第2話 繰り返し触れられる過去

 

ファルサス城の外周にある兵士の詰め所前には、大きな屋敷二、三軒分ほどの広場がある。

 そこは兵士たちが体力作りや剣の修練を行う為の場所で、平時には自主的な個人訓練、或いは集団での打ち合いがよく行われていた。


 今は中央で先ほどから模擬試合が行われている。一対一の試合を少し離れたところから他の兵士たちが見物するために囲んでいた。

 その様子をまた、城の外壁にある回廊から眺めている者がいる。

 石塀にもたれかかって気だるげに試合を見下ろしているのは、 先日城に入った魔法士の少女、ということになっている「青き月の魔女」ティナーシャであった。

 かつて彼女が入城した時は、そのまま魔女としての入城であったが今回はそのことを伏せている。彼女自身がどうであろうと、一般的に魔女は忌避される存在なのだ。三百年ほど前にはその怒りを買って、夜にして滅びた小国もあるとすれば人々の畏怖は無理もないことであった。

 正体を伏せたままにしておくことを提案したのはティナーシャだったが、オスカーもそれに賛同し、現在の彼女の身分は見習い魔法士となっている。

 穏やかな風で乱れる髪を梳くその指には、ただの魔法士として他の魔法士の目をやりすごすために魔力を制御する指輪がいくつかはめられていた。同様に両耳朶にも魔法の紋様が入った封飾をつけている。


 瞬間、強い風が吹き、砂埃が黒い瞳に入った。

 涙目になりながらティナーシャが目をこすっていると、背後から声が掛けられる。

「こんなところにいらしたんですか」

 異物感の残る目で振り返ると、そこにはラザルが本を抱えて立っていた。 ティナーシャは微笑んで挨拶する。

「こんにちは。ちょっと散歩をしてまして……」

「ああ、訓練場が見えるんですね」

 ラザルは彼女の横に立つと、自分も下を見下ろした。

「あの人、ずっと勝ち抜いてるんですけどかなり強いですね」

 試合中の、右手側にいる赤髪の剣士を彼女が指差す。 ラザルはそれを見て、ああ、と得心した声をあげた。

「アルス将軍ですね。若い方ですが、将軍の中では一番の腕です。先月も武装強盗の一団を小隊を率いて殲滅してこられましたよ」

 説明に応えるかのように、アルスの右手が跳ね上がると、対戦していた兵士の剣が空を飛んだ。やけに細いその兵士は、痛そうに手首を押さえて何か言っている。

「負けちゃいましたけど、あの人もなかなか……普通の兵士なんですか?」

「彼女はメレディナと言って、アルス将軍の部下にあたります。もうすぐ自分の部隊を持つようになるんじゃないですかね」

 女性だというその兵士を、ティナーシャはよく見ようと目を凝らしたが、遠くて鮮やかな金髪をしているということ以外分からなかった。


 ファルサスは性別による職業の制限が少なく、実力と希望さえあれば、ほとんどの職業につくことができる。だからティナーシャも女性と聞いてさほど驚かなかったのだが、その中にあっても、女でしかも腕の立つ兵士は非常に珍しい。

