第289話 「主」の心。俺と彼女が交差させる未来のこと。

 ――――――――…………白い光が溢れ出す。


 光はたちまち俺と少女の意識を包み込んで、肉体も霊体も時空をも超えた世界へと一瞬で連れ去った。


 目の前にはリーザロットがいる。

 何も見えないが、彼女のイメージをそこに思い描くと、それはぼんやりと煙のように姿を成した。


 深く蒼い夜空のドレスに、一点の曇りもない白い靴。

 パッチリと開いた両の眼は、魂の大海そのものを湛えているかの如く、きらやかに波打ち、飛沫を上げて潤っていた。


 ゆっくりと大らかに揺れるスカートの裾から、白くささやかな星が零れ落ちていく。

 滴る星はやがて桜色の花びらとなって、白一面の世界を美しく彩った。


 彼女にも俺が見えていると、その眼差しが伝えてくる。

 俺…………正確に言えば、彼女の「主」が…………「裁きの主」が、俺を通して彼女の目を見つめ返しているのだ。

 今、俺は紛うことなく「依代」となっていた。


「貴方は…………」


 リーザロットが言葉を続けるより先に、俺は答えを返した。

 いや、俺だが俺ではない。

 俺の内に潜んでいた「裁きの主」が、俺を通して語った。


「ようやく会えたね、リーザロット。…………蒼の姫。…………「俺」は君から繋がる未来、君の焦がれるその人の導きで、ここへやって来た」


 「主」はさらに言葉を続けた。

 穏やかで優しく、どこか淡く物寂しい影の差す話し方だった。


「それは取りも直さず、「俺」が繋げる未来。「俺」は、無力な「主」の力を引き出すことができる。君と共力場を編めばね」


 リーザロットは小さく首を傾げ、俯き加減に口元に手を添える。

 彼女の戸惑いがひたひたと俺まで染み込んでくる。

 怒り、悲しみ、当惑。様々な感情が水彩絵の具のように滲んでいく。俺には彼女が、言葉には出来ないながらも全てわかってしまったのだと感じられた。


 魔海の落とし子である彼女には、「主」の無力が何を知るより先に知れてしまうのだろう。

 リーザロットは痛ましく眉を顰め、唇を噛みしめて言った。


「…………なぜです? 私は…………どうすればよかったと言うのです? なぜ…………貴方が無力などということがあり得るのです?」


 俺はただ俺として、それに答えた。

 いや、本当の所はわからない。

 答えたのは「主」だったかもしれない。

 それはこの時、どこまでも同じことだった。


「それは「主」が、本当は神様でも魔物でもないから。…………「主」は全ての運命と時空を見つめている。だけどそれは、君達紅、蒼、翠の姫と、その手でなだめられる魔海に育まれる魂が息づいていればこそだ。

 …………裁きもまたも、恵みなんだ。大地に降り注ぐ雨と同じ。この地の命が「主」を信じて慈しむ限り、「主」の祝福は永遠に続くだろう。でも、ただその力だけを信じているのでは、ダメなんだ。

「主」は万能の救い主じゃない。「主」は魂に寄り添って存在する一つの…………大きな心だ。だから…………何よりも強くて、何よりも無力なんだ」


 「どうして…………」とリーザロットが弱く繰り返す。

 彼女はもうとっくに全てを理解している。だからこそもう一度、きちんと言葉にして話をするべきだった。

 これは彼女と「主」の話だけれど、彼女と彼女の生きる世界の話でもあったから。


「信じるって難しいことなんだよ、リズ。誰もが君と同じように世界を見られるわけじゃない。皆、本当に何にもわからなくて…………天国と地獄の狭間で、必死で生きている。雨の向こう側を眺めている余裕なんて、無いことの方がずっと多いんだよ。

 ありもしない奇跡に目が眩んでしまうのは、悲しいことだし、仕方ないことでもある。究極的には悪でさえあると、「俺」は思っている。…………でもね、その罪を一つ残らず裁いたとしても、何も変わらないんだ」


