第263話 アオイ山の激闘。俺が前人未踏の気脈に挑むこと(前編)

 アオイ山の山頂には、例の雲がかかっていた。

 ずんぐりとしたあの巨大な雲塊の中では、途方もなく激しい風が吹き荒れているという。

 決して入るなと忠告されていた、まさにそこへ向かって、白竜は向かっていた。


「オイ、マズいんじゃねぇか!?」


 ヤガミが言う。

 近付くにつれて着実に凶暴さを増していく風と苦闘しながら、俺は大声で返した。


「何より、お前がな!」

「言ってろ! どうすんだ!? このまま突っ込むわけにはいかねぇぞ!!」

「お前こそ、何か策はないのか!? この間ジンに案内してもらってた時、何か企んでいるみたいだったじゃねぇか!!」

「今更なんだよ!!」


 ヤガミが舌打ちする。もちろん吹き荒ぶ風のせいでそんな些細な音は聞こえやしないのだが、力場を介して彼の好戦的な感情はハッキリと伝わってくるのだった。

 この期に及んで、コイツは自分の身の心配なぞ欠片もしていない。考えているのはただ、どう白竜を仕留めるかだ。


 冷静になってみると、コイツの魔力の根源は単純だった。もう一人のヤガミ、ジューダム王だ。どういう仕掛けだか知らないが、彼はその力を自分の側へ引っ張り込めるようだった。


 仕掛けはともかく、そんなことをして本当に大丈夫なのか。

 勘付かれたり(むしろ、気付かれないと考える方が無茶だろう)、逆に侵入される恐れだってあるんじゃないのか?

 モヤモヤと考えていると、怒声が飛んできた。


「うるせぇぞ! 今はそんなこと考えてる場合じゃねぇ! 集中しろ!」


 俺はうんざりして溜息を吐く。

 ったく、再会したての頃のあの大人ぶった面はどこへやら。


 と、ふいに右方から不穏な気配を感じ、俺は大きく羽ばたいて飛び退いた。


 間髪入れず、今さっきまで飛んでいた位置を白く輝く槍が風を貫いて通り過ぎていく。

 ギョッとして振り返ると、シスイが間近に迫ってきていた。


「!? マジかよ!?」


 俺とヤガミが同時に目を見張る。

 ヤガミは手綱を握り締め、シスイの射線から大急ぎで離れた。


「ワープでもしたのか!? わざわざ洞窟抜けまでしたってのに…………! あの人どうなってんだ!?」

「…………抜け道は一つとは限らない。ここは俺の里だ」


 言うとシスイは俺達を追わずに、追い風を掴んで素早く身を浮かせた。

 次見た瞬間には、彼は俺達を追い越して白竜の尾部へと猛スピードで迫っていた。

 引き絞られた弓矢が狙うは、白竜の赤き瞳…………!


「チッ!! 追うぞ!!」


 ヤガミが怒鳴る。

 熱くなるとすぐ命令口調。


「いちいちうるせぇ!! 急げ!!」


 言われなくとももう全速力だ!


