第309話 永遠の決別。俺がもう一度、あの赤を眺めること。
波が引いていく…………。
海は白魚の薄っすらとした影だけを残して、たちまち透き通って失せた。
俺はフレイアと一緒に、白い砂の丘に立っていた。
フレイアは俺と自分を囲って火蛇を舞わせ、まだ剣を構えている。彼女の姿勢にはいつも隙が無い。
ゆっくり前へ歩むと、鳴き砂みたいな音が鳴った。
「や、やった…………のか?」
フレイアから答えは返ってこない。
なだらかに続く砂の丘の先には、リーザロットとヤガミもいた。そしてそのさらに向こうには、爛れた衣装を砂にぞろびかせた王が地に膝をついていた。
彼らの姿は、ただそれだけで激闘の名残を伝えてくる。
ヤガミの周りを巡る白魚の影が、真上から差し込む白い陽光を浴びて物寂しく、ガラス片のように美しくきらめいていた。
赤黒い血のこびりついたリーザロットの素足が、砂を物哀しく鳴らした。
「…………投降してください、ジューダム王」
王を囲って水流が渦巻き、檻を作る。
蒼の主の声は、静かで厳格だった。
「貴方の魔力は消滅しました。復活させるには長い時間がかかるでしょう。…………貴方はこれ以上、戦えない。戦線にいるジューダムの兵達に、速やかに降伏を伝えてください。…………和平交渉を始めましょう」
王が口元の血を拭う。
深く淀んだ灰青色が、何の感情も無くリーザロットへ向けられていた。
日を反射して輝く白砂は、彼の蒼褪めた顔を不思議と明るくしない。
俺は引き止めるフレイアを振り切って、リーザロット達の隣へ駈け寄った。
「…………おい!」
王に呼びかけたのか、ヤガミに呼びかけたのか…………。
叫んだ瞬間に自分でも混乱した。
何を話そうとしてたのかすらも、もう頭から吹き飛んでいる。
どちらからも返事が無いままに、ヤガミは王の胸へと剣先を突き付けた。
「ジューダム王。…………今やお前の兵は全て俺の兵だ。どんな些細な気配の変化も感じ取れる。俺達は最早、融合の必要すら無くなった。…………近付き過ぎたんだ。…………染み付いた血と蟻地獄じみた暗愚に、吐き気を覚える程にな」
王が片割れに向かって微かに目元を細める。
石膏を思わせる面立ちが、冷ややかな表情をより冷酷に、非人間的に見せた。
「コウ様、危険です! お下がりください!」
フレイアが俺とヤガミ達との間に割って入る。
王はそれを見やるでもなく、もう一人の自分に口を開いた。
動揺どころか悲嘆さえも一切こもらない、無機質な語りに胸が軋んだ。
「…………貴様はやはり、ありふれた器に過ぎないな」
「無駄口を利くな。戦の償いを…………責任を果たせ」
「…………「王」の力は貴様には御せない」
「だとしても、俺には味方がいる。…………最後だ。投降しろ」
「扉の魔術師」
王の眼差しがこちらを射る。
白砂に投げかけられた彼の影が、やけにくっきりと目についた。
「貴様が俺を殺せ」
強張る俺に、王は顔色を変えず命令を繰り返した。
「…………貴様の手で塗り潰せ。俺を、この男で」
「何…………?」
「コウ、答えるな!」
ヤガミが王と全く同じ声で怒鳴る。
わずかに沈められた彼の切っ先から、血が一筋溢れた。
…………真っ赤な血。
鮮烈な夕焼けの残像が俺の頭の中から言葉を焼き払った。
「戯言だ。自身の魔力である「顎門」は消え、国民を従える「王」の力は俺が掌握している。…………融合だの和平だのは、全部この後の話だ。耳を貸す必要は無い」
ヤガミは王から目を逸らさない。
怒りと…………言葉にしきれない数多の感情が織りなす、狂暴な痛みが共力場を短い波長で震えさせている。
リーザロットの作る水の檻が、淀みなく冷たく二人の間を流れ続けていた。
「このまま心臓を貫けば、コイツは息絶える。中心軸たる霊体が死ねば…………ジューダムの共力場は自ずと崩壊するだろう。
コイツの眼前にあるのは降伏か、死か。…………それだけだ」
…………ジューダム王が死ぬ。
本来、霊体は肉体と分かち難く結びついている。
肉体の痛みが魂に傷を負わすのと同じように、魂は当然の如く肉体を蝕む。
でも、今の彼らは事情が違う。
「ヤガミ・セイ」の魂と身体は別物なのだ。
あーちゃんの力が、そういう風に「彼」を運命づけた。
彼らは限りなく近しいが…………違う過去と未来を抱いている。
魂と身体は交わらない。
王を殺しても、ヤガミは死なない。
…………ああ…………違う。
問題はそんなことじゃない。
本当に死んでしまうのだ。
…………アイツが永遠に喪われてしまう。
あの日の後悔は、もう俺の記憶の中にしかなくなる。
ヤガミの声が、耳に響いた。
「…………それがお前の決断なんだな」
灰青色の瞳が刹那だけ、同じ色に溶け合う。
決別の瞬間だった。
ジューダム王が瞳を伏せ、ヤガミは瞳の霧を晴らす。
切っ先が時を押し潰し、やがて鋭く引き抜かれた。
過去と未来が、大量の血と一緒にとめどなく流れ出て行く。
いたずらに引き延ばされた時間の中、ぐるぐると無秩序に巡る記憶の断片を俺は繋ぎ止めることができない。
ただひたすらに血が赤い。
赤い。恐ろしく赤い。
白い砂がみるみる染まっていく。
王が咳き込み、影の上に血飛沫が零れた。
影が無言で蹲る。
血の海に立つ水の檻は変わらず淀みなく、キラキラと光っている。
アイツはいつだって何も言わない…………、
…………言えない。
俺はどうしてまた、この色を眺めているのだろう…………。
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