第310話 世界のひび割れる音。俺が再び見える暗黒のこと。

 俺はヤガミの刃の先から滴り落ちる赤い雫に心囚われていた。

 皆の声が遠く聞こえる。

 いつの間にか漆黒の死神の巨躯がリーザロットの隣にそびえていた。


 あれから何千年も経った気がする。

 ほんの一瞬前のことなのに。


 不思議なくらい頭が回らない。

 突然夢の中に放り込まれたみたいだ。

 フレイアが何か話しかけてくれているけれど、それでも何一つ胸に浸みこんでこなかった。


 突如地球が大爆発してうっかり宇宙空間に取り残されてしまった幽霊って、きっとこんな気持ちだろう。

 俺が追いかけてきたものって、これなのか?

 こんな結末って…………ありか?

 俺がこだわり続けてきたものって、一体…………。


 …………ああ、だけど、こんなことを考えている場合じゃないのはわかる。わかっている。

 俺達にはまだまだやることがたくさん残っている。


 牙の魚達が続々と湧いて出てきているし、原因となってしまったナタリーとレヴィのことも、早く助けに行かなくちゃいけない。

 ナタリーは俺を許してくれるだろうか…………?

 それに、戦で怪我した人達だってたくさんいるわけで…………。


 …………ごちゃごちゃとした頭にふと、遠方から雷鳴が届く。

 一拍遅れて、皆も異変に気付いた。


 何だ?

 ジューダム兵の攻撃なら、ヤガミが先に気付けるはずだけど…………。


 直後、黄金色の魔力が無音の雷光となって白砂の丘を覆った。

 差し込んでいた白い光がみるみる薄れ、たちまち消え失せる。

 分厚い暗雲に覆われた天から、凄まじい雷鳴が轟いた。


「なっ、何だ…………!?」


 身体が地面に叩きつけられ、動けない。

 そのうちに、見知らぬ何本もの黒い腕が天から一斉に降りてきた。


「何が起こっているんだ!?」


 腕が大きく雲を攪拌し、力場に不穏な湿った風を吹かせ始める。

 大小不揃いの様々な形をした腕達は、異様な匂いのする煙を焚き染めながら、巨大な魔法陣を天に描き出した。

 一目見るだけで全身が粟立つ、禍々しい文様が細かに、執拗に描き連ねられていく。


 どこかで見たことがある。

 あれは…………「流転の王」エインシェントを捕縛するために、タリスカが使ったのと同じものだ。

 今はもう失われているはずの、古代の術だとかいう…………。

 一体誰が、何をしようとしているんだ?