 「変わらなかったのだ」と、俺の頭の中で言葉が繰り返される。

 俺はリーザロットを見つめて、話し続けた。


「けれどね、「俺」は全てを諦めているってわけじゃない。まだ何もかもが終わったというには、早過ぎるから。

 …………そうさ。例え何億年待ったって、遅過ぎることはないんだ。ないって、信じている」


 言い聞かせるような自分の口調に、俺は自分でも耳を傾けている。

 不思議な心地だった。

 操っているのでも操られているのでもなく、ただスルリと自然に言葉が落ちてくる。

 リーザロットは蒼玉色の瞳を静かに瞬かせ、俺と同じようにただ黙って耳を傾けていた。


「聞いてほしい、リーザロット。君の世界ではまだ時が満ちていない。だが、「主」を想う人もまた多く残っている。だからいずれきっと、「主」は恵みを降らせる。…………納得できないかい? そうだろうね。「俺」は君の瞳を通して、君を生きてきた。だから君の怒りはようくわかる。胸を突き破る痛みも、業火となって燃える憎しみも…………「主」に抱く、枯葉みたいに乾ききった失望も」


 リーザロットがわずかに肩を縮め、たじろぐ。

 「主」はそれでも変わらず、優しい眼差しを彼女へ向けていた。

 そして俺がそうしてほしいと願っているように、彼女を撫で、温かく微笑みかけた。


「だが、とにかく今は君の力になりたい。…………もう血は十分に流れた。人の罪、偽りの蒼の罪を問う時は今ではないけれど、あの「母」の良き息子達は今晩こそ、雨に打たれるべきだ。…………魂の還る場所について、「主」は彼らと話したがっている」


 リーザロットは胸の前で手を組み、長い睫毛を伏せた。


「…………ごめんなさい、ご主人様。…………扉のお兄様も…………ありがとう…………」

「コウ兄様でいいよ。…………謝ることもない。「主」へ抱く気持ちは自由だ。大事なのは、それを想うこと自体なのだから。

 君の心は君のものだ。だからこそ君でいられる。たくさんの繋がりが…………蒼の姫として生きていく君は、それこそ数えきれない程大勢の魂と繋がって生きていく運命だろうけど…………それを支えてくれる。もちろんそれが重荷になることもあると思う。それでも、そうやって君は世界と生きていく。生きていける。

 誰を憎んでも、好きになっても、いいんだよ。君と君を取り巻く世界の内に「主」がいる限り…………忘れられることなく、共にあり続けるのなら…………「主」は絶対に、君を見捨てたりはしない」


