第4話 夜の透明



 天気のよい夏の日の午後、ファルサス城の尖塔の上には一人の少女が浮いていた。

 正確に言えば彼女は少女ではない。三百年以上続く「魔女の時代」を代表する一人「青き月の魔女」ティナーシャである。

 その二つ名は、かつてまだ彼女が塔に住んでいなかった頃、月の冴え冴えとした夜に限って現れていたからという説もあるが、定かではない。

 ティナーシャは風に乱れる髪を押さえて、帰ってきた使い魔からの報告を受けていた。

 その調査は彼女が魔女になって以来かかさず続けているものだが、芳しい報告が帰ってきたことは一度もない。求める報告を自身が望んでいるのかいないのか、長い時の中でもう彼女にもよく分からなくなっていた。

 魔女は強い日差しに目を細めて地平の彼方を見やる。 遥か遠くに彼女の塔が小さく見える気がした。

「またお願い」

 首を撫でてやると、灰色の猫の姿をした使い魔は心地よさげに喉を鳴らす。

 もうずっと無駄なことをしているのかもしれない。きっとそうだろう。 魔女は自嘲の色も濃く微笑む。

 けれど、それでも彼女は世界に使い魔を放つ。

 とうに死んでいるであろう一人の男を捜して。




 ※ ※ ※ ※




 熱気にうだる訓練場で、アルスは若い兵士たちに稽古をつけていた。

 祝祭の一週間後で気が抜けているのか暑さのせいか、いまいち皆に締りが無い。一旦休憩を取らせるべきか説教をすべきか迷っていた時、アルスは城の方から誰かが歩いてくるのに気づいた。

 近づいてくるその人物が誰だか分かって、彼は意表をつかれる。

「ティナーシャ嬢、殿下の使いか何かか?」

「何故私が」

 彼女は長い髪をまとめあげて、いつもと違い木綿で出来た動きやすい軽装の上下を着ていた。むき出しになっている膝から下が異様に白くて、アルスは日焼けは大丈夫だろうかと心配になる。

「ちょっと日頃の生活に鬱憤がたまっていまして……。体を動かしたいんで、差し支えなければ私にも稽古をつけてくださいな」

 両手を組んで伸びをする彼女に、アルスは可笑しそうに笑った。

「また殿下にいじめられたとか」

「あの性格は誰に似たんですかね」

 忌々しい、といった身振りで彼女は首を振ってみせる。


 彼女がオスカーのお気に入りで、ことあるごとにからかわれているのは、一部の人間の間では既に有名になっていた。

 ある者は微笑ましく、ある者は気の毒そうにその様子を見守っていたが、クムなどは折角城に精霊術士が入ってきたのに、オスカーがその力を失わせてしまわないかと気をもんでいるらしい。

 ほっそりした彼女の立ち姿に、周りの兵士たちが気を取られているのが分かってアルスは苦笑した。

「ちょうど休憩にするつもりだったから、俺が稽古つけよう」

「感謝します」

 彼が兵士たちに休憩を言い渡すと、兵の半数は詰め所に戻ったが残りの半数は見物に残った。ティナーシャはその中の一人から練習用の剣を借りる。

 アルスは彼女のことをよく思っていない幼馴染が非番であったことに安堵しながら、自分も練習用の刃が潰してある剣を手に取った。

「剣は初めて?」

「昔ちょっとやったことがあります」

「それは意外」

 アルスは剣を構えると、準備運動も兼ねてゆっくりとティナーシャに向かって打ち下ろし始めた。彼女はそれを一合、二合と受けていく。勘のいい滑らかな動きは、かなり腕の立つ人間のものだ。徐々に剣の速度を速めてみると、難なくついてくる。


 ―――― これはメレディナより上かもしれない。

 幼馴染の不機嫌な顔が思い浮かんで、思わずアルスは背筋が寒くなった。その性格のためか、真っ向から打ち合おうとするメレディナに対し、ティナーシャは体重差、力の差を考慮して、相手の剣を正面から受け止めず、ほんの少し方向を逸らしてかわしている。それをしながら彼女は隙なく相手の体勢がくずれる瞬間を狙っているのだ。

