第179話 傲慢なる大雲の塔。さすらいの「勇者」。俺が異邦人に導かれること。

 激突の衝撃で砕け散った虹色が、細かなシャボン玉となって辺りに溢れ返る。

 俺はレヴィの背から勢いよく放り出され、煌めく海の中へぐわんと叩き込まれた。

 とっさにシャボン玉の中に紛れて、息と身を潜める。


 やけに落ち着き払った男の声がどこからか聞こえてくる。

 囁いているのか? 笑っているのか?

 いずれにせよ、不愉快なまでに甘ったるい調子だった。


 ――――…………「無色の魂カラーレス」。

 ――――それは、穢れた魔術の産物。

 ――――白き魔物の信徒は根源たる母を知らず、流れ満ちる愛をも信じない。

 ――――それ故に、彼らは傲慢。

 ――――彼らは尊き命の川、その源泉さえも自らの手で編み出せると信じていた…………。


 シャボン玉が次々と弾けて、視界が晴れていく。俺はすぐに何かに擬態しようとしたが、遅かった。

 途方も無く巨大な入道雲の湧く青空に、ただ1人俺だけが取り残されていた。

 最後のシャボンの表面を彩る虹色の輪が、歪んだ稲妻の魔法陣を描いてパチンと割れるや、冷たく強い風が吹き荒れて、俺は大空を高く舞った。


「うっ、うわぁぁぁ――――――――っ!!!」


 バタバタと服と髪が暴れて、風の音が絶叫を掻き消す。自由落下の加速度が内臓を浮き上がらせ、息を詰まらせる。


 遮るものの無い、一面の空。


 耳の奥がキンと痛む。恐怖と寒さで脳の芯が凍える。

 入道雲は天空の果てまでだって届きそうだった。

 眼下には雪景色か。

 のっぺりとした白く平らな地面が、ぐんぐんと近付いてくる。


 俺は身体を強張らせた。


(ヤバイ…………!!!)


 激突の絶望と起死回生の妙案が同時に閃く。

 俺は今まさに地面に叩き付けられるという瞬間、意識に真っ白な綿を敷き詰めた。



 ――――――――…………ボフンッ!!!


 間の抜けた鈍い音と大量の細切れた綿屑を舞い散らせて、俺は純白に包まれた。

 ゆっくりと身体が柔らかな真綿の大地へ沈み込んでいく。

 未だにバクバクとうるさく鳴る心臓の音を鎮めるように、上空から粉雪がハラハラと降ってきていた。


(入道雲から雪?)


 さっすがファンタジー。


 ムクリと上体を起こすと、雪が落ちた端から綿屑へと姿を変えていっているのが見えた。

 何がどうなっているとかは、もう考えない。雪より綿のが良いに決まっている。ひとまず助かった。今は、それだけでいい。


 俺は果てしなく広がる綿の大地から苦労して立ち上がりつつ、足下の白い塊を一掴みした。

 綿…………。

 咄嗟に飛びついたはいいが、どこからどうしてこんなアイデアが生まれてきたんだか。扉の力にもそれなりに慣れてきたつもりだったが、油断するとすぐ理解を越えてくる。こんなのいくら頭で考えてもどうしようもない…………なんて言ったら、大魔導師ツーちゃんは何と答えるだろうか。


 そもそも、何で俺にこんな力があるんだろう?

 今となっては、「勇者」という呼び名にも若干…………いや、かなり恐ろしい感じがした。「水先人」や「三寵姫」と同様、これも魂に継がれる名だとしたら、ロクな役目じゃない可能性は高い。物凄く高い。

 確か俺の前の「勇者」は、昔々の「黒い魚」との戦いで命を落としたとかエレノアさんが言っていたけど…………。


 俺は首を振り、それ以上の考えをシャットダウンした。

 この期に及んで怖気づくなんて、あまりにも馬鹿げている。「勇者」だろうが何だろうが、俺はミナセ・コウだ。扉の力の由来なんて気にしたって、やるべきことが変わるわけじゃない。

 今はとにかく、ナタリーとレヴィを探さなくちゃ。敵の思う壺かもしれないが(っていうか、ほぼ確実にそうだろうが)、怒りに我を忘れている彼女達をこのまま放ってはおけない。


 握っていた綿はいつの間にか、溶けて冷たい水となって掌をぐっしょりと濡らしていた。

 俺は濡れた手を服の裾で拭って、改めて辺りを見回した。


「…………」


 まぁ、上から見た通りであった。

 どこまでも広がる、綿の雪原。

 異常発達した入道雲は、今も留まるところを知らず天へと腕を伸ばし続けている。

 降りしきる雪と降り積もった綿は吹き抜ける凍える風に煽られて、妖精みたいに無邪気に舞っていた。


 俺は身を震わせ、あてどなく歩みを進めた。

 非常に歩きにくいが、じっとしていると綿の底へ沈み込んでいきそうで不安だった。


 レヴィの歌もナタリーの魔力も全く感じられない。

 俺は空を仰ぎ、雲の隙間から差し込んでくる陽光に目を細めた。本物の太陽を見ているみたいで、まるで違和感が無い。


 ずぶ、ずぶと、いちいち足を深く綿に埋めつつ歩くのは、なかなかにしんどかった。エレナ村からグレンの家へ行く際にボールプールの海を泳がされたが、あれに近いものがある。結局のところ人は地面の上を歩くようにしかできていないのだと、全身の筋肉の痛みが教えてくれる。タカシもきっとさぞや難儀していることだろう。アイツと俺は一心同体だから。


