第185話 舞い踊る火炎と綻びる狂気。俺が最後の対決へと向かうこと。

 O-Oooo-n…………


 レヴィの声がどこか遠いところから微かに聞こえてくる。

 俺が尋ねるより先に、ナタリーが答えた。


「レヴィ、牙の魚と戦っているみたい。逃げないで…………頑張ってくれている」


 俺は深淵で激しく追い合う2頭を思い浮かべ、そして階段の上に佇むエルフの男を睨んだ。


 男は天人のような、絶対的な美貌の持ち主だった。切れ長の冷たい目に宿る瞳は青白く、人を寄せ付けない高貴な輝きを放っている。熱風に煽られてサラサラと流れる金の髪は、さながら絹の束の如くであった。


 とりわけ異様なのは、その肌だった。雪ともガラスとも違う、磨かれた鏡面のような印象を与える皮膚。尖った耳も、そこに下がっている氷柱に似たピアスも、その肌の質感と比べれば、全く異人らしさを感じさせない。

 男は酷薄そうな薄紫色の唇を微笑みの形に歪め、言った。


「正直に申し上げると、骸の騎士の相手をしながら貴方達の相手をするのは辛い。無限の「私」とて、肉の檻に縛られている以上、完全に自由ではありえないのです。

 それに、ああ…………麗しき巫女よ。貴女とはこのような場所で、このように時を過ごしたくはなかった。貴女とは深淵の安らぎの中で、ゆっくりと契りを交わしたかった。汚らわしい「無色の魂」なぞには煩わされぬ、貴女の絶対無垢の胎内へと、この私をお招き頂きたかった…………」


 男の視線がナタリーの全身をゆっくりと舐め回す。

 俺は遮るようにナタリーの前に歩み出て、返した。


「肉の檻…………。つまり、お前は魂だけで完全に命を紡いでいけるわけじゃないんだな。

 それなら、もう時間の問題なんじゃないか? タリスカは必ずお前を…………お前の宿主を、斬るだろう。魔術でジューダムの兵士をどんなに使い潰しても、どんな魔物を呼ぼうとも、あの人を止めることは絶対にできない。…………お前は、もう終わりだ」


 男は俺を無視し、奥のナタリーに尚も熱烈な視線を注いでいた。服の繊維を一本一本丁寧に解きほぐし、少しずつ彼女の身体を啜っていくような眼差しに、ナタリー本人よりも先に俺の方が耐えられなくなった。


「お前…………マジでキモいぜ。目線向けるだけでセクハラって話、冗談じゃねぇって今までは思ってたけど、お前を見ていると全然笑えない。

 …………いくら妙なことを企んでも、お前に出来ることはもうないよ。観念しろ。どうせ長生きするなら、もっとマシな夢を見た方が良い」


 男が無関心な目線を俺へと移す。

 彼は瞬きすらせず、淡々と話した。


「…………折角機会を与えましたのに、貴方には白き魔物の邪悪も、偉大なる母様の愛も、共にわからなかったようだ。

 愚かなオースタンのか弱い、か弱い民よ。およそ救われ得ぬ貴方のような魂を救うためにこそ、私は母の到来を願っているのですよ。これより正しき夢などは、この世界の…………否、いかなる時空を探したとしても、どこにもありません。たかだか100年と生きられぬ少年の騒ぐことではないのです」


 俺は相手を真っ直ぐに見据え、言った。


「神様なら必要な時に、自分で探しに行く。お前が何年生きているか知らないが、やっていることはまるで10代のガキの癇癪だ。何にも見えていないことにさえ、気付いてない」

「癇癪…………。つくづく見下げ果てた愚かさですね。

 欲するその時にだけ神に縋ると? なんと傲慢な考えでしょうか。

 貴方とて、無知だ。貴方が時に勇気らしくみせるものは、それ故の蛮勇に過ぎない。人はかつて、その浅はかさ、愚昧さからあの白き魔を生み出した。…………偉大なる母様を理解せず、あまつさえ尊き巫女様までも穢れた雨の海の底に沈めた」


