第239話 清き月夜の宴。俺が赤鬼の昔話に夢中になること。

 道すがら、アードベグが大雑把に傷の手当てをしてくれた。

 一見派手に見えたヤガミのこめかみの傷は実際それ程深くはなく、むしろやたらと数の多い俺の傷の方が手間取った。どれも別に重傷ではないものの、放っておくには我ながら痛々しかった。


「その怪我、いつの間に?」


 ヤガミがしきりに目を瞬かせていた。

 打ち身に細かな擦り傷、切り傷。力場を編む中で霊体(俺)が受けた痛みは、肉体(タカシ)にも影響する。

 俺自身はもう慣れたものだったが、ヤガミにはまだまだ信じ難いことのようだった。


「お前…………思うがままに力を操っていた、ってわけじゃなかったんだな」

「とんでもない。俺の方が力に翻弄されていたぐらいさ。限界まで思いっきり飛び込まなきゃ、ああいう真似はできない。で…………いつもこうだ」

「あの凄まじい水流か…………。一瞬、俺の頭にも雪崩れ込んできたよ。その後すぐに身体の奥から凄まじい力が湧き起こってきて、その後は完全に力の奔流と一体化していたんだが…………。てっきり、お前も同じなのかと思っていた」

「残念ながら違うんだな。俺自身には、あの力は扱えない。あくまで俺は、激流に潜って扉を開くだけだ」

「…………そうか。気付かずに無理言ったな」

「「寄越せ」だもんな。王様かよ」

「まぁな。…………お前、服までボロボロだな。一体全体、何が起こったって言うんだ?」

「ま・じゅ・つ」


 精一杯お茶目に答えてみるも、ヤガミは「はぁ」と息を吐くばかりだった。

 彼はこめかみの傷を押さえ、呟いた。


「しかし、そうなると俺の傷は…………あっちの、もう一人の俺にとってはどう感じるものなんだろう? 本当に、これっぽっちも痛くないのか? 例えば俺が死にかけたとしても?」


 彼の問いには、アードベグが答えた。


「そいつは複雑な話ですな。本来は霊体と肉体は不可分です。片方が傷つく時は、同時にもう片方も傷つく。しかしヤガミ殿のような境遇にあっては、そうした法則も自ずと変わってくるでしょう。…………どうなるものなのか、損は無いのだから試すべきだという過激な輩は、里にもおるにはおります」


 真顔で話す赤鬼に、俺は慌てて言葉を挟んだ。


「ダ、ダメだよ! そんなこと! コイツは本当に何にも知らないんだ。あの時…………」


 あーちゃんが世界を、と危うく事情を話し掛けて俺は口を噤んだ。

 いけない。とんでもない馬鹿をやらかすところだった。というか、もう若干やってしまった気もするが、幸いにしてアードベグは気に留めなかった。


「無論、そんなことはこの私がさせませぬ。頭領である坊ちゃんの決定は、この里では何よりも優先されます。

 …………とはいえど、それでなくともヤガミ殿に殺気立っておる者は多くおります。先日のジューダムの使者の襲来によって血縁を亡くした者は、機さえあれば見境無く凶行に及ぶでしょう」


 歩きながら、俺は唸った。

 確かに、その危険は俺達も考慮してきた。直接にジューダム王の顔を見たことのある人がスレーンにどれだけいるかはわからないが、ヤガミの素性が知れれば当然、彼の身が危ぶまれる。