「彼女はちょっときついところもありますが、いい女性ですよ」

 ラザルはそういって、自分が一番人がいいことに気づいていない笑顔を見せた。ティナーシャもつられて微笑む。

「でも模擬試合を見ていて面白いですか?  魔法士の方はあまりこういうことに興味を持たないと思っていましたが」

「昔、剣をやっていたことがあるんです。時間が余っていたので……」

 ラザルは意外そうに彼女の華奢な体を一瞥した。

「実は強い……とか?」

 その疑問に彼女は苦笑した。

「力があまりないですし、そこそこにしかなりませんでした。そうですね……さっきの彼女には勝てるでしょうね。でもあの将軍はうーん……無理かな。負けそうですね」

 さらりとした彼女の言葉が本気なのか冗談なのか、ラザルは掴みかねたらしい。結局それ以上は何も言わなかった。



 訓練場ではアルスがまた違う兵士を相手取っている。 怖気づいたのか、腰が引けている兵士に周りから囃す声がかけられていた。

 ラザルは崩れそうになった腕の中の本を持ち直す。

「でも殿下はアルス将軍よりお強いですよ」

「え」

 何気なく言ったその言葉に、愕然としたような返事が返ってきたので、彼はむしろ自分が驚いて彼女の方を見返した。

「何でそんな驚かれるんですか。国で殿下より強い方はいませんよ。あの方はこないだも塔で……あれ?」

 魔女の塔で何かあったことは確かなのだが、いざ思い出そうとすると具体的なことはさっぱり思い出せない。ラザルはしきりに首を捻った。

 一方、ティナーシャは強張った表情で頭を抱えている。

「あの将軍より強いんですか……うーん……本当に?」

「本当ですよ。才能も勿論あるんでしょうが、あの方はああ見えて努力家なんです。昔から何でも学ばれてましたし、吸収も早かったですね」

「うわぁ……」

「だから何でそんな反応なんですか」

「いえ何でも……」

 嫌そうな表情をしていた彼女は、眉に皺をよせて腕組みをした。

「ちょっと久しぶりに剣の修行をしたくなりましたよ」

「何で……」

 彼女は黙ってうんうんと頷いている。

 その不可思議な反応にラザルは怪しいものを感じながらも離れの書庫に行くためにその場を後にした。



 昼が徐々に長くなり気温も高くなりつつある日、オスカーは分厚い報告書を手に廊下を歩いていた。

 ファルサスは一年中温暖な気候の国であるが、それでも一年に二ヶ月ずつほど、比較的暑くなる夏と、少し肌寒くなる冬がある。今はその夏の初めで、ファルサスは大陸の大多数の人々に信仰されているアイテア神に纏わる祝祭を間近に控えていた。

 報告書類の一枚目を流し読みながら歩いていた彼は、廊下の先から黒髪の少女がやってくるのに気づいて顔を上げる。

「ティナーシャ!」

 呼ばれた彼女は手をひらひらと振ってみせると彼の隣りまで小走りに寄って来た。

「お久しぶりですね」

「一週間ぶりくらいか。城はどうだ? いじめられてないか?」

 オスカーは小柄な彼女の頭を、子供にするようにぽんぽんと叩いた。その大きな手の下からティナーシャは呆れた顔でオスカーを見上げる。

「子供じゃないんですから。よくしてもらってますよ。多少の異質視はされますけどね」

「塔出身なのは明らかにしてるからか。困ったことがあったら言えよ」

「問題無しです」

 ティナーシャは、特に目的地がなかったのかオスカーと並ぶともと来た方に歩き始めた。

「それはお仕事ですか?」

「ああ、外交関係と祝祭の警備配置とかだな。纏まってなくて困る」

 彼は分厚い書類を指ではじくと苦笑した。横では魔女が肩をすくめている。

「王子ってそんなことまでやるんですか。もっと宮中でだらだらしてるものかと」

「お前も結構失礼なこと平気で言うな。……先月、ずっと宰相を務めていた叔父が亡くなってな。一時的に人手不足なんだ。いずれやる仕事だし、構わんさ」

「意外と勤勉だ!」

「お前な……」


 そんなくだらない会話をしていると、いつの間にかオスカーの私室の前まで来ていた。

 彼は、ティナーシャがここで去っていくのかと思っていたので「入っていいですか?」とついてきたことを意外に思った。

「素朴な疑問なんですが、貴方以外に王家の血を継いでる人っていないんですか。姻戚がいくつかあったと思うんですが」

 ティナーシャは壁際に置かれた長椅子に浅く腰掛けながら尋ねる。

 問われたオスカーは、テーブル上の水差しを取って陶器の杯に水を注ぎ、苦笑しながらそれに口をつけた。

「姻戚はいるが、子供がいないんだ。俺が四、五歳の時に国のあちこちで子供が忽然と消える事件が続発したらしい。最終的にはいなくなったのは数十人に及ぶんだが、その時に従弟も何人か行方不明になったそうだ。結果、俺より若い王家筋は今いない」

 ティナーシャを見ると彼女はさすがに驚いたらしい。 座ったばかりなのに跳ねるように立ち上がって、彼の方に歩いてきた。

「それ、原因は分かったんですか?」

「いや謎のままだ」

「『沈黙の魔女』が来たのはその前後?」

「母が病気で死んだ後だから……確か、その事件が収まった後だったらしいな」

 オスカーは公表されていない記録と幼い自分の記憶を付き合わせようとする。

 その時、頭に刺すような痛みが走った。


 月に

 魔女の姿

 呪い

 声

 鋭い爪

 引き裂かれた

 血まみれの


 映像にならない映像、言葉にならない断片が瞬間閃く。

 だがそれらはまるで始めから何もなかったかのようにすぐに消え失せた。

 彼は刺さったままの棘に似た異物感を頭を振って払い落とす。

「どうかしました?」

「いや……平気だ」

「疲れてるんですよ。寝てない顔してるし」

 ティナーシャは心配そうに手を伸ばすと、オスカーの頬にふれた。

「三時間は寝たぞ」

「それは寝たと言わない」

 彼女は呆れ顔で溜息をつくと、両手でオスカーをぐいぐいと寝台に向かって押し始めた。

 細い腕と軽い体重で本来長身のオスカーが動くはずもないのだが、魔力を干渉させてるのか、彼は床の上を滑るように押し出されていく。結局最後には、寝台に腰掛ける羽目になった。

