第288話 泥沼に咲く花の色。俺と彼女が結ぶ眼差しのこと。
これは夢だ、とはもう思わなかった。
しかし、現実だとも思えない。
目の前に広がる苦痛や憎悪や醜さが、少女には全て意味を持たない土人形か影絵の類に見えた。
美しかったもの。
憧れていたもの。
…………かけがえのなかった全て。
それが踏みにじられている。
絶え間なく続く暴力の嵐に、心はもう追い付いていなかった。
残酷や哀れといった言葉が空々しく頭の中で転がっている。
自身に時折加えられる暴力が、ボロ雑巾のように成り果てた肉体の存在を痛烈に思い出させた。
「太母の護手」の男達が、妹役の娘達を生きたまま苗床にして呼び出した魔物…………おぞましくうねる、醜い以外に形容しようが無い、血濡れた黒い肉塊…………が、アカシを執拗にいたぶっていた。
肉体にも、霊体にも、長く深く鋭く刻まれるように、苦痛を与えている。
皮を剥ぎ取り、赤い肉をまさぐり、か弱い彼女の身体を、念入りに搔き回し、破裂させ、ねじ切り、犯す。
耐えきれぬ肉体の内から溢れた夥しい液体が、血の海に飛沫を立てて落ちていく。
彼女が苗床にされた娘達や少女を救おうと、太母の護手の魔術に抗えば抗うだけ、苦痛の叫びはより壮絶になった。
魔物にはらわたを喰い荒らされ続ける娘達が救いを求める声は、魔物をさらに醜悪に太らせていった。
少女にできることは何もなかった。
彼女の魂が完全に色を失くすまで、この惨劇を続けると男達は宣言した。
もうとっくに虚無に落ちていいはずの少女の心は、それでもアカシの必死の呼び声と、娘達の絶望の悲鳴を聞く度にざわめいた。
廊下で少女を襲った赤子の手が、いつからか赤い海の上で無数に踊っていた。
…………いや。赤ん坊そのものが這いまわっているのが見える。
半分溶けた、魔物みたいな姿だ。
もう少し大きな、たくさんの幼子が、血溜まりの内から少女をじっと見上げていた。
どこかで見たような顔立ちがちらほら混ざっている。
ついにハッキリと見知った面影を見出した時、少女は身体上の苦痛によってではなく叫びをあげた。
なぜ…………、と呻く声はもう出ない。
魔海に還っていったはずの、水底で安らいでいるはずの魂が、どうしてここに引き寄せられているのか。
それは今日より前に、この店で亡くなったはずの娘達であった。
気付けば少女のすぐ足元で、最も仲の良かったシンルゥが瞬きもせずに少女を見つめていた。
死んだ姉役の身体の残骸の隙間から、さらに多くの娘達の視線を感じる。
何の感情も宿していない、屍そのもののような魂の数々。
これも魔術なのか?
どうして眠っていた魂まで汚す必要がある?
「主」は何をしている?
なぜいつまでも見つめているだけなのだ?
このような冒涜が許されていいはずがない。あり得ていいはずがない。
太母の護手の男が、少女の頭を血溜まりのすぐ目の前にまで近付けて囁いた。
「蒼の魔女、まダ血を欲すルのか? 偉大なル母様の名ノ下に誓ウが、我々は残酷を好マない。好マないノだ、決しテ…………静寂以外ハ」
否定の言葉に滲む、固く織り上げられた罪の意識。
魂をもっともらしく見せかける男の技術は、今の少女の心をひどく逆撫でた。
盤石な罪の形。それを裏打ちにして力強く編み上げられている、どこまでも自然に迸る快感こそが、この男の魂の本質だと見透かしたが故に。
少女は憎しみを爆発させた。
まだ己の心から染み出すものがあったとは思ってもみなかったが、それは首筋や唇から火炎の如く熱い血となって流れ出て、血の海へと注いだ。
「しぶトい…………本当にしツこい娘だ。…………オい、もっト、ヤれ。まだ絞れル」
娘達の絶叫が赤子達を一斉に喚かせる。
男は血溜まりに向かって少女を思いきり叩きつけた。
床であるはずの場所には、深い深い、真っ暗な海が広がっていた。
あまりにも濃く強烈な、生々しい潮の匂いが全身に抜ける。
息ができない。
身体が急激に凍えていく…………。
「ワかってイル。そレデも、お前にハ見えテいル。魔女ニ目だノ耳だノは必要無いのダ。お前達ハ魂で魂ヲ見ル。だかラ邪悪で、果てしナく罪深く…………芯カらの騙り部トなルのダ。…………赦スのハ、母様の御業。我々ハ、一心に漂白ノ使命を全ウすルのミ…………」
今や見えるのはただ、「主」の瞳のみであった。
何もしない…………嘲笑うことすらしない、ちっぽけな水晶の瞳。
硬く、冷たく、白く。
血溜まりに咲くあの花よりもずっと白く…………。
アカシの魂には切なく優しい色が混じっていた。
悲しいまでに透き通った、青空の色。
だからこそ苦痛は一層黒々と彼女に染みる。
彼女の激痛が、少女にも伝わってきていた。
目も耳も、もうとっくに死んでいた。
少女は己を見放してしまいたかった。
「主」が良いと言ってくれるのなら、すぐにでもこの身を魔海に放り投げたかった。
だが、「主」はいない。
いや、いないのではなく、応えない。
見ていないのではない。
見て、何もしない。
どこに堕ちればいい?