 リーザロットを抱き締めると、彼女の幻が花びらとなって解けた。

 力場に澄んだ桜色が重なって、俺はほの甘い蜜の味を感じた。

 温かな鼓動が共力場に満ちる。



「――――――――…………もっと甘く、水のように、春のように、織り上げて…………」



 そんな言葉を伝えてきたのは誰だったろう。

 リーザロット自身かな。「主」」かな。

 誰より俺が望んでいたのかも。


 俺はまだ拙い彼女の魔力場へ、深呼吸して沈み込んだ。

 彼女の鼓動の中心へ、白い光を差し込ませる。


 「主」の力場にも浸っているせいだろう。

 これから少女のリーザロットが見るであろう、ほんの少しだけ先の運命が脳裏によぎる。

 やはり万能の救い手ではないのだと、胸が軋んだ。


 揺らいだ俺の心を両手で慰めるように、リーザロットの魔力が優しくとろりと流れ込んでくる。

 彼女は俺の手を取って、一面に舞う花びらを大きく緩やかに渦巻かせた。

 降り注ぐ光を浴びて、花びらが美しく透き通っている。

 流れ始めた風の先に、扉が見えた。


 「花姫亭」の、ありふれた木の扉の幻が浮かんで、光にスゥと溶けていく。

 俺は後に残った彼女の心の蕾に触れながら、リーザロットに声をかけた。



「行ってらっしゃい、リズ。…………いつかまた会おう」



 俺の名を呼び返す声が、扉の先を照らす光に飲まれて遠退いていく――――――――…………。




 ――――――――…………もう俺にはあまり多くを語ることは出来ない。

 だが扉を開く瞬間に「主」の瞳に映った少女の景色はとても悲しいものだった。


 「主」の力を解放したことにより、少女は「太母の護手」達の魔術を完全に破り、彼らの存在を光の下に跡形も無く消し去った。


 「主」の力は凄まじく、その魔力場の乱れはサン・ツイードを超えて、遥か大地の彼方にまで轟いた。

 これが後に少女が真の「蒼の主」として認められる、最大の理由となったことだろう。


 しかし、そんな奇跡は積み上がった現実の前に、あまりに無力だった。


 俺がまず目にしたのは、たくさんの女の子の亡骸。

 アカシという名の、少女が慕っていた姉役の娘も――――子供の彼女の目には、とてもお姉さんに映っていたけれど、俺からすればまだほんの少し大人びてきたばかりのお嬢さんだった――――救助が間に合わず、浄化された血溜まりの中で、静かに息を引き取った。


 彼女が守ろうとした妹役の娘達も、間もなく全員息絶えてしまった。

 肉体への傷は浅かった子達も、激しく強力で邪悪な魔術に深く暴露されたせいで、霊体が耐えきれず皆壊れてしまった。

 あの子達の最期は、言葉にできない。


 さらに残酷なことは続いた。

 「主」は全ての「太母の護手」の信徒を、その御許に呼んだのではなかった。

 当然と言えば当然だよな。もしそうしていたなら、テッサロスタの悲劇は起きなかったのだから。


 店の女将・ニッカは、騎士団に救助を呼びに行く道すがら、別の信徒の手に掛かって亡くなっていた。

 「太母」の信徒は、街中で暴動を起こしていたのだ。

 あの石作りの竜の逆鱗で印付けられた家の娘を全員、調べ上げるために。

 彼らは街中で殺害した多くの市民の遺体を苗床に、あちこちで魔物を呼び出していた。


 厨房で働いていた異邦人の少年は…………自警団を呼びに行っていたが、その声もまた、どこにも届かなかった。

 下手人は信徒ではない。

 「太母」の信徒には異邦人が多かったから、誤解を受けたのだろう。


 …………街中で火が踊っていた。

 信徒と、住民と自警団、騎士団が、入り乱れて争っていた。

 少女が店の外へ踏み出すと、雨が降り始めた。

 冷たく湿った雨で、どんな魔も涙も洗い流してしまうような、激しい雨だった。


 少女は店の前に立ち尽くして、長いこと一人で雨に打たれていた。

 やがて騎士団を引き連れた、赤いワンピースの、琥珀色の瞳をした魔導師が迎えに来るまで。


 魔導師がなんと声をかけたのは聞き取れなかった。

 かろうじて少女が頷くのだけが見えた。


 そして少女は…………「蒼の主」は、路地裏から引き出され、また別の欲望の溜まり場へと移されていった。


 すぐには姫とは認められなかった。

 様々な思惑や利権、何よりも彼女の出生に対する差別が、それを阻んだ。

 結局、偽りの姫はその最期の裁きの日に至るまで偽りを止めなかった。


 恐れ知らずの「蒼の主」は、名誉の戦死を遂げた。

 都を襲った「黒い魚」と戦っている最中に、白い雷鳴が轟き、彼女と彼女を取り巻く世界を打った。

 焼け野原となった彼女の館の上には、やはり冷たい雨が降っていた。


 こうして二人の蒼姫の時代は終わり、ようやく少女は「蒼の主」として奉告を成した。


 あの日より、ずっと彼女の傍らに控えている漆黒の騎士が、鋭く短く、こちらへ視線を投げた。

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