第312話 「扉の力」。俺が時の淀みで、力と戯れること。
――――――――…………もしかしたら、「扉の力」は俺とは全然別の、つまり人間とは全く違う在り方を選択した、ある種の生き物なのではないかと思う。
たまたま俺の中という場所に居座っているだけで、たまたま決まった形を持たないというだけで、たまたまその声が聞こえないというだけで、この力はそれ自身の望むままに、俺を乗りこなして好き勝手に世界を駆け巡っているのじゃないか?
誰の声も聞こえない。フレイアも、リーザロットも、ヤガミも、皆死んでしまったみたいに静かだ。
…………いや、違う。ヴェルグが時を止めているのだ。
極限まで引き延ばされた時間のたわみに、俺とヴェルグは重なり合ってわだかまって沈んでいる。
ヴェルグが俺の不安を包み込むように、砂と化した俺の身体を優しく宙へ巻き上げた。
彼女がハッキリと見える。目で見ているのではない。魂が、夕暮れの窓ガラスみたいに世界と彼女とを同時に映し出していた。
そら恐ろしい美貌を湛えた少女は、禍々しくも可憐に語り掛けてきた。
「気分はどうだい、伝承の? 扉の力を少し、君から分離させてもらったよ。しばし楽にしているといい…………」
俺は湿った風にサラサラと溶かされる。
どこからか吹き抜けてくる、強い風。冷たい風。
大雨の前触れだと、全身で理解した。
俺から力を分離した、だと…………?
そんなことができるのか?
ヴェルグは歌うように詠唱を響かせつつ、念話で俺に答えた。
――――より正確に言えば「君」を分離したのさ。…………君の魂の、最も不純な部分をね。
俺は浮遊する身体を静電気を立てて強張らせ、怒鳴った。
――――不純だと!? お前、マジで何をした!?
――――おや、言い方が気に入らないかい? ならばこう言い換えようか。君の魂を一時的に「漂白」した。
――――なっ、何だと…………!?
魂の漂白とは即ち、感情の消去だ。人は誰でも、生きているうちに魂に色をこびりつかせる。もしそれを失くしてしまえば、記憶さえまるで他人のもののように空々しくなってしまう。
強大な魂獣を従えねばならぬ者、あるいは自ら進んで誰かに心を明け渡そうとする者だけが、それをする。
俺がもう一度怒ろうとした瞬間、ヴェルグは指を弾いて俺を砕け散らせた。
バラバラになった砂が風に薄く、あっけなく引き伸ばされる。
ヴェルグはずっと胸に秘めていた秘密をこっそり打ち明けるみたいに、俺に囁いた。
「…………焦ってはいけないよ、伝承の。よくよく考えてみたまえ。そうやって騒ぐ君こそが「感情」そのものだと、どうして気付けない?
…………僕が君を生かしておくのには、ちゃんと理由がある。動転する魔術師ほど見苦しいものはないよ。
「魔道を行く者、常に冷静であれ」と、ツーちゃんは君に教えなかったのかな?」
ひやりと、首筋に一筋冷たい雨が伝った。
首だと確かに感じてそこに触れようとしたが、その途端に身体の感覚はあえなく元の砂へとばらされてしまった。
ヴェルグの優雅な詠唱が力場に響き渡る。
それは人の言葉と呼ぶにはあまりに格調高く、威厳に満ち、世界にはびこるどんな音からもかけ離れていた。
俺は最早意識を一つに留めていられなかった。
どんどん強まる音の響きに惑わされ、心がどうしようもなく散らばって行ってしまう。
怖くて恐ろしい、不安でもどかしい、怒り、悔しさ、悲しさ、空しさ…………膨らむ風船の表面に沿って、俺は破裂寸前にまで追いやられる。
ヴェルグの言葉が、優しく風船に針を刺した。
――――「扉の力」。
生き物かもしれないと、さっき君は言っていたね。…………全く、面白いことを思いつくものだ。
――――…………見ていてごらん。君の力の本質がどういうものか。
その上で、さらにさらに、支離滅裂に思いを走らせるといい…………。
「俺」があっけなく砕け散る。
粉々に弾けた俺が一斉に、星屑となって流れて、深い濃紺色の夜空を四方八方へと駆け抜けていった。
急速に意識が遠退いていく。
俺が見つめているのは、どこの空だ?
誰の空だ?
というか、俺は…………この、「俺」は…………?