何も無い。
どこにもない。
誰も――――――――…………。
…………
――――――――……………………長い髪から滴った水滴が水面を騒がせる。
平たい水面に輪がいくつも広がって、すぐに静まった。
男がリーザロットを血溜まりから引き上げた。
最期に今一度、蹂躙された娘達の姿を見せつけるために。
悪趣味な変態野郎に、俺は存在丸ごと怒りで震えていた。
今の俺がいつ、どこにいて、誰で、どんな姿をしているかなんて、知ったことか!
「主」だって、この際どうでもいい。
何もしないんだか出来ないんだか知らないが、俺はもうこれ以上、黙っているつもりはない!
俺にはもうどうすればいいのかわかっていた。
怒りが稲妻となって、ピシャッとわからせてくれた。
暗く濁りきった虚ろな蒼の双眸が、ぼんやりと水面へと投げかけられている。
重苦しい血の水鏡はその彼女の顔を、吸い込んで映し出す。
俺は巡って来たチャンスを逃さず、声を張り上げた。
「――――――――リズ!!! 俺だ!!! こっちを見てくれ!!!」
反応は無い。
だが、そんなことは最初からわかっていた。
彼女は俺を…………というか、最早何も見ていない。
ある意味では、ずっとそうだったのだ。
彼女は見えるものしか見ていない。
見たいものを映す意志こそ、今、俺が彼女の内に呼び覚まさねばならないものだった。
認めたくないが、あの邪の芽のクソ野郎がのたまうことにも一理あった。
くだらない、くだらないんだ、全部、全部、全部。
生きていることも死んでいることも神様も運命も幸せも残酷も裕福も貧乏も誇りも惨めも虚無も充実も家族も恋人も友達も花も星も月も太陽も。何もかも。
俺達は見たいものを見ている。
究極、それだけなんだ。
だから、くだらない。
世界なんて思い込みに過ぎない。
ヤツはそう吐き捨てる。
だけど、
「――――だから!!! 素敵なんだって俺は言うぞ!!!」
ただ見えるからだけじゃない。
見たいという心が彩るから、世界は息づく。
心は幻なんかじゃない。
魔術師なら、わかるはず。
それを見るのは、君なんだ。
「――――リズ!!! 君が、「主」を見るんだ!!!
この際、偶像だって何だって構わない!!! 見たいものを見ろ!!!」
間違っている? 馬鹿げている?
それこそくっだらねぇ。
正しいも賢いもあってたまるか。
そんなの、神様にだってわからないんだ。
文句があるなら、俺を止めてみやがれ!
「君はありのままを見ることができる。だからきっと、三寵姫なんだろう。
でも、君の世界はそれで終わりじゃない。君の世界はもっと広い! ――――他でもない君自身が、話してくれたじゃないか!」
蒼い瞳に、微かに光が揺れる。
俺は声を張り続けた。
「会いたい人がいるんだろう!?
どんなくびきを引きちぎってでも、手を伸ばしたいものがあるだろう!?
俺はその人に会ったことがあるぞ!! その人は今だって君を呼んでいるんだ!!! 君が聞くべき声だ!!!」
そのまま黙って見ていろ、「主」。
俺は俺のやり方でやる。
彼女が、そして俺が、己の目で世界を映すことを、お前は止められない。
「手を伸ばせ、リーザロット!! 俺が君の扉を開く!!
君の「主」を!!!
君の世界を!!!
信じろ!!!」
俺だって、同じ幻想の中にいる。
どれだけ望んだって出来ないことはある。
何でもかんでも願いが叶うわけじゃない。
でも、それと目を閉じることとは別だ。
「――――「蒼の主」!!! 目を覚ませ!!!」
――――――――…………少女の身体が水面から持ち上げられる。
水面がゆっくりと………時を蹴り崩しながら緩慢に、離れていく。
血溜まりの中の焦げ茶色の強い眼差しが、熱く重く、胸に沈み込んでくる。
血と肉で汚された魂の泥沼に、少女は手を伸ばした。
「――――…………扉の、お兄様…………!
我が「主」を、共に――――――――…………!」
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