第231話 白き竜のお告げと惑わしの霧の時空。俺がかぐや姫に出会うこと。

 館の中は板敷きだった。黒光りするまでに磨き抜かれた鏡の如き廊下をシスイはズカズカと土足で抜け、やがて複雑に入り組んだ館の最奥の、大きな部屋の前へ出た。


 部屋の入り口には精緻な織物で作られた御簾がズシリと重く掛かっており、中が見えない。

 シスイがその御簾を掲げようと手をかけたところで、彼と同様の着物風の衣装を身に纏った男性が一人、俺達を追って駆けてきた。

 まだ若い、せいぜい二十歳かそこらの坊主頭の青年だった。


「と、とと頭領! 竜王の間で何をなさるおつもりです!?」


 青年がシスイに詰め寄る。

 彼は俺達一行を驚愕の目で見渡し、もう一度シスイに迫った。


「…………お連れするつもりなのですか、まさか!? そそぎの儀も清めの式も済まさずに…………このようなことが万が一アオイ様に知られましたら…………!」


 必死の形相で捲し立てる青年に、シスイは心底煩わしそうな顔を向けて返した。


「ジン、今はそんな悠長なことを言っている場合じゃないんだ。誰にも邪魔されず、しかも広い部屋っていうんなら、ここがうってつけだろう。面倒な「奉告」の手間も省ける」

「しかし! そのような理由で始祖より代々受け継がれし神聖な間をお使いになるのは…………」

「シッ、大きな声を出すな。それこそアオイの地獄耳に拾われたらどうする? 自分を通さずに客人を館へ入れたと知られたら、お前だってタダじゃ済まされないぞ」

「ヒッ! ですが、その…………」

「もう行け。親父には後で知らせる。…………いいか、アオイだけは絶対にこっちへ通すな。お前の役目は、今日はそれだけだ」

「しかし…………」

「アードベグ! ジンを連れて行ってくれ」

だく


 赤鬼はおもむろに巨体を前へ押し出すと、ジンと呼ばれた青年の首根っこをヒョイと軽く摘まみ上げ、容易く彼の身体を宙へ持ち上げた。


「うっ、うわぁっ! アードベグ様! 止めてください! 離してください! 頭領が間違っているのです! おわかりでしょう!? こんなことは竜王様より賜りし戒律に背き…………」

「ジン、そんなことよりちゃんと食っとるのか!? このように軽くては、仔竜にすら振り落とされてしまうぞ!」

「食いたくったって、最近は葉っぱとテンコンしかないでしょう! 夕に魚か干し肉の一切れだってあればいい方で…………って、ああっ! それどころじゃない! 止めてください! 離してください! どこへ連れて行く気です!? このままでは由緒正しき清浄な白竜の間の気脈が乱され…………」

「斯様な些事で竜王様の力場が侵されるか、馬鹿者! それより、暴れるならもっと気合を込めて暴れろ! 産まれたてのライ鳥でも摘まんでいるかのようだ!」

「しっ、失礼な! 僕を鳥に例えるなんて! これでも僕は同期の中で最も…………」


 何やら騒がしく言い争いながら、のしのしと床を軋ませてアードベグがジンをどこかへと攫っていく。

 ポカンと口を開けて見ていた俺達へ、シスイが溜息を吐きながら言った。


「すまない。見苦しいところをお見せした。さぁ、入ってくれ」

「…………い、いいんですか?」


 俺がためらいがちに尋ねると、シスイは美麗な御簾を雑にまくり上げ、もう一度息を吐いた。


「構わない。所詮、部屋は部屋だ。…………とにかく早く中へ。これ以上小うるさいのに見つかったら、もう下がらせようがない」

「わ…………かりました?」


 本当にいいのかな?

 リーザロットに目配せすると、彼女も同じように蒼玉色の瞳を不安げに瞬かせた。

 正直、あまり良くない気がしてならないが、他にどうしようもあるまい。

 俺達は神聖なる竜王の間へ、そろそろと足を踏み入れた。



 竜王の間に入ってまず目についたのは、壮麗な白い竜の石像だった。サンラインの教会のそれとはかなりデザインが違うが、確かに同じ存在を象ったものだと直感が告げる。


 巨大な翼を悠然と折り畳み、長くしなやかな尾を螺旋状に身体へ巻きつけている。前脚だけを立たせた寛いだ姿でありながら、こちらを真っ直ぐに見つめてくる水晶の目は生きているのかと見紛う程に力強く、鋭い。


 全てを見透かしているような、怜悧な表情はまさに圧巻だった。口元から垂れた長い髭…………俺の知っているどの飛竜にも無いものだった…………が、微かに風に揺れている。

 そんな錯覚を覚えた。


 大寺院の本堂を思わせる静寂が部屋に立ち込めている。四隅に灯された仄かな明かりが、俺達の輪郭をぼんやりと物寂しく浮かび上がらせている。

 軋む床には、思わず溜息の出るような精緻極まる織物が敷かれていた。シスイの着物の柄と同じ、抽象的な紋様がびっしりと描き込まれているが、その色使いは最早天然の竜の鱗じみて、その下の血管の拍動すら聞こえてきそうな、熱っぽい艶めきを放っていた。


