第334話 黒の誘い水は深く浸みて…………。俺が真っ新な真っ黒に斬り込むこと。

「イザベラめ、やはりこうなったか」


 ヴェルグはそう言って微笑んだ。

 ほんの一瞬前の緊張をあっという間に氷解させたその爽やかな笑みに、俺はたじろいだ。


 フレイアが無言で剣を構える。

 俺は目だけで彼女と火蛇を制し、言葉を投げた。


「何をしに来た、ヴェルグ? 今更、俺達なんぞを気に掛ける理由なんてないだろう?」


 実際のところ、来訪の目的は予想がつく。

 十中八九、ツーちゃんを探しに行かせないためにきたのだろう。

 彼女の黄金の瞳は、何もかもお見通しだ。

 この禍々しい魔女は、半ば神の領域に属する生き物なのだ。


 ヴェルグは何も言わず、妖艶な微笑みを絶やさなかった。

 俺は彼女が何か語り始めるのを辛抱強く待った。


 その間、痺れを切らして斬りかかりに行きそうになるフレイアを何度も抑えなくてはならなかった。

 多分、浮足立つようヴェルグに仕向けられていたのだろう。俺もフレイアと同様に激しい焦りと苛立ちを覚えていた。

 だけど、ニートの闘争心の無さを舐めてもらっては困る。精鋭隊のエースと同じ煽り方じゃあ通用しないぞ。


 俺達だけでは、どう足掻いてもこの魔女には敵わない。下手に飛び掛かって彼女のペースに飲まれるのだけは、絶対に避けたかった。

 何より今、コイツを倒す必要は無いのだ。

 チャンスは必ずある。俺は胸の内で騒ぐ最も身近な魔の気配を喉の奥で転がしつつ、その瞬間へ繋ぐことにのみ意識を集中していた。


 チャンス…………それはヴェルグの悲願が叶う、まさにその時。

 どでかい扉が、黒い魚の内に間違いなく現れる。

 そこを狙って、俺達は魔海の最奥へと飛び込むのだ。


 ヴェルグはしばらくの間――――心臓が止まりそうなほど長く感じられた――――俺を試すかの如くじっと見つめ続けていたが、やがて蕾を綻ばせるように話を始めた。


「うん…………いかにもイザベラの気に入りらしい」


 彼女はゆらりと黒いスカートを揺らして歩み、言い継いだ。


「当代の紅の姫は、己が好めば全く見境無しだ。…………それがまさに僕と気の合う所なのだけれども…………困るには困る」


 彼女は背後に迫る黒い魚の巨体を仰ぎ、うっとりとその咆哮に耳を澄ませて俺を見た。


「扉の魔術師。君は僕の気が変わらないことを、とてもとても切実に願っているね。…………確かに僕は今、もう何千万年ぶりかの緊張に浸って、すごく機嫌が良い。そこに賭けるのは全く持って間違いでないよ。そもそも本気で君達を始末したければ、とても簡単なことなんだ」


 響き渡る魂の悲鳴と吠え声に、ビリビリと神経が捻り上げられる。

 空を仰ぐと、牙の魚と濁竜の群れが甲高い叫びを上げて壮絶に争っていた。ドウズルや幻霊、スレーンの兵士も混ざり合い、けたたましく力場が波打つ。


 ヴェルグの魔力が氷の如く張り詰めていく。

 俺達はあくまで生かされているに過ぎないと、心臓へ走った激痛が思い知らせた。


「くっ…………!」


 フレイアが胸を押さえて呻き、身を屈ませる。

 同時に鮮やかに燃え上がった火蛇を、俺は自分の腕へ巻かせて抑えた。


「フレイア!」


 狂暴に踊る紅玉色を、俺は真っ向から受け止める。

 火蛇の巻きついた腕が猛烈に熱くなったが、すぐに淡い温度に落ち着いた。


「…………失礼…………致し、ました」


 掠れた低い声が、わなわなと震える唇から辛うじて漏れ出る。

 俺は火蛇を腕から滑らせ、俺とフレイアとを囲って回るよう願って伝えた。


 ジークとシグルズが重たげに身体を旋回させ、白と橙色の薄いベールを展開する。

 ヴェルグはその様子を横目に眺めながら、長い睫毛を微かに退屈そうに伏せた。


「共力場を介さずに意思疎通が図れるのか。獣型の魔力は面白いね。…………本当に、この世にはまだ僕の知らないことがたくさんある。…………些細な事ばかりだけどね」


 じわりじわりと咽喉から這い上がってくる寒気に、俺は強い嫌悪と吐き気を覚える。

 今すぐにでも攻撃したいフレイアの気持ちは、俺にもよくわかっている。だが、これはヴェルグのお遊びに過ぎない。アイツは俺達を、ほとんど無意味にからかっているだけだ。


 ヴェルグは冷淡に続けた。


「「ツーちゃん」…………僕の愚かな半身、ツヴェルグァートハートはそういうささやかな全てを、魂の底から愛していた。…………君達が命綱と頼むあれは、君達なぞを愛するが故に、何の役にも立つまいよ」


