第152話 古き夢の終焉と新たなる時空の開幕。俺が遠い戦の空へ戻ること。

 ――――…………牢獄の扉じみた鎧戸が、荒涼とした夜へ大きく開け放たれていた。


 強い風が部屋を囲う石壁をさらに凍えさせていく。

 天井から床まで、一面くすんだ灰色に染まった部屋には、冴えた銀の燭台が一つきり白々と輝いていた。


 くたびれた絨毯の上に、薄絹の衣を纏った姫が座っていた。小さな竜の影が寂しげに舞う空を見上げて、乱れた髪をあられもなく風に遊ばせている。月明かりを浴びた彼女の肌は、淡く光っていた。


 ジェンナを見やると、驚きとも怯えともつかない強張った表情をしていた。彼女は姫の華奢な背へ真っ直ぐに眼差しを投げながら、唇をきつく結んで、小刻みに震えていた。


 姫がおもむろにこちらを振り返る。蒼玉色の濡れた眼差しに見入られて、俺の心臓はハンマーで打たれたみたいに高鳴った。

 姫は美しい桜色の唇をふっと柔らかく綻ばせ、甘やかな声で言った。


「待ちくたびれてしまいましたよ。ここは寒くて、人恋しくて堪りませんのに」


 リーザロットそっくりの、軽やかな語りかけがそれに続いた。


「ようこそ、「扉の魔導師」様。そして「水先人パイロット」・ジェンナ。

 ずっとこんな夜が来ることを待ち望んでおりました。

 …………そんなに緊張する必要はありませんよ。どうか楽になさってください。貴方達の望みは、すでに叶っているのですから」


 呆気に取られているうちに、ジェンナが口を開いた。


「姫様! 今まで、こんなことは一度だってございませんでした! 貴女は一体何者なのです? それに、いつも一緒にいらっしゃったあの方はいずこへ…………?」


 姫は足を崩して寛いだ面持ちで答えた。


「己が何者かという問いに答えるのは難しいことです。いかなる賢者も、本当に納得のいく答えを得たことは無いでしょう。

 …………ただ一つ言えるのは、私は貴女の知っている姫ではないということです。正確に言えば、姫である私もなお私の内には存在します。けれど、それは「私」という存在全体から見たところの、ごくごく些細な一部に過ぎません。

「水先人」の貴女ならご存知なのではありませんか? 魂はあらゆる時空において繋がっています。故に貴女は夢を渡ることができますし、「扉の魔導師」様は時空を超えて旅をなさいます。

 霊体とは、その存在の根源たる光…………魂の源泉とでも言いましょうか…………が、魔海の水面を通して分かれた一筋なのです。根源の光を知覚するのは非常な困難を伴いますが、不可能なことではありません。

 私は根源に触れた後に、分散していったあらゆる光を辿って、こうして意識を紡ぐのです」


 …………つまり誰?

 と聞くのも、野暮な話なのだろう。あえて安い言葉を使えば、姫様の「本体」とでも言ったところだろうか。(いや、「本体」を経由しているってだけで、今話している彼女自体も「一筋」に過ぎないのかもしれないけど…………)

 ともあれ、ジェンナは流石に俺より免疫があると見え、案外すんなりと話を受け入れた。


「…………お話はわかりました。姫様はいつも熱心に魔海へ祈りを捧げていらっしゃいましたから、そのような繋がりを得られることもありうるのでしょう。…………むしろ、私の方に貴女を見ようという意思が生まれればこそ、ようやく運命が結びついたという帰結なのでしょうが…………。

