第313話 俺、魔獣、力。俺が解き放たれたこと。

 ――――――――…………満を持して、黄金色の双眸が見開かれる。

 ヴェルグの強大な魔力が俺の両肩へズシリとのしかかった。


 「扉の力」の手を取った。

 その途端に、力場に溢れ返る魔力が一斉に俺へと降りかかってきた。


 まだ幼い夜の帳がぐるりと張り巡らされた、蒼く波打つ大海の中に俺はいる。

 傍らには複雑な魔法陣を何重にも展開させたリーザロットが、蒼玉色の瞳を神々しくきらめかせて立っていた。

 上方を見れば、火蛇を果敢に滑らせて顎門に立ち向かうフレイアの姿がある。


 どうやら俺は、何とか元の俺のまま戦場に戻ってこられたようだった。

 ヴェルグは確かに俺を漂白しなかった。「扉の力」が、いずれまた俺へ向かうと見越していたのだろう。

 ヴェルグは黒く分厚い緞帳の影から、眼差しだけを寄越して黙っている。


 じっくりと感覚を研ぎ澄ます。

 今なら火蛇が醸し出す熱い息吹も、リーザロットの散らせる冷たく鋭い波の飛沫も全身で感じ取れる。

 ジューダムの力場の様子も、目に見えて鮮やかだった。


 ジューダム兵の編む力場は、なぜかこれまでの無機質なものと打って変わって、ひどく賑やかな…………個性豊かなものへと変化していた。


 人や動物、植物。中には煙や雲などを象った魔力もあるが、それぞれの動きは大局的には渾然一体となりながらも、よく見ればてんで違った流れでそれを繰り出しているのだった。


 皆、骨と同じ白色。だが、どの魔力も微妙に色味が違っている。ほのかに青っぽいもの、くっきりと黄ばんだもの、赤茶けて涸れているもの。

 舌に触れる魔力の味は一様だ。水とも飴とも言えない、妙に安らいで眠たくなる味。


 遠目に見れば、やはりたくさんの腕に見える。

 けれど、どうしてなのだろう? なぜいきなり、こんな風になった?


 ヴェルグのひんやりとした声が、頭に落ちてきた。


「――――元からそうだったのさ。本人達すら気付いていないけれどね。「扉の力」が君自身の扉を開いて、君は今少し目が良くなったんだ。

 …………ここだけの話、僕には君も、君の力も、あのジューダムの兵達も、皆変わらない存在に見えるよ。なんなら生命全体が…………生きとし生けるものその全てが「力」に他ならない。

 わかるかい? 僕はそんな最後の魔獣として、君を解き放ったのさ」


 リーザロットが素早く周囲を睨み渡し、短く詠唱する。タリスカの使っていた古い言葉だ。彼との共力場のせいか、いつにもまして禍々しい凄みがある。


 渦巻いていた波が急に向きを変えてぶつかり合い、目の前に凄まじい波頭をそそり立たせる。水竜巻が、鎖のように絡み合ってその前を覆った。

 心得たように、漆黒の嵐がその前へと吹き荒ぶ。


 胃からぐんとせり上がってくる熱い感触に、俺は拳を握り締めた。

 強い不安。

 この感覚を前にも味わったことがある。


 ヴェルグの言葉が、ポツリとこぼれた。


「永遠に続く「力」の饗宴…………何度壊しても変わらない。…………僕はもう飽きてしまった」


 重い緞帳が揺れる。

 黒いドレスの少女の華奢な立ち姿が、闇と闇の隙間に垣間見えた。


 リーザロットの高い声が、一瞬のそのイメージを高らかに斬り裂いた。



「――――――――「魔人」が来る!!!!!」



 波の鎖をぶち破って、巨大なジューダムの魔人が姿を現す。全身に酸を被ったが如き爛れた肌に、巌じみた筋骨。墨色に霞む、悪夢のような大翼。

 海原を渡って轟く咆哮に、脳の髄が痺れ上がった。


 漆黒の風が魔人へと向かっていく。

 脳裏に閃いた骸の眼窩に、俺はほとんど無意識に応えた。


 彼の剣の切っ先に、意識を束ねる。

 リーザロットの詠唱が凛然と繰り返された。タリスカが唱えるよりも、ヴェルグが歌うよりも、軽やかで清々しい古の詩。

 それは遠く過ぎ去った日々への愛を込めて綴られていった。


 言葉の抑揚が二つの刃の波紋に和する。

 切っ先が魔人の咽喉へ迫る。

 詩の調子に合わせて寸時先の剣の軌道を思い描くと、扉は勢いよく開かれた。



「――――…………昏き地にて相見えん」



 死神の低い呟きと共に、魔人の首が一文字に掻き切られる。

 噴出した大量の血液はたちまち黒い霧となり、波に飲み込まれていった。


「…………姫」

「ええ」


 短い会話は、あるいは目線だけで交わされたものだったろう。


 リーザロットは長くしなやかな指先で印を組み上げるなり、黒ずんだ波を細かく震わせ、銀色に輝かせた。

 白く輝く無数の泡が、地の底から湧いてくるような呪わしい魔人の悲鳴をみるみる覆い尽くす。

 リーザロットは長い睫毛のかかった瞳を微かに細め、最後の印を引き絞った。



「…………白き祝福のあらんことを」



 泡が弾け、悲鳴が立ち消える。

 鬼気迫る呪術の気配が断ち切られたことに、今やっと気付かされた。

 そうだった。この最後の悲鳴に、ツーちゃんはやられたのだった。


 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、さらなる魔人の気配が――――それも、太く堅固に気脈に根を張った、複数の気配が――――こちらへ近付いてきていた。


 リーザロットは険しい表情で息を吐き、俺を振り返る。

 彼女は頼もしく微笑んだ。


「コウ君…………まだやれますね?」


 乱れた髪をかき上げる優雅さに、思わず見惚れてしまう。

 裁きの主の加護が、俺をも白く照らし出すよう。


「…………もちろん!」


 俺が気合を入れて頷くと、リーザロットは顎門と戦闘中のフレイアを仰ぎ、中空で剣を構えているタリスカに声を張った。


「タリスカ! …………残りの魔人達を任せます!」

「御意」

「「黒い魚」が襲来します。…………魔人達は裂け目の魔物と人との融合体。深淵と縁深く、かの魚と共鳴してさらに力を増すでしょう」

「…………」


 タリスカは黙って剣を蒼白く輝かせる。

 蒼の剣鬼は黒く濃い気焔を吐き、針地獄のような魔力を力場一杯に漲らせた。


 魔人の軍勢が、すぐ近くで揃った足音を立てる。

 極限まで張り詰めた緊張に、鼓動が尋常でなく速まった。


 死神の声が、力強く地を蹴った。


「…………殲滅する」


 死神が飛び出すのと機を同じくして、5体もの魔人が海を叩き割って出現した。

 同時に白くくすんだ、騒々しくも整然と鍛え抜かれたジューダムの力場が、うんと広がって空間を埋め尽くす。

 海はすっかり渇き果て、地獄が顕現した。


 リーザロットが俺と己を囲って魔法陣を描く。全幅の信頼を込めた一瞥をタリスカへ送り、彼女は俺を振り返った。


「コウ君――――行きましょう! これより目指すは「黒い魚」…………世界の終わりを告げる、伝承の獣!」


 天地が強い光に包まれ、霞む。

 瞬きの次の瞬間には、俺達は顎門と戦闘中のフレイアの頭上に移動していた。

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