第230話 不機嫌なリーザロット。霞の先にあるもの。俺がスレーンの頭領と顔を合わせること。
鳥居を抜け、山頂へと歩んでいく。
灰白の霧と岩ばかりが延々と続く道程は、それこそ鬼の門番などいなくても十分だったのでは? と思える程に険しかった。
初めのうちは存在していた岩の無い道も、今は消え失せて久しい。自分がどの方角へ向かって進んでいるのかすら、俺にはもうわからなかった。
対して、談笑しながら前を行く2人の人外の男達は滅多矢鱈に足が速かった。俺達の乗っている地竜の足にも全く劣らず、単純に歩幅が大きいせいもあるのだろうが、彼らのバランス感覚と持久力には舌を巻かされた。
何を話しているのかは知れないが、どうせどこそこの魔物を如何に斬ったとかそんな所だろう。時々、アードベグの馬鹿笑いが谷間にこだまする。
「地元民のアードベグさんはともかく………… タリスカは疲れないのかな? サン・ツイードからずっと眠りもしないで、歩き通しじゃないか」
俺が呆れて呟くと、リーザロットは振り返ることなく(先導役を見失っては一大事なのだ)淡々と答えた。
「途中で休憩も入れていましたし、むしろ彼からすれば、のんびりお散歩しているぐらいの感覚でしょう。そもそも睡眠もご飯もいらないみたいですし、その気になれば、世界が終わるまでだって「修行」していられるんじゃないかしら?」
「うへぇ…………。もうほとんどどこにも人の要素残ってないじゃん…………。逆に、どうしたらあの人を疲れさせられるんだろう?」
リーザロットは「うーん」と小さく首を捻り、同じ調子で話した。
「疲れていると言っていいのかはわからないのですが…………時々、本当に稀にですが、壁に背を預けて物思いに耽っていることはありますよ」
「へぇ。それは確かに珍しいね。何を考えてるんだろう?」
「さぁ。どうせ剣のことか、剣の手入れのことかのどちらかでしょうけれど」
どこか捨て鉢な、冷ややかな彼女のこの物言いは、最近はタリスカのことが話題に出る度にしょっちゅう耳にする。
俺は良いタイミングかなと思い、おずおず尋ねてみた。
「…………リズ、最近タリスカと喧嘩でもしたの?」
「…………どうしてですか?」
「いや、何となく…………。言い方に棘があるなぁー、って思って」
リーザロットは沈黙している。
ずっと前を向いているので、表情は窺えない。
細く華奢な身体が竜の上下動に伴って、しなやかに揺れている。旅用のゆったりとしたローブに覆われてもなお顕著な、盛り上がった胸の震えにはどうしても目がいく。凸凹した道で竜が頻繁に身体を捻るので、後ろの俺からでも時たま見えるのだった。
リーザロットはしばしの後、ポツリとこぼした。
「喧嘩したくても…………それほど彼は私に興味がありませんよ」
タリスカがリズに、興味が無い?
聞き間違いかと思いつつ、俺は突っ込んだ。
「それはないよ。逆に、君のこと以外は一切眼中に無いって、結構あからさまに見えるけど」
リーザロットは微かに肩を揺らし、弱く笑った。
「ふふ、そう。…………それなら少なくとも、そのつもりではあるのでしょうね」
「リズ。そういう言い方は…………」
「ねぇ、コウ君。「蒼の主」って、誰だと思う?」
「え?」
咄嗟に意味が理解できず、俺は返答に窮した。
リーザロットはチラとだけ蒼い視線をこちらへ寄越すと、またすぐに前を向いて優しく、カーテンを閉じるように言った。
「いいえ。リーザロットは誰なのかしらと、問うべきかしらね」
俺は何か言おうとして、口を噤んだ。
君は君だよと、なぜか即座に口に出来なかった。
彼女が、本当はその答えを俺から聞きたがっているわけではないのだと、何となく察せられた。
それからしばらくは無言のまま、俺達は山道を進んだ。
…………どれだけ歩いたろう。
ある場所に至った時、急に辺りを覆っていた霞が晴れ渡った。
「…………結界を抜けたようです」
リーザロットが久しぶりに言葉を発する。
案外に晴れやかな声に、俺はひとまずホッとした。
ずっと雲に覆われて見えなかった山の頂には、見晴らしの良い高原が広がっていた。
素朴な畑と民家がポツポツと寄り集まっている。茅葺屋根風の家々は、いずれもあの鳥居と同じ、鮮やかな赤い色の飾りをどこかしらに取り入れていた。
あちこちに彩り豊かな竜の吹き流しが上っている。キンと冷えた風の中を大胆に泳ぐ竜達は、ともするとそのままスルリと縄を解いて、蒼天の果てへと駆けて行ってしまいそうだった。
深呼吸すると、灰白に濁りきっていた肺が透き通っていく。
畑に行儀良く並んでいる野菜が何かは知らないが、青々とした葉の伸び伸びと広がっている様を眺めていると、とても長閑で豊かな気持ちになった。