 これが実戦なら、ティナーシャはおそらく機を見ると同時に素早い動きで懐に剣を突きこんでくるだろう。勿論実戦なら彼も負ける気はないが、他の兵士たちを相手にするよりは遥かにてこずるに違いない。或いは、詰め所にはあまり現れない他の将軍たちなら彼女に敗北するかもしれなかった。

 アルスは自然と浮かんだ想像に空恐ろしい気分を味わう。

 そんなことに考えを巡らせている間にも、剣の速度は増していった。興味半分で集まっていた兵士たちは、若い魔法士の腕に唖然としている。


 ―――― ちょっと試してみるか……。

 アルスは不意に剣に乗せる力を増した。

 まともに受ければ手が痺れ、剣を取り落としてしまうであろうほどの力を以って、彼の剣はティナーシャに打ち下ろされる。

 彼女はしかし、右半身を前に出して体と剣とを斜めにすると、刃の上を滑らせるようにしてそれを自身の左に捌いた。

 捌きながら彼女は更に一歩踏み込んで、剣を持っていない左肘をアルスの手首に叩き込む。

 力はないが、速度に乗った的確な関節への狙いで彼は思わず剣を取り落としそうになってしまった。慌てて柄を掴みなおす間にティナーシャの剣が喉に向けて突き出される。

 向けられる切っ先を目前に、反射的にアルスは、空の左手で彼女の剣の平を外側に叩いていた。

 体重を乗せた突きを逸らされた彼女はだが、自身の勢いを留めるのではなく、そのまま上体を屈めつつ右前方に跳んで、横を薙ぐアルスの次の一撃を避ける。

 ティナーシャは更に一歩外側に跳んで距離を取ると

「今のは危なかった」

 と悪戯っぽく笑った。アルスは驚きにただ頭を振る。

「ちょっとやっていたって腕じゃないんだが……。魔法士やめてこっちにきても充分やってけると思う」

 そう言って彼は剣を下ろす。

 昔ちょっとやっていたと彼女は言ったが、おそらくただ稽古事として習っていたわけではないだろう。剣を持って実戦に立ったことがあるはずだ。彼女の動きは、確かに積み重ねた経験がその裏にあると感じさせた。

「ありがとうございます」

 ティナーシャはにっこり笑う。

 その笑顔に底知れぬものを感じて、アルスは苦笑いをした。




 ※ ※ ※ ※




「四百年前に一夜にして滅びた魔法大国トゥルダールと共に、一部の魔法はその手法が絶えてしまったわけだが、今現在確認される魔法の大半に共通することは、術者が個の認識を強く持つことが出発点であるということだ。液体の入った硝子瓶のように自身を意識することで、世界に個として相対しながらその構成を通して現象に干渉する、それが魔法の第一歩である」

 午前中の魔法概論の講義には、二十人ほどの魔法士が集まっていた。

 ティナーシャが一番後ろの列で興味深そうに講義を聴いていると、後ろの扉があいてカーヴが入ってくる。彼はティナーシャに気づくと手を上げて挨拶し、隣に座った。

「面白い?」

「結構」

 彼女は指の間で筆記具をくるくると回しながら小声で答える。

 ティナーシャにとって誰かに魔法を習うことなど、魔女になる以前まで遡らなければ記憶にない。その為ここでこうして理論を聞くだけでもなかなか新鮮だったのだ。

 彼女は前に向き直って続きに耳を傾けたが、不意に上の方で騒がしい足音が聞こえてくる。

 講義室は吹き抜けになっており、上階の廊下から室内の様子を見下ろすことが出来る。その廊下を誰かが騒ぎながら歩いてくるのだ。

 普段の城内にはあのように騒ぎながら歩いている人間はいない。何か危急事だろうか、と彼女が見ていると、やってきたのは脂ぎった壮年の男だった。彼は、後ろを歩く文官たちに何やらひっきりなしに小言を言っている。そのうるささに講師も一旦弁を止め、皆が上を見上げた。