「人間…………か」と、彼女は独りごとを挟んでこぼした。


「…………妙なものだった。ただの泡沫に過ぎぬのに、紅の姫も、他の三寵姫も、結局いつも人間のままだった。ただの命であることを、最期まで選び続ける。裁きの主の力を持ってすれば、そうでないことも容易であるのに…………なぜか誰もが人のまま永らえる。そして死ぬ…………何度でも。…………最早、呪いなのだろうな」


「くだらない」と、彼女はまた独りごちる。

 黄金色の瞳は、夜空を通して遥か彼方の時空へと投げかけられていた。


「命などくだらない。泡沫の饗宴など、いつまで経っても何も成さない。それは刹那、光を浴びて美しくも見えるだろうが、終わらない歌は歌ではないのだよ。…………こんな言葉すら、私にはおぞましく空虚だ。…………言葉など存在しない。…………幻想なんだ」


 ポエムなら帰ってノートにしたためてろ、中二病! と、咽喉から飛び出しかけたのを危うく飲み込む。

 俺は黙ったままのフレイアの静かな息遣いを支えられて、どうにか頭を冷やした。

 フレイアはいずれ訪れるかもしれない勝機のために、こんなにも堪えている。俺も、タカシも、せめて口先ぐらいは踏ん張らなくては。


 ヴェルグの語りは続いた。


「ジューダム王も、三寵姫と同じく奇妙だ。あれら…………歴代の死人めいた王達は…………なぜ人を捨てないのだろう? 魔物よりも魔物らしく、死人よりも死人らしい有様でありながら、それでもいじましく人のふりをしたがる。…………あれらもまた三寵姫と等しく、主の眷属であろうに。あれらに至っては、さらに根深く力に溶けることさえ容易であろうに…………」


 いつしか黄金色の眼差しは、じっと俺を見据えていた。

 言葉を求める一途な眼差しに、俺はキッと口を噤んで臨む。


 なぜ人でいたいかって? …………そんなの、決まっているだろう。


 お前の姫はそんなこと、当たり前過ぎて語りもしないだろうが。


 ヴェルグの瞳に、琥珀色の光が揺れる。

 ツーちゃんの大きく明るい目が、鮮やかに頭に思い浮かんだ。


「…………」


 ヴェルグが見つめる。

 俺はなおも黙っている。


 …………やってみればいい。お前の望む通りに、一度全部壊してしまえ。

 そうして混沌の泥の中で、誰にいくら歌われてもわからなかった音色を聞いたらいい。

 それがきっと、お前を殺してくれる。


 何より欲しいんだろう?


 中二病の世迷言じゃない、お前の詩が。


 俺なんか相手してる場合じゃない。

 言葉なんて要らない。

 お前の願いは、もうすぐ手の届くところにある。


 黒いレースの微かな衣擦れに、胸が高鳴った。

 零れ落ちた魔女の声は不思議にあどけなく、柔らかだった。


「今更わかったよ、扉の魔術師。…………君こそが僕の、唯一人の…………本物の共犯者だったのだね。…………君さえいれば、「勇者」など要らなかったんだ」


 ヴェルグの魔力が急激に力場に満ちていく。

 フレイアが火蛇を白熱させるのと機を重ねて、黒い魚の咆哮が途方もない規模で轟き渡った。


 空が、大地が、海が、今までにない色に変わり始める。

 それは蒼く紅く翠に燦然と輝き、白く鋭く金属音を響かせて弾ける。

 上空の牙の魚や竜、魔獣達が一斉に悲鳴を上げて悶えだした。


 苦しんでいるのは彼らだけではない。

 サンライン中の人々が…………市民も、兵士も、魔術師も、太母の護手の信徒達さえ、魂をねじ切る魔力の奔流に溺れていた。


「…………ぐ、ぅ…………っ!」


 俺とフレイアとて例外ではない。

 激しい頭痛と共に、夥しく溢れ出た鼻血を拭って、俺はヴェルグを睨んだ。

 ヴェルグは俺を映した瞳を恍惚と漲らせ、言った。


「行くがいい。紅の姫のお遊びに付き合うのもこれで最後だ。君達をもって、退屈な世界へのはなむけとしよう。

 …………時は来たれり。

 「赦しの主」…………我が母、真なる世界の主よ! あまねく魂の祈りを聞き届け、ここへ現れん!」


 世界の色が混然と混ざり合い、魂が透明な泉となって滝の如く世界へと満ち満ちていく。


 絶叫を響かせ、黒い魚が頭から張り裂ける。

 怒涛となった数多の想いが…………呪いが…………祈りが…………絡まり溶け合い、今、大いなる闇が産まれようとしている。


 恐ろしい。


 だが…………確かに高揚している自分がいた。


 これより至るは、絶対無垢の混沌。

 真っ新な黒へカッターを走らせる、その瞬間、俺は全身の血が熱く沸き立つのを瑞々しく感じた。



「フレイア、行くよ――――――――――――…………!」



 吹き荒れる強い風に前髪が掻き上げられ、紅玉色の惑わしい真紅が露わになる。

 二匹の火蛇が美しく螺旋状に火炎を噴き上げ、フレイアのレイピアが勇ましく闇へと構えられた。


 魔海の深奥が、迫ってくる。

 俺達は黒い魚の胎内へ、魂を溶け込ませた――――――――……………。

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