魔海行

第329話 皆、戦の空の下。俺が真紅の灼熱に晒されること。

 霊体と肉体の融合。

 それは互いが互いを望む瞬間に訪れる。

 そもそも分かれて存在すること自体がかなり特殊な事例で、ヤガミとジューダム王は特別も特別、最早別人と言ってもいい程だったのに…………。

 どうして一つになんてなったんだ。


 放心する俺を抱きかかえて高速で街を駆けていくフレイアは、息を切らしながら話した。

 言葉は右から左へ、滑るように抜けていった。


「ヤガミ様との融合により、王はかなりの深手を負いました。肉体と一つになった以上は、先程までのようには傷を癒やせません。…………加えて、ジューダム軍は王が「肉体的」に損傷する事態などまず想定していないはず。あれだけの傷の処置を行うには相当な時間がかかるでしょう。その間に、少しでも遠くへ…………」


 なぜだ?

 なぜヤガミはあんなことを?

 なぜアイツは肉体ヤガミを望んだ…………?


 フレイアは、辺りを慎重に警戒しながら進んでいく。

 どこへ向かうつもりなのか、そういえば聞いていなかった。

 話してくれていたのかもしれないが、彼女の語りかける言葉が今はどうしても頭に入ってこなかった。


 王を…………ヤガミを…………殺さなくてはならないのか?

 あの時より前に戻りたい。こんなのは嘘だ。クラウスもヤガミも、もう取り返しがつかないなんて信じられない…………。

 これからどうしたらいい?

 俺は…………。


「本当は…………あの瞬間にこそ攻撃し止めを刺すべきだったのかもしれません。王はまさに瀕死でした。…………」


 逃げる、

 逃げる、

 逃げる…………。


 途上に現れ出るジューダム兵や、見たこともない魔獣を斬り捨てつつ、フレイアと俺は奔る。

 どうやら仲間との合流を目指しているらしい。リーザロット、グレン、あーちゃん、グラーゼイ、スレーンの皆…………誰でもいい。俺達二人では共力場すら編めない。


 フレイアは、俺だけに話しているようには見えなかった。


「霊体と肉体は、本来共にあってこそのものです。それはジューダムの民といえども同じこと。彼らはあえて不利を飲み込んで、巨大共力場の利点を取っているに過ぎません。

 …………あの時、ヤガミ様と融合した王の力は今までになく増しておりました。顎門の力もまた、事前の多量の霊体吸収もあって相当な…………ですから…………フレイアだけの手には負えない可能性が高く…………ですから…………」


 言葉が闇夜に吸い込まれていく。

 どこもかしこも、戦闘の後の埃っぽい空気にまみれている。千切れた遺体や蠢くヘドロ、血の跡。擦り切れた魔法陣。魔獣の残骸。牙の魚から溢れた血が、街を浸して静かに月を映している。


 俺はポケットの中で揺れた、小石のような物体にふと思いを馳せた。

 …………女王竜の逆鱗…………。


「…………コウ様?」


 フレイアがふと立ち止まったので、俺は我に返った。


「あ…………ごめん。何?」

「…………」


 紅玉色の瞳が、湿った風の中で滲む。

 火蛇が囁きみたいに、火の粉を散らして舞っていた。


「コウ様。…………私達には少し時間が必要かと思います。護衛の身でありながら、このようなことは大変申し上げ難いのですが…………私も頭を冷やしたく思っております」

「…………」

「コウ様」


 三度呼ばれて、俺はようやく彼女の心持ちに気が付いた。

 …………ああ、そうか。

 俺だけじゃなかったか。


「フレイア…………ありがとう。ヤガミを、斬らないでくれて」


 フレイアは睫毛を少し伏せて、軽く唇を噛んだ。

 それから間をおいて出てきた言葉は短く、柔らかだった。


「…………いえ」


 辺りに魔物の気配は無い。

 徹底的に破壊し尽くされた小高い街の片隅には、風に乗って微かに波音が届いた。

 遠く暗く海が揺れている。洋上に立つ火柱が、それ自体何か奇妙な生き物のようだった。


 俺はフレイアに言葉を続けた。


「実際、もうどうしようもないんだろうけど…………。誰かに助けを乞うにしたって、皆手一杯だ。この戦を終わらせるには、アイツをヤガミごと倒す以外にもう選択肢はない。…………俺の手には負えない」

「…………ヴェルグ様」


 フレイアが小さく呟く。

 低い、躊躇いがちな話し方だった。


「あの方ならば、あるいは…………霊体と肉体を切り離すことも可能やもしれません。…………ただ、どのようにしてお話を持ち掛けたらよいか…………。あの方にはヤガミ様をお守りする理由などどこにもございません。それに、恐らくは何か…………途方もない、計り知れない別の目的がおありになる…………」

「…………」


 確かに今の俺達が頼れる中では、ヴェルグは最も大きな力を持つ魔術師だ。

 呼べばすぐに応えてもくれるだろう。

 しかし、問題はフレイアも懸念している「対価」だ。俺達に差し出せるものが、何かあるか…………?