 だがいかんせん、とにかく風が凄まじい。

 強烈に吹き降ろしてくるかと思えば、次の瞬間には真っ逆さまにひっくり返されるような巻風が何の前触れもなく湧き起こってくる。

 俺が崩した岩や大地から飛ばされてきた大小無数の礫が、風に乗って滅多矢鱈に暴れ回っている。

 火蛇がいなければ、俺もヤガミも、とっくに血まみれのボロ雑巾と成り果てていたことだろう。


 薄い橙色のベールが俺達を球状に囲んでいるが、時折、その中を一条の白い光がこちらの様子を窺うように横切る。

 目を凝らさずとも、火蛇だとわかる。

 まだこうして姿を現す程度には余裕があるってことか。


 じわじわと小さくなっていくシスイの背中を、俺はじっと睨んでいる。

 あの人もまた結界を張っているようだ。彼の竜・フウガとの高密度な共力場から編み出された、真珠玉のように美しく盤石な結界。

 扉の力で彼らの結界を打ち砕くことは困難だった。

 介入のとっかかりが掴めない。


 となるとやはり、どうにかして彼より先に白竜に追いつき、決着をつけるしかないわけだが…………。


「コウ! もっとスピード出せねぇのか! このままじゃ普通に白竜を討たれちまうぞ!」

「ジェット機じゃねぇんだよ! そう簡単に出力が上がるか!」

「気合だ!」

「アホか!」


 ともかくも、こんな無駄口を叩いている場合ではない。

 何か…………何か考えねば。


 昇るにつれて、荒々しい風がさらに凶悪さを増していった。最早、真っ直ぐ進むことすら至難の業だ。風は刻一刻と向きと強さを変えて襲い来る。

 離れていてこの騒ぎなら、あの雲の中は一体どんなカーニバルだって言うんだ。

 いかに火蛇の力添えがあろうとも、果たして俺達に乗りこなせるのだろうか?


 そうこうする間にも、シスイは慎重に狙いを定め、矢を放つ。

 血の気が引いたが、矢はわずかに逸れた。

 白竜はまさにたなびく雲の如く、捉えようがない。

 シスイは淡々と次の矢を構える。


「――――――――…………」


 俺は焦りを堪えて、気脈に集中した。


 大丈夫…………大丈夫だ。

 もう見失いはしない。


「ヤガミ、操縦パス」

「…………OK」


 風に乗って漂いくる真新しい血の匂い。

 だが、灰青色の力場は健在だ。彼のしぶとさと意地に委ねよう。



 ――――――――…………風が生きている。


 アオイ山から溢れ出る膨大な魔力を孕んだ風は、まるでそれ自体が一つの巨大な生き物であるかのようだった。


 うねり、翻り、のたうつ。周囲の気脈を傍若無人に飲み込んで、跳ねまわり転げまわり暴れ狂っている。

 何か小さな命が絶えず巻き上げられている。風は鋭く長い牙で深々とそれに噛み付き、噛み砕き、吐き捨てる。

 蹂躙された魂は力強い息吹によって再び命を吹き返し、燃え上がって気脈を眩くきらめかせる。

 壮絶な輪廻は止むことなく、至る所で繰り返されている。


 それはふいごのようだった。

 永遠の、魂の炉に連なる心臓。

 先程の自分の全力の暴力なぞ子供の癇癪でしかなかったと思うと、背筋が凍りついた。


 白竜はその風と戯れていた。

 あたかも兄弟とじゃれ合っているみたいに、彼は荒れ狂う強風を悠々と手懐け、いとも涼しげに泳いでいく。


 シスイはさしずめ、波の合間を縫って飛ぶ海鳥であった。

 彼も一見、遊んでいるかのように伸びやかだ。戦いというには、あまりに優雅なシルエットが彼をそう見せる。

 だが真実はかけ離れている。結界の薄皮一枚隔てた空は、見えない分厚い刃が吹き荒ぶ死の世界だ。翼をもたぬ人の子には一秒として耐えることのできない、残酷な風の王国。人並外れた操竜術を持つ彼でも、一つ誤れば死は避けられない。

 彼は次々と押し寄せる風と魔力の大波の切れ間をギリギリ繋いで飛んでいた。

 限界の限界まで制限されたその飛行は、皮肉にも自由よりも自由らしく、芸術的だ。


 風は俺達とても例外でなく、襲う。

 竜の目だからこそ辛うじて映る、決して立ち入れない危険地帯を避けつつ、どうにかこうにか白竜達を追っていく。

 ヤガミは俺の咄嗟の判断によく合わせてくれていた。短気を起こすこともなく、辛抱強く乱暴な風を捌く。


 しかし…………このままでは離されていくばかり。

 仮に追いついたとしても、その先どうやって戦う?

