第5話 湖の畔 01

 訓練場の上には今日も夏の青空が広がっていた。

 ティナーシャは剣を片手に日陰で涼んでいる。そのすぐ横にアルスがやってきて座った。

「大分上達してきたな。というか勘が戻ってきたのか」

「本当ですか? ありがとうございます」

 初めて彼と手合わせしてから、ティナーシャはちょくちょく稽古を受けに訓練場に顔を出すようになっていた。アルスは自分の手が空いている時として、メレディナのいない時間を指定しているが、彼女たちがそれに気づいているかはアルスには分からない。

 幼馴染には悪いが、ティナーシャがくると兵士の士気も上がる。アルスはこの魔法士の少女を歓迎していた。

「どれくらいであの人と互角くらいまでなれそうですか?」

「あの人って殿下? それは俺に稽古受けてる限り無理だと思う」

 アルスは手に持っていた布で汗をぬぐった。

「俺、殿下に勝てたことないからな」

「本当に?」

 ティナーシャは闇色の瞳でアルスを見上げた。 日の光の下でその瞳は黒水晶のように光る。アルスは靴の紐を結びなおしながら答えた。

「本当本当。初めて手合わせした時かなり落ち込んだぞ。王子なんて大したことないだろうって侮ってたから」

「そんな強いんですか」

 空に向かって彼女は溜息を吐く。上空は風が強いのか、雲が速い速度で流れていた。

「大体、最近こそおとなしく城にいらっしゃるけど、ちょっと前まですぐラザルと二人で何処にでもお出かけになってて……。それも危なげはなかったから放置されてたけど、さすがに魔女の塔に行ったって聞いた時はやばいかと思ったな……。普通に帰ってきて吃驚した」

「塔の守護魔獣をあっさり撃破してたらしいですよ」

「本当に人間かあの人」

 二人は揃って嘆息した。木陰を揺らす風が気持ちよい。アルスは自身の赤い前髪を邪魔にならない位置に梳いた。

「大体、魔法を使えばいいんじゃないか?  接近戦だと使えないとか?」

「そりゃ障壁張ったり、逆の手に魔力通わせたりしますけどね。あの人アカーシア帯剣してるじゃないですか」

「あー……そうだったな」

 アルスはファルサスの国宝である絶対魔法抵抗の王剣を脳裏に思い浮かべた。二年ほど前から魔法士の天敵となるその剣を、オスカーは帯剣しているのだ。

「やっぱり無理だろ」

「無理ぃぃぃ」

 彼のさっぱりした結論にティナーシャは小さな頭を抱えて揺すった。その様子をアルスは気の毒そうに眺める。

「まだ殿下に稽古受けた方が可能性があるんじゃないか?」

「うーん……あんまりあの人に手の内見せたくないんですよ。どう転ぶか分かりませんから」

「ふむ……ふむ……」

 ファルサス一の将軍は首を傾げて思案する。

「まぁ無理だな」

「わぁぁぁ」

 ティナーシャは頭を抱えて悶絶したかと思うと、ぐったりと力つきた。



 稽古を終えて渡り廊下を歩いていたティナーシャは、自分を呼び止める声に気づいて足を止めた。他の誰にも聞こえない声。 魔女はそのまま外に出ると、庭の大樹の下に歩み寄る。