 しかし男はそんなことには気づかず、階下の講義室に一瞥もくれないまま歩き去る。

「何ですか、あれ」

 ティナーシャの呟きにカーヴが答えようとした時、講義が再開され二人はそちらに集中し直した。

 そして彼女がその答を知るのは、結局三日後のことになったのである。



 その日の夜、ティナーシャは窓からオスカーの私室を訪れていた。 部屋に帰ってきてすぐ窓を叩かれたオスカーは呆れながら鍵を開ける。

「お前、ドアから来い」

「誰かに見られるとうるさいから嫌です」

「今更という感じもするが」

 ティナーシャは嫌そうな顔をすると部屋に入ってきた。

「今日は随分遅かったですね」

「仕事を増やすやつがやってきてたからな……。ああ、頼まれたものだ」

 オスカーはテーブルに戻ると、その上に置いてあった書類の束をティナーシャに差し出した。それらは彼女が閲覧を希望していたもので、先日殺害されたテミスの手がけていた研究の詳細な内容である。発表されたものから極秘の未発表情報まで、全てが大量の書類の中に記されていた。

「ありがとうございます」

 ティナーシャは礼を言って紙の束を受け取ると、ぱらぱらとめくり始める。

「例の不審な男はまったく見つからないそうだ。城にまで侵入されていたとはな」

「その人がフューラに毒薬を差し入れたと思っていいでしょうね。城にも結界を張りましょうか?」

 彼女は書類から目を離さないまま答えた。

 オスカーは寝台の横に置かれた水差しから陶器の杯に水を注ぐと口をつける。しかし、すぐに口を離して不審そうにそれを見つめた。

「何だこれ、変に甘い」

「え」

 ティナーシャは書類をテーブルに戻すと、オスカーのところまでいって 一緒に杯の水を覗き込んだ。

「砂糖水ですか?」

「そんなはずはないが……」

 嫌な間を一拍置いて、ティナーシャは引きつった顔で契約者を見上げる。

「飲んだ?」

「……一口な。でも別に異常は……」

 そこまで言って、彼は急に言葉を切ると、まじまじとティナーシャを見つめた。全身を注視する視線に、ティナーシャは怯んで一歩後ずさる。

「な、何。何ですか」

「いや……」

 オスカーは口元を押さえて少し考えると、テーブルの上を指差した。

「お前あれ持ってっていいから、今日はもう帰れ」

「え」

 彼はそういうと横を向いてしまった。 明らかに不自然なその態度に、彼女はむしろ詰め寄る。

「何故? ちょっとおかしいですよ。こっち向いて訳を話しなさい」

 魔女はふわりと浮かび上がると、オスカーの肩を掴んでゆさぶった。

「何を飲んだ? 吐け」

「いいから帰れ」

「首絞めますよ?」

 魔女は横を向いたままの彼の顔を両手で自分の方に向ける。

 一瞬の沈黙。

 ティナーシャは、彼の青い瞳に覗き込む自分の顔が映るような錯覚を覚えた。

 無意識にそれを確かめようと目を凝らす彼女の体を、オスカーは軽く抱き寄せると唇に口付ける。

 言葉が消えたひととき、魔女は平然と顔を離すと、緩やかにまばたきした。

「何? 冗談?」

 オスカーが手を離すと彼女の体はするっと床に降り立つ。その頭を軽く叩きながらオスカーは顔を顰めた。

「何か盛られた。多分媚薬の類だ」



 ティナーシャは唖然として言葉を失ったが、我に返ると声を荒げた。

「私じゃないですよ!」

「それだったら意外性のある展開で面白いんだが。残念だな」

「全く面白くない!」

 寝台に腰掛けたオスカーを見ながら、ティナーシャは素早く対策を思案した。