 それなのに当の本人ときたら、牢の見張りや女の子を味方につけての大脱走劇。

 ヤガミを見やると、ヤガミもまたキョトンとこちらを見る。戦っていた時には涼やかに晴れやかに澄んでいた灰青色の瞳は、今は再び奥ゆかしい霧の内だ。

 俺が何も言わないので、彼は再度アードベグを仰いだ。


「俺だけ牢に入れられたのは、もしかしてそれが理由だったんですか?」


 アードベグは肩を揺らして笑い、楽しげに言った。


「ふっ。アオイ様は里の民の感情を考え、なおかつ最も安全な場所へと貴方を匿った。…………まぁ、確かにそんな見方もできますな。

 とはいえ、あの通りのご気性ですからなぁ。本当に気に入らなかっただけという可能性も、大いにあり得ます」


 後者だなと、ヤガミがぼそっと愚痴る。

 そんなに不細工と呼ばれたことを根に持っているのか。きっと人生で初めて言われてショックだったのだろう。こうも気にしていると若干良い気味でもある。ふっふっふ。


 にしても、さすがにもうアオイも俺の脱走に気付いた頃だろう。

 後でどんな風に怒られるのか、軽く憂鬱ではある。

 別にあの子を傷つけたいわけではないのだが、仕方ないっちゃ仕方ない。俺には心に決めた人だっているのだ。


 とぼとぼと歩いていくと、いつの間にか緑の多い場所に出ていた。近くから小さな水音がする。

 歪穴を通ったのだろうと俺は気付いたが、ヤガミはまたしても訝しげに首をひねり、落ち着きなく辺りを見回していた。


「あれ? おかしいな…………。さっきまでこんな植物は生えてなかったのに。ここ…………どこだ?」

不思議の国ワンダーランドだよ」


 答えにもならないことを答えると、ヤガミはさらに不可思議な目で俺を見つめてきた。


「…………お前はどこかわかっているのか?」

「わかるとはどういうことかによるな」

「わかってないんだな…………」


 どこか憐れむような眼差しに、俺は彼を真似て肩を竦めてみせた。



 そんなこんなで辿り着いた場所には、泉があった。

 白い岩が泉の周りを囲い、さらにその周囲を巡って色とりどりの縄が掛けられている。

 静謐な空間に響くのは、湧き出た水が作る清らかな小川のせせらぎだけだった。


「…………ここは?」


 俺が問うと、アードベグが泉のほとりにドスンと腰を下ろして答えた。


「乙女の泉でございます。恵みの大河・セレヌ川の源泉にして、スレーンの民の始まりの聖地。

 …………この通り静かで風流な、酒を味わうにゃ持ってこいの穴場です」

「…………入っていい場所なんですか?」

「何、坊ちゃんだってたまに独りで煙草ふかしに来とります。遠慮はいりません」


 はぁ、と溜息がこぼれる。

 絶対立ち入り禁止のエリアじゃん…………。

 と思うが、ここまで付いてきてしまった以上、毒を食らわば何とやら。

 俺とヤガミは誘われるままに、アードベグの隣に座した。


 アードベグは懐から陶器製のどでかい酒瓶(形だけはとっくりと呼べる)を取り出すと、腰に下げていた袋の中から、如何にも酒のじっくりと浸み込んでいそうなおちょこ(というより、丼ぶりに近い)を探り出し、俺達に手渡した。


「ささ、ご賞味くだされ…………」


 酒瓶の栓が外れる軽快な音が静寂を割る。

 なみなみと注がれてギョッとするも、止める暇なぞありはしなかった。というか、この人はいつもおちょこを持ち歩いているのか?

 アードベグはヤガミの杯にもたっぷりと酒を満たし、笑って言った。


「では、良き戦に!」

「…………良きご縁に」


 アードベグよりも幾分控えめに、ヤガミが杯を掲げる。

 俺は何と言っていいかわからず、とりあえずつられて同じように掲げた。

 良き未来に。


 グイッと飲むと、瞬間、とろけるような心地になった。

 水というにはあまりに濃く、甘い。だが水としか言いようないの透き通った名残がたちまち身体の奥深く、毛細血管の隅々にまで染み渡っていく。

 瑞々しい果物のような芳香がそよ風となって鼻腔を抜ける。

 それは夢のように幻のように楽園の面影を描きながら、流れる雲のように儚く、魂の砂底へと吸い込まれていった。


「はぁ…………美味い」


 思わず涙がこぼれそうになる。召されるとはこういう感覚に違いないとしみじみ感じ入る。

 ヤガミは上品に口を付け、二の句が継げずに震えている俺に変わって、アードベグに言った。


「ああ、良い酒ですね。これならばもう一人の俺にも届きそうだ」

「ハハァ、違いありませんや」


 アードベグは俺達のそれに輪をかけて巨大な杯をゆったりと傾け、赤い顔をさらに赤く鮮やかにした。

 彼は一度何も言わずに頷き、続けた。


「いやいや、まったく。酒というのは誠に良いものです。まさにこの世の極上。善も悪も無い。私も貴殿らも、いずれは戦に舞い戻る身。なればこそ、今宵はこの月をじっくり味わいましょうぞ」


 同感の意を込めて再び酒を口に含む。

 星空を映して揺らめく水面が美しい。脳も心もすっかり洗われてしまって、何にも喋れない。いっそこの世に話すべきことなんか、一つもないのではないか。


 いつになく静かに語られるアードベグの話し声は、それでも悪くはなかった。


「里にはいくつも泉があります。大きなものから小さなものまで、あちこちに湧いておりましてな。そのそれぞれに伝説があって、里の子らは幼い頃から親や兄姉に話を聞かされて育つんですわ。

