第335話 ファースト魔海ダイビング。俺が彼女の命綱になること。

 

 ――――――――…………歌が聞こえる…………。



 ――――ppp-p-pppn……

 ――――rrr-n-rrr-n……

 ――――tu-tu-tu-n……



 俺とフレイアは火蛇の薄いベールに守られながら、魔海の奥へ奥へと潜っていった。

 火蛇は俺達を確かに囲いながら…………しっかり守っているというより心許なさげにすり寄ってきているようにも見えたが…………辺りをぼんやりと照らし出していた。


 それは、果てなく巡るサンラインの景色だった。

 この地を生きた一人一人の胸に刻み込まれていた、空の色。海の色。大地の色。

 俺達は世界を駆ける風になったみたいに、滑らかに魂の波々を通り過ぎていった。


 鼻腔を満たす、草花の香り。

 肌に浸みる潮風と太陽の灼熱。

 大地を覆う目の眩むような白銀。

 竜の鳴き声、ワンダの吠え声。

 遠い赤子の声。


 風が掬う記憶は止め処ない。

 寄せては返す美しい景色の連なりに、しばらくは溜息も出なかった。


「コウ様…………これは…………」


 フレイアが俺を見上げる。

 俺は景色から目が離せないままに、彼女に言った。


「魔海…………なんだよな…………」


 そこには世界の記憶が余さず溶け込んでいた。

 サンラインの景色だけじゃない。もっと別の…………竜の国やトレンデ、ジューダム、オースタン、他の全く知らないの国の風景も次々と流れていった。


 全ての世界が皆、一緒くたになって歌を紡ぎながら、どこまでもどこまでも螺旋を描いて流れていく。


 不思議なのは、美しいばかりではないことだった。

 いや…………そのこと自体は、魂の記憶を映しているのだから当たり前だと思う。

 でも、それを眺める俺の心の在り方は、極めて異様だった。


 俺の魂は、どんな悲しみや苦しみ、怒りや憎しみも――――ただ一つ受け止めるだけでも自我に巨大なひびが入るようなもので溢れていた――――和やかに消化して、いくつもいくつも底知れず飲み込んでいくのだった。


 何もかもが、同じ歌に溶かされていく。

 胸に満ちるのは、涙のような温かさ。

 微睡みにも似た心地良さが、何もかもを蒸発させてしまうみたいだった。


「コウ様…………」


 フレイアが言葉を滲ませ、俺の袖を掴む。

 彼女の不安を察して、火蛇が優しく明るく燃えた。


「大丈夫。…………いつものことだ」


 そう。いつもの魔術の力場は、この海から汲み出されたもの。

 本質的には、何も変わらない。というより、まさにこれこそが本質…………。

 完全に心を預けてはいけないことも同じ。

 俺はミナセ・コウ。

 そんな蜘蛛の糸じみた儚い因果だけが、命綱。


「…………」


 ふとフレイアを見やると、こぼれそうな紅玉色の瞳と目が合った。

 君の糸は俺なのかと、心の内で改めて尋ねる。

 彼女は眼差しは十分に応えてくれていた。


「もっと…………深くへ行かれるのですか?」


 舞い上がった火の粉が夕暮れの風景に儚く散る。

 俺は彼女に微笑んで、また海に耳を澄ませた。


「…………大丈夫」


 君が何を心配しているかは、よくわかっている。



 ――――――――…………延々と行き過ぎる波を見つめながら、俺は声を聞いていた。


 俺自身の…………邪の芽に取り憑かれた声。

 かつて喰魂魚の中へ飛び込んだ時にフレイアから伝染した、まつろわぬ魔物の呼び声。

 いつかフレイアを飲み込んで、己の器にしようとしている。


 彼は俺とフレイアが分かち難く共力場を編む瞬間を、いつも手ぐすね引いて待っている。

 今…………この時も。


(――――――――…………)


(――――…………――――)


(…………――――…………)


 彼の囁きは、最早言葉の体を成していない。

 それでも、俺の心をざわつかせるひどい雑音は、魂の歌の中へ絶え間なく捩じ込まれ不吉に響く。

 俺が持つ暗い感情を、ここぞとばかりに撫でて甘やかす。度し難い欲望を、紅く鮮やかにちらつかせては、あざとく優しく揺らす。


 俺は景色を見据えて、ただひたすらにツーちゃんの気配を探っていた。


 その間、フレイアはずっと怯えていた。無論、顔にも態度にも一切出さない。だが俺にはもう彼女の心模様がよくわかっていた。

 どれだけ鍛え上げても斬ることのできない、ただ一つのこの邪悪な存在は、長いこと彼女の「不信」…………獣の証だった。

 フレイアの孤独は、常にこんな眼差しの下にあったんだ。


 俺は声を無視してフレイアを抱き寄せ、さらに集中する。

 ツーちゃんは俺達に気付いていると思う。

 ヴェルグを通して、彼女の目はずっと俺達を映していたはず。

 だからこうして意識を澄ませていれば、きっと彼女に届く…………。


 紅玉色の惑わしい瞳がじっと俺を仰いでいる。


 俺は断固として、魔物の声を無視し続けた。

 首筋へ触れる手を跳ね除けることすらしない。

 幼稚な己の声にじゃれつく暇は、どこにもない。


(…………――――――――)


(――――…………――――)


(――――――――…………)


 フレイアを抱く腕をそっと緩めると、火蛇が代わりに彼女を照らした。

 俺は「大丈夫」と彼女に繰り返し、魔海を彩る魂の日々へさらに深く意識を潜らせた。



 ――――――――…………波の色は変わり行く。

 やがてそれは、およそ人が目にするものではない壮大な景色を映すようになる。

 それは大地の記憶であり、光のみが見るであろう光景であった。



 ――――ppp-n-ppp-n……

 ――――rrr-rrr……

 ――――tu-tu-tu-n-tu-tu-tu……



 歌が一層大きく強く響き渡る。

 もし独りでいたのなら、とっくのとうに命の泡沫へと溶けてしまっていたことだろう。


 隣で寄り添ってくれているフレイアと、この海の底にいるであろうツーちゃんと…………誰か、よく知った人の声が俺を繋いでくれている。

 リーザロット?

 紅の主?

 それとも…………?


 …………誰の声でもあるのだろうと、自分自身の魂が囁きを投げ返してくる。

 俺はこんなにも深くまで届く竜の遠吠えに思いを馳せつつ、さらにさらに深く沈んでいった。



 ――――――――…………。




 ――――――――…………。






 ――――――――…………。






 ―――――――――…………遥か水底で、針の落ちる音がした。


 同時に、大きく鈍重な魔物が目を覚ます――――――――…………。

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