第157話 愛しき日々を貫く覚悟。俺がようやく決意したこと。
鎧戸の隙間から薄っすらと朝日が差し込み始めた頃、獣医と老夫婦がやっと部屋から出てきた。
結局シスイは一晩中帰ってこず、俺も一睡もできなかった。
獣医は蹲っている俺へ疲れた目をやると、比較的穏やかな調子で言った。
「終わったよ。今は薬が効いてぐっすり眠っている。熱もひとまず落ち着いて、ようやく小康状態といったところだ。
肩の傷以外にも、あちこちに傷があったから全部縫っといた。一体どんな旅をしてきたら、あんなに仰山傷をこさえるんだい? 他の数え切れない古傷といい、あの娘、あの齢で相当な数の戦いを経験してきたんだろう。…………可哀想に。そうだろ?」
彼女は汚れたエプロンを丸めつつ、俺の答えを待たずに続けていった。
「縫っている間中、暴れるどころか呻き声一つ上げなかったよ。いっぱしの兵士だって、なかなかあんな風には出来ない。全く、かえってこっちが悲しくなる。
…………起きたら、たくさん優しくしてあげな。机に上に軟膏が置いてあるから、傷に塗っておあげ。ウチの曾爺さんがエルフの旅人の腹痛を治したお礼に貰った薬でね。治りが良くなる上に、傷も不思議なくらい残らなくなる」
「…………ありがとうございます」
俺が立ち上がってお礼を渡そうとするのを、彼女は片手で制した。
「ああ、いいよ。座ってな。それは先にもう一人のお兄ちゃんから貰っている。軟膏はほんのオマケさ。どうせウチじゃ使わないしね。
それより、アンタもいい加減に休みな。疫病持ちのワンダみたいな顔をしている。とりあえず何か食って寝な。寝れば、色んな事が良くなる。
私も帰って寝るよ。おやすみ。…………彼女と仲良くね」
俺は改めて頭を下げ、獣医に感謝した。彼女は「フン」と満足気に一息つくと、のしのしと大きな身体を揺すって、朝ぼらけの村へ出ていった。
俺は彼女を見送ってから、そっとフレイアの部屋の扉を開けた。安らかな寝息がシンと静まり返った部屋に微かに響いている。俺は彼女を起こさないよう恐る恐る枕元に近付き、綺麗に拭われた顔を見た。
相変わらず蒼ざめてはいるけれど、連れてきた時程は息苦しそうではなかった。頬と唇の色も戻ってきているし、華奢な肩と首筋にはきちんと包帯が巻かれていて安心感がある。
初めて見る無防備な彼女の肌が、日の光を浴びて眩かった。毛布の下の胸の膨らみが呼吸に合わせてゆっくりと上下している。あえかな吐息が少し乾いた唇から漏れ出るのを聞いていると、不安やら切なさやらで妙に狂おしくなった。
俺は彼女に触れようとして、手を引っ込めた。
…………今は起こすべきじゃない。
少し経ったら、また様子を見に来よう。
それから俺は、宿の夫婦にもお礼を言いに行った。
恐縮にも、彼らは俺達の食事を用意してくれている最中だった。
夫婦は深夜の不躾な訪問にも関わらず、心優しく俺達の旅の疲れを労ってくれた。フレイアのこともとてもよく気に掛けてくれており、傷が癒えるまで何泊でもしていっていいと言ってくれた。
宿の主人は俺の前にせっせと食器を並べながら、朗らかに語った。
「私も若い頃はサン・ツイードに出ておりました。中央区領主様であられるツイード様のお屋敷にもよく出入りさせて頂いていたのですよ。
ですからお連れ様の美しい白銀の髪と深紅の瞳を一目見た時、すぐに「ああ、ツイード様のご家族だ!」とわかりました。ツイード様の一族は皆、あの建国の英雄・アルバス様のご容姿を代々受け継いでおられますからね。どこにいらっしゃっても、大変華やかにお見えになるので…………」
俺は主人の話に耳を傾けつつ、出してもらった食事に有難くありついていた。
食事は塩の利いた豆のスープと、ゆで卵を添えた温かいパンと、脂の良くしみたグゥブのリエットだった。「こんな物しか無くて」とお婆さんは申し訳なさそうにしていたが、とんでもない話だった。俺はマジで、涙を目に溜めながら夢中になって食べた。
食物を口に入れた途端に、急に「まだ生きている」ということが奇跡のように感じられた。