 この泉はその中でも、特に多くの物語が湧いておる泉でしてな…………」


 鬼は語った。


 何処よりか舞い降りた白竜と、さすらいの乙女の一夜の恋の物語。

 泉で休んでいた旅の薬売りと怪我をした仔竜の恩返しの物語。

 泉に映った己に魅入られてしまった少女の少し不思議な物語。

 泉に落とした娘の織物が天に昇って、そのまま七色の竜になった物語。


 こんな繊細な話ができるような人だとは思っていなかったので、少々…………いやかなり驚いた。

 まるで紙芝居でも見せられているかのような語り口に、気付けば夢中で耳を傾けていた。


 どこかで聞いたことのあるような、ないような異国のお伽噺は、酒の熱を夜風に溶かし込み、天の川流れる空と黒い森と白波きらめく泉をどこまでも彩り豊かにしていく。


 ヤガミは片膝を立て、同様に聞き入っていた。

 時々酒を飲む横顔を見るに、何か思うところがありそうだが、何も言わずしんみり月夜に浸っている。

 アードベグの話が一段落した時、彼はポツリとこぼした。


「…………竜と人の里、か」


 彼は残った酒を一息に仰ぐと、アードベグを振り返って言った。


「…………なぜ、俺達を捕えないんです?」


 アードベグは口の端を上げ、人間よりも遥かに太く逞しい歯を見せて笑った。


「そりゃ、遅いか早いかというだけの話だからです。…………坊ちゃんはいずれアオイ様の提案に合意するでしょう。となれば、いずれお二方を解放しない訳にはいきませぬ」

「アオイ様に合意…………? それって、同盟は組まないってこと?」


 我ながらやや怪しい呂律をどうにか駆使して問うと、アードベグはまた美味そうに酒を飲んで俺を見た。


「あくまで私の予想ですがね。坊ちゃんは…………まぁ何と言いますか、情に流されやすいと申しますか、今一歩押し出しの利かない所がおありですからな。民の反対、飢饉の兆しに加えて、「黒矢蜂(こくしほう)」まで現れたとなれば、折れてしまわれるのも時間の問題でしょう。

 …………それに、先代が」


 言い掛けた言葉を流し込むように、アードベグが酒を煽る。

 さっきお目こぼししてもらったお礼に、俺は突っ込まない。

 ヤガミは空になった杯をどこか名残惜しそうに揺らし(アードベグがすぐに酒を注ぎ足した)、言葉を継いだ。


「頭領さんの心中は、わからなくもありません。彼の決断には途方もない責任が伴う。思い切った選択なんて…………今まで積み重ねられてきたものを、これまでずっと紡がれてきた物語をぶった切ることなんて、そうそうできはしない」


 灰青色の瞳はたゆたう酒の水面を見つめたまま、じっと動かない。

 アードベグはそんな彼を見るでもなく、己の杯に酒を満たしながら返した。


「…………確かに、坊ちゃんは難しい時代に頭領となられた。時代はいつだって川の流れの如く移り変わっておりますが、今はもっと次元の異なる、根本的な変化の渦中にある。そんな気がしてなりませぬ」

「それも、一国だけの、一つの世界だけの分岐点ではありませんよね。サンラインも、スレーンも、ジューダムも…………地球、オースタンさえも、この戦に関わってしまっている。そうである以上、誰も決断から逃れることはできない。…………何かを失い、何を得る。明けぬ夜の如き未来へ希望を託して」


 ヤガミの言葉は独り言じみていた。あるいは目に見えない誰かがそこにいるのかもしれないが、俺には測りかねた。


 酔いの回った頭では、ふたりの会話が一切理解できない。いつしか空っぽになっていた杯に、アードベグがまた酒をたっぷりと注いでくれた。


「どうも」


 頭を下げると、彼は火のように真っ赤な顔をくしゃくしゃに破顔させた。


「良い酒は霧のように馴染みます。楽しんでください」

「本当に本当に良いお酒なんじゃないですか、これ? いくら名高い酒どころって言っても、全部が全部こんなではないでしょう?」

「「勇者」殿はお目が高い。…………そう。滅多に外には出ない、里屈指の銘酒です」

「そんなものを、こーんなに? ありがとうございます~」

「いやいや、何せ「勇者」殿らには里の行末が掛かっておりますからなぁ」

「行末?」


 目を瞬かせて聞き返すと、アードベグは銀色の瞳をふいに真剣に光らせた。


「何度も申し上げておりますが、この里では頭領の決定は絶対です。至上命令です。…………ですが、一つだけ例外がございます」


 ヤガミがアードベグを見る。灰青色の好奇心を浴びて、鬼は満足そうに続けた。


「…………「決闘」。頭領に決闘を申し込み、もし勝てれば、その命を変えさせることができます」

「しかし、そんなことをしたら里の秩序が乱れませんか? そもそも、そんな仕組みがあるならどうして今、誰も挑まないんです?」


 ヤガミの問いに、アードベグが答えた。


「まず、非常に古いしきたりだからです。よほど古文書に通じておらぬ限り、そんな決まり事のあること自体、知らんでしょう。…………そして何より、大切な条件がございます」