「マスター、お元気そうでなによりです。いい契約者に恵まれたようですね」

「そうか?」

 木の枝の上に座っていたのはティナーシャの使い魔であるリトラだった。リトラは音もなく飛び降りると一礼する。

「前よりずっと楽しげに見えますよ」

「楽しいと言えば楽しいが……。まぁ悪くない」

 魔女は肩をすくめると苦笑した。揺るがない水面のような眼差し。普段オスカーやアルスに見せているものとは違う魔女としての顔がそこにはある。

「このままご結婚なさってもいいのではないでしょうか。一年も百年もさして変わりはないでしょう」

「変わる変わる。それに私は伴侶を持つ気は無い」

 きっぱりとした主人の言葉に、リトラはやけに人間くさい仕草で恭しく頭を下げた。

「出すぎたことを申しました。お許しください。本日はご命令の調査が終わりましたので、ご報告に参りました」

「ああ、話せ」

 使い魔の報告をティナーシャは黙って聞いていたが、全て聞き終わると彼女は忌々しげに舌打した。



 休憩時間中に執務室でラザルと古い駒遊びをしていたオスカーは、ふらっとやってきたティナーシャに振り返って驚いた。

 彼女が着ているのは、普段の魔法士のローブやドレス、軽装ではない。紋様の入った黒布で作られた体の曲線がよく出る魔法着に、やはり紋様の入ったマントを羽織り、普段むき出しになっている白い手には水晶のはめられた手甲をしている。ファルサスでは見ない作りの魔法着には不思議な威圧感と艶かしさがあった。

 それだけではなく彼女は細身の剣を腰に帯びており、その他にもいくつかの武器と思しきものを足や腰にベルトを使って装備している。

「どうしたその格好は」

「ちょっと二、三日出かけてきます」

 ティナーシャはそっけない態度でそれだけ言うと部屋を出て行こうとした。その手首をオスカーはかろうじて掴む。

「待て待て。何処に行くんだ」

「何処だっていいじゃないですか。ちゃんと戻ってきますよ」

「遊びに行くって格好じゃないぞ。大体封飾を全部はずしてるじゃないか」

 オスカーは手首を引いてティナーシャの華奢な体を引き寄せた。ラザルが慌てて扉を閉めて出口を塞ぐ。

「せめて行き先をちゃんと言え。俺が契約者だ。勝手に離れられては困る」

 魔女はその言葉にオスカーを睨み付けた。いつもと全然違う彼女の様子に、ラザルはおろおろしている。

 射る様な闇色の瞳にも一向に怯まないオスカーを見てティナーシャは渋々口を開いた。

「ドルーザの魔法湖です」

「ドルーザの?」

 オスカーは聞き返しかけて、その意味を理解し表情を変える。

「魔法士を殺させたのはその為か」

「え、え、どういうことですか」

 一人ついていけないラザルは二人を見回した。まごついている従者にオスカーは魔女の手首を掴んだまま説明してやる。

「あの殺された男は、毎月ドルーザの魔法湖に調査に行っていた。それをされたくない誰かが、恋人をけしかけて殺させたんじゃないか? パスヴァールを城都によこしたのは内政を混乱させて時間を稼ぐためだろう」

 ティナーシャはオスカーの推察を肯定した。

「ドルーザの魔法湖に高い魔力の波が発生しているそうです。誰が何をしようとしているのか、それを調べに行ってきます」

 目で、手を離すよう要求する彼女に、だがオスカーは頭を振る。

「一時間待て。俺も行く」

 魔女は一瞬不機嫌も忘れて目を丸くした。が、すぐに苛立ちの色濃い顔になる。

「余計なことです。というか王子が出歩くな」

「お前一人行ってどうする。あそこは調停上何処の国のものでもないが、事実上の管理はファルサスだ。何かあった時、お前だけの調査ではさすがに俺でも国政を動かせん」

 正論に、ティナーシャは少しだけ険を和らげて、彼女の契約者を見上げた。

「貴方一人を連れて行ったら、もっと問題になりそうですよ」

「腕の立つものを集める。十五人もいれば調査隊としては充分だろう」

「私は貴方以外を守る義理はないです」

「承知している」

 オスカーはきっぱりと言い切った。

 彼を見上げている魔女の闇色の目に一瞬何かが揺らいで見える。

 それは感傷の残滓のように見えたが、すぐに消えてなくなった。 彼女はあきらめたように溜息をつく。

「一時間、それ以上は待ちません」

「充分だ」

 オスカーはようやく彼女の手を離すと、支度をする為に部屋を出た。



 きっかり一時間後、国境北の砦に跳ぶ転移陣の前に、オスカーとティナーシャを含め十五人が集まっていた。

 兵士が九人に魔法士が四人。その中にはメレディナの姿もある。アルスは自分が志願したのだが、オスカーが城をあけるのにアルスまで離れられては困ると皆に止められたのだ。クムも同じ理由で城に留まることになった。