「…………逆鱗、か」


 フレイアが弾かれたように顔を上げる。複雑な面持ちには、多分俺が抱いているのと全く同じ感情が込められていた。


 あの魔女は、この力を何に使うつもりなのか?

 世界の終わりの、その先に待つもの。

 …………呪い…………「太母」…………。


 俺が自ら救いの手を求めるのを、ヴェルグはずっと待っている。

 彼女が黒い魚の相手をしているのは、サンラインを守るためだけでは決してないだろう。

 彼女は世界にひびを入れたがっているのだ。それも俺やこの国の誰もが想像するような世界サンラインには留まらない。それよりも遥かに高い次元から見た「世界」に…………。


 そのためには俺の「扉の力」は足りないのだ。

 あーちゃんの「勇者」の力…………あるいは、この女王竜の逆鱗の、時空を超える力が要る。


「…………危険です」


 フレイアが、考えの途中で声を上げた。

 俺は彼女を見やり、ポケットの中の逆鱗を握り締めた。


「わかっている。本末転倒にもなりかねない…………っていうか、絶対なる。だから、別の取引を考える必要がある。逆鱗以上に彼女が欲しいもの。…………何かアイデアはないかな…………」


 例えば俺の「扉の力」とセットならどうだ? 単体では不十分な力でも、合わせてなら何かの役に立つ気もする。それにうまくすれば、俺の力で暴走をコントロールできるかもしれない。


「いや…………ダメだな」


 俺はまたも考え途中で項垂れ、溜息を吐いた。

 そんな話が通るわけがない。究極、ヴェルグは欲しいならただ奪えばいいだけなのだ。わざわざ取引に応じる必要なんてない。


 ヴェルグが俺を待っているのは、単にその方が好都合だからだ。「扉の力」を使うには、俺の意思があった方が効率が良いというだけ。「俺」は必須の存在ではない。


「…………」


 煮詰まる最中、ふとある考えが閃く。

 だが、すぐに口に出すのは憚られた。あまりにも突拍子もない思いつきな上、フレイアをどれだけの危険に晒すかを思えば、とてもじゃないが実行には移せない。

 俺の迷いを早速見抜いてか、フレイアが身を乗り出してきた。


「コウ様。何か思いつかれたのですね!? …………何なりとお申し付けください。コウ様のためなら、フレイアは如何なる覚悟もできております」


 真っ直ぐな紅玉色は、明るい光に満ちている。まるでどこか別の世界の星空でも仰いでいるかのようだ。

 彼女が俺に抱く期待と憧れは、いつもどこか過剰だ。それに浮かれて、ついにこんな所まで来てしまったわけだが、さすがに今回ばかりは踏みとどまざるを得なかった。

 だって、そのせいでヤガミも、クラウスも、このサンラインも…………。


 言い淀んでいる俺に、フレイアは凛と気力を張らせて続けた。


「コウ様。僭越ながらお聞きください。…………これは、サンラインとジューダムの戦です。ですが同時に、コウ様の戦でもございます。

 私達は皆、自分自身の戦をしております。一つの選択が、どなたかの運命を変えることは避けられません。しかし、それは選択した者が相手の運命を支配したということではありません。

 戦は残酷です。容赦も慈悲も望むべくありません。ですが、そうであればこそ、平等なのです。

 …………全ては、主の御心のままに。裁きも恵みも…………ただ降り注ぐものです。ただそれを掴み取ろうとすることだけが、私達に叶う全て。

 ですからどうか、コウ様はコウ様の戦を存分になさってください。フレイアはフレイアの戦で応じます」


 俺は彼女の、あまりに迷いのない瞳に打ち抜かれていた。

 彼女と出会ったばかりの頃に魅入られた紅の美しさは変わらない。それでも、今の彼女の眼差しには明らかに違う炎が灯っていた。


 己の向こう、遥かに広がる世界を一心に見据える、確かな透き通った強さ。

 俺がどうにか言葉を紡ごうとしたその時、フレイアのその紅玉色が、パッと一際大きく明るく火花を散らした。


「…………フレイア? どうした?」


 問いかけに、フレイアはこぼした。


「お姉、様…………」


 眼差しの先へと俺も振り返る。

 白金色の短い髪を風になびかせて、崩れた街の通りを悠然と歩いてくる人影があった。


 フレイアの使うレイピアとそっくりの剣を下げている。姉妹剣なのか。

 長身で姿勢が良い。スラリと伸びた足は、この世の生き物とも思えぬ程に麗しい歩みを一歩ごとに咲かせた。


 女神――――眺めているだけでそんな言葉が自然と魂に沁み通っていく。

 黒い魚の絶叫すらも刹那遠く滲ませる、圧倒的な静寂が彼女の魔力を安らかに満たしていた。


 燃える血潮のようなガーネットの瞳が、ひたと俺を見つめている。

 極めて厳かなその表情には、甘えも緩みも一切入り込む余地が無い。

 イザベラ・アルバス・ツイード…………「紅の主」にして、フレイアの姉君は、流れるような鋭い所作でその剣を抜き払った。



「――――扉の魔術師。貴公に尋ねたいことがある。…………構えなさい」



 眩むほどに輝かしい、灼熱の太陽のような魔力が、力場を白く焼いた。

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