俺は獣のようにパンと卵に齧りつき、クジラの如くスープを飲み干し、リエットを皿ごと舐めつくす勢いでさらった。恐らくはシスイの分であったものまで平らげてしまったことに気付いたのは、全ての食器がさっぱり空になってからだった。
「あ…………ごめんなさい。つい…………」
頭を下げる俺に、主人はたっぷりのミルクで煮出した食後のお茶を差し出して笑った。
「何、お気になさらず。孫3人を育てていた時と比べれば、このぐらい何のその。あの子らはそれこそ畑ごと食らい尽くさんばかりでした」
「でも、本当にすみません。物凄ーく美味しかったです。…………お孫さんがいらっしゃったんですか?」
「はい。この場におりましたら、一番上の子はちょうど貴方様と同じような年頃でした」
「やっぱり皆、今はサン・ツイードへ働きに行っているんですか?」
「いいえ。4年前の戦で皆、主の御許へ」
「…………すみません」
「いいえ、そんな。名誉なことです。紅の姫様から勲章まで頂いて。いやはや、私達には過ぎた子供達でした」
俺はどう答えたらいいかわからず、仕方無くお茶を手に取って飲んだ。
額縁に飾られた金の勲章が3つ、白々とした朝日の下で優しく輝いている。綴られた文字は残念ながら俺には読めないが、きっととても誇らしい言葉に違いない。
夫婦はその後も、他愛無い話を続けた。
畑の水道の流れ具合が悪い話。今年のチュンの実の熟れ具合が良い話。次の慰霊祭のお弁当の話。隣家の娘婿の浮気の話。はす向かいの家の赤ん坊がすぐに揺り籠を壊す話。獣医の家のワンダが疫病に罹った話。そしてなぜかそれから劇的に回復した話。…………
俺は席を外すタイミングを逸して、かなり長居した。何だか田舎の祖父母の家にいるようで懐かしく、今すぐベッドに倒れ込みたいほど疲れているにも関わらず、思いのほか寛げた。
知らない人達の知らない生活が身近に感じられて、それでも時々、やっぱりどこかが決定的に遠くて、その距離感が心の中で丁度良く釣り合っていて、このままどこまでも時間が間延びして、無限に平和が続いていく気がした。
こうしてのんびり過ごしているうちにフレイアも回復して、俺達はまた何事もなく旅に戻る。
老夫婦に手を振って、俺達はまた竜で飛び立つ…………。
…………どこへ?
と考えて、我に返った。
そうだ。この平和は永久ではない。フレイアは何のために戦ったのか。どうして俺なんかが遥々この地までやって来たのか。壁の勲章がすっかり高くなった日を反射して静かに光っている。
俺は席を立って、挨拶した。
「それじゃあ、俺、もうそろそろ戻ります。ご馳走さまでした。シスイさん…………あの、もう一人の連れに会いにいってきます」
「おや、もう行かれるので? 村の外へお出掛けなら、どうかくれぐれもお気を付けてくださいまし。昼間ですから、滅多に魔物も出て来ないとは思いますが」
「はい。ありがとうございます」
「もう一人のお兄さんにも、お食事があると伝えておいてくださいね」
「わかりました。何から何まで、お世話になります」
俺は老夫婦に別れを告げ、村を出た。
のどかな農道を抜けて、セイシュウ達を繋いだ場所まで戻ってくると、丸まった竜達に囲われてシスイがぐっすり眠っていた。
俺に気付いて目を覚ましたセイシュウが少しだけ頭をもたげる。俺は彼に近付き「おはよう」と声を掛けた。
シスイは全く目覚める気配が無く、疲れ切った身体を老竜に埋めて昏々と眠り続けていた。彼の老竜は母親のように穏やかな表情でそんなシスイを見守っている。
俺はセイシュウの尾の傷を確かめて、思わず目を見張った。
あんなにバックリと裂けていた傷がすっかり塞がっている。まだ傷の跡はくっきり見えるが、縫った形跡はどこにもない。人間の常識からすれば、信じられない回復速度であった。
俺は答えの無いことを承知で、セイシュウに尋ねた。
「お前、これ、どうしたんだ…………? まさか、自分で舐めて治したってわけじゃないだろう?」