 不機嫌が残る顔で隅に立っていたティナーシャは、待っている間、調査隊の魔法士の一人に挨拶をされた。

「シルヴィアと申します。お話するのは初めてですよね。よろしく」

 二十歳前後の、可愛らしさの残る金色の髪の女。その温かい雰囲気に、ティナーシャは自然と破顔する。

「こちらこそよろしくお願いします」

「そのペット、もしかしてドラゴンですか?」

 シルヴィアはティナーシャの肩に乗っている、鷹ほどの大きさの赤いドラゴンを恐る恐る指差した。当のドラゴンはまったく意に介せず欠伸をしている。

「ああ、あまり人に慣れてないから気をつけてください」

 ティナーシャは申し訳なさそうな微笑みを浮かべたが、シルヴィアは気にした風もなく、すごいですねーなどとまじまじとドラゴンを見つめた。


「ティナーシャ!」

 オスカーに呼ばれて魔女は、シルヴィアに断ると彼の方に駆け寄る。オスカーはドラゴンを見て、小声で囁いた。

「何だそいつは」

「一人ならこの子に乗って行こうと思って呼んであったんですよ」

「人が乗れる大きさに見えん」

 オスカーは会話をそこで打ち切ると、集まった者たちに告げる。

「これからドルーザの魔法湖を調査に行く。何があるか分からんから注意しろ。あと、こいつの命令には逆らうな」

 そう言うと彼はティナーシャの頭を、ドラゴン越しに軽く叩いた。ドラゴンは不思議そうにそれを見上げている。ティナーシャは小声で返した。

「そんなこと言っていいんですか?」

「細かいことは言ってられないからな」

 ティナーシャは緊張した面持ちのシルヴィアを見、ついで不機嫌そうなメレディナ、心配そうなアルス、クム、ラザルに視線を移した。

 最後にオスカーを見上げると彼は少しだけ微笑む。

 彼女は息を深く吸いながら、ゆっくりと目を閉じた。 かつて同じ様にこの城を出立した情景が蘇る。

 ―――― あの時の誰ももう生きてはいない……。

 両眼を開いた時、彼女は一瞬だけであるが、 皆が見惚れるほどの美しい微笑を見せた。

 人の儚さを愛でる様な、慈しむ様な光がその目の中にある。

 横でそれを見たオスカーが思わず絶句したが、彼女はそれには気づかなかった。

「行きましょう」

 ティナーシャの言葉と同時に、転移魔法陣が発動し始めた。



 一同は国境北のイヌレードの砦に転送されると、慌しくそこで馬を借りドルーザの魔法湖に向かって国境を越えた。

 七十年前の戦争の影響か、未だに辺りには一年中灰色の霧が立ち込めている。少し先もよく見えない中を、彼らはしかし迷いなく進んで行った。

「何で方向が分かるんだ?」

 オスカーの問いに、先頭を走るティナーシャは振り返って笑う。

「魔力が洩れてるんですよ。魔法士なら皆分かります」

 彼の後ろについてきている魔法士もまた頷いた。オスカーはそんなものかと首を傾げる。

 やがて一時間も走った頃、霧の中僅かに見える景色が変わり始めた。

 ところどころに生えている木々がやけに歪んでいる。葉のない捩れた木々と転がる岩ばかりの景色は、一部の人間の間でまことしやかに語られる死後の世界を連想させるようなものだった。

 荒れ果てた風景に何人かは怯んだらしく、如実に会話が途切れる。そしてそれは敏感な馬も同様だったようで、彼らはたちまち走る速度を落としてしまった。やがて全ての馬は押しても引いても前に進んでくれなくなる。仕方なくその辺りの木々に馬を繋ぐと一行は徒歩で進み始めた。