 いずれにせよ、この夢に新たな契機が生じたことは認識いたしました。

 ですが…………あの方の行方については? それも、貴女と関わりがあるのでしょうか?」


 姫はゆったりと俺の方へ身体を向けると、来い来いとあどけなく手招きをした。

 俺が戸惑って自分を指差すと、彼女は明るく微笑んで言った。


「今宵、彼の代わりは貴方です。さぁ、もっと近くへいらして。お顔をよく見せてくださいな」

「え? え、えっと…………構わない、けど…………」


 俺はおっかなびっくり姫に寄りつつ、続けた。


「あの…………そもそもその「彼」って誰…………?」


 姫は氷のように冷え切った手で俺の頬に触れ、さらりと答えた。


「それはね、このお姫様の浮気相手です。…………彼女の倫理を問うには、私はあまり適任ではないのでこれ以上は差し控えますけれど。

 しかし世の中には、避けられない出会いというのは必ずあるもの。私達は普段、それを因果と呼び習わしていますが」


 姫の指がツツと俺の輪郭をなぞって、唇にそっと触れる。背中に危ない寒気が走ったが、抵抗できなかった。

 姫は月明かりを背負い、この世ならぬ魅惑的な色気を帯びていた。蒼い眼差しの奥にあるものへ、もうほとんど吸い込まれていくような感じさえする。旅立ちの馬車の中でリーザロットが見せた儚い笑顔がふと頭によぎって、何だか無性にやるせなくなった。

 姫は俺の秘めた動揺を知ってか知らずか、話を継いでいった。


「因果は時空を超えて遥かに紡がれるものです。今、貴方達と私がこうして共にいるのが良い例でしょう。この出会いは、すぐにあらゆる時空へと波及します。新たな因果によって新たな時空が生じ、魔海はより深く、豊穣になります。顕現する霊体も、さぞや彩り豊かに輝くことでしょう。…………楽しみです」


 姫は満足した様子で俺から手を離すと、今度はジェンナの方を振り返った。

 ジェンナは困惑を隠しきれずに眉を顰めて一部始終を眺めていたが、姫はそんなジェンナにやんわりと伝えていった。


「お姫様の想い人は、今は次元を異にして存在しています。もし貴女がお姫様の夢を渡ることがあったなら、その行方を知ることができるでしょう。彼は貴方が扉を開けた瞬間から、お姫様の最も深い部分で、永遠の幻想として息づくこととなったのです。

 …………ある意味では、結局王様は救われないのでしょうね。人が心の中で思い描く「運命の君」の形を変えるのは、ともすると驚くぐらいに簡単に済むことですが、逆にどんな超常の存在にも不可侵となってしまうこともあります。…………お姫様にとっての「運命」は、この夢によって完全に後者となってしまいました。

 …………けれどね」


 姫は優雅に瞳を瞬かせ、話を紡いでいった。


「王様はこれで良いのだと思うわ。貴女と王様は似た者同士です。貴女達は、例え相手の夢の中に己がいなくとも、己の夢の中に相手がいさえすればそれで構わない。違いますか?

 王様はまだ貴女ほど達観してはいませんが、きっと今のこの夢を抱く限り、真の絶望にまでは至らないでしょう。王様の悪夢はお姫様の心変わりではなく、お姫様の喪失でした。私と接触し、より高次の運命と巡り合ったお姫様は、最早道を外すことはありません。…………貴女が彼女を殺めることも、なくなります」


 ジェンナはどこか寂しそうな目をして、姫を見つめ返していた。

 俺が近寄ると、ジェンナはしょぼくれた顔を遠慮がちに俺へ向け、こぼした。


「魔導師様…………。本当にこれで良かったのでしょうか? せっかく悲願が叶いましたのに…………どうにも気持ちが晴れません。

 王は悪夢の先に何をご覧になるのでしょう? この夢からお覚めになった王は、何を望み、どこへ行かれるのでしょう…………?」


 俺は俯き加減の彼女を覗き込み、気休めせずに答えた。


「ジェンナさん。現実は物語じゃないから、「結末」なんて訪れないよ。例えいつか宇宙に終わりがあるにしたって、その「終わり」すら、一つの通過点に過ぎないかもしれないんだし。