 ただの媚薬なら彼の言う通りこのまま帰ってもいいだろうが、万が一違う効果も伴った魔法薬であった場合、ここで対処しないことが後で致命的な結果をもたらすかもしれない。

 とりあえず構成を解析するしかない、そう考えた時ティナーシャは腕を不意に掴まれて寝台に引き倒された。

「おーい、落ち着けー」

「だから帰れと言ったのに」

 オスカーはいつものからかう調子ではなく、痛みを堪えるように顔を顰めている。

 初めて見る彼の表情に、ティナーシャは冷や汗が出る思いがした。彼女は自分を組み敷いている男の下から逃れようと体をよじったが体格差の違いからどうにもならない。

 一度吹っ飛ばして気絶させようか、そんな乱暴なことを真剣に考える彼女に、オスカーは真面目な顔で顔を寄せると右の耳朶に口付けた。

「今ふと気づいてしまったんだが……」

「何ですか」

 魔女は白い目でオスカーを見返す。

「別にここで我慢しなくても俺には支障があまりない」

「あるよ! 私にある! 天井まで吹っ飛ばしますよ!」

 彼はそれには答えなかった。 整った顔が近づいてくる。

 ティナーシャは小さく溜息をついて目を閉じると、すぐ傍にきたオスカーの額に自分の額を触れさせた。

 触れた部分から魔力を注ぐ。閉じた目の中に、彼に侵入している魔法の術式が紋様となって浮かび上がった。

 円環が三つ。強力だが、単純な構成。

 彼女が力を込めて意識した瞬間、それらは跡形もなく砕け散った。



 男の体の下から解放されると、ティナーシャは問題の水差しを手に取った。

「だから守護は毒にはきかないって言ったじゃないですか!  気をつけてください。これからは私が先に口をつけますよ」

「お前に媚薬が効いても俺は止めんぞ」

「私に魔法薬は効かないんですよ!」

 魔女は血圧を上げて怒ると、少し冷静になって首を傾げる。

「それにしてもまったく意図が分からないんですが……。本当にただの媚薬でしたよ」

「俺には一人心当たりがある。証拠がないが」

 オスカーは彼にしては珍しいことに、嫌悪の表情も露に寝台の上に足を組んで座っていた。

「じゃあ証拠を掴みましょうか」

 ティナーシャは口の中で短く呪文を詠唱すると、水差しに残る媚薬に構成を注ぎ込む。その構成に反応して、空中にうっすらと糸状のもので描かれた立体が浮かび上がった。

 三つの円環で構成されたそれに、ティナーシャは更に詠唱を少し加える。

「何をするんだ?」

「これの製作者を割り出します」

「そんなことが出来るのか」

「出来ないと思ってるでしょうね。これを仕込んできた人間は。かなり昔に途絶えた術なので、おそらく今これをできるのは世界でもう私だけです」

 ティナーシャが少し詠唱を加えるたびに、立体は少しずつ形を変えてくるくると回った。

「私にとって未知の術者なら分かりませんが、知っている人間の中にいるなら、誰が作ったか分かりますよ。ほら……って……」

 答が分かったティナーシャは、一層憮然として回る立体を眺めた。




 ※ ※ ※ ※




 翌日、オスカーは執務室で書類を整理していた。 ティナーシャがお茶を淹れて持ってきたのを礼を言って受け取る。

 と、その時入り口の扉が叩かれる音がした。呼び出していた人間が来たのだ。

「入れ」

 その言葉を受けておずおずと入ってきたのは、魔法薬が専門であるカーヴだった。

「お呼びとのことで参上致しました」

 頭を下げるカーヴに、オスカーは硝子の杯に入った水を差し出す。

「これに覚えがあるだろう? 飲むなよ」