「あとどれくらいだ?」

「もうすぐです。ってあ……」

 ティナーシャは後ろを振り返ると足を止めた。ついて来ている人間は、程度の差こそあれ全員が気分が悪そうに青い顔をしている。

「御免なさい忘れてました。結界を張りますね」

 彼女は軽く詠唱する。と、周りの空気が清んだものに変わった。呼吸が楽になったことで、彼らはほっとした顔を見せる。

「どうかしたのか?」

「瘴気が出てたんですよ。普通の人は息苦しいはずです」

「俺が平気なのはお前のおかげか」

「ご名答」

 魔女はにっこり笑った。その後ろで、ドアンと名乗る男の魔法士がうめく。

「テミスの調査では瘴気の発生は記録されていなかったのですが……」

「何かが起きてるんだろうな」

 オスカーは全員の様子を確認すると、急ぐぞ、と再び歩き始めた。



 彼らが魔法湖に到着したのはそれからすぐのことである。

 そこは、水も草もないむき出しの空き地であった。相変わらず周囲には霧が立ち込め、向こうがよく見えない。罅割れた大地はカラカラに乾いていたが、時折、まるで波があるかのように、地面の少し上を何かの透明な波紋が通っていった。

「初めて来たな……普段もこの波があるのか?」

「若干は」

 ティナーシャは手短に返答すると、先ほどより少し長い詠唱をした。地面に大きな円状の紋様が広がる。

 詠唱が終わるとその外周から赤い糸が数十本浮かび出て、紋様の上で絡み合って半球状に一同を囲った。

「ちょっとここ出ないで待っててください。見てきます」

 魔女はそういい残すと、背後を見ぬまま空中に浮かび上がった。一瞬で霧の向こうに消える。

 ドアンはその姿を見送って唖然として呟いた。

「彼女何者なんですか……」

「さぁな」

 オスカーは苦笑すると振り返る。とその時、一人の兵士の慌てた声が最後部で上がった。

「メレディナがいません!」

「何だと」

 騒然とした空気が結界の中を支配する。困惑が走る中、オスカーは青い両眼を細めて霧の向こうを睨みつけた。



 魔法湖の上を、魔力を放って探りながら魔女は上空を一周する。

 時折出来る霧の切れ目から見た景色は何ら代わり映えがなかったが、隠しようのない瘴気と平常時より明らかに高い魔力の波が異常を物語っていた。

「地下かな……」

 魔女は舌打をすると、一旦結界のところに戻る為に降下する。

 彼女が戻ってくると待っていた者たちはほっとした雰囲気を見せたが、同時に皆が困ったような顔をした。ティナーシャはすぐその理由に気づく。

「あれ、殿下は?」

 その問いにシルヴィアが申し訳なさそうに手を上げた。

「はぐれたメレディナを探しに行ってしまいました……。お止めしたんですが、一番耐性があるからと仰って……。どうしましょう、ティナーシャさん」

 それを聞いたティナーシャは、自分の血圧があがりすぎて血管が切れるんじゃないだろうかとぼんやりと思った。

 しかし言葉になったのは別のことである。

「あ……の……馬鹿王子がっ!」

 怒りで彼女の全身が震えるのを、一同は発言の無礼も忘れ、恐々と眺めたのである。



 メレディナはどことも知れぬ霧の中を足取りも重く歩いていた。

 気はもっと重い。

 ―――― 何故自分はこんなところに来てしまったのだろう。

 オスカーがあの魔法士をつれてきてからというものの、彼女は今までにない劣等感を味わう羽目になった。

 比べる必要などない、そんなことは分かっている。しかしオスカーの隣に立つ彼女を見る度に、メレディナは自然と彼女と自分を比べていることに気づいてしまう。

 彼女がアルスのところに訓練に来ており、その腕が自分より上であるということを知ってからはなおさらだ。居場所のない敗北感が重苦しく彼女を打ちのめしていた。

 今も、皆に早く合流しなくては、という思いと彼女に会いたくないという思いの間でメレディナは揺れ続けている。

