第8章

傷だらけの恋路

第156話 あてどない祈り。俺の胸に巣食う「邪悪」のこと。

 フレイアの応急処置を済ませてから、俺達は竜を引いて急ぎ近くの村へと向かった。

 本当はフレイアを乗せて先に行ってもらいたかったのだが、シスイは村へ行く途中の道には魔物が出るからと言って、頑として聞いてくれなかった。


「戦闘能力の無い人間を独りで歩かせることなどできない。…………君が死んだら、元も子もないんだぞ!」


 彼は珍しくキツい口調で俺を叱った。


 歩いている間、自分の弱さと惨めさがひしひしと感じられて辛かった。

 何もできない自分が憎らしくて憎らしくて、いっそ本当に魔物に食われちまえばいいと思うぐらいで、こんなことならヴェルグの望んだ通りに、俺から扉の力だけを切り取って、誰かが上手く使ってくれた方が余程良かったのにとマジで考えた。


 ありとあらゆる後悔が、波となって押し寄せてきた。

 フレイアの熱はいつからあったのか。どうしてもっと早く気付いてやれなかったのか。どうして何も出来なかったのか。

 俺はあの騎士の魔力に翻弄されるばかりで、フレイアがあんなに必死で戦ってくれていたのに、一歩だって動けやしなかった。

 誰より傍にいたのに。


 …………。

 …………ヤガミのことだって。


 俺は唇を噛み締め、すぐに回想を止めた。

 いくら幼い頃を反芻したところで、今のアイツを理解できるようにはならない。今のアイツと話さない限り…………違う。そもそも俺がアイツと…………ジューダムの「王」と話せる立場に立たない限り、わかり合えないどころか、何一つ始まりすらしないのだ。

 ワンダみたいに誰かにくっついて回っているだけじゃ、俺はアイツと喧嘩することもできない。

 永遠に「和平」になんて届かない。


 フレイアは道中、ずっと俺の手を握っていた。俺は時々、その手を思い切り振り解いて逃げ出したい衝動に駆られたが、その都度全力で自分を抑えた。

 今の俺に彼女の「勇者」でいる資格なんて無い。けれど自棄ヤケになったって、余計に惨めが増すだけだ。俺が彼女の何であれ(…………何でもないのであれ)、彼女は俺の、何よりも大切な人だ。

 この手を離すわけにはいかない。


「…………コウさん、もうすぐ着く。一旦、竜達をこの辺りに繋ごう」


 村へ入る前に、シスイが振り返って話した。


「村の家畜が怯えるから、中に入れることはできない。セイシュウの傷はお嬢さんが落ち着いた後、俺が見に来る」

「わかりました。…………魔物、出ませんでしたね」

「不幸中の幸いだ。俺は接近戦は得意じゃない。正直、魔物の集団に出食らわしたら打つ手が無かった」

「すみません。…………ありがとうございます」

「礼を言うのはまだ早い。…………お嬢さんを降ろそう。担げるか?」

「はい」

「よし、そしたら荷物は俺が持つ。行こう。医者がいるといいが」


 俺はフレイアを抱き上げ、ヨタヨタと歩き出した。

 つい「はい」とか言っちゃったけれど、気絶している大人1人を運ぶのは結構苦しい。(おまけに鎧も着ている)トレンデで小さかった彼女を抱っこした時とはさすがに訳が違った。

 シスイは歯を食いしばる俺を見て見ぬふりし、近くの民家の扉を叩いた。


 何度かの呼びかけの後、眠たそうな目をした老人夫婦が鎧戸の隙間から怪訝そうに顔を覗かせた。シスイは「怪我人が出た。部屋を借りたい」と手短に説明し、フレイアと俺を明かりに翳した。


 見るなりお爺さんは俄かに目を大きくし、お婆さんに急いで扉を開くよう言った。

 いそいそと出てきたお爺さんはやけに畏まった所作で頭を下げ、俺達を家の中へ招き入れた。


「大変失礼いたしました。お怪我をなさっているのは、ツイード家のお方でございましょう。どのような経緯かは存じませぬが、どうぞこちらへ。廃業して久しいむさ苦しい宿ですが、ぜひお心行くまでお使いください。

 今、家内が人を呼んで参ります。すぐに戻ってくるでしょう。…………さぁ、さぁ、どうぞこちらへ」

「あ、ありがとうございます」


 俺は彼女の家名の力に改めて驚愕しつつ、案内された部屋へフレイアを運び、寝台に寝かせた。

 手を離すとフレイアは少しだけ不安そうに紅玉色の瞳を瞬かせたが、俺がもう一度手を取ると、ホッと息を吐いて、また眠りに落ちた。


 俺は勧められるがままに枕元の椅子に腰を下ろし、フレイアを見守った。

 俺の隣ではシスイが、落ち着かない様子でフレイアと俺の荷物を漁っていた。リーザロットが用意してくれた物の中に使える品が無いか、確かめてくれているらしい。

 俺は時々投げ掛けられる質問に答えながら、まだか、まだかと気が遠くなる思いで医者を待った。



 まもなく、医者というよりかは僧侶といった風体の男がお婆さんと共に部屋に入ってきた。

 聞けば、この村には医師は無く、比較的薬草の扱いに長けた修道士の彼と、家畜のための獣医がいるのみとのことだった。(しかもその獣医は、村の外れに住んでいるので到着にしばらく掛かるという)