「おい、俺はまだこの書類を整理しないといけないんだが」

 困惑して魔女を見上げると、彼女は含み笑いをしている。

「ちょっと寝た方が意外と早く終わったりするものですよ」

「いや……」

「ほら、眠くなる」

 ティナーシャの白い指が額をつつく。

 何かされた、と思いながらもオスカーはその瞬間深い眠りに落ちていた。



 目が覚めた時、部屋には彼一人だった。

 時計を見るとせいぜい一時間ほどしか寝ていなかったようだが、心身ともに不思議なほどすっきりしている。

 ふとテーブルの上を見ると、先ほど持っていた書類が束のまま置かれていた。

 立ち上がってそれを手に取ると、順番が整理されているらしく変わっており、また一番上の新しい紙に女の字で目を通すべき箇所と、その他の要点が綺麗にまとめられていた。

「掴めない女だな」

 オスカーはざっと目を通して苦笑すると、書類を手に部屋を出ていった。




             ※ ※ ※ ※




「ティナーシャさん、ちょうどよかった。もうすぐ図書室で祝祭時の役割分担と説明が始まりますよ」

 集団で歩いていた魔法士の一人が、吹き抜けの下の階から、階上を歩く少女を見つけて呼び止める。

 ティナーシャはそれに気づいて軽くお辞儀をした。

「ありがとうございます。今行きます」

 祝祭まであと三週間。彼女は階段を小走りで下りると、魔法士の列に加わった。

 そして見習い魔法士の一人として、ある仕事を請負うことになったのである。



「それで何の役割をもらったんだって?」

「えーと、照明係ですね」

 オスカーの問いにティナーシャは天井に逆さに浮いたまま答えた。

 魔力を封印するための装飾品はそのままだが、この状態でも彼女は普通の魔法士を遥かに凌駕できる。人前では猫をかぶってほとんどその力を見せていない彼女だが、今はオスカーの私室にいるため、息抜きをするように空中を移動していた。

「照明係って何をするんだ」

 祝祭の警備書類に目を通しながらオスカーが問う。

 警備は兵士たちが交代で行うようになっており、要人、要所警備と、見回りの三種類がある。祝祭時は城の外周まで民衆が入ってくるため、城への潜入や暗殺その他の対策で厳重な警戒が行われることになっていた。