 だがその時、前方の霧の中に人影を見て、彼女はハッと我に返った。

 自分は何をしていたのか、武官たるものつまらない感情にとらわれるべきではない。彼女はそう自分に言い聞かせると、人影に向かって走りよる。

 しかし間近まできてようやく、彼女はそれが人ではないことに気づいた。

「ヒッ」

 思わず叫びかけて口を押さえる。

 それは、ぼろぼろになった鎧を着た動く死体であった。

 彼女の声に反応してか、死体はゆっくりと振り返る。空っぽの眼窩には何の感情もない。それは持っていた剣をゆっくりと構えた。

 よく見ると死体は一体だけではなく、霧の中にいつの間にか無数に蠢いている。メレディナは震える手で腰に手をやると、何とか自分の剣を抜いた。

 前方から思わぬ速度で打ち込まれる剣を受ける。高い金属音が霧の中に響き、その重さに腕が痺れた。

 メレディナは後ろに跳んで距離をとるが、後ろからもゆっくりと足音が聞こえてくる。

 彼女を中心に徐々にせばまってくる死体たちの輪、 メレディナは絶望的な思いを感じながらも、再び剣を構えた。



 一方、結界に残った者たちも死体との戦いに直面していた。

 結界内にいれば手出しはされないが、辺りを死体に囲まれては帰る道もなくなってしまう。彼らは結界を拠点に、終わりが見えない戦いを強いられていた。

「こいつらファルサスの紋章をつけてるぞ!」

「ドルーザの紋章をつけたやつもいる」

「七十年前の亡霊か……!」

 斬り倒してもなぎ払っても迫ってくる死体たちに、一同は焦りの色も濃くなってくる。ティナーシャは舌打すると、肩の上のドラゴンに命じた。

「ナーク! 私の契約者を探して連れてこい。さっきいた青い目の男だ。印があるから分かるだろう? 女も一緒のはずだから両方連れてこい。食うなよ!」

 ドラゴンは一声鳴いて肩から降りると、首と尾を逸らし伸びをした。みるみるうちに赤い体が伸びて、馬と同程度の大きさになる。驚く一同を尻目に、ドラゴンは翼を広げて飛び立つと霧の中に消えていった。

 ティナーシャは斬りかかってくる死体の剣をかがんで避けると、自身の剣でその首を刎ねる。

「二人が帰ってきたら一帯を焼き払います。しばらく持ちこたえてください」

 彼女のゆるぎない声に皆は安心する。いつの間にかティナーシャはその確かな実力を以って、一行の精神的支柱になり始めていた。

 彼らは気合を入れなおすと、再び目の前の敵に向き直る。



 メレディナは斬っても斬っても迫り来る死体に、叫びだしそうになるのを何とか堪えていた。湿った空気の中近づいてくる無数の足音。腐臭が鼻につき、吐き気を催させる。

 先ほどから死者に後ろをとられることも多くなってきたが、彼女は何度か紙一重でその剣を避け続けていた。

 ―――― このような事態を招いたのは自分だ。もっと、アルスの色々言うことをちゃんと聞いていればよかった。

 湧き出す後悔が彼女の心に染みを作る。メレディナは唇をきつく噛んだ。

 その時、右後方から彼女の脇腹に向かって剣が突き出される。彼女はかろうじて攻撃に気づくと身をよじった。

 ―――― 避けきれない。

 メレディナが思わず目を閉じた時、だが誰かが霧の中から彼女の手を引き寄せる。

「迷子も大概にしろ」

 そう言って突き出された剣を払ったのは、彼女の最愛の主君であった。

「で、殿下……」

「戦えるか? 突破するぞ」

 甘えを許さない声の響きに、メレディナは浮かびかけた涙を堪えて頷く。

「お供いたします」

 彼女の言葉に男は無言で頷いた。

 先を行くオスカーに、霧の中から刃毀れした剣が突き出される。だが彼はその切っ先に、何も持っていない左手を無造作に向けた。何もないはずなのに、何かが剣を彼の手に触れる寸前で砕く。メレディナはそんな光景を不思議に思って見つめた。