 ナタリーが眉を顰める。俺は最初に見た水先人の記憶を思い起こし、言葉に詰まった。

 古い鳥の像に祈っていたあの女性。あの人が男の言う「巫女」だろう。

 彼女を暗闇に封じたのは、俺が見た限りでは、彼女自身の不信だった。けれどそこに人々の強い祈りの力が働いたのも、間違いはない。


 祈り…………「裁きの主」という、途方もない願い。

 それが今も一部の人々を苦しめているのは、事実。


 男は勢いづき、さらに続けた。


「だが、安心なさい。私は貴方だけを責める気はありません。愚かなのは貴方に限らない。私達は…………人であれ、エルフであれ、ドワーフであれ…………皆、蒙昧なのです。正しく欲することはおろか、まともに祈ることすらできない。気付けば愚にもつかぬ陳腐な偶像を仰ぎ、魔術と奇跡を混同する。すぐ傍らにあるはずの己の魂を、いとも簡単に見失う。

 …………それで構いません。そういう救われぬ民を救う最後の希望、それが母様なのですから。世界があるべき姿…………始まりの無に還れば、人々はもう祈りという呪いには縛られない。ただ安らかに微睡み、永遠の安寧の中で、ただただ正しく在れるのです」


 舞い踊る火炎が男の肌をギラギラと照らしている。

 ナタリーは俺の背に寄り添って、じっと推し量るように階上の男を見つめていた。怒りや憎しみだけではない、複雑な眼差しであった。小さく開きかけた唇は何か言葉を探している風でもあったが、結局迷いは俺の背を握る力となって表れただけだった。

 俺は精一杯毅然と構えて、男に話した。


「だから、押し売りは結構です! って言ってるだろ。皆が皆、お前達みたいにネガティヴシンキングじゃないんだって、少しは考えてみろよ。

 …………お前達の言うことは、あるいは正しいのかもしれない。皆で仲良く静かな場所で眠れば、平和で、それなりに気持ちの良い世界にはなるだろう。

 けど、俺には昼寝の前にやりたいことが山程あるんだ。たかだか100年の命にしたって、一生懸命にやれば数え切れないぐらいのことができる。

 今の俺には、這ってでもやり遂げたい大仕事がある。ナタリーこの子にだって、大きな赤ん坊共の子守りなんかするより、とびきりカラフルな人生が待っているんだ!」


 ナタリーがぐっと俺を握る手に力を込めた。一際美しい翠玉色の気配が、俺を勇気づける。

 俺は男を睨み、言い切った。


「俺達は戦うよ。何のために勇気を奮うか、どんな正義を信じるか。当然、皆違う。だからこそ一色に塗り潰すわけにはいかない。戦は地獄だ。差別もクソだ。それでも俺は、お前を止める!」


 男が感情のこもらない、しかしこの上なく柔らかな微笑を浮かべた。愚者を憐れむ愁いを帯びたその瞳の奥には、人間離れした凄惨な炎が猛々しく、鋼鉄すら溶かさんばかりに爆ぜていた。

 彼は手に持っていた革表紙の本を大袈裟に掲げ、天女の如くたおやかに首を傾げた。


「フ…………。懐かしいことです。前に、とある水先人の男も同じようなことを吠えておりました。彼もまた最期まで私達の教義を解さず、「母の歌う御使い」を彼から継承した巫女が世界にとっていかに重要な存在かを理解しようとしなかった…………。

 …………私は生来、暴力を好みません。ですからあの男と語らうのは、とても辛い体験でした。

 しかし大義のため、どうしても覚悟せねばならぬ時もあります。そう…………遥か昔、この故郷を捨てた日の如く」


 炎が一段と野太い唸り声を上げ、高く激しく巻く。

 俺とナタリーが熱風を浴びて構える一方で、男は本のページをバラバラと風に煽らせた。


「巫女よ! これが何かわかりますか? これは「私」の記憶…………即ち、この力場そのものである、「私」の歴史を記した書です。

 無論、このようなものなど無くとも「私」は継がれ得る。なれど、この書の存在は力場の強靭な裏打ちとなっております。…………貴女にはこの重要性がご理解いただけるでしょうか? そこの「勇者」は、すでに勝利を手にしたつもりでいるようですが、事実は全くその逆です。これが我が手中にある限り、貴方達の命運もまた我が掌の内なのです。