 それらを纏めた報告書は将軍を経て、普段なら宰相が確認することになっている。だが今は宰相位が空席であるため、オスカーが最終確認をしていた。


「照明係は、城のお濠に魔法で作った光源をいくつかいれて、水中から光を取るみたいですね。実際やると綺麗なんじゃないですか」

「ああ、あれは魔法でやってたのか。ランプでも沈めてるのかと思った」

「魔法でやる方が手軽ですよ」

 音もなくオスカーの眼前に降りてくると、ティナーシャは隣の椅子に腰掛けた。

「ただ術者は自分の力が届く範囲内にいないと維持できませんけど。普通ですとせいぜい店二、三軒分くらいですかね」

「お前ならどれくらい離れてても持つんだ?」

「えへへー。城都の何処行っても持ちますよ。封飾してても。お祭り見に行っちゃいますね!」

 嬉しそうににこにこしている魔女を一瞥して、オスカーは無性に意地悪をしてやりたくなった。

「よし、今から魔法士長にかけあって、もっと面倒な仕事に回してやる」

 腰を浮かして、ドアに向かおうとする。

「やーめーてー! 泣きますよ」

 ティナーシャは必死で前を通ろうとする彼の服を引っ張り、押し戻して元の椅子に座らせた。

「大体、新参は信用されてませんからね。そんな重要な仕事回ってきません」

「まぁそうだろうな。冗談だ」

 ティナーシャはその言葉に頬をふくらませたが、彼は無視すると、書類に署名をして一枚めくった。

「随分楽しみにしているようだが、前に祭りにきたことはないのか?」

「初めてです」

 壁にかかっている燭台に向かって、魔女は手を振って蝋燭に火をつけたり、消したりする遊びをし始めた。

 その度に部屋の明かりが揺らぎ、壁に光の波が生まれる。

「前にファルサスで暮らした時は確か祝祭の直後に来たんですよね。惜しいことしたなーって思ったんでよく覚えてます」

「遊びにくればよかったじゃないか」

「レグが死ぬまではファルサスに立ち入らないって約束してたんです」

 ティナーシャは苦笑すると再び、天井近くまで浮かび上がった。 白いドレスがカーテンのように空気を孕む。

 オスカーは書類から顔を上げて、彼女を見上げた。

「彼の死の話を聞く気にもなれなかったし、それからは祝祭のことも忘れてました」

 彼女は、まるで少女のように微笑んだが、その表情からは何の感情も読み取れなかった。



「それで何の用で来たんだ?  俺の部屋に幽霊が出るという噂でも広めに来たのか」

 オスカーは空中をくるくる回っている魔女を呆れて眺めた。

 そもそも彼女は「用件がある」と言って、夜分窓から入ってきたのだ。彼の部屋の中を外から見ることができる場所など城内には存在しないが、もしそれが出来る人間がいたなら、白い服を着た女がふわふわと空中を動いていて、さぞ怖い思いをすることになっただろう。

「ああ、どうでもいいことなので本題を忘れてました。貴方の守護の話なんですが……」

「俺の守護はどうでもいいのか!」

「貴方、充分強いじゃないですか……」

 心底嫌そうな顔で、彼女は返した。

「まぁ契約ですし、ちゃんとやりますよ。ただ私、当日はお祭りを見に行くのに忙しいので、防御用の魔法をあらかじめかけさせてくださいね」

「それはさぼってるというんだ」

 ペンの背でこめかみを押しながら、彼は苦い顔で書類を更にめくった。それで全ての書類を見終わったので、テーブルの上で軽くそろえる。

「分かった。で、どうすればいいんだ」

 溜息をつく彼とは対照的に、魔女は嬉しそうに彼の前に下りてきた。

「もう術は組んできてあります。ちょっと複雑ですからね」

 そう言うとティナーシャは白い両手を指を交差させて組み、両手の平を彼の眼前に向ける。

 かざされた手と、オスカーの顔の間の空中に、うっすらと赤く細い線で出来た円が五つ浮かび上がった。それはたちまちほどけながら複雑に絡み合い、レースのように編まれた巨大な魔法の紋様となる。

 オスカーはあまりの光景に驚嘆の声をあげかけるのをかろうじて堪えた。


「契約の永久なるかな。三つの時と二つの世で定義せよ……」

 詠唱の声が謳うように彼女の口からこぼれる。

 魔法士は簡単な魔法に詠唱を必要としない。

 現に彼女は普通の魔法士なら詠唱を必要とするようなことでも、ただ意識する、あるいは手をかざすだけで行ってきており、オスカーが彼女の詠唱の声を聞くのはこれが初めてであった。その彼女が今回、長い詠唱を必要としているということ自体、これから掛けられる魔法の強力さを物語っている。

「破るべき言葉を根源から消去し 形成される雨はその意味を喪失す……環は全て環となして還る……我が則を遵守し……現出する全てとせよ」

 紋様はゆっくりと回転しながらますます複雑になっていったが、彼女の言葉と共に収束しながらオスカーの全身に吸い込まれた。

 彼は驚いて両手を裏返してみるが、紋様の名残は跡形もない。

「すごいな」

「んー、これで大丈夫です。半永久的に機能しますよ」

 ティナーシャは深い息をついて、張り詰めた呼吸を整えた。

「魔法、物理問わず外部からの攻撃は無効化されます。毒とかそういうのは駄目です。気をつけてくださいね。あと私と繋がっているので、私が死んだら効力は失われます。逆に言うと、私を殺さない限り他の人間には破れません」