「こんな風になっていたのか…………」
声に振り向くと、いつの間にか隣にフレイアとヤガミを乗せたトントンが近付いてきていた。
感想を漏らしたヤガミは真っ直ぐに降り注ぐ日差しに目を細め、もう一度感嘆の息を吐いた。
「瑞々しい土地だ」
大股で歩いてきたアードベグがその横へ並び、大いに頷いた。
「まさしく、まさしく。ここは竜王様の聖地です。下界とは空の色も、風の香も、全く違いましょう。恵みの大河・セレヌの源泉はここにこそあり。…………ぜひ一度スレーンの湧水をお飲みください。口にしたが最後、二度と都の水が飲めなくなりますぞ」
豪快な笑い声が高原の空を渡る。山の強風をものともせずはためく竜達の煌びやかな彩りが、鬼の赤肌と群青の空にどうしようもなく似つかわしい。
タリスカが静かに俺達の隣へ現れ出て、リーザロットに尋ねた。
「姫。疲れてはおらぬか?」
リーザロットは神妙に控える死神へ微笑みを向けると、少しだけ嬉しそうに返した。
「いいえ。ありがとう」
タリスカは下顎を引き、黙って後ろへ引き下がる。
こんなに気に掛けてくれているのに、大切に思っていないわけないじゃないかと、やはり首を捻りたくなる。
ふとフレイアがこちらをじっと見ているのに気付いたその時、集落の入り口から声がした。
「――――アードベグ!」
聞き覚えのある、よく通る男性の声。
見ると、前に会った時と同じ格好をしたシスイが地竜に跨って手を振っていた。
腰に下げた螺鈿細工のブーメラン…………ジコンに、何だか懐かしい思いがする。マタギじみたフワフワ毛皮のブーツが、暖かそうで羨ましかった。
トットッと竜を軽やかに駆けさせると、彼のオパールの耳飾りが日の光をヒヤリと反射して虹色に輝く。
アードベグが大声で返事した。
「坊ちゃん! 何だってこんな所まで降りてきとるんです? 大人しく館でふんぞり返っていてくださいと申し上げたでしょう! 一応、頭領なんですから!」
…………へっ?
と目を丸くする俺へ、リーザロットが言った。
「降りましょう、コウ君。ご挨拶をしなくては」
言われて、俺は唖然として地面へと足を伸ばす。
困惑気味に死神を仰ぐも、骸の無表情は依然として変わらない。
フレイアの表情を窺うより先に、シスイが目の前へ降り立った。
彼はおよそ俺の知っている彼らしくない、至極丁寧な礼の仕草と共にリーザロットに言った。
「遠路遥々、ご足労おかけいたしました。一族を代表し、感謝申し上げます。蒼姫様」
「こちらこそ、お忙しい中お招き頂きありがとうございます。この度はお世話になります。頭領様」
リーザロットもまた、畏まって深く礼をする。気品が芳香の如く辺りに漂い、俺は肩を縮込めた。
ついて行けない、と白黒している俺に、シスイはやや困ったような笑みを浮かべた。
「すまないな、コウさん。騙すつもりはなかったんだが…………色々と事情があってな」
「事情…………? え? ウソ? シスイさん、マジで王様なの? アンタまで?」
「…………まぁ、その辺のことは後でゆっくり話そう」
彼はリーザロットの方へ顔を向け直すと、あくまでも恭しい態度を崩さずに続けた。
「…………姫様。歴史は分岐点に差し掛かっております。この際、堅苦しい面会の段取りは抜きにして参りましょう。どうぞ、直に館へお越しください。早速お話を伺います」
「お気遣いに感謝致します。…………お怪我の具合は、もう大丈夫ですか?」
「問題ありません。そもそも、私自身は大した怪我を負っておりませんので」
ああ、そう言えばそうだった。「頭領」の一言でつい頭からぶっ飛んでしまっていたが、そうだ。まずは無事で何よりだった。
色々と追いつかないままの頭に、テッサロスタへの旅の途上で経験した色んな事が次々とポップアップしてくる。
どこから聞こうかとうろたえているうちに、シスイはヒラリと竜に飛び乗って歩ませ始めていた。
「行きましょう。…………ここは見た目は爽やかだが、実体は鬱蒼と生い茂った厄介事の森のような場所なんだ」
アードベグがついて歩きながら、大仰に肩を竦める。
シスイが足を速めるのに従って、俺達も竜を急がせた。
「館は、あちらです」
振り返ってシスイが指差した先には、さらなる高台があった。そこに一目で偉い人の住処とわかる、豪華な家が建っている。
一際鮮やかで手の込んだ飾りが風になびいており、屋根の上には、見た中で最も大きく美しい竜の吹き流しが誇らしげに泳いでいた。
晴れ渡った空を悠然と背負った館は、なぜか冷たい、巨大なコンクリートの箱を俺に思い起こさせた。
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