 蒼褪めて口もきけない俺を、シスイが宥めた。


「落ち着け。お嬢さんの手持ちの薬と、修道士の方が持ってきてくれた薬草でとりあえずはしのげる。お姫様お手製の薬方指南書もあるし、上々だ。

 …………ご主人、奥さん、蒸留酒と湯を用意してくれないか。それと修道士の方。薬の調合はこちらで何とかするから、貴方には瘴気の浄化を頼めるだろうか?」


 頼まれた男は途端にギョッと頬を引き攣らせ、喚いた。


「なっ、何だって!? 瘴気って、アンタ達まさか…………あのエルフの遺跡に入ったんじゃないだろうな!?」

「そのまさかだ」

「じょっ、冗談じゃない! あそこにはエルフ共の怨念が渦巻いている。瘴気の正体はヤツらの呪いだ。そんなものが相手なら、例えツイード家のご令嬢といえども、私は御免被る!」

「待て。それならいい。だが代わりに薬の調合に手を貸して…………」

「断る! 「死者を冒涜するなかれ」。裁きの主の教えを破った騎士に手を貸す気は無い。

 それに…………その娘は、あの邪の芽の宿主だと聞いている。このような忌むべき真似をするとは、やはり汚れた…………」


 男はそこではたと口を噤んだ。恐らく俺が見ていることに気付いたのだろう。彼はおずおずと俺を振り返ると、たちまち顔色を変えて小さな悲鳴をあげ、転がるようにして宿から飛び出して行った。

 俺はスカーフでフレイアの汗を拭い、それからシスイを仰いだ。


「…………薬草の調合、俺が手伝います。指示をくれたら、それに従う」

「あ、ああ。…………けど、大丈夫か?」

「やれるだけやります。あの人が慌てて置いていった道具、使わせてもらおう。置いていったヤツが悪い。…………これ何だろう? エタノール?」

「「えたのーる」が何かはわからないが、それは清めの酒精だ。…………というより、俺が聞きたいのは君の…………気分に関してだ。自分じゃ気付いてないかもしれないが…………君の魔力はひどく荒んでいる」

「俺の魔力? 今はそんなこと、どうだっていいだろう!」


 俺は余程ひどい顔をしていたに違いない。シスイはそれ以上何も言わず、静かに俺を見返していた。

 俺は一呼吸おいてから酒精の瓶を脇に置き、大人げない態度を詫びた。


「…………すみません。確かに、気が立っています。まさか睨んだだけで逃げ出されるとは思わなかった」

「いや、彼は彼女を侮辱した。怒るのも無理はない。

 …………だがともかく、こうなっては仕方ない。獣医が来て傷を縫い始めるまでに、出来る限り薬を揃えておこう。

 …………何よりまずは、痛みを軽減するパパベラだな。これはお嬢さんが持っていたのが使える。あと、修道士が持ってきた丸薬にも同じ成分のものがある。見た所あまり純度の高いものではなさそうだが、これだけの傷を縫うんだ。少しでも追加のあった方がお嬢さんも楽になるだろう。

 それから、ええと…………心の臓の力を強めるジギの葉を、そこの薬研で削るか。本当は蒸留して使うものなんだが、時間が無い。煎じて飲ませよう。

 あとは、指南書によれば…………これだ。コウさんの鞄の中に入っていた「瘴気晴」とかいう薬。…………なんか、異国の黴から作られたとか、妙に不穏なことが注釈してあるが…………」

「ペニシリン? ペニシリンっスか?」

「…………コウさん、詳しいなら任せる。指南書監修の…………あのウィラック医師曰く、この黴水を注射器で直接身体に入れて血に混ぜるのだそうだ。

 …………正気と思えないな。これは止めとくか?」

「いや、マジで抗生物質だとしたら、賭けてみる価値はあります。マッド・ウィラックを信じましょう。イカれたウサギさんだけど、腕と知識はサンライン随一らしいですから。

 …………それにしても、こうして見ると修道士さんも結構色々と持ってきてくれてたんだな。いくら酷いことを言われたからって、申し訳無いことをしたかも。もっと冷静に事情を説明するべきだった」