案の定、セイシュウは呆れた調子で鼻息を吐くばかりだ。
俺は次いでシスイの肩を揺すった。もう少し寝かしてあげたい気持ちもあったが、このままにしておくわけにもいくまい。
何度かの呼びかけの後、シスイは億劫そうに瞼を上げた。
「ん…………? コウさん、か…………? …………お嬢さんはどうなった?」
シスイは片手で苦しそうにこみかめを押さえ、眉間をこれでもかと険しくして起き上がった。黒真珠のような瞳が、嵐の後の水底みたいに荒れて暗く濁っている。どうも日が眩しくて辛いらしく、彼はすぐに自分の影へと視線を落とした。
「フレイアは寝ています。とりあえずは大丈夫だそうです」
「そうか、それは良かった。…………だが、予断は許されない。せめて熱が下がるまでは寝台の上で休ませてやろう。
ああ、宿へ戻る前に少し待ってくれ」
言うと、シスイはおもむろにセイシュウの逆鱗に触れ、長い息を吐いて目を瞑った。老竜がその様子を、姿勢を崩すことなくじっと見つめている。
やがてシスイの魔力とセイシュウの魔力の通う感触がぼんやりと辺りに漂い始めた。
日溜まりのような温かさと、空の真ん中に放り出されたような冷たい孤独。
セイシュウの魔力が綿菓子みたいに柔らかく膨らんで、高く高く空へと昇っていく。
微かな緊張と高揚が俺の背にも走る。
シスイの清流の魔力が、たちまち一陣の風となって魔力の綿菓子を晴らした。
青一色の空だけが後に残される。
吸い込まれるような大空だけが…………。
俺はそこでハッと息を飲み、瞬きすることを思い出した。
シスイが逆鱗から手を離してこちらを振り向く。彼の瞳はその一瞬、いつもの惚れ惚れするような清澄さを取り戻していたが、すぐにまた元通り濁ってしまった。
シスイは黒い髪を風にそよがせ、軽く微笑んだ。
「待たせたな。…………戻るか」
「今のは、何をしたんですか?」
「ただ共力場を編んで、セイシュウの調子を確かめただけだ。スレーン人はこうして竜と共力場を編んで、魔力の循環を整えてやれる。まだ飛びながらは出来ないが」
「それって…………もしかして、俺の扉の力と同じものでしょうか?」
「どうだろうな? 言われてみれば、少し似ているかもしれない。だがまぁ、いずれにしても俺は竜相手にしかこんな真似はできない」
「セイシュウの怪我も、それで治したんですか?」
「ああ、手助けした。しかし今回は色々と条件が良かった。天候も月相も気脈も、何もかもが誂えられたように絶好調だった。普段ならとてもこんな風にはいかない。軽い止血がせいぜいだ」
「…………」
「まだ色々と聞きたそうな所すまないが、一晩中掛かりっきりだったせいでちょっと疲れている。できれば、後にしてくれ」
俺は歩き出したシスイについて、黙って宿へと戻った。
帰ってきた俺は食堂にシスイを置いて(というより、待ち構えていた老夫婦が半ば強引に彼を攫っていった)再びフレイアの部屋へと赴いた。
ノックしてから部屋に入ると、フレイアはまだ目を瞑っていた。あれから特に大きな変化もなかったようで、寝息は穏やかなままだった。
「…………フレイア」
小声で話しかけても、反応が無い。
俺はおずおず彼女の額に手を触れ、熱が上がっていないか確かめた。
じっとりとした熱感が掌に染みてくる。下がっているとは言い難かったが、露骨に悪化している風でもない。
俺は少しホッとして手を離し、枕元の椅子にへたり込んだ。
もちろんシスイの言う通り、まだまだ安心はできない。とはいえ、こうして柔らかな寝息を間近に聞いていると、さすがにこちらも眠たくなってきた。
俺は一旦自分の部屋へ帰って仮眠用の毛布を持ち込み、座ったままそれにくるまった。万が一に備えて、ここで休もう。
ちょっと寝るだけのはずが、起きたらすっかり日が暮れていた。
目を覚ました俺の目に最初に飛び込んできたのは、上体を起こして窓の外の夕陽を眺めているフレイアだった。用意してもらったものか、サイズの合わない大きなワンピースを着ている。
彼女は俺の気配に気付いて振り返ると、逆光の中で、いつもみたいに優しく微笑んだ。
