第287話 嘘と沈黙。俺と彼女が浸る、赤い夜のこと。

 少女はすぐに店へと駈け下りていった。

 悲鳴が次々と痛ましく塗り重ねられていく。

 実際に何度も聞こえているのか、それとも頭の中で反響しているだけなのか、本当に判別がつかなかった。


 ただ一つ言えるのは、これが只事ではないということ。

 信じたくはないが、建物中に急激に充満していく魔力が一つの事実を如実に表している。

 あの人達が…………「太母の護手」が、戻って来た。

 明確な悪意と共に。


 少女はかつて感じたよりも遥かに濃く、身体がずぶ濡れになる程の湿った魔力を無防備に浴びながら、とにかく走った。

 血の匂いがする。

 魔力場にも、空気にも、生々しい赤が大量にぶちまけられている。

 正体不明のひりつく刺激が鼻腔を、咽喉を、全身の皮膚を恐ろしい速度で侵す。

 生臭い泥土が急に胸につかえた気がして、吐き気を覚えた。


「…………ッ」


 目の前が二重三重にぶれる。

 悲鳴に交じって、強い金属音が耳に響いた。


 廊下の壁や床が次第にゆっくりと溶けだして、黒くねばつく液体となる。

 コポコポと小さな泡を立ててにじり寄ってくる液体の内から、小さな手が茸のように生えてきた。


 何だ…………?


 子供の声がする。

 あどけない、まだほんの幼子の泣き声が。


 そのうちに手はいくつもいくつも追って生まれ出て、ぞろぞろと少女へ向かって這い始めた。

 その仕草はまるで本物の赤子のようにたどたどしく、何か切実で無垢な意思さえ感じさせた。


 聞こえる。

 声が。

 泣き声が。


 …………違う。

 違う。

 私はそんなものじゃない。


 際限無く生まれ続ける赤子の声に、少女の心臓は今にも押し潰されそうだった。

 違う、違う、違う…………と幾度も唱えながら、少女は辛うじて呼吸を続けた。

 激しい動悸の中、やっと意識が言葉を絞り出した。


「嫌…………やめ…………やめて…………」


 手がズルズルと近付いてくる。

 声がけたたましく大きくなる。

 恐怖で頭が真っ黒に染まっていく。

 ふらふらと己に触れかかった手を、少女は叫びながら強く振り払った。



「――――――――来ないで!!!」



 押しのけられた赤子の手がバラバラに砕け散って黒い液体へと沈む。

 途端にドッと液面全体が震えたかと思うや、黒い液体はさらに勢いを増して景色を溶かし始めた。

 黒い水が溶岩の如く、床を迸る。


 最早唸りとも叫びともつかない子供の声を全力で悲鳴で掻き消し、少女はある限りの力をこめて足を前へ踏み出した。

 動かない身体を、それでも強引に引きずり、走る。

 転がるようにして。


 小さな手に掴まれて、靴が片方脱げ落ちた。

 裸足が黒い水溜まりを踏みつける。

 人肌みたいに生温かく、沈み込むような感触だった。


 部屋に近付いていく。

 頭が割れそうに痛かった。

 全身が熱い。内臓が溶けているみたい。

 もう片方の靴が一段と深い水溜まりに沈み込み、真っ黒に染まって絡め取られた。


 目から涙が溢れている。

 今、気付いた。

 だけどそんなこと、どうでもいい。


 行け。

 行くんだ。


 皆。

 どうか…………お願いだから…………。


 少女は店へと続く扉を、身体一杯で押し開けた。




 ――――――――…………目の前に血の海が広がっていた。



 人なぞ物に過ぎないのだと、これでもかと思い知らされる。

 少女は身体中の繋ぎ目が全て解けて、バラバラになった心地がした。


 今朝まで当たり前のように生きて笑っていたもの。

 考え、動いていたもの。

 夢見ていたはずのもの。

 それらは今、紛れもなくただの肉塊であった。


 魂は魔海に還るだのなんだのと、そんな考えは一瞬にして塗り潰された。

 だから何だ?

 どうしてこんなことが許される?

