第286話 清き魂達に祝福を。彼女が着飾る路地裏のこと。
異様な客の来訪の後は、不思議なくらいよく晴れた日が続いた。
少女の日々は「主」の眼差しと、彼女が兄と呼び慕う茶色い眼差しの下で、和やかに過ぎていった。
消えた客の行方は、依然知れないままであった。
いつになく熱心な自警団の活動にも関わらず、足取りは杳として掴めず、また、殺された質屋の遺体も、未だに家族へ返されずに騎士団に引き取られたままとなっていた。
「何でだろうね? そんなに妙な死体だったの?」
花姫亭の娘達に尋ねられて、遺体を見た厨房の少年は首を傾げて答えた。
「いや、見た目にはそれほど…………。ただ、今から思えばやけに綺麗ではあったな。あんまり血も出ていなくて、苦しんだ様子もなくて…………。何で死体だと思ったんだか」
娘達は「ふぅん」と頷き、次の噂に移る。彼女達が興味の対象を一つに絞るということは滅多にない。
料理の仕込みの手を止めずにいるのは、少年以外では最早一人だけと言ってもよかった。
少女は「蒼の主」の話題について、極力会話を振られたくなかった。
「あれでしょう? 「民よ、「蒼」に騙されるな!」っていう、あのうるっさい演説の」
「それそれ、その人達が今晩、蒼姫様を襲うって滅茶苦茶騒いでいるんだって」
「バッカみたい! できるわけないじゃん!」
「ね! 蒼姫様自体もめっちゃ凄い魔術師で、騎士団の精鋭部隊まで付いているのに。できるわけないじゃん! 頭おかしいのかなぁ、やっぱり?」
「そりゃそうでしょうよ。見るからにヤバいじゃん!」
「蒼姫様も相手にしなければいいのにねー」
「でも、サン・ツイードはかなりギスギスしてるって」
「本当? いつものニッカの大袈裟じゃない?」
「ううん、通りの人達がそう話してたの。今日はあんまり人も来ないだろうって、向こうの貝殻亭のオッサンなんて、いっそ今晩は閉めちゃおうかとか言ってたよ」
「そんなに? けど、サン・ツイードの話なんでしょう?」
「サン・ツイードからお客さんが来るからさ。…………あと、これは粉売りのお婆が言ってたことなんだけど…………」
話し手の娘が思わせぶりに声を潜めると、自然と彼女の周りに人が寄り集まる。
皮むきの最中の少女は、つられて目を向けた。
「本当はね…………あの人達の言ってることは正しくて、「本物」の蒼姫様は、このエズワースのどっかにいるんだって。…………だから、もしかしたらこの辺も襲われるかもしれないんだって」
「えぇっ!?」
娘達の大声に、少年がガマの風貌をさらに皺だらけにして不快がる。
少年は鍋を揺する手を止め、娘達に言った。
「おい、そのへんにしとけ! 夕に間に合わなくなるぞ!」
娘達は聞かず、騒ぎ立てた。
「それ、知ってるー! 前にニッカと粉屋のお婆が話してたの聞いちゃった。白羽の矢は、本当はこの街に落ちたんだって…………。でも、誰も見てないんだよね?」
「誰も見てない、ってことにしているんだよ。誰かが隠したんだ」
「誰かって?」
「だからぁ…………」
「っつーか、いくらなんでもありえないっしょ! 話がぶっ飛びすぎ! インボー論だよ、これはもう!」
「そうだねー。ニッカはすぐ話盛るし、あのお婆はいい加減歳だしねー。それに…………もし本当にそういう話なんだったら、蒼姫様のこと、皆で「裁きの主」に嘘吐いてるってことになっちゃうもんね? 許されるわけないじゃんね、そんなの!」
「確かにねー」
少女は胸に細い針が沈み込んでいくような感覚を、ぐっと堪えている。
少年が止めてくれることを密かに期待していたが、少年はもうすっかり諦めて鍋に掛かりきりになっていた。
娘達の会話は声高に続いた。
「じゃあ、やっぱり今の蒼姫様は「本物」ってこと?」
「そりゃあ、そうでしょう」
