【幕間の物語④ とある竜乗りの都下り】

 


 雲海に囲われた峻険な山の頂に、一人の青年が立っている。

 遠くを眼差すその瞳は黒真珠に似た静かな輝きを帯びており、彼の傍らには、緋色の鱗に覆われた優雅な竜がうずくまっている。

 竜の青年を見る目はどこか優しい。

 青年は風に遊ばれる漆黒の髪を掻き上げ、竜に微笑みかけた。



青年 「そろそろ行こう。名残惜しくとも、いつかは発たねばならない」



 竜が顔をもたげ、次いでゆっくりと身体を起こす。

 そのしなやかで洗練された所作から、彼女が最上級の緋王竜であることが見て取れる。

 青年は竜の背にひらりと飛び乗ると、慣れた手つきで手綱を繰ってその頬を撫でた。



青年 「お前は本当に聞き分けの良い子だな。スレーン育ちの竜は大抵、ここを下りるのを大層嫌がるものだが。…………まぁ、サン・ツイードまでの短い旅だ。気楽に飛んでくれ。

 叔父の元へ着いたら、お前の病に効く薬を用意してやれる。この咽喉の腫れ、必ず治してやるからな」



 言いながら青年が逆鱗を撫でると、竜は低く鳴いて応えた。

 青年はそのしゃがれた響きに、小さく溜息を吐いた。



青年 「悔しいことだ。これしきの腫瘍の処置さえ、外の国に頼らねばならぬとは。

 あの薬草がここでも育てられれば良いのだが…………父上は未だに薬草医の入国すら拒んでおられる。

 余所の国を下等と嫌うのはこの土地の下らない伝統だが、そのためにバカ高い関税付きの薬草を買うのは、もっと下らない。

 …………まぁ、今更嘆いても仕方がない。下手に駄々をこねてお前を失うようなことになれば、国にとってこれ以上の損失は無いしな。

 …………行こうか」



 青年が竜の腹を軽く蹴ると、竜は岩肌を身軽く駆け下り始めた。

 勢いに乗せて彼女が翼を大きく広げると、たちまち全身が風を掴んで宙へ浮き上がる。

 青年はそのまま、雲海の表面に沿って竜を滑らせていった。

 気持ちよさそうに目を細め、青年は山間を縫うように竜を旋回させる。

 彼は風に紛れるような調子で、竜に語り掛けていった。



青年 「知っているか? あの都では今、大変な騒ぎだそうだ。あのヴェルグツァートハトー…………紅の姫の腹心の魔導師が、弟子の魔術師を大勢集めて何か企んでいるらしい。

 先のテッサロスタでの戦で失った力を補うべく、新たな魔術を開発しているという噂だが…………実際、どこまで信じていいものやら」



 無論、竜は何も答えない。青年の脈絡のない独り言は、彼の幼少期からの癖なのだ。

 幼馴染の竜はすっかり慣れている。


 雲海を注意深く降下していく竜の翼を、ポツポツと細かな水滴が打ち始める。

 青年は額に垂れてきた雫を拭い、間もなく雲の下へ抜け出した。

 雲海の下方、険しい山岳地帯の合間の盆地には、小さな農村がある。

 村は祭りの最中であり、どの民家も色とりどりの飾りで鮮やかに彩られていた。



青年 「うん、今年も盛況だな。毎年々々、どこの家も本当に綺麗に飾り付けるものだ。水田の苗も、この時期は初々しくて良い。

 …………「竜王様のご加護のあらんことを」と、俺も降りてちゃんと言うべきなのだろうな、本当は」



 青年は慕わしげな視線を村へ送りつつも、雲間に隠れるようにこっそりと盆地を通り過ぎていく。


 その後は、再び高い山が続いた。

 空はいつしか雲一つなく爽やかに晴れ渡っており、青年と竜は特に何の苦もなく、峡谷の間を走る川に沿って飛んでいった。

 辺り一帯に萌える新緑が陽光をきらやかに散らし、目に眩い。

 夏の気怠い気配が、風に滲んでいた。



青年 「…………にしても、サン・ツイードか」



 青年の独り語りが、また始まった。



青年 「叔父上の商売サモワールは相変わらず絶好調のようだが、俺は正直、あの店は騒がしくて苦手なんだ。落ち着いた上品な部屋もあるとかそういう話ではなくて、ただ単純に、あそこにはあまりにも多くの物が費やされていて、肩がこる。