 少女には眼前の光景以外、何も見えなかった。


 美しく飾られ、清められていた部屋の隅にはまだ花が一輪、かろうじて残っていた。

 娘達で育て、選び、差した白い花だ。

 惨劇を静かに見下ろしているその花は、いやに無残に世界から浮き上がっていた。

 幻かもしれない。


 何人か、まだ息のある姉役の娘がいた。

 焼け爛れ、手や足をもがれたその姿の異様さに、一目で助からぬと知れる。

 苦悶の呻きが少女に届く。

 血だまりの中で伸ばされた彼女達の手が誰に、何を求めていたものだったのか、少女は考えたくも無かった。


 寒い。

 内臓は煮えくり返るようなのに、外側は凍えるようだ。

 涙はいつしか引いていた。

 だが震える手足をどうすることもできない。


 部屋の真ん中で、震え泣きじゃくる妹役の娘達を囲っていた黒ずくめの集団が、一斉に少女に目を向けた。


「…………見つ、ケタ」


 あの客達。

 無機質な視線を浴びると同時に、少女の胸に鋭い痛みが走る。

 堪え切れず血を吐いたが、その血は炭を溶かしたように真っ黒だった。


「っ…………!」


 言葉が出てこない。

 完全に頭が働いていない。

 魔力場がどこまで広がっているのか、わからない。考えられない。感覚が何もかも麻痺している。

 少女は溺れている自分に恐怖して、さらに溺れた。


「あっ…………う、あぁっ…………!」


 咳き込むとさらに黒い飛沫が散る。


 助けて。

 助けて。

 「ご主人様」。

 どうして…………。


 青紫色にぬめる体表に黒々と刺青を施した異邦人が、少女に近付いてきて言った。


「間違イなイ。蒼の眷属ダ」


 奇妙な抑揚が耳障りに頭に響く。

 少女は後ずさり、その姿を見つめた。

 膨らみ過ぎたシャボン玉のような巨体の上に、しなびた果実じみた頭が小さく乗っている。そこに穿たれた瞳は真っ黒く茫洋として、底知れぬ虚ろさだけを映していた。


「…………マずハ逆鱗を回収スる」


 伸ばされた腕からは、海水中の生き物が腐ったかとすら思える凄まじい悪臭が立ち上っていた。

 やはりこの男の魔術であったかと、少女は縮み切った脳の片隅で考える。


 逆鱗…………あの日の土産か。

 恐らくあれが襲撃のための目印の役目を果たしたのだろう。もしかすると、魔術の起点にすらなっているのかもしれない。

 馬鹿なことをした。そんな魔具なら、売ることなんか考えずにすぐに海にでも捨てるべきだった…………。


「…………ない」


 少女は喘ぎつつ、続けた。


「ここには…………ない…………」


 本当のことだ。ニッカに預けてある。

 そうだ。ニッカは?

 ニッカはどこに?

 彼女もこの血の海の中に?


 男が、少女の頬を強く打った。


「どコだ?」


 衝撃で目がくらむ。

 少女が打ちのめされて口がきけないでいると、男は仲間に呼びかけた。


「オい」


 妹役達の周りにいる仲間の一人が顔をもたげる。

 彼の長く細過ぎる腕には、血塗られた鉈がぶらんと気怠く垂れさがっていた。


「ひトり、こロセ」

「――――やめて!!!!!」


 少女の叫びは娘達の悲鳴に掻き消された。

 腕の長い男が悲鳴を上げる娘を一人掴み上げ、鉈をその頭上に振り上げる。

 何度も、何度も、執拗に顔面を砕かれた少女は、水っぽい呼吸音を残して赤黒い水面に崩れ落ちた。


 少女は吐き気を飲み込み、答えた。


「ニッカに…………女将に、預けました! ニッカは…………多分、金庫に入れて…………」

「金庫ハ? どコだ?」

「屋根裏…………渡り廊下の、先の…………」


 あっちにはまだアカシがいるが。

 逃げてくれただろうか?

 この魔力場の浸食に、彼女ならきっと耐えられる。彼女なら逃げられるはず。


 少女は男を仰ぎ、必死で言葉を続けた。


「お願いです…………! もうやめて…………私が嫌なら、私だけにしてください! どうかもう…………皆は…………」

「魔女の騙リハ聞かナイ」


 男が少女の首を絞め上げる。

 彼女に語り掛けているというより、祭壇に祝詞を上げているかのような、淡々と厳かな調子であった。


「我ラが母ハ…………「赦しの主」ハ、こノ世の唯一の主であル。いかナル時空ニも通ずる「始まりの無」、そノ源泉にしテ、そノもの。

 我ラハ川だ。皆、母ヨり生まレし一筋の川。大小はあレド、貴賤は無イ。同ジ大河の一滴。…………たダ、そレを知ル者と知らヌ者がいル」


 少女がもがく様を、男は微動だにせず眺めている。

 憎しみも怒りもいなかった。

 彼はただ、見下していた。


「愚カな哀れナ民は洗脳されテいルのダ。「裁きの主」トいう魔物ニ…………ソして災イの魔女、三寵姫共に。中でモ恥知らずノ騙りの魔女…………「蒼の主」ニ」


 少女をゆっくりと苦しめていく男は、暗い悦びに浸っていた。

 使命に身を投じる歓喜だけではない。血の肉の湿った溜まり場の中から、情欲は滾々と湧いて出てくる。

 己だけで噛みしめるそれを、「母」は必ず赦すと彼は信じている。


 少女は気が遠のく限界の場所から、そんな男の魂の色を見つめていた。

 見たくなぞないが、流れ込んでくる。

 あちこちから、魂の色が否応無しに混ざり込んでくる。


 これは夢なのだろうか?