「じゃ、ひとまず安心かー。タイボのナントカも、さすがにこの店まで来ることはないだろうし」
「え? でも、こないだ来たんでしょ? あの朝っぱらに、姉様達がみーんなぶっ倒れちゃった日に」
「えっ、あれアイツらだったの!? アカシ姉様はただの異邦人って言ってたけど…………」
「そうなの? でも自警団の人がなんか深刻そうにそんなことを話していたような…………」
「どうなの、リズ?」
ガヤガヤとしていた娘達が、急にピタリと静まり返る。
少女はわずかに身を強張らせ、しとやかに首を振った。
「…………ごめんなさい。私も詳しくは聞いていないの」
「本当ー?」と疑いの声が口々に上がるも、少女はただ困った表情を浮かべるだけであった。
皆を不安がらせないためにも、客の正体に関しては伏せておくよう女将に強く言い含められていた。
ついに少女の手まで止まってしまったのを見かねた少年が、再び荒っぽく声を上げた。
「おい! いい加減にしねぇと、今の会話まで丸ごと全部ニッカに言いつけちまうぞ! いいのか!?」
娘達が様々に愚痴やら皮肉やらを返しながら、渋々持ち場へと散っていく。
少女は胸を撫で下ろし、おもむろにまた野菜をむき始めた。
鍋から香草の良い香りが立っている。
ナイフの刃の腹に映り込んだ己の瞳の奥から、いつもの茶色い眼差しがやけに心配そうな、そしてちょっと物欲しそうな目を少女に向けていた。
お腹が空いているのかな。
今日も今日とて日が暮れていく。
花姫亭の灯篭にふわりと明かりが灯る。
花びら模様の影が路地に静かに舞った。
少女は今晩は休みであった。
いつもは客にもらった本などを読み進めているのだが、今日はどうにも落ち着かず、ぼんやりと部屋で繕い仕事をして過ごしていた。
他に誰かいれば話もできようが、大方の街の人々の予想を違えて、案外に人の入りの多い晩となっていた。もう少し客が増えれば、少女にも声がかかるだろう。
昼間の噂のこともあるし、このように中断されることが半ばわかりきっているとなると、読書にのめり込めないのも当たり前だ。
少女はあまり裁縫は得意でないが、一針一針慎重にほつれを直していった。そろそろ新しい下着に買い替えたいのだが、すぐに着られなくなってしまったとはいえ、ドレスを新調したばかりだ。とても贅沢はいえなかった。
そこへ、ふらりと立ち寄る影があった。
少女は暗がりになった手元から顔を上げ、尋ねた。
「アカシ姉様、どうかなさいましたか?」
アカシは少女の手にあるくたびれた衣を見て溜息を吐き、返した。
「休憩です。それより、その見るに堪えない布切れは何です? 今すぐに捨てなさい」
「けれど…………貴重なのです」
「それでも捨てなさい。姫たるもの、そのようなものは決して身に着けてはいけません。裸でいる方が余程マシです」
「そんな…………」
「覚えておきなさい、リズ。それが気位というものです。己の品格は己で守らなければ。…………貴女の価値は貴女だけが決めるの。物もお金も、断じて貴女ではありません」
だからと言って、惜しいものは惜しい…………と思わなくもないが、実際この下着はもう限界かもしれない。下手な繕いのせいで、余計に惨めさが増した気すらする。
少女はおとなしく作業途中のものを脇へどけ、アカシを見つめた。
「わかりました。そうします。…………それで、お姉様はなぜ妹役のお部屋に?」
「貴女に渡したいものがあるからです。なかなか休みが合うことはありませんからね。…………姉役の部屋にいらっしゃい」
「はい」
颯爽と歩いていくアカシの背を追って、少女は部屋を出た。
姉役の部屋で焚かれていたお香は、妹役の部屋のものよりも一段と柔らかな香りがした。
アカシが自らの給金を使って、いつもサン・ツイードから上質なものを取り寄せているのは知っている。
アカシは少女に、だしぬけに言った。
「リズ、私はもうすぐこの店を出て行きます」
