯った構成が白い牙を割り砕く。その反動を利用して、彼女は大きく後ろに飛んで魔獣から逃れた。左手で抑えた腹部からは血が大量に零れ始める。

「これで、終わりだ」

 ティナーシャは右手を頭上にかざした。そのまま魔獣に向かって振り下ろす。

 それと同時に光の紋様は、湖を覆うほどに広がりながら銀色の体を飲み込んでいった。




 ※ ※ ※ ※




 その日魔法湖で起こった大爆発は、イヌレードの砦からは勿論、旧ドルーザの都からも確認できた。

 真っ白な光が空を焼き、地響きが伝わる。

 人ならざる怨嗟の叫びが、空気を震わせて遠くまで届いた。

 しかしそのような異変を受けても旧ドルーザの民は皆、七十年前の苦い記憶を恐れ、いまや無国籍地帯となっている魔法湖に近づいてみようとはしなかったのである。




「殿下、そろそろ城にお戻りになられては……」

 砦の城壁に出ているオスカーに、メレディナは遠慮がちに声をかける。

 二時間ほど前に白い光の爆発が確認されてから、彼はずっとここに立っているのだ。そろそろ辺りは暗くなり始めており、砦のあちこちには火が灯されつつあった。

「いや、もう少し待つ」

 オスカーはそう言って頭を振る。


 本当は様子を見に行こうかと何度も思った。が、結局それを出来ないでいる。

 彼女を信頼するのもまた、契約者の務めであるとオスカーは知っていた。彼が連れてきたのは塔に閉じ込められた無力な少女ではなく、歴史の影に立つ圧倒的な力の体現者である。そこを履き違えては決してならないのだ。

『レグなら行かせてくれましたよ?』

 魔女のその言葉が妙に気にかかる。

 彼女は、顔も見たことがない曽祖父を本当は愛していたのだろうか。

 もしまた会えたら聞いてみよう……そう思って、オスカーはまるで会えない可能性があるかのような発想に苦笑した。

 まだ契約終了まであと十月以上もある。いつでも聞ける。そう思いなおして顔を上げた時、彼はふと遥か遠くから黒い影が自分の方に向かって飛んでくるのに気づいた。

 徐々に近づくそれは、大きな翼をゆっくりと動かしてまっすぐ砦を目指してくる。ティナーシャのドラゴンだ、ということを確認してオスカーは安堵の息をついた。

 ドラゴンは、魔女の契約者である彼を目標にしてきたらしく、オスカーの頭上までくるとゆっくり高度を下げる。

「ティナーシャ」

 まだ見えないその背に向かって彼は呼びかけた。

 しかし何の返事も返ってこない。

「ティナーシャ?」

 彼は急に不安になって、ドラゴンの体に手を掛けその背に飛び乗った。体勢を整えながら視線を動かし、愕然とする。

 そこに仰向けに横たわっていたのは血みどろの彼の魔女だった。




 シルヴィアは手を拭きながら部屋を出てきた。男に向かって軽く一礼する。

「お怪我はないようです。腹部を負傷なさっていたようですが、傷はご自分で塞がれていたようです。中がどうなっているのかは分かりませんが……」

「そうか。助かった」

 オスカーが礼を言うとシルヴィアは笑った。

「見た目があの出血でしたから……。ここでは処置ができない重傷かとも思ったのですが、よかったです。体の血は拭いて、破れた服は他の装備と一緒に置いてあります」

「ああ」

 頷く彼の肩には、小さくなったドラゴンのナークが止まっている。その口には大きな紅玉が咥えられていた。

「入っても構わないか?」

「どうぞ。魔力が回復するまではお目覚めにならないとは思いますが」

 頭を下げるシルヴィアの横を通って、オスカーは室内に入った。

 広い寝台の上、ティナーシャは安らかな顔で目を閉じている。近づいてその寝息を確認し、また掛けられた布越しに腹部に触れて何でもないことを確かめると、オスカーはようやく安心した。

