第278話 白い光の雨に打たれて。俺が少女の夢に迷い込むこと。

 ――――――――…………。



「おい、起きろ」



 掠れた声が聞こえる。聞きなれない少年の声。ヤガミでもクラウスでもない。


 誰だ?

 俺はどこにいる?

 皆はどうなった?


 少年は長く深い溜息を吐き、うんざりと言葉を続けた。


「ったく、またとんでもないもんに巻き込まれやがって…………。俺は一体何度、お前を助けてやってる? 大概にしろよ。カミサマじゃねぇんだぞ」


 …………邪の芽か。

 この胸のむかつく魔力は、アイツに違いない。


 思い出した。アイツは中学生の俺の姿を乗っ取っているから、こんな声で喋るんだった。

 全く気色悪い。いつまで続ける気なんだ?

 留守番電話と会話している気分だ。


 邪の芽はその腹立たしい、濁った陰のとっぷりと溜まった嫌らしい声で、ぶっきらぼうに続けた。


「特に今回のはとりわけ軽い気持ちで絡んでいい相手じゃない。わかってんのか? 自分が今、どこで、何をしているか? あのまま俺が助けなかったら、どうなっていたか?」

「…………黙れ。用が済んだなら、とっとと失せろ。お前なんかいなくても、どうにかなる」

「俺だって好き好んでお前なんぞと言葉を交わしているんじゃない。ただお前をこのまま泳がせても、どうせまた溺れる。だから来たんだ」

「お前の力は借りない! 何度も言わせるな! お前にはフレイアも、俺の魂も、世界も、何一つくれてやるものか!」

「ハッ、戯言は聞き飽きたぜ」


 邪の芽は唾と一緒に吐き捨てると、つまらなそうに話し継いだ。


「お前や蛇の娘の運命は、お前が決めることじゃないんだ。お前は蛇の娘にくべるただの薪だ。焦らずとも、時はもう目前に迫っている。お前はその時まで、ただ生き続けていさえすればいいんだ」


 クソ、忌々しい。

 俺は絶対にフレイアを守り抜く。コイツはこのまま、俺の中でずっと、この幼稚な姿のまま引きこもらせておいてやる。

 邪の芽がそれ以上何も言わないので、俺は怒鳴りつけた。


「フン、よく言う。っつぅか、そんなに俺が必要なら、とっとと助けてみたらどうだ!? まさか、これ以上はどうにもできないってんじゃねぇだろうな!?」


 邪の芽の答えは辛辣だった。


「たまには賢いな。正解だ。ここから先は、お前がお前にしがみつく以外に道は無い。

 一つアドバイスをやろう。アレとやり合うなら、いかにも人間じみた、ありふれた飲んだくれのクソだかゲロだかみてぇな考えは、丸ごと綺麗さっぱりドブに捨てちまうことだ」

「何だと?」

「それだよ。…………「何?」「何で?」「誰?」「どこ?」「いつ?」…………くっだらねぇ。

 それにしても、お前は本当にどこまで行っても凡庸だな。眩暈どころか、吐き気すらしてくる」

「…………好きなだけドブに頭突っ込んでろ。

 お前だってさっき、今、俺がどこで何してるかわかってんのかって聞いてきたじゃねぇか。自分のことは棚に上げんのか、寄生虫野郎?」

「当たり前だろうが。俺が言っているのは、俺の言葉がわかってねぇぐらい馬鹿なら、いっそもう考えるなってことだ」

「ってことは、お前には答えがわかってるんだな? なら、さっさと教えろ。それで済む話だろうが」

「ふん、済むものか。問いは永遠に終わらない。永遠さえ、終わらせられない。

 お前…………今、誰と話してるつもりだ? 俺は何だ? そしてそう問うお前は何だ? 俺達には何の意味がある? 誰が、何が、それを意味付ける? いつからだ? お前はいつからお前だった? 世界はいつからある? いつとは何だ?」