 何の魔力かはわからないものの、それでも絶えず滾々と湧き上がってくる強い力の流れをびりびりと舌に感じる。極限まで研ぎ澄まされた、透明な酒のよう。

 ふと誘われて白竜の目を仰ぐと、魔力が一気に全身に回った。


 急な酔いに、フラリと足取りが危うくなる。酩酊感が意識を白く霞ませる。見知らぬ魔力がみるみる俺の深くへ染み込んでいく。

 ハッとして我に返った時には、いつの間にか自分を含めた皆が織物の上に円になって座っていた。


「…………和平の話、だな」


 シスイが厳かに言う。

 リーザロットが応えて頷き、話を切り出した。


「ええ。この度は貴方に、私、蒼の主と同盟を組んで頂きたく、お願いしに参りました」


 まだぼんやりとする目で、白竜を仰ぐ。

 物言わぬはずの彼は、その時、ハッキリと俺に伝えてきた――――…………。




 ――――――――…………ついに来たか。逆鱗の旅人よ。



「何…………?」


 周囲の景色が遠退いて、たちまち濃霧に包まれる。

 同時に、鐘を鳴らすように激しく、脳裏に声が響き渡った。



 ――――――――戻ってきたのか。時の果てより…………。



「時…………? ちょ、ちょっと待ってくれ。俺、今、何して…………? っていうか、何、これ? 皆は?」



 ――――――――…………その先に何を望む?

 ――――――――扉の魔導師よ。



「まどうし…………?」



 ――――――――数多の地を旅するお前は、何者か? 



「知らないよ! 俺はただのミナセ・コウで…………っていうか、さっき自分で色々と言ってたじゃん!」



 ――――――――…………業は巡る。

 ――――――――それが因果の理。



「…………一体何の話だよ…………」



 ――――――――永遠なるものは幻…………。幻ゆえに、永久であるか。



「…………」



 ――――――――旅人よ。



 濃い霧が揺らぎ、俺は俄かに不安を募らせた。

 とてもとても近しい者が遠く遠くへ離れていくような、強い恐怖がこみ上げてくる。

 独りにしないでくれと、俺の奥深くで誰かが泣きながら叫んでいる。


「…………おい、待ってくれ」


 呼ぶ声も虚しく、霧が晴れていく。手を伸ばしても届かない。掴めない。

 俺であり、俺でない誰かが、堪らず叫んだ。



「――――――――待ってくれ!!!」



 霧が散る。

 鐘の音じみた声は闇夜へ溶けるように、微かな余韻を残して遥か彼方へ失せていった。



 ――――――――…………行くがいい。

 ――――――――果て無き魔道を。

 ――――――――さすればいつか赤き一縷の糸が、汝を手繰り寄せるであろう…………



 スルリと、細く長い何かが小指の先を掠めて風に攫われていく――――…………。




「…………コウ?」


 突然の呼びかけに、俺は目を瞬かせて振り返った。

 俺に話しかけたヤガミは俺よりも余程驚いた顔で、こちらを見返していた。


「…………大丈夫か?」


 呆然として辺りを見渡すと、一様に張り詰めた顔が並んでいた。全員が俺を心配している…………というより、警戒している風であった。


 入った時と全く同じ仄暗い部屋に、何度見ても嘆息する白い竜王の像、曼荼羅的な織物。俺は完全に、浦島太郎の気分だった。


「えっと…………俺、何かした?」


 俺が首の後ろを掻いておずおず尋ねると、皆が一斉にホッと胸を撫でおろした。


「驚いたな…………。もう戻って来なかったらどうしようかと思った」


 シスイが首をひねって低い声で唸る。

 次いでリーザロットが、前へ身を乗り出して話した。


「コウ君、今までどこにいたのですか?」


 俺はたじろぎ、答えた。


「わかんない…………。その、竜王の像を見ていたら、急に変な声が聞こえてきて、周りが真っ白になって…………。気付いたら、こんな感じ」


 こんな感じ、とヤガミが繰り返して呟く。

 俺は彼を振り返り、聞いた。


「俺、どんな感じだったの? 白目向いて一人で叫んでたとか?」


 ヤガミは大真面目な顔で「いや」とこぼすと、こう続けた。


「フレイアさんが気付くまで、誰にも違和感が無かった。普通に話にも入ってきていたし、相槌も打っていて、ごく自然に見えた。少なくとも俺には、普段のお前と違うところは何もわからなかった」

