第186話 「太母」へと至る試練。俺が信徒となってみること。

 炎が踊っている。


 激しく抱き合う男女の姿が一瞬だけ垣間見え、すぐさま火炎に巻かれて消えた。

 輪になって歌い舞う子供達が、俺とナタリーとを騒がしく囃し立てている。

 ユラユラと揺れる子供達はやがて細く長い巨人となり、ひどく汚い言葉を使って笑い転げるようになった。


 子供達は大股で辺りを練り歩き、柱や天井を次々に瓦解させていく。

 男女の陸み合う声が、猛る炎に被さって艶めかしく響き渡る。

 それはまるで呪文のようであり、あたかも回文のような不可思議な聞き心地を耳に残した。


 女の唇が炎を従えて、優雅にうねる。

 男の荒々しい咆哮が、巨大な彫像を粉々に砕く。


 俺とナタリーは崩れる建物の中をひたすらに突き進んでいった。

 ナタリーは持ち前の反射神経で瓦礫を軽やかに避けていくが、それでも襲い来る炎の魔の手を躱しきることはできない。俺は注意深く辺りを探りながら、彼女へ伸びる炎の腕をいち早く見つけ出し、吹き飛ばしていった。


「ありがとね、ミナセさん!」


 答えようとする間にも、崩れた天井が彼女へ降りかかる。

 折悪しく、足場が悪く逃げ場がない。

 俺は思い切って瓦礫の一部を纏った炎で焼き焦がし、いくらか軽いものを壁へ叩き付けて急場をしのいだ。


 もろに炎を被った身体がジーンと痺れ、全力で走った後のような疲労感がドッと圧し掛かってきた。人の形に戻りたくなったが、間髪入れず瓦礫の隙間からまた炎が噴き出してきたので誘惑は吹き飛んだ。


 俺は今一度、気力を振り絞って炎を正面から蹴散らした。

 そして火炎の名残で頬を赤く染めているナタリーに、短く言った。



(ごめん。頑張るけど、あんまり無茶はできそうにない)


 ナタリーはすぐに態勢を整え直すと、再び走り出しつつ首を左右に振った。


「ううん、いいの。ありがとう。こっちこそごめん。次からはもっと気を付けるね。アナタが死んじゃったら、絶対に嫌だもん」


 蟻の行列を思わせる、長い人々の列が俺達の左右を流れ始める。

 煙に巻かれて顔は定かでないが、長く尖った各々の耳には必ず氷柱じみたピアスが下がっていた。


 俺は並走しつつ、彼らが手に何らかの生き物の骨を抱いていることに気付いた。

 真珠のように白い骨で、人型のものにしては若干違和感のある、やたらと穴の開いた空洞の多い骨だった。


 滔々と唱えられているのは、祈りか、呪いか。

 濛々と立ち込める炎と煙に燻され、エルフの葬列…………いつしか俺は、彼らが弔いの列を成していると確信していた…………はますます濃く重く、不気味な言の葉を募らせていく。

 俺はナタリーを火や瓦礫から守りながら、彼女に尋ねた。


(嫌な感じだ。まだヤツは見つからない?)


 ナタリーが苦笑し、答えた。


「っていうか、もうずっといるみたい。…………このお葬式、あの人のだ」


 えっ、と思って俺が葬列を振り返ろうとしたその刹那、一陣の旋風が俺を絡めて熱狂する宮殿の中を大きく渦巻いた。


「あっ、ミナセさん!」

「ナタリー!」


 闇へ吹き上げられる寸前、俺は人の形に戻ってナタリーが伸ばしてくれた手を取った。


 …………が、それこそがまさに敵の思う壺であった。


 マズイと感じた時には、もう動き出した魔力の流れを留めることはできなかった。

 俺はナタリー共々、葬列の人々が一斉に向けた無数の青白い目の網の内へと吸い込まれていった。



 ――――――――…………。


 聞こえる、

 見える、

 感じる、

 …………。


 そのどれが今の場合に当て嵌まるのか、今回も俺には判断がつかなかった。

 魔術の渦中ではしょっちゅうあることだが、新たな領域に引き込まれる度に、未だに戸惑いを隠せない。


 確かだと思える存在はただ、ナタリーだけだった。

 彼女は幽霊みたいに半透明になって俺に被さり、目の前に広がる世界を瞳を大きくして眺めていた。


(これ、何…………?)