 彼は手を伸ばして小さな頬に触れる。

 疑いようのない温かさがそこにあった。



 オスカーは結局その日は砦に泊まった。

 調査隊のうち、メレディナを始め兵士のほとんどは先に城へと帰ったが、シルヴィアやドアンら魔法士たちと護衛の兵士二人は、ティナーシャに何かあった時の為、そのまま砦に留まった。重傷を負った魔女をすぐに動かすのは躊躇われて、オスカーがそう決めたのだ。彼は先に戻る人間たちには、自分が戻るまで報告は保留にするよう命じた。


 そうして翌日の昼過ぎ、魔女の寝かされている寝室から叫び声があがるのを、近くの部屋にいたオスカーとドアンは聞きつける。彼らは慌てて部屋の入り口に駆けつけた。

「どうかしたのか!」

 そこにはシルヴィアが、何故か赤い顔をして扉の前に立っていた。

「あ、殿下……いえ失礼しました」

「ティナーシャがどうした?」

「いえ、何でも、少々お待ちください」

 シルヴィアは妙にあせって、扉の前に立ちふさがっている。不審に思ったオスカーは彼女を押しのけた。

「入るぞ」

「お待ちください 殿下!」

 室内に入ったオスカーは、理解不能な光景に思わず硬直した。

 寝台の上に魔女が半身を起こして起き上がっている。

 それだけなら驚くべきことではなかったろうが、彼女の黒髪はどうみても異様な長さで床にまで広がっていた。彼女はオスカーに気づくと己の裸身を掛布で隠す。ひきつった笑いを見せるその姿は―――― 彼が知っている少女のものではなく、二十歳前の大人と言っていい容貌になっていた。

 魔女は彼を睨んだまま背後の枕を手に取った。

「服を、着るまで、入ってくるな!」

 投げられた枕を避けると、オスカーは無言のまま扉を閉め外に出た。肩の上では我関せずのナークが欠伸をしている。

「なんだあれ……」

「だから、お待ちくださいと申し上げたじゃないですか」

 シルヴィアが片手で顔を押さえて呟いた。



 ティナーシャはシルヴィアの服を借りると、長い髪を鬱陶しそうに引きずって部屋を出てきた。外で待っていたオスカーはまじまじとその全身を眺める。

「お前、どうしたんだ……」

「内臓の破損がひどかったんで、体の成長速度を急激に早めて修復したんですよ。髪切らないと駄目ですね」

 ティナーシャは言いながら無造作に短剣を出すと、髪に当てようとした。シルヴィアが慌ててそれを止める。

「私がします。座っててください」

 おとなしく椅子に座ったティナーシャの髪を、彼女は丁寧に梳り始めた。オスカーは魔女の向かいに座りなおす。

「内臓の破損って大丈夫なのか?」

「もう平気です。ちょっと血が足りないくらい」

 ドアンが薄めた果汁を差し出すと、彼女は礼を言ってそれを飲む。オスカーは葡萄酒を受け取った。

「死んでるかと思ったぞ。その外見戻るのか?」

「戻りません。塔でも言いましたけど、私の外見って成長を停滞させてるだけで、魔法で変えてるわけじゃないですから……進んだら進んだまんまです。見せ掛けだけなら戻せますけど、少女愛者ですか?」

