第333話 終末へと至る道。俺が紅玉色の灯を携えて駆けること。

 黒い魚の元へ向かうのは、当然ながらそれから逃れるより遥かに容易だった。

 何と言ったってサンライン中に彼の気配が…………彼の命の咆哮が、轟き渡っているのだ。耳を塞ぐ方が無理というもの。


 問題は居場所をさがすことではなく、それに近付くことそのものにあった。

 またどこかで巨大な魔術が発動し、凄まじく悲痛な魂の悲鳴が響き渡る。

 移動中の俺とフレイアは二人して顔を顰めた。


「ひどいな…………。聞いているだけで、身体が張り裂けそうだ」


 俺の言葉に、フレイアが唇も噛んだ。


「申し訳ございません。コウ様をお守りする結界が張れたら良かったのですが…………」

「君が謝ることじゃないよ。…………もうずっと君に頼りきりだ」


 邪の芽のせいで、俺達は共力場が編めない。

 他の皆、精鋭隊やリーザロット達の力場を介した力場は利用できるものの、二人だけで強力な術を使うことは出来ない。

 必然、フレイアだけに戦闘を頼る場面が多かった。


 黒い魚へと向かう俺達を襲ってくるのは、牙の魚やジューダム兵だけではない。太母の護手達もであった。

 本当に一体、どこからこんなに大勢湧いて出てくるのだろう? 最早、ジューダム王が呼び寄せているだけでは説明がつかなくなってきている気がする。


 加えて、魔獣や幻霊も立ちはだかった。

 ヴェルグが友軍として呼び出した魔獣なのか、それともジューダム側のものなのか。複雑怪奇に入り乱れる魔力場の中で、彼らを見分けることは困難を極めた。


「何で…………どうして銀騎士が襲ってくるんだよ!?」


 俺達へ容赦なく剣を振るってくる白い鎧の騎士を、フレイアは躊躇わず焼き払って話した。


「何者かに操られているのでしょう! …………どのようにしてかは、わかりませんが!」


 未だ疲労の色濃いフレイアの身のこなしは、改めて見惚れる程に洗練されつつあった。

 激しい戦いが続く中で、彼女は極力身動きせず敵をいなし、そして斬る。俺というお荷物を守りつつ、最小の集中で最大の威力を発揮させるのだ。

 緊張、弛緩、爆発の繊細かつ的確な制御には、タリスカにも迫る気迫がこもっていた。


 俺はそんなフレイアに守られながら、どうにかこうにかまた話し継いだ。


「でも、操るって言っても簡単にできることじゃないだろう? 特に銀騎士なんて、このサンラインを守りたいっていう強い遺志があるから、ああして蘇ってまで戦っているわけで…………」

「…………サンライン側に…………」


 言いかけに現われ出た小さな牙の魚を、フレイアが一刀の下に斬り伏せる。もう完全に急所を見切っている。

 彼女は刃の血を払って俺を振り返ると、声を潜めた。


「もしかしたら、サンラインの内部に協力者がいるのかもしれません。それも、かなり高位の使い手が」

「東方区領主だけじゃなかったってこと?」


 火蛇が大きく細く、俺達を囲って円を描く。

 赤々と燃える火の粉が舞う中で、フレイアは慎重に言葉を続けた。


「戦況はまさに混迷を極めております。それを踏まえてもなお、何か異常なことが進行しているという感触がございます。今もってグラーゼイ様からの反応はございませんし、その他の方々へも、激戦の最中であることを考慮いたしましても、奇妙な程繋がり難くなっております。恐らく、サンライン側の力場の中で何者かが工作しているものと思われます」