「ぼけっとしてるな。行くぞ」

「は、はい」

 オスカーについていこうとしたメレディナは小走りになる。

 だがその時、背後に何か大きなものが降り立つ気配がした。吹き付ける空気に慌てて振り返ると、そこには燃える様な赤い両眼が彼女を見つめている。

 それが、ティナーシャの肩に乗っていたドラゴンだと気づくのに、彼女は数瞬を要する事になったのだった。



「殿下はまだか!」

「余所見するな!」

 怒号が飛び交う戦場で、ティナーシャは剣を振るいながら自身の魔力を広げて、周囲の様子を探ろうとしていた。

 死体を操っている大本がいるはずだ。それを叩ければ早い。

 しかし相手もそれを承知しているのか、移動しているらしくなかなかその位置を掴ませない。

 彼女はシルヴィアに襲い掛かる剣を腕ごと薙ぎ払う。ぼろぼろの腕はそのまま軽々と空を飛んで、霧の中に落ちた。

「ありがとう」

 ほっと息をつくシルヴィアに、ティナーシャは笑って見せた。

「大丈夫。もう少しです」

 その時、主人の言葉に応えるように上空からドラゴンが一声鳴いた。ドラゴンは翼を広げると、風をうけながらゆっくりと降りてくる。

 その背には一組の男女が乗っており、男の方はドラゴンが地に達する前に飛び降りてきた。ティナーシャは彼を冷ややかな目で一瞥する。

「説教ものですよ」

「悪い」

「全員、結界内に下がって!」

 その言葉に従って皆が赤い半球のうちに入る。ドラゴンも女を背に乗せたまま半球内に着地した。

 死体たちが更にその輪を狭めて外側に集まってくる。ティナーシャは剣を鞘に戻すと詠唱を開始した。

「我が意志を命と認識せよ。地に眠り空を翔る転換者よ。我は汝の炎を支配し召喚す―――― 我が命が現出の概念の全てと理解せよ」

 詠唱によって、彼女の両手の中に炎で出来た円環の紋様が出現する。ティナーシャはそれを右手で掬い上げた。

「焼き尽くせ!」

 炎の紋様は一気にその輝きを増す。

 円環は炎の波となって、結界外の全方向に恐ろしい速度と威力で炎の舌を伸ばした。むらがっていた死体たちはまたたくまに薙ぎ払われ焼き払われる。声にならぬ断末魔の悲鳴がいくつも荒地に重なった。


 思わず目を瞑っていたシルヴィアが恐る恐る目を開けた時、結界の外にはただ地平が広がっているだけだった。残っているのは物が焼ける嫌な焦げ臭さのみであり、あれ程いた死体の姿は見えない。