 絶望でもなく希望でもない何かを抱えて、どこまでも歩いていく。

 …………それでいいんだよ」


 夢を渡り、扉を開き、一つ何かが変わる。

 それだけの話。

 だけど、それが大事じゃないだなんて、どうして思う人がいるだろう。


 ジェンナは翠玉色の瞳をじっと俺に注いでいた。

 俺はと言えば、あとはもうロクでもなくダサい応援の言葉しか思い浮かばなかったので黙っていた。


 ややしてからジェンナは、一つ瞬きをした。頬がほんのりと赤く、大人びているのにすごく可愛らしい。

 俺は余計かと思いつつも、耐えきれずに口にした。


「ジェンナさん、お疲れ様。…………おめでとう」


 ジェンナは少し無理した風に微笑み(だが、それは今まで見た中で一番彼女に似合う笑みだった)、


「はい」


 と小さく呟いた。


 姫はやり取りを見届けた後、立ち上がって窓際へ歩みると、こちらへ腕を伸ばした。


「…………では、名残惜しいですが、夜が明ける前に解散といたしましょう。

 特に魔導師様は、まだこれからなさるべきことが山程あるはずです。「水先人」・ナタリーも、先に目を覚ましてお待ちかねですよ」


 ジェンナがさりげなく俺の背に手を添え、窓辺へ向かうよう促す。

 彼女は気持ち潤んだ翠色の瞳を夜空へと投げかけ、しんみりと話した。


「お別れの時が来たようです、魔導師様。あの窓の向こうへ踏み出せば、貴方はこの夢から離れられるでしょう」

「…………。「踏み出す」?」

「飛び降りれば良いのよ」


 姫がにこやかに言い添える。

 頬を引き攣らせた俺を、姫が引っ張り、ジェンナが押し出し、あっという間に窓際へと寄せる。


「えっ? ちょ、ちょっと待って……………」


 気持ちとは裏腹に、身体がぐいぐいと窓の外へと引き摺られていく。見れば、いつの間にか月が異様に大きくなっていた。物凄い勢いで近付いてきているのだ。

 俺は巨大な月の引力に引かれるように、片足をポンと景気良く窓の桟へ放り出した。


「ちょっ、身体が勝手に…………!? これ、本当に大丈…………っ!?」


 慌てふためき、鎧戸の縁に縋り付く俺をジェンナと姫が代わる代わる宥めた。


「大丈夫です、魔導師様。私のことはご心配無く。私は如何ようにでも夢を渡れますので…………」

「ねぇ、魔導師様。貴方の世界にも私がいるのでしょう? もし会うことがありましたら、どうか可愛がってあげてくださいね。きっと寂しがり屋に違いないから」

「ナタリーさんにも、よろしくお願いいたします。後代、「水先人」の力が弱まっていったとしても、彼女にはまだまだ伸びしろがあります。例え作られた魂と生きる彼女であっても、魔海の底には彼女の真の魂…………根源の光が灯っているのだと、どうか忘れずにお伝えください」