「えっ」
少女が目を丸くしているのを振り返りもせず、アカシは続けた。
「ようやく店を開く目途がついたの」
「そうだったのですか」
自分の店を持つ。
少女達の境遇においては、それは最も華々しい門出だった。
少女は両手を胸の前に組み、素直に祝福した。
「おめでとうございます。きっと素敵なお店になさるのでしょうね。お姉様ご自身と同じように」
「貴女は本当に生意気」
アカシはニコリともしない。どころか、眉間に皺すら寄せている。客にはすこぶる愛想が良いと評判の娘だが、どうにも身内には冷淡なのだった。
とはいえ、付き合いの長い者ならば十分に機微は感じ取れる。
少女は肩をすくめて微笑んだ。
「いつか私もお店に呼んでくださいますか?」
「ありえませんね」
アカシが開いた戸棚の中から一着を取り出し、壁にかける。
それは深い蒼で染め上げられたシンプルなワンピースで、月夜の水面を写し取ったような、美しく滑る生地で出来ていた。
裾が揺れると、あたかも星がこぼれるよう。
思わず見惚れていると、アカシが幻のように短く笑顔を作った。
「サン・ツイードで最上級の仕立て屋が、三寵姫のお召し物にも使われる最高の生地で仕上げたのだと、得意の騎士様が誇っておられました。…………ただ、私の趣味では全くありませんからね。貴女にあげます」
「えっ」と、もう一度少女は大きく目を瞬かせる。
彼女は首を振り、身を縮めた。
「そんな…………頂けません! それに、あの騎士様はお姉様の…………」
「気になさらなくて結構。あの方はすでに貴族のお嬢様との婚約が決まっています」
「えっ」
今度はさすがに言葉を失う。
傍目にはとても深く想い合っていたように見えたのだが…………そんなことってあるのだろうか。
アカシを傷つけるつもりはなかった。しかし、そんな弁明すら彼女を悲しませてしまいそうだ。
アカシは冷ややかに口の端を曲げ、言葉を継いだ。
「あら、貴女にもまだそんな初心なところがあったとは、意外ですこと。
…………いい、リズ? 恋は幻です。いくら夢中になっても構いませんが、それが真実などとは絶対に思ってはいけませんよ。
ましてや結婚ともなれば、それはもう鍋や布巾や洗濯板とかと全く変わらない次元のお話です。夢中になる類のものでは、ちっともありません。
惨めな思いをしたくなければ、よく心得ておきなさい」
「…………」
しょんぼりと肩を落とす少女に、アカシは再び、短く優しく笑いかけた。
「…………だけど、愛することは違う。それは真実」
アカシはワンピースを少女にあてがいながら、満足そうに頷いた。
「…………思った通り。貴女は本当、憎らしいわ」
少女はためらいつつアカシからワンピースを受け取り、抱き締めながらおずおずと尋ねた。
「あの、何が違うのでしょうか? …………その…………恋と、愛と…………」
口にすると気恥ずかしい。
夢の中でならまだしも、こうもハッキリと目覚めている時ではのめり込みきれない。
アカシは少女に着替えてみるよう言い、それから答えた。
「いずれわかる…………とも言い切れないのが、この商売ですからね。教えてあげましょうか。
そうね…………。愛はね、恋よりもっともっと自分勝手なものなの。少なくとも、私はそう確信しています。
究極の自分勝手です。相手からどう思われようと…………例え憎まれようと、どころか存在ごと忘れられようと、揺るがないの。
…………恋をするには必ず相手が必要でしょう? でも、愛するのに必要なのはただ一人、自分だけ。相手はただ、いるだけです。在るべき形で、ただそこに在るだけ。そして貴女はそれを何を賭してでも守りたいと願っている。その幸せを祈りたくて、主を信じるようにさえなる」
鏡の前でドレスをまとった少女の髪にアカシの手が触れる。