 白竜とシスイ、両者を同時に相手取るのは不可能だ。



 ―――――――…………さらに深く、気脈の内へ潜ってみる。


 奥へ奥へと行くだけヤガミへ伝わる景色が危険な色を帯びるのはわかっているが、やるしかない。


 …………黒く透明な泉の湧く音がふつふつと聞こえてくる。

 冷たく柔らかく、そして微かに甘い。


 これは魂の雪解け水だ。

 きっとスレーンの地だけではなく、どこにでも湧いている。

 どうしてだか、懐かしい感じすらするから不思議だ。



 ――――――――…………さらに深くへ。


 …………洞窟の中とよく似通った、影の世界。


 そのずーっと奥深くに、何かが居座っていた。


 誰なのか。

 何なのか。


 影よりも影らしく、息を殺して潜んでいる。

 隙間風じみた高く鋭い風の音が鼓膜を震わす。

 冷たく湿っぽい感触が手のひらから全身へ、じっとりと浸み込んできた。


 影は俺を見つめている。

 何も言うことなく、身じろぎもせず、瞬きもせず、遥か太古の昔からそうであり続けてきたのだと、佇まいだけで物語っている。


 扉の気配…………。

 けれど、どうしていいかわからなかった。


 じっとうずまっている強大な力。

 どこかで確かに知っている感覚だが、あまりに気配の広がりが膨大過ぎて、漠然とし過ぎていて、感覚がすっかり麻痺してしまっていた。


 呪いの力場に似ている…………?


 だが、だとすればこれは一体誰の、何の想いなんだろう?

 どうしてずっと黙っているのだろう?


 不安よりも期待よりも、不思議だという気持ちが勝っていた。

 黒い泉の深奥に潜む謎の存在。


 竜王か。


 裁きの主か。


 あるいは…………でも…………。


 己の逆鱗に尋ねるも、反応は乏しかった。

 目を凝らそうにも、耳を澄まそうにも、あるのはひたすら沈黙ばかり。

 こんなにも縋るべき縁が見つからないのは初めてかもしれない。


 これはもう諦めて見切りをつけるべきか?

 俺の力では、この扉は開けられないのか。



 ――――――――…………風の音がした。


 泉の流れる音が聞こえる。


 少し上がってみると、音はちゃんと戻ってきた。


 ヤガミのあえかな苦悶の呻きや、白竜の長大な咆哮、シスイの矢が空を切り裂く鋭く短い音なども、絶えず魂に波紋を投げかけてきた。


 もっともっとつぶさに聞けば、フレイアの呼ぶ声もした。

 彼女は火蛇無しではアオイ山に近付けないようで、もどかしそうに麓を旋回し続けていた。

 力場への呼びかけは切実で、そして空しかった。


「――――コウ様!! それ以上は危険です!! どうか速やかにお戻りください!!

 …………ヤガミ様!! なぜコウ様をお止めにならないのですか!? そのままでは貴方も…………!!」


 被さってアオイの声もした。

 今の今まで全然気づかなかったが、彼女もずっと呼びかけてくれていたようだった。


「――――ミナセ、ミナセ!! その山に近付いてはならぬ!! その山には…………が眠っておるのじゃ!! そちのような特別な力を持った者が触れれば、何が起こるかわからぬ!!

 兄上、兄上!! おぬしも何を考えておるのじゃ!? いくら竜の血を顕現させし兄上とて、それ程までに近付いては魂が喰らわれてしまう!!

 嫌じゃ、嫌じゃ!! わらわは誰も亡くしとうない!! 何のためにかような戦をしておると思うてか!?

 嫌じゃ、わらわは嫌じゃ!!! …………兄上!!! …………ミナセ!!!」



 …………。

 …………何が眠っているって?



 ――――――――…………突如、雪の夜のように静かな闇と花びらが脳裏に舞い広がる。

 そしてリーザロットの…………彼女と呼ぶには、あまりにも底の深い、艶めかしい女性の眼差しが力場を蒼く照らした。


 さざめく月光。

 雪花は白く細やかに女性の形を成した。


「リズ…………?」


 長い髪に、ほっそりとした手足。

 一糸まとわぬ女神のような彼女は微笑むと、何も言わずに俺を気脈の深くへと誘った。

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