 カーヴは歩み出てそれを受け取り、まじまじと眺めて匂いをかいだ。きょとんとした顔から、音を立てて血の気が引いていくのをティナーシャは面白そうに眺める。

「何故殿下がこれを……」

「誰かが俺の部屋の水差しにいれたようだ」

「え……え!?」

 動転した魔法士が代わる代わるオスカーとティナーシャを見るのを オスカーは無表情で、ティナーシャは眉を顰めて頷いた。

 カーヴはその意味に気づくと、ティナーシャに向かって激しく頭を下げる。

「申し訳ありません!! まさかそんなことに使われるとは!  ティナーシャさんにはどう謝っていいのか……」

「いや、そこまで謝らなくてもいいですけど」

「でもこれ、一番強力なやつですよ!  少しでも飲んだ瞬間理性は微塵も残らないはずです」

 真っ青な顔をしているカーヴの言葉に、ティナーシャは目を丸くするとオスカーに向って拍手した。

「すごい! えらい!」

「もっと誉めとけ」

 オスカーは無邪気に手を叩く魔女の姿を可愛らしく思いつつも、カーヴに向き直る。

「で、誰に頼まれて作った?」

 魔法士は少しだけ逡巡すると、苦い声を絞り出した。

「パスヴァール公爵です。殿下の叔父君です……」

 オスカーは予想していた通りの答に、頭痛を覚えた。




 ※ ※ ※ ※



 現国王ケヴィンは三人兄弟の長男である。彼には弟と妹が一人ずついたがどちらも既に他界していた。

 宰相をしていた弟は先月病死し、元々体の弱かった末の妹は嫁いで数年後に亡くなっている。彼女は、かつてファルサスを震撼させた連続失踪事件で自分の子供がいなくなり、その心労で急激に衰弱してしまったのだ。

 彼女の夫であったパスヴァール公爵は有名な俗物で、妻の死後はその財産で城都から離れたコラスの地に館を建てていた。そこで人目も憚る自堕落な生活を送っていたそうなのだが、つい先日の祝祭後から、何故か城都内の屋敷に戻ってきている。呼ばれもしないのに来て重臣たちに小言を言い、オスカーに嫌味を言って仕事を増やす彼の様子に、皆は陰口を叩きつつも表面上は姻戚の一人として丁重に扱っていた。



 その夜パスヴァールは屋敷に戻ると、酒瓶を片手に寝室で部下からの報告を受けていた。

「例の薬は効いたかどうか分からんのか?」

「仕込みは完璧ですが、何分そこまでは……」

「まぁいい、結果をゆっくり待つさ」

 部下を下がらせると、彼は濃い琥珀色の酒を銀杯に注ぐ。既に酔いが回っている頭で楽しげに呟いた。

「あの生意気な小僧が、精霊術士を傍に置いてるとはな。今頃自分で台無しにして青い顔してるかもしれん。あの話が本当で、女が死にでもしたら更にいいな」

「あの話ってどんな話ですか?」

 背後から突然掛けられた女の声に、パスヴァールはぎょっとして振り返った。大きな窓の外、闇の中に冴え冴えと青い月が浮かび上がっている。

 その冷たい光の下、一人の少女がいつの間にか部屋の中に立っていた。彼女は白すぎて人形にも見える美貌に、酷薄な笑みを浮かべている。

「私にも聞かせていただきたいです」

 パスヴァールは、本能的な恐怖に自分の声がうわずるのが分かった。

「お前は誰だ! 何処から入ってきた!」

 少女はふわりと浮かび上がると、空中を滑り彼の眼前まで近づく。

 長い黒髪が生命があるかのように揺らめいた。深い闇色の目がパスヴァールを覗き込み、花弁の如き唇が微笑む。

「お初にお目にかかります。わたくし、魔女ティナーシャと申します。人は私を『青き月の魔女』と呼びますが……。ああ、窓から入るなとよく貴方の甥に怒られてますよ。失礼しました」