白く長い大人びた指先は、見たこともない、妖精を思わせた。
「…………ちゃんと梳かしていますか? 休みだからって気を抜かないでくださいね」
そう言って取り出されたアカシの櫛はやはり、途方もない上物だった。
装飾からするとスレーンのものか。「ただのお土産よ」とアカシは言うが、そんなことはないだろう。
誰からの贈り物かは、聞かないでおくが。
アカシは少女の髪を丁寧に梳かしながら、静かに口ずさむみたいに語った。
「愛する心。それが真実。この世で最も尊いもの。…………所詮妄想と切り捨てるのは、とても愚かな行為です。絶対にしてはだめよ。人にさせても、だめ。
…………貴女にはまだわからないかもしれませんけれど。
人は弱く、あっけないほど簡単にそんな虚無に転がり落ちてしまうものです。ですから常に心しておかなければいけません。愛は、この魔海に下ろされたただ一つの錨だと。この冷たく深く波立つ世界に貴女を繋ぎ止める…………唯一無二の絆なのだと」
アカシは梳いた少女の髪を、ゆっくりとまとめて編み始める。
少女はみるみる綺麗にまとめられていく自分の髪を見つめながら、呟いた。
「難しいお話です…………」
「全て理解できるとは、元より思っていません」
少女は鏡の奥から見つめてくる、茶色い眼差しに心中で尋ねた。
「貴方にはわかりますか?」
まるで自分とそっくりな、気恥ずかしそうな眼差しが気弱にショボつく。
お兄様も初心なのですねと、少し可笑しくなった。
アカシが少女の髪を結いあげ、ワンピースと揃いの花飾りを添える。
鏡を見て今一度満足そうに頷くと、アカシは少女から離れて話した。
「これで良いでしょう。きっと一人では私のようにうまくはできないでしょうけれど、励みなさい」
「ありがとう、ございます」
少女は見違えるような自分の姿を眺め、はにかんだ。
何だかまるで、これからお姫様のパーティにでも行くみたいだ。
誰かに見てもらいたい。けれど、このままこうして噛みしめてもいたい。
茶色い眼差しが一段と明るく見つめてくれているので、一層胸が高鳴った。
アカシは窓辺に腰を寄せ、賑やかな夜景と黒くたゆたう星空とに目を向けた。
「さぁ、満足したならもう帰りなさい。私の用は済みました」
「あの、ありがとうございます。とても嬉しい…………」
「当然でしょう」
「でも、その…………素敵過ぎて、ちょっと他の子に申し訳なくて…………」
「ですから、見くびらないでくださいと言ったでしょう。…………他の妹には新しいものを買ってあげます。貴女はせいぜい、稼いで誂えるといいわ」
堪えきれず、つい忍んで笑ってしまう。
アカシの表情は窺えなかったが、漂いくる魔力は清らかでほの甘く、綺麗だった。
少女はもう一つ、やや声を落として聞いた。
「あの…………」
「しつこいですね。悪癖ですよ。…………何?」
「お姉様は今、どなたかを愛していらっしゃる?」
沈黙が流れる。
通りの喧騒が、部屋にまでこぼれてきていた。
アカシは振り向くことなく、小さく優しい溜息を吐いた。
「本当に生意気な子ね。…………わかっているくせに」
「ごめんなさい。…………お姉様の幸せを、リーザロットは心よりお祈りしております」
「…………おやすみ。貴女にもいつか良い夢が訪れるといいですね」
「ありがとう、お姉様」
「もう聞き飽きましたよ」
部屋を出ると、いつにも増して外が騒がしい気がした。賑やかな晩の浮わつきが、心をさらに落ち着きなく弾ませる。
スカートの裾が揺れると、世界を祝福する星が白くきらめく。
部屋に帰ったらもう少し、鏡と楽しもう。
お兄様に、ご主人様に、一番綺麗な私を見てもらいたい。
そう思って妹役の部屋の扉をかけた時、階下の店から叫びが響いた。
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