「それは反則に近いだろうな」

 オスカーは感嘆の声をあげた。

 これほどの強力な守護、どんな代償を払っても得たいと思う要人は世界にかなりの数いるに違いない。

 だが彼らにこの術がかけられることはおそらく一生ないだろう。

 魔女を傍に置いている、その実感を改めて得てオスカーは戦慄する思いがした。




               ※ ※ ※ ※




 城の者がみな準備に追われているうちに祝祭の日はあっという間にやってきた。

 朝から人が街に溢れかえり、音楽があちこちから聞こえてくる。異国の人間も多く、普段から栄えているファルサスの城都は、その賑わいをさらに色濃いものとしていた。

 ファルサスの暦で五百二十六年、百八十七回目のアイテア祝祭である。


 ティナーシャは朝から街に出て露店を見て回っていたが、夕暮れ近くなると、当番のために城の濠まで戻ってきた。

 濠の間際まで露店が立ち並び人通りも多い中、彼女は濠に手をかざすと僅かな詠唱を用いて、暗い水中に等間隔で五つの光球をともす。

 水中から水面にかけて青白くゆらめく光に、通りかかった人々の歓声があがった。

 ちょうど他の担当区域の魔法士もほぼ同時に灯したらしく、城壁が夕闇の中に浮かび上がる。隣の区域に目をやると、魔法士のローブを着た人間がティナーシャに気づいて手を振りながら歩いてきた。

「どう? 綺麗に出来てるみたいだけど」

「おかげさまで。ありがとうございます。えーと」

「テミスっていうんだ。よろしく」

 男はそういうと手を差し出した。 その右腕には魔法の紋様が黒で全面に彫られている。

 彼女は微笑んで、男の手を握り返した。

「ティナーシャです。よろしくお願いします」

「しばらくはこの辺にいるから、何かあったら声かけて」

「はい」

 テミスは愛想をふりまきながら立ち去っていった。

 これでとりあえずの役目を果たしたが、当番は夜遅くまで続くのだ。 その間何をしていようかとティナーシャは思案にくれた。



「祭りはいいよな。実は酒飲みたいんだが」

「仕事中」

 雑踏の中をだらだらと歩く長身の男と、その隣りを行く姿勢のよい女は、まったく対照的な雰囲気を纏いながらも同じように無駄のない動きで人々をかわし、人ごみの中を滑るように歩いていた。

 男の腰と、女の胸元につけられている紋章はいずれもファルサス国のものであり、彼らが兵士長以上の地位にあることを示している。

 赤い髪に、幼さの残る人懐こい顔をした男は、若くしてその剣の腕で将軍にまで上り詰めたアルスであり、隣を行く、肩までの金髪を綺麗に切り揃えた美人は、女性でありながら武官として兵士小隊を指揮するようになったメレディナであった。

 彼らは民衆に必要以上の威圧感を与えないよう軽装備ではあったが、帯剣して祝祭の見回り警備を行っているのだ。

「殿下は何処だって?」

「城内。仕事なさってるわ」

 アルスは豚の塩焼きを売っている露店が気になって仕方ないらしく、通り過ぎてもちらちら振り返っている。

 だがメレディナはそれを無視して足を緩めない。

「警備は誰かついているのか?」

「必要ないと仰られた。もう少し信用して頂きたいけど……」

「殿下の方がお強いし、そう仰るなら必要ないのさ」

 男は肩をすくめると、ふと何かに気づいて手を打った。

「ああ、メレディナは自分が警備につきたかったのか」

「頭沸いてる?」

「…………」

 二人は共にファルサスで生まれ育った幼なじみといっていい間柄である。

 アルスの方が四歳年上の今年二十四歳で、彼が十八の時兵士として入城すると、メレディナも数年後、それを追うように入城した。

 一見決して仲がいいようには見えないが、二人で行動していることは多く、恋人同士であると誤解する者も少なくない。

「大分暗くなってきたわね」

 メレディナが空を仰ぐ。そこにはうっすらと星が見え始めていた。大通りを一通り歩いてきた二人は城の濠沿いまで差し掛かる。


 ざわめきを引き裂くような女の悲鳴が聞こえて来たのはその時であった。 アルスとメレディナは弾かれたように、声の元に向かって走り出す。

「子供が……子供が!」

 濠のすぐ脇、女が水面に身を乗り出して悲鳴を上げていた。アルスは女の隣に駆け寄る。

「どうした! 落ちたのか!」

 女は真っ青な顔でアルスを見ると、声にもならず、ただ頷いた。

 確認をとると彼は素早く剣をはずし、ためらいもなく濠の中に飛び込む。

 光源があるとは言え、水の中はほの暗い。アルスは目を凝らしながら底へともぐっていった。

 濠の深さは大人の身長で約四人分。流れはないが、その分見通しが悪い。

 泥が光に照らされてゆっくり蠢くだけの視界。辺りを見回しながらアルスが焦り始めた時、けれどぼんやりと光っていた光球が急にその光量を増した。光は届く範囲をあっという間に広げ、闇を浸食してまるで昼のように水中を照らす。