「…………ヴェルグじゃないのか?」

「かもしれません。ですが、あの方はこの度の戦では、あくまでサンラインに協力的な姿勢を取り続けておられます。それを考えますと、やや異質な印象を受けます」

「でも、どうせヴェルグの作戦の一環だろう? アイツは戦を滅茶苦茶にして、なるべくたくさん殺して、黒い魚の力を増そうとしているんだ」

「混沌の世をもたらすために…………ですね」


 フレイアが長く息を吐く。

 姉の紅の主イザベラから聞いた話を、まだ整理しきれていないのだろう。

 かく言う俺も、ヴェルグの思い描く世界の全体像は掴み切れていない。ただ、凄まじく嫌な予感はする。

 フレイアは何らかの懸念を振り払うようにして、顔を上げた。


「とにかく、いずれにしても今は考えるのを止しましょう。私達は、私達の目的に専念すべきです」

「ああ」


 と、ふいに背後に気配を感じ、俺はフレイアに叫んだ。


「――――幻霊!」


 心得たフレイアが、俺の指し示した因果の糸をあっさりと焼き斬る。次いで巨大な牙の魚が一匹、辺りの建物を崩しながら身をねじ込んできた。


「コウ様!」


 俺もまた慣れたもので、すぐさま側溝の中へ転がり逃げる。お荷物だが足手まといにはならない。

 フレイアは指揮棒を振るかの如く剣をしならせ、二匹の火蛇を魚の腹部へ巻かせると、たちまち魚を火柱の内に包み込んだ。

 鋭い詠唱が火炎をさらに猛らせ、魚は悲鳴も残さず灰と化す。

 黒い魚の痛烈な吠え声が、後を追って街に轟いた。


 俺は颯爽と側溝から這い上がると、フレイアに言った。


「だいぶ近いね。…………行こう」

「はい」



 逃げ遅れた市民の遺体、それぞれの国の兵士と魔術師の亡骸、魔獣の肉片や牙の魚の産まれ損ないをかき混ぜたヘドロを踏み分け、掻き分け、俺達は進んでいく。

 黒い魚の途方もない巨体は、遠近感を狂わせた。

 確実に近付いていっているはずなのに、いつまで経っても辿り着けない徒労感がある。


 街中にいる太母の護手達の叫ぶ異国の言葉は、やけに禍々しく耳に響いた。罵倒か祈祷かもわからない彼らの声は、命をかんなで削るような音がする。


 武器を持って襲ってくる者は、フレイアが一人残らず斬った。相手がどのような姿をしていようと――――女でも、子供でも、何にも見えなくとも――――火蛇は等しく業火に包んで葬った。


 数多の命の叫びが脳髄を麻痺させる。

 次第に強まり、暴れ出す黒い魚の魔力に、俺は息を詰まらせた。

 脳みそを指でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられるような不快感に、胃が裏返る。


 それでも俺は暗澹たる力場から集中を離さなかった。

 ほんのわずかの油断が何をもたらすのか、もう身に染みてよくわかっている。

 今、俺の傍らに灯るこの紅玉色の瞳だけは、誰にも消させるものか…………!


 いよいよ黒い魚の頭部が迫ってくる。

 壊れたピアノを力任せに叩きつけるみたいな音が耳の奥でガンガン鳴り響いている。ともすると、自分の声すら忘れてしまいそうになった。

 目の前の景色が波濤の如くうねり歪む。大地と夜空は歯ぎしりじみた音を立てて、破壊的な悲鳴の中でいがみ合っていた。


「フレイア、平気か?」


 フレイアの手を握ると力強く握り返された。

 紅玉色の瞳が真っ直ぐに俺を見上げている。複雑に輝くその真紅に、俺はしばし心を凪がせた。


 ふいに、意識にぽっかりと風穴が開く。

 フレイアもまた、突如として力場に穿たれた異様な静けさに足を止めた。


「…………コウ様」

「うん」


 同時に黒い魚の方へと目を向ける。

 黄金色の鋭い視線が、俺達をその場に釘付けた。


「…………ヴェルグ」


 少女は黒いドレスと髪を微かな風に揺らして、その場に立ち尽くしていた。

 張り詰めたその美貌は、いかなる獣にも魔物にも増しておぞましく、強烈な殺気を放っている。


 時を凍てつかせる圧倒的な静寂が全神経を浸していく。

 ヴェルグは冷たく潤んだ唇を、ゆっくりと開いた。

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