「頭が冷えたようで何よりだ。君はその方がいい」

「俺、そんなにアレでしたか?」

「ああ、人でも刺し殺しそうな顔をしていた」

「…………それは確かによくないッスね。…………実は昔、本当に刺しちゃったことがあるんです。喧嘩して。ヤガミを…………あのジューダムの王様のことを」

「…………。冗談を言っているようには見えないな。やはり知り合いだったんだな」

「友達でした。すごく仲の良い」

「…………まぁ、今は深くは聞くまい。

 あと、この葉も削ってもらえるか? 気付け薬になる。抽出して、1:5ぐらいで酒に溶かしてほしい」

「わかりました」


 俺達が概ね薬を整え終わった頃、ようやく獣医が到着した。



 獣医は意外にも、女性だった。

 恰幅の良い堂々たる体躯のおばちゃんで、彼女はフレイアを一目見るなり「フン!」と大きく息を吐いて腕を組み(誰かに似ている…………)恐竜のような大声で言った。


「全く、竜と相撲でもとったのかい? このツイードのお嬢ちゃんは!? …………やれやれ! 嫁入り前の娘がこぉんな大きな傷つけちまって! …………アンタ、彼氏ならちゃんと責任取るんだよ!」


 彼女は顔を皺くちゃにして俺を睨み付け、しっしっと枕元から戸口へと追いやった。

 次いで彼女は宿の夫婦に手術の助手をするよう命じ、シスイにあれこれと薬について尋ね、俺には一刻も早く外へ出るよう言いつけた。


「で、でも…………」


 なおも縋ろうとする俺を、獣医はピシャリと跳ねのけた。


「馬鹿だね! 乙女心がわからないのかい? 素っ裸で血みどろで悶えて苦しんでいる姿なんて、普通は誰にも見られたくないもんなんだよ! 彼氏には特にね!

 さぁ、アンタ達の仕事はもう終わりだ! あとは祈るだけ! しっしっ!」


 彼女はシスイもついでに追っ払い、素早く清潔なエプロンを身に纏うと、慣れた手つきで酒精を振りまいて自らの手と手術用具を消毒し、パパベラを手にした。


「安心しな! 人を縫うのは初めてじゃない。4年前の戦じゃ、この辺りは難民で溢れて地獄の釜の底みたいになってた。…………騎士様方はロクに覚えちゃいないだろうけどね。昼も夜も無く、一体どれだけの人間を相手したやら。もっとひどい怪我も山程縫ったし、瘴気持ちだって、文字通りこちらが腐る程に診てやったよ。

 だけどね、結局サンライン人もジューダム人も大人も子供もウマもグゥブもマヌーもワンダも、何も変わりゃしない。…………最後は運。人は魔術でもなく、剣でもなく、薬でもなく、主の恵みによって生きてる。

 …………祈んな! それは無駄じゃない」


 シスイが無言で俺に退出を促す。

 俺は最後にもう一度フレイアを見つめ(痛み止めが効いてきたのか、少し呼吸と顔色が穏やかになっていた)、部屋を後にした。

 扉を閉めてすぐ、手を離すべきじゃなかったのではと不安で胸が潰れそうになったが、最早手を合わせるより他に無かった。


 誰でもいい。

 「裁きの主」でも、「太母」でも、オースタンのどんな神様でも、フレイアを助けてくれるなら、何だって捧げたかった。

 胸に根付いた邪の芽がそっと鎌首をもたげる。

 …………もういっそ、コイツに頼ろうか?


 だが、そしたらお前は代わりに何を要求する?

 お前に乗っ取られたフレイアを、俺はまだフレイアと呼べるだろうか?


 …………わからない。

 どうしたらいい?


 「祈れ」だなんて、当たり前みたいに言ってくれる。

 それが無駄じゃないことぐらい、よく知ってる。

 けれど…………簡単には信じられない。


 弱っちい自分がこんなにまざまざと暴き出された後で、震えて手を組むことしかできなくて、どうして誰かが助けてくれるだなんて思える?


 確かな何かが欲しい。

 だから人は魔術に、剣に、薬に、邪悪な存在に、手を伸ばす。

 自分の手と目以上に信じられるものが、この世にあるはずないから。

 「いつか」「きっと」を待てるだけの強さがあったなら、そもそも苦しんだりしない。


 …………。


 思い詰めていたら、ふいにシスイが俺の肩を叩いた。

 彼は黒く静かな瞳で俺を見つめ、語りかけてきた。


「コウさん。ちょっと竜達の様子を見てくる。一人にして平気か?」


 俺は若干たじろぎつつ、答えた。


「あ…………、はい。大丈夫、です。…………っていうか、何もできること無いですし」

「あまり難しいことは考えない方がいい。何とかなるよ。大丈夫だ」

「…………」


 心でも読まれているのだろうか。それとも、そんなにまた顔に出ていたのだろうか。

 いずれにせよ人の言葉が差し込まれたおかげで、危うく逸りかけた気がごっそりと削がれた。

 俺は溜息を吐いて組んでいた手を解き、答えた。


「そう、ですね。…………何とかなる。大丈夫」

「ああ。彼女は強い。君よりも、俺よりも」


 シスイは気休めと匂わせない確かな口調で言い残すと、自分の荷物を持って足早に宿を出て行った。セイシュウの怪我を気に掛けてくれているのだろう。俺は彼にも、世話になりっぱなしだ。


 俺は地面に座り込み、努めて何も考えないように膝を抱えて、疲労でカチカチに凍りついた瞼を無理矢理に閉じた。

 「きっと」を信じる強さが無くても、見栄を張る気概ぐらい…………。

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