 重ねて、奇妙な韻律の詠唱が聞こえてくる。

 サンラインの言葉ではない。

 それは紛れもなく…………「太母の護手」の異邦人達の輪唱だった。


 魔法陣が赤黒く妖しく輝く。

 牙の魚達がどこかで悲痛な叫びを上げ、怒りと狂乱の度合を急激に強めた。



「――――――――蒼姫様!!!」



 フレイアが声を割る。

 リーザロットめがけていきなり墜ちてきた無数の黒い流星を、蒼白い刃が一刀のもとに斬り捨てた。

 死神は流れる体捌きで、次いで四方から襲来した牙の魚達を切り刻む。


「…………来る」


 タリスカが低く険しく呟く。

 力場をぶち破ってさらに現われ出た魚群を、フレイアが次いで縦横無尽に斬り捌き始めた。


 火蛇が火の粉をきらめかせ、宙を舞う。燃え盛る紅玉色が強烈な光を湛える。細い身体が果敢に翻る。

 リーザロットの短い詠唱が、辺り一面に蒼く凍てついた水流を渦巻かせた。

 張り詰めた、痛いまでに漲る蒼玉色のわななきに波が荒れる。

 リーザロットの囁きが、耳を掠めた。


「…………黒い、魚…………!!!」


 凄まじい何かが魔海の深層から近付いてきているようだ。

 レヴィによく似ている気配。

 喰魂魚にも似ている。

 でも違う。

 もっと、もっと、遥かに巨大な存在が…………。


 物悲しく長い嘆きが、どこからともなく聞こえてきた。



 Oooo-o-o-……-n……



 血飛沫と肉片が雨と降り注ぐ。

 金属の垂れ落ちる声が、俺の血を凍らせた。



「――――――――…………やはり、か…………」



 ヤガミが大きく目を見張り、剣の柄を握り締める。

 彼と相対するもう一組の灰青色は、研ぎ澄まされた水晶のように固く、何者をも拒んで冷たく輝いていた。


「…………お前、生きて…………!」


 俺の呟きは巻き上がった砂嵐にあっけなく掻き消された。

 あんなに白く清らかだった砂は、今は見る影もない。砂は血と泥をたっぷり吸って黒ずみ、敵味方無く礫の弾丸を打ちつけていた。


 王が片手をかざし、水の檻を速やかに霧散させて立ち上がる。

 足元に広がる血の海に大きな影がぬるりと姿を映した。


「ば、馬鹿な…………!」


 ヤガミが絶句し、一歩引きさがる。

 彼と俺の視線の先では、魔海の藻屑と消えたはずの顎門が血溜まりの中から再び抜け出してきていた。


 顎門の身体には、すっかり塞がった傷跡だけが残っていた。地獄の底にまで繋がっているかの如き虚ろな目も、林立する鋭い牙も、元のまま。

 顎門は王の周りを音も無く泳ぎ、舞い散る血肉を貪婪に身に取り込んでいく。

 赤く濡れた大きな身体に、凶悪な活力がたちまち満ちていった。


 王の胸の傷もまた塞がっていた。深く貫かれたはずの穴は死人じみた土気色の皮膚に覆われている。

 彼は暗く沈みきった目を俺達へ向け、厳かに言った。


「…………民は「王」を求めた。…………戦は終わらない」


 ヤガミが剣を構え、刃に白魚を集結させる。

 王は彼を鋭く睨み付けると、一転して強い調子で言い放った。



「――――――――ジューダム全兵に告ぐ!!!

 混沌の時は来たれり!! サン・ツイードへ侵攻を開始せよ!!」



 白魚達が身を強張らせ、ぎこちなく宙に散じる。

 王は軽蔑と呼ぶのすら生温い、氷点下に尖った眼差しで力場を射貫くと、ジューダムの言葉で力場を震わせた。


 応じて、天地両方から続々と白い腕が伸びてくる。

 あるものは野獣の如く逞しく、あるものは雪の女王のように透き通っている。

 幽霊のように不確かに揺らぐ腕も、業火に包まれた腕も、岩壁じみた鱗に覆われた腕もあった。


 いずれも人の腕だが、思わず息を飲む神々しさを放っている。

 中でもとびぬけて大きな腕が、俺とヤガミとを殴り飛ばした。


「コウ様!!!!!」


 フレイアが叫ぶのに先んじて、火蛇の一匹が咄嗟に俺達の周りにベールを張って地面へ激突する衝撃を和らげる。

 だが次の瞬間、地からどっと生えた一様な白い腕達がヤガミの全身を砂に沈めた。


「ヤガミ!!!」


 手を伸ばそうとしたところを、別の腕が遮った。

 人の腕ではない。黒い…………干乾びた、水掻きのついた腕だった。

 腕はゆっくりと砂から這い上がり、やがて全身を現す。

 河童に似た裸の男が、血走った目でこちらを見つめていた。


「「太母の護手」か!」


 河童の異邦人は、飛び掛かる火蛇を避けてヤガミと共に沈んでいく。

 王が、俺を見下ろして言った。


「…………裂け目は開かれた。最早この戦は貴様の手には負えない」


 蒼褪めた王は顎門を己の下に従えると、眉間を険しくして正面をきつく見据えた。


「…………出てこい」


 黄金色の瞳の輝きが、一際邪悪に力場をつんざく。

 王の前に、ゆったりと黒いドレスの裾を膨らませて姿を現したヴェルグは、見る者誰もの身も心も溶かしてしまう美しい微笑を浮かべて、挨拶をした。


「こんばんは、ジューダムの王――――…………お目に掛かかれて光栄だ」


 王が片手を毅然と彼女へかざす。

 ヴェルグが淑女らしく腕を伸ばし返し、黒く透明な魔力を力場に迸らせた。


「喜んで、お相手しよう」

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