 彼女の問いに、俺は肩を竦めた。


(わかりたくないね。…………本当に)


 俺達の周囲では、色とりどりの影絵が無声映画のようにパタパタと動き回っていた。

 ハープに似た音色が四方八方から鳴り響き、その中をたまに救急車のサイレンじみた不快な叫び声が横切っていった。


 あちこちで同時に進行している影絵が紡ぐ物語は、どれも繋がっているようで繋がっていなかった。てんでバラバラな寸劇が、繰り返されたり途切れたりしながら延々と続いていく。


 しかし、そうした感覚の全てはいつからともなく、次第に俺達の内で収束していくのだった。


 群れからはぐれた小鳥の物語は、やがて孤独な男の末期に。

 峠を脇目も振らず走る馬車の一幕は、やがて転がり落ちた人形を追いかけて墜死する少女の悲劇に。

 愛し合う恋人たちの長い夜は、やがて氷雨に濡れる廃屋の一間に。


 一心不乱に薬を調合する魔術師の男は、やがて自身を卵と酢とヘドロの入り混じった奇異な物質に変えた。


 蒼い蝶を獲っては翅をもいでいた少年が、ついに最後の蒼竜を地に叩き堕とす。


 戦場へと出発した馬車の飛ばした泥が、道端に横たわっている騎士達の骸に勢いよく撥ねかかった。

 白い鎧が黒く染まっていくのを、厚い雲の合間から差す太陽だけがこっそりと覗いている。


 浜辺に打ち上がったクジラの死体が、体内に充満するガスを爆ぜさせた。

 膨大な血と肉が波打ち際に溢れ、深い海から誘われ上ってきた無数の魚達が、それを狂ったように貪り始める。


 どこで手に入れたものだろうか。

 波止場には、夥しい量の油が流されていた。

 日に照らされると、一面に広がった平べったい虹色が気味悪くぬめり輝く。

 黒い甲冑を纏った兵士の火矢がそこへ火を点けると、たちまち紅蓮の帯が辺りに広がった。


 夜空には昏々と流れる天の川。

 桜色に光るクリオネに似た生き物の群れが、星空と戯れながら宙を漂っている。

 白銀と黒曜の流れ星が2つ、その中を征く。


 気付けば俺とナタリーは炎や遺骸の山、そしてぬかるんだ泥と大量の肉食魚に囲われて、身動きが取れなくなっていた。

 耳をつんざく悲鳴が、ハープの旋律を突っ切って通り過ぎる。よくよく耳をすませば、その声は俺のものに他ならなかった。

 ナタリーが顔面蒼白で足下を見つめ、呟いた。


(…………どうしよう。このままじゃ…………)


 俺は、今は触れることのできない彼女を気持ちだけでも支えようと、話した。


(殺さないよ。少なくとも、あの男は君だけは残しておきたいはずだ)

(…………マジでキモい)

(…………変態は嫌い?)


 茶化す俺を、ナタリーがしかめっ面で睨み付ける。

 俺は(冗談だよ)と苦笑し、改めて自分達を取り巻く状況に気を引き締めた。


 実際、しくじった。

 ヤツの影絵劇場に目を奪われたのが、そもそもの間違いだった。元々は断片的な印象に過ぎなかったものを、俺が勝手につなぎ合わせて物語にしてしまった。俺自身の不安が、ヤツの魔術に力を与えてしまったのだ。


 油断していたつもりは1ミリも無かったが、そう痛感せざるを得なかった。

 魔力の流れを探すことにかまけて、自分から作り出してしまうなんて。

 やはり俺はまだ、魔術師もどきに過ぎない。


(…………)