「全く違う」

 呆れ顔のオスカーの肩から、ナークがティナーシャの膝に飛び移った。魔女はその背を撫でてやる。

「オスカー、懐かれましたね」

「そうなのか?」

「これをくれるみたいですよ」

 ナークはティナーシャの両手の中に、咥えていた紅玉を落とした。彼女はそれをオスカーに投げる。彼は空中で赤い石を受け取ってまじまじと眺めた。

「魔獣の核ですよ。もうただの宝石だから大丈夫です」

「魔獣の核……ってお前魔獣を倒してきたのか?」

 珍しく呆気にとられているオスカーをティナーシャは面白そうに見返す。

「また数十年後に同じ手間を踏みたくないですからね。魔法士の死体は地中に置いてきちゃいました。すみません」

「それは構わないが……無茶するなよ」

「余裕!」

「大怪我してたじゃないか」

 当然の突っ込みに魔女は舌を出した。

 肩越しに振り返ると、シルヴィアが鋏を使って、彼女の髪を前と同じくらいの長さに梳いてくれていた。




 ※ ※ ※ ※



 砦の一室で、ティナーシャは揃えられていた装備を確認すると一まとめに袋に詰めていた。剣だけは入らないので並べて置いておく。

 オスカーはその様子をソファに座ってみていたが、片付けが終わったことを確認すると手招きで彼女を呼び寄せた。

「何ですか」

 怪訝そうな魔女の華奢な体を、彼は無造作に抱き上げて自分の上に横向きに座らせる。

 細い体は相変わらず意識を失っている時とは違って、魔力でも干渉しているのか人間とは思えない軽さだった。

「何なんですか……」

「いや、どうもつい触りたくなるような外見になったな」

「…………」

 ティナーシャは嫌そうな顔になったが、オスカーは気にせず切りそろえられた黒髪を梳いている。

「一応先に帰った者には口止めをしたが、この姿では魔女であることをもう隠せないな。見せ掛けでも戻していくか?」

「いえ、もういいです。人の口に戸を立てるのは難しいです」

「そうか」

「この馬鹿王子を殿下って呼ぶのも疲れるんでちょうどいいです」

「……疲れるのか」

 魔女は細い足を組むと、膝の上にうろうろしていたナークを止まらせる。窓から差し込む日の光が、彼女の膝下の白い肌に温かみを持たせた。

「霧は魔獣のせいだったんで、まもなく晴れると思います。これからは三ヶ月に一度観測に行けばいいでしょう。あ、落盤してるので気をつけるように言ってください」

「魔法湖はなくならないのか」

「あれはあの地に飛び散ってしまった強力な魔法の残滓ですから……。ちょっと消費されてもすぐ周囲の魔力や生命力を吸い取って戻りますよ。魔獣も本当は七十年前に殺せればよかったんですが、当時は周囲に人間が多くて大きな魔法が使えなかったんですよね」

「なるほど……」

 オスカーはむき出しになっているティナーシャの足を撫でる。その手にナークがじゃれついた。

 彼は不意に聞こうと思っていたことを思い出す。

「七十年前と言えば、曽祖父はどんな人間だったんだ」

 彼女は如実に苦い顔をした。

「何でそんなこと知りたいんですか」

「いや、好奇心。あの骸骨が言ってただろ」

 嫌なことを思い出したらしく、魔女は頭を抱えて悶絶する。

「あれはぁぁっ。当時もああいう誤解している人いたんですけど。まったく違うと言わせて頂きたいです」

「ファルサスにも昔話で伝わってるぞ」


 七十年前の王と魔女の話は、御伽噺として子供の間に広く伝わっている。当然オスカーもそれを聞かされたことがあった。

 話の中のティナーシャはいかにも、といった魔女として語られている。その魔女は、オスカーの膝の上でずり落ちたドラゴンを拾い上げつつ頭を振った。

「そういう話があるらしいとは聞いてたんですが、腹が立ちそうなので内容を聞いたことはないです」

「助力を要請する王に、代償として国をくれと結婚を迫ったという……」

「うわぁぁぁ」

「しかし戦争が終わった後、王が観念して結婚式を開いたが、姿を見せず消え去ったとか」

「ところどころあってるけど全く違う!!」

 怒気と共に魔力が洩れているのか、窓の硝子がピシピシと異音を立てる。

 この話題は精神を消耗するらしく、ティナーシャは肩で大きく息をついた。その首筋をオスカーは指で撫でる。

「まぁそんなことだろうと思ったが」

 魔女はぶるっと全身を震わせると暴れた。

「くすぐったい! いい加減やめてください」

「ああ、悪い。あんまり触るとまずいな」

 オスカーが触れていた両手を離して解放してやると、魔女は空中に音もなく浮かんだ。その膝から零れ落ちたナークがオスカーの肩にとまる。

 ティナーシャは空中で足を組みなおした。

「レグはですね……一言でいうと……馬鹿王でした」

「…………」


 第十八代ファルサス王レギウス・クルス・ラル・ファルサスは父王の急死により十五歳で即位した。その人柄は、真っ直ぐで人を疑うことをせず、諦めることを知らず、公明正大で、善き王であったと言われる。