「木も焼いちゃったかな。自然破壊してしまった」

 術者である女はけろっとそう言う。他の者たちは間近で見た魔法の威力に呆然としていた。

 メレディナはドラゴンから降りると、恐怖の眼差しでティナーシャを見る。幼馴染のアルスが、彼女のことを怖い人間だと称した理由がようやく分かった気がした。

 そんな中、一人平然としていたオスカーは周囲を見回して口笛を吹く。

「霧が晴れたじゃないか。好都合だ」

 一帯を嘗め尽くした炎のせいで、辺りの霧がなくなっている。枯れた大地がほどよく見通せるようになっていた。

 振り返ったオスカーは、何かに気づいて魔女の頭に手を載せる。

「ティナーシャ、死体が一体焼け残ってるぞ」


 何もなくなった土地の上、少し離れた場所に、魔法士のローブを着た老人が立っている。骸骨と見まがう程に痩せこけた老人は、一行を落ち窪んだ目でじっと見つめていた。

 ティナーシャはそれに気づいて眉を顰める。

「防御されたみたいですね」

 魔法士は、ティナーシャが自分を視界に入れたのを確認すると、意外にも朗々とした声をあげた。

「お久しぶりですね。生きている内に再びお会いできるとは思いませんでしたよ」

 オスカーを始め、皆が何か問いたげにティナーシャを見たが、彼女はそれを黙殺した。感情のこもらない目で魔法士を見返す。

「そのいでたち、その美しさ、七十年前に戻ったかと思いました。またそちらについているのは愛しい男の面影のためですか? 青き月の魔女殿」

 彼女に呼びかける最後の言葉に、オスカーを除く一同は全員無音の叫びをあげた。

 シルヴィアは動転しておろおろし、他の兵士は意味もなく両手を上げている。メレディナはオスカーの背後に立つと震える声で聞いた。

「魔女って……ほ、本当ですか」

「本当」

 オスカーは何故か不機嫌そうに答える。

 一方ティナーシャはそれら後ろの動きを一切意に介していないらしく、骸骨のような魔法士に向かって妖艶な笑いを浮かべた。

「随分年を取ったな。あの時はほんの子供だったのに。禿げたというか干からびたというか」

 率直な感想を受けた老人は高らかに笑うと、自身の骨と皮だけの頭を撫でた。

「とっくに死んでいるような年ですから仕方ありません。誰もが貴女のようにいられるわけではないのですよ」

 やんわりとした嫌味に魔女は鼻で笑う。

「話し方や外見まで師に似てしまったようだな。……虫唾が走る」

「貴女が首を刎ねた我が師にですか?  それはなかなか嬉しいですね」

 老人は芝居がかった仕草で両手を広げた。それを挑戦と取ったのであろう、ティナーシャは無造作に剣を抜くと結界の外に歩み出る。

「折角だからお前の首も刎ねてやろう。師に殉じられること、這いつくばって感謝するがいい」

 その笑顔は寒気がするほど残酷で、美しかった。



 ティナーシャがもう一歩を踏み出すより先に、しかしその老人の姿は蜃気楼のように掻き消えた。しゃがれた声だけがその場にこだまする。

「貴女とやりあうほどの力はありませんので、失礼させて頂きます。貴女方もそろそろお帰りになった方がよろしいかと。それとも一人二人死なねばその気になりませんか?」

 喉を鳴らす笑い声を残して声は消失した。途端に辺りには静寂が満ちる。

 魔女はしばらく何かを考えていたようだが、剣を収めて振り返ると

「逃げられた」

 と子供のような表情で舌を出した。オスカーは戻ってきた彼女の頭を撫でると、その目を覗き込む。

「知ってる顔か?」

「七十年前の戦争で、魔獣の統御をしていたドルーザの魔法士のうちの一人ですね」

「魔獣の……」

 オスカーは顎に手を掛けて考え込んだ。その傍を離れたティナーシャにシルヴィアが恐る恐る話しかける。

「あ、あの…ティナーシャさん本当に『青き月の魔女』なんですか?」

「黙ってて御免なさい。驚かせたくなかったんですよ」

 魔女は、先ほど見せた残酷さの微塵もない、少し悲しそうな顔で微笑んだ。

 それを見たシルヴィアは胸が痛む。同時によく知りもしないのに、魔女を恐れていた自分が少し恥ずかしくなった。

「あ、あの私……」

 何か言おうとしたシルヴィアを、しかし魔女は頭を振って制した。

「駄目ですよ。魔女は怖いものなんです。気にしないで」

 明るく言う彼女の言葉に、シルヴィアは複雑な思いで、それでも何とか笑顔を返す。

「一度帰るか。人員と装備を整えよう」

 オスカーの決定に全員が胸をなでおろした。これ以上ここに残っても薄気味悪いことこの上ない。一同は見晴らしのよくなった大地を馬を繋いだところまで歩き出す。

「馬は燃えてないだろうな」

「そこまでは多分……」

 不安な笑顔を作る主人の肩の上で、小さくなったドラゴンがあくびをした。



 馬はちゃんと元の位置で待っていた。その周囲にはまだ霧が立ち込めている。

 一同はイヌレードの砦に向かって、方角を確かめながら馬を走らせた。オスカーはティナーシャの横に馬を並べながら話しかける。

「やつらの狙いは魔獣の復活だと思うか?」

「十中八九そうでしょうね。面倒なことです」

 後ろからドアンが口を挟んだ。

「別のものを作っているという可能性はないのでしょうか」

「それは無理です。誤解があるみたいですが……魔獣は彼らが作った訳じゃないんですよ。あんなもの普通の人間に作られたらたまったもんじゃないです。おそらく魔法湖に核となる何かが入ってきて、それに魔力の波が徐々に吸着して……何百年かかけて魔獣になったんじゃないですかね」