 とはいえ、ここで諦めたらマジで死ぬだけ。

 俺は背にナタリーの体温を感じながら、腹を括った。

 何事も、挑戦だ。

 信じることだ。


「待て…………」


 俺は深々と息を吸い、思い切って叫んだ。


「回心する! …………したい!」


 ナタリーの翠玉色が激しく揺らぐ。

 ふいに泥が水位の増加を止め、肉食魚が俺の爪先で危うく牙を収めた。

 折り重なった遺骸と炎が静かに俺を見つめる中、男の声が淡々と響いてきた。


「命乞いですか…………」


 俺はゴクリと唾を飲み、慎重に言葉を選んだ。


「少し、違う。…………どうせ死ぬなら、お前達の…………大いなる「母」のことを、もっと知りたいと…………感じたんだ。だから、死ぬ前にもう一度、チャンスが欲しい」


 血相を変えるナタリーを、片手で宥める。

 男は俺の腹の底を知ってか知らずか、抑揚のない調子で答えた。


「…………啓蒙の苦しみを自ら望むのですね。ですが、万が一我々や母様への冒涜を意図してのことでしたら、貴方は必ずや後悔することでしょう。

 一度機会をふいにした貴方へ与える試練は、必然厳しいものとなります。何より、本当に都合の良い時にだけ神に縋る貴方を、私は心底軽蔑しています。なんと卑しい魂、虫唾の走る大愚。母様の安らぎを知る私であっても尚、かように激しい怒りを覚えることがあろうとは思いもしませんでした」


 憤怒が、男の瞳に銀色以上の冷たい輝きを差す。氷柱の耳飾りが炎を映し、鮮烈に瞬いている。

 俺は心の中だけでさらに呼吸を深くし、頷いた。


「ああ。この期に及んで、虫の良い話なのはわかっている。

 …………だけど、頼む。…………俺も、何かを信じてみたいんだ」


 エルフの眼差しが底無しに冷えていく。

 いつしか、俺達の周りに巨人の子供達がぞろぞろと集まってきていた。裸の男女もまた、泥の中から抱き合ったまま俺達を仰いでいる。

 男は先と一切変わらぬ冷淡な口調で、話を続けた。


「…………貴方を葬るのは至極簡単なことです。ですが、それは真に私の信じるところではない…………。いかに愚かな民をも悉くその胎内に抱かれる母様の如く、私もまた、寛容なる心で魂に相対せねばなりません。

 …………いいでしょう。望む通り、貴方に機会を与えます。

 ただし、一つ条件を飲みなさい」

「…………何だ?」

「巫女を、私の元へ」


 ナタリーが叫ぼうとするのを、振り返って止めた。


(何でッスか!?)


 怒りと動揺にざわつく彼女の魂は、今にも俺を殴りつけかねない。

 俺は暴れ出す寸前の彼女に、一言だけ告げた。


(帰ってくるから)


 ナタリーが微かに目を細め、俺を推し量っている。

 …………わかっている。そういうことを話しているんじゃない、と言いたいのだろう。だが、今の俺にはこれだけ伝えるのが精一杯だった。

 魂の語り合いでは、何より瞳が物を言う。俺は彼女を真摯に見つめ、それ以上は語らなかった。


(…………)

(…………)


 やがて、何も言わずにナタリーが俺から離れた。


 男は待ち構えていたように、ふわりと宙に姿を現してナタリーの手を取り、すかさず彼女の腰に腕を回した。

 ナタリーが露骨に嫌がっているのにも構わず、彼は強引に相手を抱き寄せると、今までで最も晴れやかな笑みを浮かべた。


「…………ああ、巫女。愛しい巫女…………」


 最早俺などは完全に眼中に無い。ナタリーは限界まで顔を背け、半ば泣きそうな顔で唇を噛み締めていた。腰の手にぐっと力がこもる。

 俺は努めて冷静に、彼の世界に割り込んだ。


「おい…………まさか、約束を破る気じゃないだろうな?」


 男が表情を豹変させ、氷像のような面持ちで俺を見下ろす。

 彼はナタリーを離すことなく、すげなく言葉を放った。


「ああ…………ええ、守りましょう。

 巫女との語らいは、貴方に試練をあてがってからにします。その方が、私も巫女も落ち着きます。

 貴方には…………そうですね。この本に相手をしてもらいましょう。

 貴方には人の心がわからない。故に、母様の慈愛も裁きの邪悪も理解できない。となれば、器物同士で語らうのが最良の道でしょう」


 言いながら、男が革表紙の本を俺へ放り捨てる。

 バサバサとめくれたページに描かれた無数の魔法陣や異国の文字が、黒く太った蜂の大群となって飛び出し、一斉に俺へ群がってくる。

 凄まじいボリュームで湧き起こる羽音に混じって、ナタリーの絶叫が鼓膜を震わした。


(――――――――ミナセさん!!!)



 彼女の涙の温もりを最後に、俺は全身を毒針に貫かれて意識を失った。


 そして…………。

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