(…………痛み)


 俺はふと立ち止まって、戦いの最中についた傷を見た。

 最早いつ付けたんだか定かでない傷があちこちにある。勿論フレイアやナタリーのそれと比べれば本当に些細なものばかりだが、それでもオースタンで生きていたら全く考えられないような傷ばかりだった。


 次いで俺は腹をさすった。

 ズキンと刺すような痛みの記憶。

 これに頼るのは二度とすまいと、誓い切れないのが怖い。このまま何の取っ掛かりも掴めなかったら、再度縋るのもやむを得ない。



 ――――――――…………何のランドマークも無い世界で、真っ直ぐ歩き続けるのは容易ではなかった。

 どれだけ歩いたのかを知るのに、少なくとも腹時計は全く役に立っていなかった。緊張の連続と風の冷たさのせいか、ちっともお腹が空かないのだ。

 俺は偽りの太陽だけを頼りに、闇雲に歩き回っていた。


 肉体の感覚がある限り、いつでもタカシの方へ意識を寄せられると信じてはいるのだが、それも段々頼りなくなってきた。延々とさまよっているうちに、頭の中にまで綿が侵入してくるようだ。このまま全身綿の人形みたいになって、永遠にここから出られなくなったらどうしよう。

 身の程知らずな雲の塔が、嘲笑うように俺を見下ろしている。


 …………それにしても、寒い。

 上からも下からも絶えず吹き上がってくる雪ん子は、可愛らしい見た目とは裏腹に、残酷なほどに凍てついていた。

 どうかすると、意地悪な笑い声だって聞こえてくる。


(――――…………p-p-n)

(p-pppn…………)


 響きだけは魂の歌とおんなじで、軽やかで伸び伸びとしている。

 雪ん子達はじゃれ合い、もつれ転がり跳ねて、晴れやかに風に乗って遊んでいた。

 何となくチェルとキリエの笑顔が思い出された。可哀想なあの子達はちゃんと安全な場所まで辿り着けただろうか…………。


 と、その拍子に、片足が急にズブリと綿の大地を突き抜けた。


「わっ!?」


 俺は綿の平原にうつ伏せになって倒れ込んだ。

 同時に、真っ白な綿屑が鼻と口にわしゃっと雪崩れ込む。


「ウッ!! ゲホッ、ゲホッ!!」


 咳き込んで慌てて身を起こそうとしたが、もがくだけ身体は綿に潜って余計に不安定になった。


「うっ、わっ!! わっ、わぁぁぁ――――――――っ!!!」


 たちまち全身が綿を突き抜け、俺は真っ暗な空間に放りだされた。


「…………――――ッ!!!」


 即座に、何かに摘まみ上げられるように俺は宙に吊られた。

 闇の奥底に何かが見える。

 あれは…………?



 ――――――――…………それは、無数の白い腕だった。

 男の腕も、女の腕も、子供の腕も、老人の腕も、病んだ腕も、傷ついた腕もある。

 どれもが俺を誘うように揺らめき、惑わすように指を曲げ伸ばししていた。

 ジューダムの魔術師達の力場で見た…………感じていた景色が今、目の前にあった。


「うわぁあぁぁっ!!!」


 突如強い苦みと酸味に襲われ、堪らずえずく。煮え滾った胃液が一気に逆流してくる。

 顎を金鎚で打たれたような激しい痛みが、視界をぼやけさせた。


 口中に血の味が充満する。違和感に口を開くと、歯が粉々になってボロボロと抜け落ちていった。小さな白い歯はあっという間に腕の群れの中へ吸い込まれていく。

 俺は血と唾液を飛ばして、間抜けな声で叫んだ。


「ふぁ…………!!! ひゃ、ひゃぁあ!!」


 思わず腕を伸ばした瞬間、にゅうとこちらへ伸びてきた腕の1本が俺の手首を強く掴んだ。


「はっ!?」


 引き攣る俺の前に、人魂じみた男の顔が浮かぶ。

 一目で異人の顔貌とわかる、異様な肌の薄さと滑らかさ。白さ。美しくささらに揺れる金色の長髪。青白い炎のような強い瞳。長く尖った耳の先には、氷の欠片じみた水晶のピアスが一つ、冷たく光っていた。

 男は薄い紫色の唇を歪ませ、音のしない声で囁いた。


 ――――だが…………貴方は、異邦人。

 ――――我らと同じ。

 ――――白き魔の毒は、未だ遠く…………。

 ――――貴方の心に、雨は降らない。


 ――――…………ならば、啓いて差しあげましょう。

 ――――…………朋友よ、おいでなさい。

 ――――我らが母様の胎内へ…………。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る