「ああ、それと、魔導師様。今後、扉の力をお使いになる時はくれぐれもお気を付けくださいませね。いずれ女王竜の逆鱗にお触れになる時には…………」

「というのも、ご存知の通り、私達の魂獣はただの魂獣ではありません。あの子は全ての魂獣の…………」

「ちょ、ちょ、わ、わかったから! いっぺんに話さないで! 押さないで! まだ覚悟が…………っ!」


 下を見ると、普通に冷え冷えとした地面が広がっていた。

 30メートルぐらい下。いやに現実的な高さである。

 俺は未だ何やら騒いでいる女性達に必死で助けを求めたが、あえなくもう片方の足も窓の外に引き摺り出されてしまった。


「ヒッ!!!」


 俺はいまや、指先だけでかろうじて桟に引っかかっていた。月に引き摺られて、身体が半ば宙に浮いている。

 ジェンナと姫が、俺の両手にそれぞれ触れて言った。


「「扉の魔導師」様。どうかお達者で。できることなら、いつかまた夢でお会いしましょう」

「「扉の魔導師」様。貴方の旅路に、白き雨の注がんことを。願わくば、海のできるような、大雨の降らんことを!」


 二人の麗しい手が、俺の指先を優しく、容赦無く窓から引き剥がす。

 俺は夜空を覆い尽くさんばかりの月に吸い込まれながら、絶叫していた。


 窓辺では姫が優雅に手を振っている。

 ジェンナが急に、ハッと気付いたように身を乗り出して尋ねてきた。


「――――そうだ! 魔導師様、貴方のお名前は――――…………?」



「――――…………ミナセ・コウ!」



 聞こえたかどうかはわからない。

 俺はたちまち、ほの白い光に全身を包まれて何も見えなくなった。

 ――――――――…………



 ――――――――…………



 ――――…………そうして我に返った時、俺は翠玉色の海を全速力で昇っていくレヴィの背に乗せられていた。

 きらめく光の粒々がレヴィにぶつかって高速で後ろへ流れていく。

 遥か上方の水面を見上げると一瞬、胸がぐっと苦しくなったが、それからすぐに嘘みたいに呼吸が楽になった。


 背中に何か温かくて柔らかいものが当たっている。試しにもう少し強く寄りかかってみたら、後ろから元気の良い声が返ってきた。


「あっ! ミナセさん、起きたんだ!」


 俺はその声に飛びつくように、上体を振り向けた。


「ナタリー! 大丈夫か!? 身体は、何ともないか!?」

「キャッ! ミナセさん、どこ掴んでるの!!」

「えっ? あっ! ごごめん!」


 俺は水風船のような弾みのある彼女の胸から、すぐに手をどけた。

 ナタリーはジェンナそっくりに頬を赤らめ、可愛らしく唇を結んで言った。


「もう! わざとじゃないんだろうけど…………。…………恥ずかしいよ!」

「ご、ごめん。本当に、下心は無くて、偶然で…………」

「…………ていうか、ミナセさん、結構タラシなんだね」

「へ?」

「ジェンナさんの魂を通して、色々聞こえてたッス! 綺麗な人にはすぐデレデレしちゃってさ!」

「え? マジ? っていうか、タラシって、どこが?」

「言い訳無用! でも、とにかくこれで流転の王様を解放できた! …………行こう! 急いで、皆のところへ戻ろう!」


 俺が何か反論しようとするのに被せて、レヴィが一層力強く尾ひれを打って鳴いた。


 ――――Oooo-o-n…………


 高らかな凱旋の雄叫びが海原を渡っていく。彼の充実した気迫に、俺は改めて気を引き締めた。

 そうだ、まだ俺の夢は終わってないのだ。


 水面から差し込む陽光が、波の影をレース状にきらめかせている。

 目の前が眩しく白く染まっていく。


「さぁ、行け! レヴィ――――ッ!!」


 前のめりに意気込んだナタリーの胸がぎゅうと俺に押し付けられる。

 やがて水面が高い水柱を上げて割れた。



 ――――…………翠の津波が夜空へ盛大に砕け散る。

 満天の星空が目の前にワッと広がり、俺は思わず大きく息を吸い込んだ。


 眼下では、流転の王の残骸が翠の大海に飲まれて派手に大地へ叩き付けられていた。

 ぶちまけられたドロドロの内臓や粉々になった骨の破片やらが、怒涛の勢いで森を薙ぎ倒していく。

 勝った。一目で確信できる。


「――――コウ様! ナタリーさん!よくぞご無事で!」


 響いた朗らかな声を振り返り、俺は大きく手を振った。


「フレイア! ただいま!」


 紅く燃える剣を掲げたフレイアが、俺の背後から悠然とセイシュウを滑らせてこちらに寄ってきた。

 彼女は肩を上下させて息しつつも、声を張ってもう一度、俺を呼んだ。


「おかえりなさい! コウ様! …………おかえりなさい!」


 俺はナタリーとフレイアの協力の下、セイシュウの背に乗り移った。

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