「それを制御していただけなのか」

「制御も不完全でしたけどね。蛇のいる藪をつついて何をしたいやら」

 話している内に、ようやく前方の霧が晴れ出した。しばらく走ると地平に砦が見え始める。

 だがそこまで来ると、ティナーシャは急に馬の足を緩め、そのまま止まってしまった。

「どうした、ティナーシャ」

 魔女は馬から飛び降りると、その手綱を兵士の一人に預ける。

「皆で帰ってください。私は戻ります」

「何を言っている」

 オスカーは自分も馬を下りると、彼女に詰め寄った。

「ここで私たちが一旦帰って準備を整える、勘付かれた以上、相手もそれをねらっているはずです。急いで封印を解こうとするでしょう。そんな時間は与えません。今叩きます。さっきの骸骨、うまく逃げたつもりかもしれませんが、ちゃんと追跡しています」

 ティナーシャは右の手の甲を上に向けて腕を上げた。手甲についている水晶が、中に炎を閉じ込めているかのように赤黒く揺らいでいる。

 オスカーはあまりのことに絶句した。目の前の女を睨みつける。

「お前、最初からそのつもりでその装備なのか……。調査だけで戻る気などなかったな」

「勿論」

 魔女はしれっと答えた。闇色の瞳には何の感情も見られない。 平然としている彼女の腕をオスカーは掴んだ。

「俺も行く」

「またか!」

 心底呆れたというように、彼女は渋面を作った。宙に軽く浮かび、オスカーより少し高い位置から彼を見下ろす。 自然と彼もまた掴んでいる腕を上げることになった。

「貴方は何でもできますし、自分でやろうという姿勢は評価できます。でも王になるというなら、もう少し周りを使うことを覚えなさい」


 彼女はまるで母親のように、空いている手でオスカーの頬を撫でる。

 彼はその手に目を細めたが、視線も、掴んでいる手も離さなかった。

「それは分かっているし、気をつける。でも今は駄目だ。俺はお前を手足として使う気はない」

「そのつもりで塔から連れて来たんじゃないんですか?」

「違う」

「レグならいかせてくれましたよ?」

「知るか」

「本当に貴方は譲りませんね……」

 ティナーシャは少しだけいつもの、城にいるときと同じ表情を見せた。長く艶やかな髪が魔力を帯びて風もないのに揺らめく。黒曜石のような闇色の瞳がゆっくりと瞬いた。

 そこに浮かぶものは過去の風景か、それとも年月の厚みそのものか。魔女は穏かな微笑を口元に浮かべた。

「貴方が私の契約者で、私が貴方の守護者である限り、私は、何処へ行っても、何をしても必ず貴方のところに戻ります。そして貴方より先には死なない。絶対です」


 彼女の目をオスカーはじっと見返す。

 底の無い深淵を覗き込むような思いがした。

 どれだけの年月の差がそこにあるというのだろう。

 とても見通せない。

 今は届かない。

 ただ届かないということが分かるだけだ。



 彼は溜息を飲み込むと、掴んでいた手をそっと離した。

「分かった。行って来い」

 ティナーシャは正答を出した生徒に向けるように、柔らかく微笑む。彼女が左手を上げると肩の上のドラゴンが一声あげて飛び上がり、小屋三軒分程もある大きな姿に変体した。

「もうちょっと信用して頂きたいですね。これでも私、無敗ですよ」

 浮かび上がる魔女を見上げて、オスカーは笑う。

「じゃあ最初の敗北を俺が味わわせてやろう」

「……それについては対策を検討中なので少々お待ちください……」


 ドラゴンは首を差し伸べて主人を背に乗せた。一枚の絵のようなその様を見上げて、皆は感嘆の溜息をもらす。

 魔女に対する畏怖と、ティナーシャ個人への好感が彼らの中で複雑に入り混じった。眩しそうに彼女を見上げたメレディナは、何故か胸が熱くなるのを感じる。

 ドラゴンは少し高度を落として、一度一同の眼前に留まった。燃えるような大きな左目が彼らを凝視する。装備を確認しているティナーシャにオスカーは声をかけた。

「ティナーシャ、お前が戻ってきたら……」

「来たら?」

「結婚でもするか」

「しないよ!! いかにも死にそうなことを言うな!」

 毎回のやりとりに二人は声を上げて笑う。

 魔女が軽く頭を叩くとドラゴンは砂煙をあげて飛び上がり、魔法湖に向かってあっという間に霧の中に消え去っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る