 突然の出来事に驚きながらも彼がきょろきょろと周囲を見ると、少し離れたところに二歳くらいの男の子が漂っていた。

 彼は意識のないその体を抱えると、水を蹴り上昇する。水上に顔を出し息をつくと、周囲から歓声があがった。

 アルスは男の子の体を待っていたメレディナに委ねる。彼が水からあがっている間に彼女は子供の体を横たえると、その呼吸と鼓動を確認した。

「大丈夫。脈はあるし、水はほとんど飲んでないみたい」

「あ、ありがとうございます!」

 母親は泣きながら二人にお礼を言うと、子供の体を抱きしめた。



「酒飲んでなくてよかったな……」

「当然でしょ」

 母子が念のため医師に付き添われて去っていった後、ずぶ濡れのアルスは服の裾を絞りながらほっとした息をもらした。

「中が結構見えなかった。ああ、そういえば……」

 アルスは声を大きくして周囲に問いかけた。

「ここの光作ってる魔法士は誰だ?」

 見物の人だかりの中から手があがる。

「私です。不注意で申し訳ありません」

 そう言って歩み出たティナーシャを見て、アルスは一瞬忘我してしまった。

「ああいや、そうじゃなくて……光強めてくれて助かった。ありがとう」

 ティナーシャは黙って頭を下げる。

 彼女の頭越しにアルスが向こうを見ると、騒ぎを気にしていたのか 隣りを担当していたローブ姿の魔法士が、紋様の彫られた手をあげて彼の視線に応えた。

 騒ぎが収まったと見て、集まった人だかりは徐々にばらけはじめる。メレディナは預かる形になっていた剣を持ち主に差し出した。

「とりあえず着替えなさいよ」

「ああ……分かった」

 兵士詰め所に向かって歩き出し、元の場所から大分離れたところでアルスはようやく声をあげた。

「びっくりしたぞ! 何あの美人。見たことないが……」

「魔女の塔にいた魔法士らしいわ。殿下が連れてきたの」

 メレディナは不吉な言葉を口に出すように表情を歪める。

「あ、ああ! 話は聞いたことあるな。なるほど道理で」

「何が道理で」

 アルスは首を振って髪についた水滴を払った。 隣りにいるメレディナは飛沫がかかるのか、迷惑そうに顔を顰めている。

「いや、殿下は女に執着しない性質だと思っていたんで、その話を聞いた時に意外に思ったが……あれなら無理もないな」

「何が無理もないのよ!」

「嫉妬は醜いぞ、メレディナ」

 メレディナは思い切り後ろからアルスの背中を殴りつけた。




 祭りの終わりも近い夜の中、ティナーシャは城の上空に漂いながら、眼下の街を眺めていた。

 様々な色の照明で溢れる街はさながら、漆黒布の張られた宝石箱のようである。

 彼女の黒いドレスはゆるやかな風をうけて形を変えながらも、持ち主の白い体をうまく夜に溶け込ませていた。

「ティナーシャ!」

 下から呼ぶ声に気づいて、彼女はゆっくりと降下する。オスカーが回廊の露台に立って彼女を見上げていた。

「目、いいですね」

 魔女は音も無く彼の隣りに降り立つ。

「お前の周りはぼんやり明るく見えるぞ」

「えぇ……」

 彼女は不思議そうに自分の服装を見回した。光物など何もつけていないのにどういうことだろう。

 しかしオスカーにとってはそれは気にするようなことではないらしい。彼は話題を転じてきた。

「仕事はもういいのか?」

「ちゃんと維持してますよ。ついでに濠に誰も落ちないように空気で壁作ってあります」

「何だそれは」

 彼女はそれには答えないで、乱れた髪を纏めて指で梳いた。 眼下に広がる夜景に目を細める。

「街がすごく綺麗ですよ。全ての光の下に人がいるなんて、嘘みたいです」

 穏やかな微笑みを見せる彼女の頭をオスカーはゆっくりと撫でた。

「塔を下りた甲斐があったか?」

「ええ」

「ならよかった」

 その言葉に何か可笑しいことでもあったのか、ティナーシャはくすくすと笑いながら、再び浮かび上がろうとする。

 と、その手を急にオスカーに掴まれて引きおろされた。

「何を……!」

 文句を言おうとしてティナーシャは、彼の肩越しに向こうからラザルが走ってくるのに気づく。

「殿下! 大変です!」

 ラザルの動転した様子を見て、二人は不思議そうにお互いの顔を見合わせた。

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