「条件?」

「「決闘を行う者は、竜の証(あかし)を天地に示すべし」。己が確かに竜の眷属であり、竜王様の天命を賜りし者であると、明らかにせねばならんのです」

「つまり、ぐたいてきに、どうゆうこと?」


 世界がゆっくりと揺れている。俺は心地良い揺り籠の中で、ぼんやりと赤鬼を仰いで尋ねた。

 アードベグは杯に口を付け、話した。


「それこそが、このしきたりの廃れた理由です。どうすればいいのか、皆目見当がつかんのです。

 なれど、私がお仕えしている間には決闘が無かったわけではありません。天命を賜った方々は、それぞれのやり方で確かに証を示された」


 アードベグが遠い眼差しを月へと送る。

 煌々と輝くあの月にもウサギが住んでいるのかなと、洒落にもならない考えが頭によぎった。この世界だったらマジで住んでいてもおかしくない。何ならドクター・ウィラックの故郷だったりとかして。たくさんの赤い目のウサギ達が毎晩、妖しげなラボでマッドな研究に勤しんでいたりするのだ。

 酔っ払いの馬鹿げた妄想を余所に、アードベグは語り継いでいった。


「その方法をお伝えするのは簡単です。奉告もなされておりますし、古文書にも記されております故。ですが、誰でもいつでも真似できるようなものではない。…………決闘を試みる者はいつでも、今、己の手で、己の使命を果たさねばならんのです」


 ヤガミが杯を傾け、考え込む。

 薄っすらと白い頬と首筋を赤くしつつ、彼は飽くことなくじっと月を眺めている。

 やがて地上へ目を落とすと、雫のように言葉を滴らせた。


「…………里の人間ではなく、俺達なんですね」

「知らないからこそ、挑めることがある。この私に掛かってきた向こう見ず、今一度拝見したく」

「無謀だとは思いませんか?」

「私自身、千年の昔からそのような輩だと言われ続けてきましたが、未だに実感が湧きませぬ。さしたる意味の無い言葉なのでしょう」


 ヤガミが目を伏せ、少し笑ってもう一度酒を思い切りよく飲み干す。

 赤鬼は大きく息を吐き、哄笑した。

 俺はふと思い浮かんだことを呟いた。


「決闘って、空戦なの? やっぱり」


 アードベグとヤガミが同時にこちらを振り返る。

 途端に赤鬼は爆笑し、言った。


「ハーッハッハッハッハッ!!! 実に愉快な人だ、「勇者」殿は!!! さては酔っておられるな?」

「? ダメなんですか?」

「いーや、良い、良い、極上なり! …………だがまぁ、惜しいかな。そろそろ潮時ではありますな」


 ヤガミがアードベグに頼まれて、泉の水を汲みに歩いていく。

 彼は戻ってきて俺に水の入った杯を差し出し、言った。


「…………お前なぁ、敵陣で酔いつぶれるとか…………」

「酔ってないってば」

「馬鹿言え。さっき自分で言っていただろ。どうすんだ、この後?」

「いや、全然酔ってないよ、本当に。平気だってば、本当に」


 ヤガミががっくしと項垂れて溜息を吐く。

 アードベグは笑いながらすっくと大きな身体を立たせ、俺達に告げた。


「そうしましたら、白露の宮までご案内いたしましょう。極上の酒ゆえ、後には残りますまい。…………もっとも、問題なのは今だという話でしょうが」


 ヤガミが水を飲み終えた俺の身体を支えて立ち上がらせる。

 そんな手助けはいらないと伝えようとしたが、うまく喋れなかった。なぜか身体に力が入らない。

 あれれ?

 そんなに飲んだっけ??

 ??


「そんなに弱かったか、お前…………?」


 ヤガミの訝しむ声を耳にしつつ、俺は担がれながら見事な月を仰いだ。

 そして滔々と流れる星の川を見て、風の囁きを聞いて、泉の湧き出る柔らかで豊かな音に耳を澄ませた。


 空を竜が真っ直ぐに横切っていく。美しい。

 指差してヤガミに教えると、


「そうだな」


 と、懐かしい、どこか優しい、素っ気ない声が返ってきた。

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