「…………恥ずかしながら、私も全く気付きませんでした」


 リーザロットがしげしげと俺の目を覗き込みながら、胸に手を組んで言った。


「おかしな話に聞こえるかもしれませんが、コウ君の肉体であるタカシ君ですら、コウ君の乖離に気付いていなかったものと思われます。

 …………ある種の強力な存在は、往々にして魂の深い所へ呼びかけます。その時、呼ばれた人の意識は時空を超えた状態になるの。…………この世界へ肉体を置き去りにしたまま、遠く離れた別の時空へ飛んでいる」


 ポカンとしていると、「つまりだな」とシスイが話を引き継いだ。


「コウさんは多分、恐らくはこの竜王様の力場に囚われて、どこか別の時空へ行っていたということだ。己を含めた誰にも悟られずに。

 …………フレイアさんに呼びかけられた時、君はふいにまっさらな顔つきになった。記憶も感情も全て漂白されたかのような…………何の色もない表情をしていた。ほんの一瞬のことだったが、肝を潰したよ」

「…………マジで?」

「竜王様と共力場を編んだ者は、時にその魂の広大さに惑い、この世界へ戻れずに時空の迷子となってしまうことがある。

 君がいかにも君らしい声を上げた時、俺は心底安堵した」

「…………」


 そのヤバさが今となってはもういまいち実感できなかったが、どうやら俺はとても危うい所で救われたらしい。

 俺はフレイアの方を向き、礼を言った。


「…………ありがとうね、フレイア」


 フレイアは蒼白な顔をして、暗い紅玉色の瞳を瞬かせて言った。


「コウ様…………お身体にお変わりはありませんか?」


 いつになく思い詰めた言い方に、俺はなるべく優しく答えた。


「無いよ。心配してくれてありがとう。…………俺のこと、気に掛けてくれていたの?」

「…………当然です」


 絞り出すような声と胸の締め付けられるような切な眼差しに、俺はそれ以上何も言えなかった。


 彼女だけが俺の異変に気付けたのは、もしかしたら邪の芽のせいかもしれないと、頭によぎった。彼女の内で力をつけていく邪の芽が、竜王程の巨大な存在をも彼女に察せさせた。


 あの忌まわしい野郎は己の欲望のために、彼女の気持ちを利用している。彼女が暗い感情に苦しめば苦しむだけ、アイツは力を増す。俺の中のアイツがそうであるように。

 俺は彼女の感情を燃えさせる薪として、生かされている。


 フレイアは俺をしばらく見つめ、もう一度尋ねてきた。


「コウ様、本当にもう大丈夫ですか?」


 俺は彼女に微笑みかけ、返した。


「平気だよ。…………約束しただろう。君を残しては、どこへも行かない」


 深紅の眼差しが微かに滲み、瞼が静かに下ろされる。

 もう一度目を見開いたフレイアは、いつも通り落ち着いた顔を作っていた。


 リーザロットを見やると、長い睫毛のかかった蒼玉色の眼差しが静かに伏せられる。彼女の隣に控えるタリスカは何も言わず、同じく黙って顔を俯けていた。そう言えば、なぜか彼だけは座らずに壁に寄りかかって立っている。


 ヤガミとシスイが何とも言えない表情で顔を見合わせ、やがてシスイの方が長く溜息を吐いた。


「…………まぁ、コウさんの話はおいおい聞くとして、続けよう。

 何だったか…………そうだ。先の朔の晩、ジューダムから使者が来て、ウチの竜を連れて行ったくだりからだ。

 コウさんとフレイアさんとの前でジューダム王と交わした契約が、履行されたんだ。この際に起こった抗戦で、少なからず負傷者が出て…………」


 言葉が続きかけた時、廊下から響いた甲高く張りのある、若い声が響いた。


「どけ、どくのじゃ、痴れ者め!!! わらわが通るのじゃ! 察して道を譲るぐらいできぬのか、耳も勘も悪い者どもめ! ええい、兄上はどこじゃ!? ここか!?」 


 ドシドシドシドシドシと、突進するゾウの如く迫ってきた足音はそのまま、俺達のいる白竜の間へと突き抜けてきた。

 思いきりよく引き千切られた御簾が高らかに宙を舞う。

 何か言う暇もなければ、身構える暇すら無かった。


 視界の端でシスイが頭を抱えているのが見える。


 眼前に立っていたのは、かぐや姫かと見紛うような、輝かしい美女だった。

 顔立ちはどこか幼げでありながら、その黒く艶やかな眼差しは決して折れぬしなやかな竹のように逞しい。

 身に纏った紺と金の豪奢な着物が、眩かった。


 彼女は腰に手を当て、豊かな黒髪を見栄を切るが如く豪華に跳ね上げて掻き上げ、のたまった。


「兄上、これはどういうことじゃ?」


 おずおずシスイへ視線をやると、彼は絶望感に満ちた速度でゆっくりと首を振り、苦悩に満ちた声で呻いた。


「アオイ…………勘弁してくれ…………」


 アオイと呼ばれた女性は冷然と一座を見渡し、俺でピタリと目を止めた。

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