 …………巫女。最後の忠告です。

 私の手をお取りなさい。その幼稚極まりない男から今すぐに離れ、私と共に一なる真理へと続く道を歩みましょう。

 永遠の安らぎへと繋がる扉は、その男には決して開けません。いずれ彼が誘うであろう混沌は、忌まわしき蒼の腐海と全く同一…………いえ、それよりも遥かに禍々しきものとなるでしょう。

 貴女さえこちらに来て下されば、私は彼の命を奪わずに済みます。先にもお伝えしましたように、私は暴力を好みません。彼に啓蒙の苦痛を与えずに済むのは、私にとっても喜ぶべきことなのです」


 ナタリーは俺を一層強く掴み(…………流石にそろそろ痛い)、強く言い放った。


「ミナセさんは拷問しないでやるから、俺のものになれ…………って言いたいんだね。今まで聞いた中で、一番ひどいナンパ!」


 彼女は声を張り上げ、さらにキツく相手を撥ね付けた。


「私はミナセさんと行く! 私達は負けない! 平気で人の気持ちを踏みにじるような人達に、絶対に負けないよ!

 歴史だか何だか知らないけど、そんな女々しい日記、この手でビリッビリに引き千切ってやるから!!」


 男は小さく溜息を吐き、一言、こう漏らした。


「…………では、致し方ありません」


 言葉が終わるや、周囲の炎が一斉に柱となって天へ噴き上った。

 赤々と迸る火柱が、天井を覆っていた濃い闇を炙り出す。岩壁に張り付いていた奇妙な姿の蟲の大群が、黒い波と化して逃げていく。

 堪らず剥がれ落ちた一群があえなく炎の中へ巻かれ、灰燼になった時、男の詠唱が俺の耳をつんざいた。


「――――紅蓮の傀儡よ!

 ――――我は誇り高き「王」の僕!

 ――――常夜を永久に恋い慕う者!

 ――――この絶唱、悠久を越えて轟かせよ!」


 ナタリーが俺を引っ掴み、襲い来る炎の渦を躱して階段を数段飛ばしで駆け上がる。翠玉色の瞳が大きく見開かれ、背と腕の筋肉が弓弦みたいにしなやかに引き絞られていた。


 俺はチリチリと身を焦がす火の粉に、そしてナタリーの熱に浮かされて、光の速度で男へ意識を向かわせた。


 男の瞳――――青く白く鋭く、ほとんど銀色にきらめいていた――――が俺を迎え討つ。

 俺は予想通り彼の瞳の奥に構えられていた扉へ、乱暴に指を差し込んだ。


 ナタリーが全身全霊で男に殴り掛かっていく。

 彼女の渾身の一撃を、男が炎柱を交差させて防ごうとする。

 瞬間、俺の身体が火の粉に変わって舞い散った。

 男の意識もまた、火花を散らす。


「喰らえぇぇぇ――――――――!!!!」


 ナタリーが猛る炎に突っ込んで行く。


 俺は一面の紅を風となって吹き晴らし、彼女の拳が貫く道を作った。

 男の頬に拳がめり込んだ瞬間、男の身体が無数の紅い綿となって爆ぜた。


「!!!」


 飛び散った紅蓮の綿が次々と爆発し、辺りの景色を赤黒く濁らせる。


「…………ッ、ミナセさん!!!」

(――――ああ!)


 咳き込むナタリーの呼びかけに応じ、俺は再度紅い風を渦巻かせた。

 力場を駆け抜けると、全身の神経がビリビリと痺れる。

 だが俺はあくまで火の粉だ。

 肌も肺も、焼かれることはあり得ない。


(――――…………馬鹿か、勇者か、試してみやがれ!!!)


 俺は風の流れを操って、ナタリーを大きく囲った。


「アイツを追う…………宮殿の中ッス!」


 いち早く気配を察したらしきナタリーが、宮殿の中へと勇んで走って行く。

 俺は明るく滑らかに彼女の周りを巡りながら、今なお激しい炎に包まれている宮殿の内部を吹き晴らして進んでいった。


 燃える風が、翠玉色と小麦色をメラメラと輝かしく彩っている。


 風は俺達を、入り組んだ宮殿の最奥へと誘っていた。

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