 男は腰が抜けてソファに沈み込んでしまった。 恐怖に舌が上手く回らない。喘ぐように口を開け呟いた。

「ま、魔女……?」

「普通の精霊術士じゃなくて残念でしたね」

 その言葉に、パスヴァールはようやく、自分がはめようとした件の精霊術士が彼女であり、そして実はただの魔法士などという可愛いものではないこと知った。

「何故魔女が……」

「あの話って何です?」

 ティナーシャは一見優しげに問うたが、魔女の怖さは外見では計れないということは大陸に住む誰もが知っていることである。

 パスヴァールは息も絶え絶えに答えた。

「あいつには魔女の呪いが掛けられている……。あいつと関係した女はやがて死ぬという話だ……」

「関係しただけで死んでたら、とっくに死人が出てると思うが」

 若い男の呆れたような声が部屋に響く。

 パスヴァールが振り返ると、いつの間にか壁際に彼の義理の甥が立っていた。

「お、お前いつの間に!」

 オスカーは腕を組んで壁に寄りかかったまま、パスヴァールを無視して魔女に声を掛ける。

「ほら、窓から入ると驚かれるじゃないか」

「便利でいいじゃないですか」



 ティナーシャは床に投げ出された部下からの報告書を拾い上げた。

 そこにはファルサスの人事や内政、外交についての調査が書かれていたが、 特に秘密にされているようなものは見当たらない。

「で、叔父上。その話は誰から?」

「お前、薬は効かなかったのか!?」

「効いたというか、効かなかったというか……。正直ちょっと惜しいことをしたかもと思っている」

「吹っ飛ばされ損ねたのがですか?」

 オスカーの戯言に魔女は冷たく切り返した。 彼女は浮かんだままソファにうずくまる男に近づくと、その白い指をパスヴァールの首筋に這わせる。

「誰に聞いたんです? 教えてくれれば帰りますよ」

 パスヴァールは必死でその手を振り払うと叫んだ。

「知らない! 名前も聞いていない! 何処かの魔法士だ!」

 頭を抱えて小さくなってしまった男を見て、二人は顔を見合わせた。

「例のやつだと思うか?」

「可能性は高いですが……」

 パスヴァールの頭上を越えて空中を滑ると、魔女はオスカーの傍に音もなく下り立つ。

「どうも先手を打たれがちですね」

「何がしたいのかよく分からんな」


 左手を顎にかけて考え込みながら、彼は反対側の手で魔女の髪を梳いた。魔女は撫でられる猫のように目を細める。その様子を背もたれに隠れて見ていた男は、自棄になったのか叫んだ。

「魔女が来てるということは、呪いの話は本当なんだろう! いい気味だ! お前も、お前の親父の血もここで終わりだ! 早く死ね!」

 ティナーシャが冷ややかな目で腕を上げて構成を編みかける。しかしオスカーはそれを手で制した。

「だとしても叔父上に心配して頂くことは何もない。安心してコラスの館にお戻りになるといい」

 彼はそう言い捨てると、入ってきた露台に向かって歩き始めた。その背中に更に罵倒が浴びせられる。

「お前が死んだらこの国は俺のものだ! 今まで馬鹿にしやがって!」

 オスカーはしかし、まったく聞こえていないかのように振り返らない。気が触れたかの如く高笑いを始めたパスヴァールを、その場に残っていた魔女は侮蔑の目で見下ろした。彼女は男の傍に歩み寄り、ふっと囁く。

「あの人の血は絶えませんよ。何のために私が来ていると思ってるんです」

 パスヴァールは、高笑いをやめると愕然とした表情で魔女を見上げる。彼女は月の光を受けて妖艶に微笑んだ。

「あの人の血は絶えない。そして……『あなたは二度とこの街に入ることが出来ない』……決して」

 男は今度こそ糸が切れたかのように、ぐったりと椅子に沈み込んだ。顔を上げる気力もないらしく、ただ小さく震えている。

 ティナーシャはそれを氷のような視線で見やると、露台で待っているオスカーの元へ戻った。

「何をしたんだ?」

「呪いっていうのはああやってかけるんですよ」

 魔女は目を閉じたまま微笑んだ。

 人の運命を左右する力のある者の、自信に満ちた微笑だった。



 魔法で闇夜の上空を移動しながら、ティナーシャは深い溜息をついた。横ではオスカーが珍しい景色に感心しながら街を見下ろしている。

「すごい親戚ですね」

「血の繋がりはないのが幸いだ」

 彼は腕組みをしたまま苦笑した。魔女はそんな彼の青い瞳を見上げる。

「何かちょっと貴方に同情しちゃいましたよ……。呪いのことは絶対なんとかしてあげますからね」

 眼下に城の光が見え始める。

 先ほどの屋敷にいた時とは違って、少女のように透き通った目で自分を見上げている魔女の頭をオスカーは愛おしげに撫でた。

「何だ、俺に嫁ぐ気になったか?」

「別の手段だよ!」

 いつも通りの魔女の反応に、オスカーは声を上げて笑う。先ほどまでの淀んだ気分の残滓は、最早どこにも残っていなかった。


 翌日の早朝、パスヴァールは取るものも取らず、逃げるように城都を出て行ったらしい。

 そして彼はコラスの自分の館に引きこもり、終生そこから出ようとはしなかった。

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