「初めて会った時はまだドルーザ侵攻の前で……。塔に登ってきて望みを聞いたら、いきなり結婚を申し込まれたんですよね……」

「非常識な話だ」

「もう一人いましたけど」

 オスカーは聞こえないふりをしてナークの喉を撫でる。

 魔女は空中でゆるやかに回転しながら、契約者を白い目で見下ろした。

「まぁ貴方みたいな特殊な事情があったらまだ分かるんですが、まったく! なかったんですよ! だから、魔女を王妃にして国をくれてやるなんて、王としてどうかしてると説教したんですが……」

「国をくれと迫ったことになっていると」

「いらないよ!」


 彼は、自分も塔で似たようなことを言われたことを思い出した。もしかするとティナーシャは、魔女は人と交わるべきではないと思っているのかもしれない。

「で、それからどうしたんだ?」

「断ったんですが二日粘られました」

「…………」

「いい加減怒ったら、ようやく別の案を出して来たんですが、それが『自分が死ぬまで目の届くところに居て欲しい』だったんですよ。そもそも何しに塔に登って来たんですかね」

「……馬鹿だな」

 聞くべきではない話を聞いてしまっているような気がする。

 しかし彼はわずかな頭痛を堪えて話の続きを促した。

「それを飲んだのか?」

「条件つきで。私はその代わり、レグのために何もしない、助けない。もし私の助けを要請するようなことがあったら、それを新しい契約条項として、私は二度とレグの前に現れない、と」

「で、魔獣が現れたわけか」

「すっごく嫌そうに頼みに来ましたよ。まぁ決断は比較的早かったと思いますが」

「それは重臣たちも歴史に残したくなかっただろうな」

 だから事実を捻じ曲げて、あのような御伽噺が流布されたのかもしれない。

 が、当の魔女にしてみればいい迷惑なだけだろう。

「そこで終わってればよかったんですけどね!」

「まだ何かあるのか」

 ティナーシャは窓辺に降り立つ。逆光で表情が分かりづらいが、どんな顔をしているのか容易に予想がついた。

「契約の件は契約者と魔女の関係として終了だけど、一人の人間としての関係はそれに縛られないからと言って」

「……言って?」

「か、勝手に結婚式を……いつの間にか用意されていて……花嫁衣裳が部屋に送られてきて……」

「…………」

 頭痛だけではなく眩暈がした。

「……勿論すっぽかしました。それ以来会ってません」

「知ってはならない歴史の暗部を見た気がするぞ」

 これでは馬鹿王と言われても仕方がない。

 オスカーは彼女と初めて会った時、何故魔女が曽祖父との契約について語りたがらなかったのか分かった気がした。

「でもまぁ……嫌いじゃなかったですよ。馬鹿でしたけど。家族みたいに思ってました」

 ティナーシャは目を伏せる。その闇色の中には様々な感情が去来しているようだった。

 もし彼女が魔女でなかったら、王の求婚を受けたのだろうか、とオスカーはありえない仮定を思い浮かべる。そうなっていたなら、今頃彼女はどんな人生を送っていたのだろう。

「後に王妃になった……貴方の曾祖母とも私は仲がよかったですけど、彼女は頭がよくて機転がきいて、多分レグを上手く御したんじゃないですかね。貴方は彼女にちょっと似てます」

 魔女は思い出話をそう締めくくると、オスカーの隣まで歩いてきた。白い手を彼の頬に触れさせて、大きな瞳でじっと見下ろす。

 その目はまるで、彼の中に過去の風景を見ているかのようであった。

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