 贅沢なんて、青空と酒があれば十分事足りるというのに」



 竜は聞いているのかいないのか、黙って飛び続けている。

 青年は構わず話し続けていった。



青年 「そりゃあ、美味い肴もあれば上々だが、つまみってのは中々それだけでは終わりにはならないからな。せいぜい煙管ぐらいで満足しておくのが分際ってものだろう。

 …………なぁ、お前はどう思う? お前とは生まれた時から一緒にいるが、実は未だによくわからないんだ。

 竜の幸せってのは、何なんだ? やはり叔父上の言う通り、「強い乗り手」か?」



 竜は澄ました顔で何も答えない。

 ふたりの頭上を、一羽の猛禽が真っ直ぐに横切っていく。

 青年は何気なくその鳥を仰ぎ、また正面に顔を戻した。

 彼の前方から、紫紺色の大きな竜が飛んできている。

 竜の背には、筋骨隆々とした大男が跨っていた。

 その全身は今まさにマグマで練り上げられたとばかりに赤黒く、迸るような熱気と迫力に満ちている。

 相手は青年を見つめ、悠々と突き進んできた。



青年 「やれやれ。…………面倒なお人とぶつかったな」



 顔を顰める青年の独り言に、男は耳聡く反応して答えた。



男 「おお、誰かと思えば、シスイ坊ちゃん! 面倒はお互い様ですぞ! ついにご出立ですかな?」



 青年は溜息を吐き、行き違い様に竜をホバリングさせ、男と向かい合った。

 男は玉虫色の使い古された甲冑に身を包んでおり、その額には法螺貝に似た奇妙な形の太い角が2本、逞しく生えていた。深い刀傷のある顔の色は割れた柘榴を思わせ、真昼に見てもなお恐ろしげな印象を与える。

 青年はまさしく鬼と呼ぶべき風貌の男をしばらく睨みつけ、やがて諦めた様子で肩をすくめた。



青年 「アードベグ。その呼び方はもう止してくれと言っているだろう。

 それより、もう館に戻るのか? 君のことだから、麓で1杯2杯引っかけてから帰ってくるものだとばかり思っていたが。

 北の裂け目の魔物は、もう仕留めたのか?」



 男は顔の端まで裂けた口を豪快に開き、峡谷中に笑い声をこだまさせた。



男 「ハーッハッハッ!!! 愚問を!!! あれしきの小物、私が参る程もありませんでしたわ。あるいは坊ちゃんのなまくら剣術でも、何とかなったかもしれませぬ」


青年 「全く…………そのなまくらを教育係したのは誰だったかな?

 何にせよ、それならどうしてそんなに急いで帰る? 君がそのように仕事熱心だと、大嵐でも来るのではないかと心配になってしまう」


男 「フン、百代前よりお仕えするこの私ですぞ。ただ一日とて、全身全霊でもって励まぬ日のあろうはずがありましょうか。

 …………とまぁ、冗談はさておき、先代からの命令ですわ。日暮れに大切なお客人が到着するそうで」


青年 「…………君が呼ばれるとなると、また蒼の姫からの使者か」


男 「坊ちゃんには内密にするよう仰せつかっていたんですがね。ここで会ったのも何かの縁ってことで、お伝えしいたします」


青年 「…………父上は、また嘆願を拒絶なさるおつもりか」


男 「それがスレーンです。竜王の掟は堅く我らを守り…………縛る。

 …………だから発つのでしょう、坊ちゃん?

 それとも戻りますか? 共に、竜王の加護の下に」



 青年が何も言わずに男を見つめる。

 黒真珠の瞳は、なおも濁ることなく澄んでいる。

 相対する男は顔をグシャグシャにすると、弾けるように哄笑した。



男 「ハーッハッハッ!!! 変わりませんな、その目は!!!

 まぁ、せいぜい頑張ってください。何がどうなるにせよ、飛ばないよりは遥かに素晴らしいんです、この世ってのは」


青年「…………どうだかな」


男 「竜の翼は飛ぶためにございます。坊ちゃんは剣はいかになまくらでも、飛ぶのだけは、どの世界の誰にも負けはしません。

 …………応援しとりますよ」



 男が竜の腹を蹴り、威勢の良い掛け声と共に出発させる。

 青年はそれに合わせ、自らの竜を強く羽ばたかせた。

 男と青年は、あっという間に反対方向へと飛び去っていく。

 青年は向かい風の中、小さく唇を噛み締めて呟いた。



青年 「…………竜王、か…………」



 青年と竜は温かな日の中を止まることなく突き抜け、やがて夕陽に燃えるサン・ツイードの街を望む、哀しい程に広い竜の発着場に降り立った。

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