――――――――…………「感情」が全て散らばった。
そしたら、今ここに残っている俺は、果たして何者なのだろう?
ヴェルグは答えない。
気配すら匂わさない。
俺はただ一人、のっぺりと湿った紺色の空を漂っていた。
きっとここはまだ魔術の力場の内だろう。
だけど目を開けば…………簡単に「外」の景色が見えた。
見えてしまった。
すごく変な感じだった。力場の「外」、つまりはいつも肉体(タカシ)が見ているままの世界が、まるで重りのように力場にぶら下がっている。
気を付けていないと、あっという間に意識がそちらに引きずられて、力場の「中」の景色が霞んでしまう。
「外」を渦巻く災禍の景色は、筆舌に尽くし難かった。
それは恐ろしいことに、これまで戦ってきた魔術の力場の景色とほとんど変わらなかった。むしろ、ある意味ではより地獄じみているとさえ言ってよかった。
俺はもう砂浜とは到底見做されない、数多の死体と泥と霜、そして火の粉と灰とに分厚く覆われた大地に、力無く座していた。
時はとんでもなくゆっくりと、今にも止まりそうになりながら動いている。
もしヴェルグの術のことを知らなければ、俺は自分がついに死んでしまったか、死にかけて幻想に囚われていると思い込んだことだろう。
白い腕がそこら中からゆらゆらと伸びていた。
それらは幽霊みたいに半透明で、手当たり次第にサンラインの魔術師や騎士を掴んでは、海へ、あるいは地割れの狭間へと無慈悲に引きずり込む。
彼らの「本体」…………ジューダムの魔術師達の姿も見えた。
彼らもまた幽霊のような虚ろな姿で、戦場の至る所を埋め尽くしていた。
黒い鎧姿のジューダムの騎士達とは異なり、魔術師達は皆、赤っぽい丈長のローブに身を包んでいた。
表地は極めて簡素だが、裏地にはびっしりと魔法陣やら紋章やらが描き込まれている。
その文字が妖しく光ったと思うと、彼らは自在に姿を消して、また予想のできない場所へと移動していった。
ジューダム王は海上の、遥か上空に君臨していた。
灰青色の圧力が、ここからでもひしひしと感じられる。
彼の眼前では顎門が、林立した白い牙を憎き敵へと獰猛に剥き出していた。
フレイアが戦っている。
海から湧いて出る牙の魚の背を蹴り、果敢に顎門へ掛かって行っている。
燃え盛る紅玉色の美しさが、どうしてこんなに遠く感じるのだろう?
フレイアを援護して、リーザロットが大波を呼んでいる。
地鳴りめいた低い音が俺の腹を大きく震わせた。今にも叩き落されんばかりの巨大な波の渦の内には、すでに数えきれない程の人間の死骸が巻き込まれている。
その奥に見えるのは、タリスカの双剣が紡ぎ出す嵐だろう。
凄まじい量の血飛沫を跳ね飛ばしながら牙の魚を蹂躙する漆黒の竜巻。この淀んだ時の中でさえ、あれだけは確かに動いている。
天変地異そのもの…………。
額と手のひらに汗が滲んだ。
ヤガミはどこにもいない。
彼を攫った太母の護手達は、ジューダムの魔術師達に紛れてぞろぞろと集っているが、彼の姿は一向に見えない。
どれだけ意識を凝らしても、彼の力場の気配は微塵も捉えられなかった。
斬り結ぶ「白い雨」の騎士達と、ジューダムの騎士達の白と黒のちらつきが目に眩い。
破られた相殺結界を編み直す、サンラインの魔術師達が描く魔法陣と、それに挑みかかるジューダムの魔術師達の服がなびかせる、妖しい文字の揺らめきに眩暈がする。
集中したいのに、何もかもが気を散らしてきた。
ふと、俺は自分の下に積まれた死体の山の中に、まだ息のある兵士がいることに気付いた。
血と泥にすっかりまみれて、最早敵味方の区別はつかない。
彼は息も絶え絶えに、俺へと手を伸ばした。
「た、助…………けて…………」
彼の腕から、白い棒のような何かが飛び出している。
剥き出しになった彼の骨だとわかって戦慄したが、手を貸そうと身を乗り出したその直後、彼の頭部は熟れ過ぎたトマトみたいに潰れ弾けた。
「えっ…………?」
顔面に飛び散った生々しい血の感触に、俺は足を竦ませる。
次いであちこちに積み上がった死体の頭が次々と同じように破裂していった。
「うっ、うわぁあああぁぁああっ!!!!!」
首の無くなった死体から血が滝となって流れ出る。
時は止まっているはずなのに、どうしてこんな景色が見える?