 だとすれば、いつから夢だったのか?

 血溜まりに転がったせいで汚れてしまったドレスから、ポタポタと黒いような赤いような液体が滴っている。

 生臭い刺激臭が、どれだけ強く目をつむっても漂ってきた。


「…………「蒼の主」ハ罪深き魔女。こノ世で最も邪悪ナ、嘘ヲ継ぐ者。

 「裁きの魔」の名の下ニ「魔海」を騙リ、世の真実を覆イ隠し、長ク民をたぶラかし続けテきタ。本来無であルべき魂に醜悪ナ色を塗りタくリ、巫女をさシおいテ調整者を気取ル。

 生きトし生けル我らは皆、同じ川。争ウべきデはなイが、浄メねばなラぬもノはあル」


 私は、違う…………と少女が微かに言葉を漏らす。

 男は少女の首を、今少し強く絞った。


「っ…………ぁ…………」

「騙リは聞かナい。己でよクわかっていルはズだ。お前ハ蒼の眷属。多くノ魔女を調べタ今なラば、先日ヨりもヨくわカる。お前ニハあノ「裁きの魔」ノ匂いガ特別濃く…………吐き気を催ス程に、染ミ付いていル」


 「蒼の主」はサン・ツイードにいる。

 嘘の裁きは下っていない。

 だから私は蒼じゃない。

 私は…………。


「…………ちが…………ぅ…………」

「都の「蒼」ハ、偽者ダ」


 男は万力を締めるが如く、言葉を重ねた。


「あレはただの魔女に過ギなイ。濁っタ川。我々の導き手たルあノお方が直々にそウ見做さレた。だかラ、我々は探してイた。…………真ノ「蒼」、諸悪の化身を」


 …………違う…………。


 苦しい…………。

 痛い…………。

 寒い…………。


 …………「ご主人様」。

 なぜ何も仰ってくださらないのです?

 どうして誰も、何も裁かれないのです?


「オ前はマだ殺さなイ。オ前は魂から徹底的ニ浄メる必要がアる。デなけレば、お前は何度でモ蘇る」



 どうして?

 どうしてこんなことが起こるのです?



 これは悪夢?

 この赤い海は何?



 赤も黒も見分けがつかない。

 白い花が痛い。



 嫌だ、もう何も見たくない。

 聞きたくもない。

 魂なんて知らない。



 やめてよ。

 嫌だ。

 嫌だ。



 鉈の男が娘を一人を引きずり出し、肌が裂けるのも構わず娘の服を乱暴に削ぎ落していく。

 悲鳴を上げた別の娘が、控えていた別の信徒達に頭をこん棒で殴られた。助けを求める激しい声が殴打の音に飲み込まれていく。


「アの娘共は贄トする。お前を「始まりの無」ヘト沈めルための…………。お前ほどではなイが、皆、ひどク匂ウかラ」

「やめ…………て…………嫌…………嫌…………」

「話ガ通じテいなイのか? こレは使命だ。必ず完遂スる。案ずることハない。お前達ニは必ズ、母様の赦しがアる」



 皆が自分の名前を呼んでいる。

 すでに死した者も、まだ生きている者も。



 憎まれているのか?

 こんな目に遭わせて…………。



 声は悲鳴と暴力の渦に掻き消される。



 魂の叫びが反響し続けている。

 嫌だ。

 「ご主人様」。

 …………。



 嫌だ。

 もう、何も…………。




「――――――――リズ!」




 ふいに、甲高い声がした。

 目を向けると、開け放してあった厨房への入り口に、息を切らしたアカシが立っていた。


「アカシ…………姉様…………何…………で…………」

「今、助けますからね!! 自警団と騎士団も、もうすぐやってきますから!」


 信徒達の目の色が一層残忍に変わるのを、少女は靄がかった視界の端に見た。



 …………ああ。

 「主」。



 胸の内に一瞬だけ差した、冷たく澄んだ水晶の眼差しを、少女は他人事じみた空しさと共に見返した。


 見つめるだけの存在を、初めて憎いと感じた。


 「憎い」と、初めて感じた。

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