「…………コウ様。お目覚めになられたのですね」
俺は大慌てで椅子から身を乗り出し、彼女の傍へ寄った。
「フレイア! 体調はどう? 気分は平気? 吐き気は? 喉は乾いてない?」
立て続けの質問に、フレイアは困ったように眉を下げてゆっくりと答えた。
「大丈夫です。宿の奥様が色々とお世話をしてくださいました。
…………それより、本当に申し訳ございませんでした。本来なら私がコウ様をお守りするべきでしたのに、このような…………。全てはフレイアの鍛錬不足が原因です。心よりお詫び申し上げます」
「そんなことどうでもいいよ! 君がいなくなったら、俺はっ…………」
フレイアが夕陽を浴びて、紅玉色の瞳を弱々しく瞬かせる。桃色の小ぶりな唇の隙から何か言葉が出かけた矢先に、俺は堪らず彼女を抱き締めた。
「…………! コウ様…………?」
「…………君が無事で良かった」
フレイアの鼓動が薄手の布越しにトクトクと伝わってくる。俺は彼女の肩を、背中を、人形みたいに細い首を、強く抱いた。
鎧の無い彼女がこんなにもか細く、小さかったなんて知らなかった。柔らかな肌の温度と感触が、どうしようもなく愛おしい。気持ちの堰が完全に決壊して、何と名付けていいのかわからない感情がとめどなく溢れてきた。
彼女が生きている。
ここにいる。
フレイアは何も言わなかった。ただ首筋に掛かる吐息だけが熱っぽい。
邪の芽が俺の胸の内で騒いでいた。きっと彼女の中でも、ひどい暴れ方をしているのだろう。瞳の色は見えないけれど、手に取るようにわかる。
俺が彼女を欲する時。
そして彼女がそれを受け入れる時。
邪の芽の力は増す。
急激に。
俺は自分が何をしているのか、ちゃんとわかっていた。
けど、もう耐えられなかった。
…………知るもんか。
裁きの主だとか、魔海だとか、まつろわぬ魔物だとか、不信だとか、そんな話、俺が知るかよ。
俺はフレイアといたいだけだ。
オースタンでだって、サンラインでだって、竜の国でだって、トレンデでだって、…………きっとジューダムでだって、誰もがそうであるみたいに、俺はただ心穏やかに、かけがえのない時を紡ぎたいだけなんだ。
誰にも文句は言わせない。
誰が何と言おうと、勝手に生きてやる。
生き抜いてやる。
「…………」
フレイアがぎこちなく俺の背に腕を回した。弱って力の入らきらない抱擁は、それでも俺の身体をしっかりと包んでいた。
俺の肩に寄りかかった彼女の額が、ほとんど燃えるような熱を帯びている。
邪悪な炎が意識の奥底へ、マグマのように畝って潜っていった。
邪の芽の呪詛じみた低い呻き声が聞こえてくる。
窓から差す白い日差しが静かに俺達を照らしている。
一つになった影が床へ長く伸びていく。
通りを行き交う人々の話し声と、子供達のはしゃぐ声がそよ風に乗って届いた。
開け放たれた窓の木戸がキィキィと軋んでいる。
どこかでワンダが忙しなく吠えていた。
そっと身体を離すと、潤んで溢れそうな紅玉色と目が合った。
白銀の細い睫毛の下から俺を仰ぐ眼差しは、いつだって躊躇いなく真っ直ぐだ。
俺は彼女の乱れた髪を撫で、そのまま真っ赤な頬と唇を指でなぞった。
「コウ、様…………」
「君が好きだ」
フレイアが肩を震わせ、息を詰まらせる。
俺は彼女を見つめ、繰り返した。
「君は俺の灯だ。誰にも消させない」
俺は寝台から立ち上がり、持ってきた毛布を掴んだ。
フレイアは俯いて片手で胸を押さえ、耳まで赤くしていた。
俺は彼女に、精一杯平静を装って話しかけた。
「…………それじゃあ、俺は部屋に戻るね。何かあったら、いつでも呼んで」
こくんと、かろうじてフレイアが頷く。熱がぶり返してきてしまったのか、表情がぼうっとしていた。
俺は戸口に手を掛け、色んな余計な一言を力づくで飲み込んで出て行った。
心臓が今にも飛び出しそうで、気が気じゃなかった。
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