いつから? いつから俺は、こんな空間に放り込まれていた?
腰を抜かしている俺の腕を、いきなり強い力がとらえた。
「ッ!?」
崩れながら見下ろすと、俺の胴体ほども身幅のある巨大な黒蛇が、血の海から俺の身体を這い上ってきていた。
「わっ、わ、わ、わ、うわぁああっっっ!!!」
一体何が起こっている?
これは何だ? 誰のせいだ?
俺は…………俺は、どうしてしまったんだ!?
黒蛇はまたゆるりと血の海へと身を滑らせると、悠々と海へと泳ぎだしていった。
その後を追って、空をも覆う大きさの同じ黒蛇が、飛沫を上げて海へと雪崩れ込んでいく。さらに大小様々な蛇の群れが、幾重にも幾重にも波紋を走らせて後に続いた。
水面を黒々と染め、彼らは一直線に海上のジューダムの船へと向かっていく。
血溜まりで呆然としていると、ふいに俺の影がこちらへ腕を伸ばしてきた。
「…………うわっ!」
真っ赤な色の俺が、ズルズルと嫌な音を立てて陸へ這い上がってくる。
彼は真っ赤に見開かれた目で俺を見つめると、口の端を歪めて笑い、燃える茜空に手をかざした。
合図に応じて、雲がぐるぐると緩くうねり、流れていく。
それはたちまち、鳳凰じみた雄大な鳥の形を作り上げた。
残光を絶叫の如くきらめかせて、夕日が水平線に沈んでいく。
鳳凰はその鮮烈な光をもつんざいて、広大な雲の翼と雄叫びを天の遥か高く、高くへと突き上げた。
大勢の人の囁き声が耳に障る。
怯えながら辺りを見回すと、いつの間にか一面を、人の顔をつけた車輪が死体の山を轢いて走り回っていた。
「ヒッ…………!!!」
赤い俺がツイと指で輪を描くと、車輪に業火が灯る。
轟き渡った無数の悲鳴に、俺は思わず呼吸を忘れた。
これが…………「扉の力」なのか?
俺が見てきたもの…………聞こえていた声…………感じていた全て。
それらの結晶が、この魔物達…………。
心臓が万力で捻じ上げられているみたいだった。
自分の力がこんなにも好き勝手に世界を踏みしだいていくのを、残骸の俺はどうすることもできず見つめている。
この身体に届くのは、ただ流れ込んでくる暴力ばかりだ。
生き物? 違う選択? 別の在り方?
そんな考えがいかに陳腐だったか、俺は文字通り身に染みて、ただ震えていた。
これは…………「力」以外の何物でもない。
そこに意思なんて不純物は一欠片も存在しない。
いかなる因果の垣根も超えてひた迸る、ただそれだけの、純然たる激流。
血の眼差しが遠い海を見つめる。
漂い来る異様な緊張に、俺の心臓はいよいよ壮絶な悲鳴を上げた。
「あ、れ…………は…………」
俺は大きく目を見開き、言葉を失った。
冷たく澄んだ夜のレースを静かにくぐり、蒼く深い海原に煌々と炎の跡を引いて、それは現れた。
雄々しく広げられた帆は悠然と風を受けて、紅く…………この世の何よりも紅く、輝いている。
俺はあの船を見たことがあった。
あれは、リリシスの伝承に謳われた船。
思い出すと同時に、俺は赤い俺にじっと見つめられていることに気付いた。
「…………」
「…………」
何も言えず、見つめ合う。
恐ろしくて、涙も震えも生まれなかった。そういう人間的な全ては、瞬く間に彼の瞳の奥の虚無の大穴に落ちていった。
いかなる魔物とも魂獣とも異なる、無機質な威圧感。
望みもなく、行く先もない、型破りな「力」。
割れたガラス片に囲まれている幻に囚われた。
どんな風に身をよじっても、必ず切り刻まれ苛まれる。
裸足の心は途方に暮れていた。
血濡れた手が、おもむろにこちらへと伸びてくる。
手を取れば…………時が動き出す…………。
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