「それは…………」


 …………。

 俺は首を振り、やや調子を萎ませた。


「…………俺は、そんなことが知りたいわけじゃない」

「ここはそんな甘い空間じゃねぇんだよ、馬鹿が。全部誰かが答えを用意して待っていてくれると思うな。

 肝に銘じとけ。お前はお前のクソで溺れるんだ。いつだってな。

 わかったら、わかったクソだけ後生大事に抱えてろ。そうしてりゃ、アレは道化でしかない。とことん馬鹿になる以外、飲まれない方法は無い」


 邪の芽の舌打ちが聞こえる。

 彼は声を低くして、話を切り上げた。


「チッ、くだらねぇ。…………俺はもう消えるぜ。俺は馬鹿じゃねぇからな」

「待て! どこへ行く!? 「アレ」って何のことだ!?」


 心底うざったそうに片手をひらつかせ、背を向ける15歳の自分の姿が一瞬、目の前に浮かぶ。

 彼は何も言い残すことなく、ぷっつりと姿を消した。



 ――――――――…………。


 白く強烈な光が戻ってきて、たちまち頭から溢れ出す。

 自分が今まで何を見ていたのか、どこにいたのか、考えるまでもなく全てを塗り潰していく圧倒的な量の光線に、俺は悲鳴をあげていた。


 悲鳴すらもあっけなく飲み込んでいく、光の大滝。

 暴力的な白は俺を焼き尽くすが如く、感情を漂白していく。


 何も見えない。

 考えられない。

 何も…………。


 その時、ふいに一片の桜色の花びらが視界を遮った。

 みるみるうちに花びらは数を増し、見事な花吹雪となる。


 淡い濃淡に彩られた桜色の旋風が俺を取り巻き、あっという間に空間を鮮やかな花びらで埋め尽くした。

 光はいつしか麗らかな春の日差しと変わっている。

 チラチラと舞い落ちる花びらの間から漏れる光は、もう俺を脅かさない。

 揺れる小さな花びらが地面を形作っていく。

 花びらの影が、頬に当たっているのを感じた。


「…………リズ?」


 俺は顔を上げ、呼びかけた。

 花びらの華麗に舞う中、小さな人影がこちらへゆっくりと近付いてくる。

 子供のようだ。

 11、2歳ぐらいの…………。


 そうして俺の前に現れたのは、黒く艶めく髪を肩で切り揃えた、蒼玉色の瞳の少女だった。


 寄せるさざ波のように優しくきらめく眼差し。長い睫毛が、瞬きの度に音を立てるよう。

 白い頬にほのかに差した赤みが、顔立ちの美しさと純粋な印象とを一層引き立てている。

 小鹿のようにか細い手足はすらりと長く、身に纏う濃紺色の可愛らしいワンピースが、わずかに漂う大人っぽさに不思議とよく馴染んでいた。


「君は…………リーザロット…………?」


 少女はあどけなく首を傾げると、ワンピースの裾を広げて、恭しく挨拶をした。


「初めまして、お兄様。貴方をご案内するようにと、「ご主人様」に言われて参りました」

「ご主人様…………?」


 少女は顔を上げると、思わず見惚れてしまう綺麗な立ち姿で答えた。


「夢でお声が聞こえました。「ご主人様」は貴方をお望みです。

 …………私は、恐らくお兄様が仰る「リーザロット」ではないと思います。でも…………ええと、何と言えばよいのでしょうか…………。難しい…………」


 少女が年相応の戸惑いを顔に浮かべる。

 彼女は眉を少し下げ、困ったように俺を見ていたが、俺が同じく言葉に窮しているのを見ると、また姿勢を正して話し始めた。


「お兄様のおっしゃる通り、私も「リーザロット」ではあるのです。でも、私はお兄様に初めてお会いしました。お兄様の仰る「リーザロット」が、いつの、どんな私なのかは、私にもわかりません。ごめんなさい。

 私は夢を見ているのです。夢の中で、「ご主人様」に寄り添い、お声を聞いて、こうして誰かとお話ししたりするのです」


 俺は呆然と目の前の少女を見つめていた。

 その美しさはほとんど輝くばかりだった。眺めているだけで心が洗われ真っ白になるような、そら恐ろしい心地さえする。

 俺の知っているリーザロットも尋常でなく美しいが、幼い彼女はもっと、どこか人離れした、凄まじい印象をまとっていた。


 昔のリーザロット…………ということで、ひとまずはいいのだろうか。

 化物には見えないし、なんなら逆に、少々怖いぐらいに近しくリーザロットの魔力を感じる。一切セーブされていない、生のままの力を浴びているのだろう。

 俺はおずおず口を開いた。


「君のことは、とりあえずわかったよ。君は「リーザロット」の一枝。…………確かに、そうみたいだ」


 どうにか微笑むと、はにかんだ喜びの微笑みが返ってくる。

 もう全部投げうって彼女の言うがままになりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて俺は尋ねた。


「けど、もう一つだけ答えてほしい。「ご主人様」って誰なんだ?」


 予感はある。

 だが、ハッキリと言葉が欲しい。

 少女は胸の前で小さな手を組み、慎ましく首を振った。


「…………ごめんなさい。私がそうお呼びしているだけの方なのです。お姿をお見かけしたことはありません。もしかすると、そうしたものなどは持っていらっしゃらない方なのかもしれません。

 私の大切な…………私を、ずっと見守ってくださっている方です。いつもとても大切に思ってくださるので、私もお応えしたく、頑張っております」

「どんな声が聞こえるのかも、伝えられないかな?」

「どんな?」


 少女がぱちくりと目を瞬かせる。

 彼女はちょっと考えるそぶりを見せ、それからこう答えた。


「優しい…………でも、少し寂しそうなお声だと、私は思います」

「そう…………。もしもその人が魔物だったりとかは、考えない?」

「お兄様は私を心配してくださるのですか?」


 少女がもう一度、女の子らしく首を傾げる。

 俺は「そうだよ」と、屈んで彼女の目を覗き込んだ。


「…………「裁きの主」って知っているかい?」


 俺の問いに、少女は刹那、瞳を冷たく強張らせた。

 水晶に似た頑なで鋭い輝きを宿す目に、俺はさらに言葉をかけた。


「…………言えないんだな?」


 少女がほんの少し、微かに頷く。

 助けを求めるような、何かを守りたがるような一途な眼差しに、俺は魔力や言葉では説明できない「リーザロット」を見た気がした。

 俺は立ち上がり、彼女に言った。


「来てくれてありがとう。…………案内をしてくれ」


 少女が俺を見上げ、今度はこっくりと元気に頭を振る。

 彼女はにっこり笑い、ワンピースをひらりと翻して背を向けた。


「…………それでは、お兄様。参りましょう。「リーザロット」の家へと」


 少女が歩き出すと、花びらがとろけるように消え、辺りは雪原のような景色に覆われた。


 淡い日差しの中、粉雪が静かに舞っている。

 リーザロットの小さな足跡が真っ白な地平にぽつぽつと続いていく。

 俺は儚げなその軌跡を、彼女の歩調に合わせてゆっくりと辿った。

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