第146話 泥沼の白き蛇と蒼き蝶。俺が大火山の麓で見えたもののこと。

 光藻達は優しい明滅を繰り返していた。

 古の時代を懐かしむ、音のない旋律。

 水面は風に晒されて、最高級のカーテンみたいに気持ち良く、柔らかく揺らいでいた。


 光藻達はああして世界を眺め、大いに語っているのだ。魂あるものは皆、どんな風にしてだって歌わずにはいられない。

 オースタンで暮らしているとつい忘れそうになるけど、サンラインではそんな命の息吹が強く、時に息苦しいまでに感じられる。


 こんなに色んな存在が近しく感じられるのに、なぜか少し寂しくもなるから不思議だ。

 きっと、決して届き得ない距離も一緒に知れてしまうからだろう。

 俺が俺である以上、潜りきれない深みは必ず存在する。どんなに強く思いを寄せても、竜と完全に心を重ねられないのと同じだ。魔術師でない俺にだって、それはよくわかる。


 俺は繰り返し気脈を辿っていた。

 浮かぶ景色はその都度少しずつ違うが、どれもよく似ていた。遥かな時の中の、ほんの一瞬垣間見えただけの一幕を、俺は懸命に、何度も味わった。


 見れば見るほどに自分の感性の浅はかさが身に染みる。もっと沢山、もっと繊細に感じられるものがあるだろうと、タカシを叱ればいいのか、俺が反省すべきなのか。

 とにかく今はこれだけしかわからない以上、この中で扉を探らなくてはならない。


「…………やっぱり、起点となるのは「雨」だろうけど…………」


 ブツブツと呟く俺を、フレイアが心配そうに振り返る。

 彼女は景気良くセイシュウを飛ばしながら、広大なイゼルマの大地の上を撫でるように滑っていった。

 すぐ近くを山肌が掠めていく。山並みを流れる気流は乱暴者で、ヒステリックに俺達を引っ繰り返そうとしてきた。急に跳ね上げたり、叩き落そうとしたり。ウェーゼン達は予測のつかない獲物の動きに、ぐちゃぐちゃに群れを掻き乱されていた。


 空は相変わらず降るような星々を掲げている。特濃の夜は俺もフレイアもセイシュウも、幻霊もウェーゼンも紫の人魂も、この空のどこかを飛んでいる俺の仲間達も、まとめて永い時の一瞬の中に包み込んでいる。


 フレイアの紅玉色の眼差しが時折、じっと俺を射た。俺の心を注意深く探るように、でも決して邪魔はしないように。いかにも彼女らしい、慎ましい見守りだ。

 寒さのせいで、彼女の白い頬にはあどけない赤みが差していた。

 俺は胸の内だけで彼女に微笑みかけ、そのまま扉の探索を続けた。


 今度は少しだけ、違うものが見えてきた。



 ――――…………火山灰に覆われた地を、鈍色のシャワーが打つ。

 ――――分厚く降り積もった泥と屍はドロドロと洗い流され、大地には大きな窪みができた。

 ――――「それ」はぬかるんだ地に立ち、そぼ濡れて空を見上げていた。


 ――――ひどく凍える日だった。

 ――――凍てついた針のような雨糸は、容赦なく「それ」の身体を貫いて大地を刺した。

 ――――やがて窪みは巨大な湖になった。

 ――――「それ」はなおもじっと泥沼に浸っていた。


 ――――そのうちに天の遣いのような美しい白い蛇と、雪ん子みたいに可憐な蝶が「それ」の元へやってきた。

 ――――二匹が「それ」の周りを優雅に巡ると、

 ――――「それ」は二匹に何か言付けし、透明になって空に溶けていった。


 ――――それから二匹は、二人の愛らしい少女に姿を変えた。

 ――――一糸纏わぬその姿は、雪の結晶のように繊細で清らかだった。

 ――――白い髪も肌も、半ば透き通っていた。

 ――――一人の少女の瞳は遠洋の如き蒼。もう一人の少女の瞳はこぼれかけの血雫みたいな紅。

 ――――少女たちはおもむろに手を取り合い、祈りを捧げるように瞼を閉じて、お互いの額を合わせた。


 ――――…………雨がそぼ降る。

 ――――少女たちの身体は灰まじりの雨にまみれて、どこか人間臭く、薄汚れてこじんまりとしていった。

 ――――寄り添い合う二人の佇まいは枯れ木に似ていた。


 ――――ふいに、紅い瞳の少女が片目を開けて「俺」を見た。

 ――――興味深そうな目つきで、こっそりとこちらを観察している。

 ――――俺は緊張しつつ、彼女に呼びかけた。


 ――――もちろん声を出してではなく、気持ちだけで。

 ――――彼女そっくりの、俺の大切な人の名を…………。



「…………コウ様? 今、お呼びになりましたか?」


 気付けば俺は、腕に力を込めて呆然としていた。一瞬自分が誰を掴んでいるのか混乱したが、若木の幹のような凛々しい腰は、紛れもなくフレイアのものだった。


 フレイアは健気にもずっと俺を心配してくれていたらしい。何を言われずとも、眼差しだけですぐにそうと知れる。

 俺は慌てて腕を緩め、答えた。


「っ、あ…………っ、うん! 今、気脈を辿っていたら白い蛇が君に似た子で、だから、呼んだんだ」


 聞くなりフレイアが眉を寄せ、見たことの無い表情を作る。知らないエチオピア人にいきなりアムハラ語で話しかけられたら、こんな顔になるのかもしれない。

 俺は即座に失態を理解し、取り繕うべく努めた。


「あ、ちょっ、引かないで! ごめん、整理するね!

 …………その、気脈を辿っていたら不思議なものが見えたんだ。色々説明しづらいんだけど、大昔のこの土地に、何だか妙な人…………? がいてさ。そいつがやって来た白い蛇と蝶に何かを囁いたんだ。

 で、伝えた内容はよく聞こえなかったんだけど、そのあと蛇と蝶は可愛い女の子になって、お祈りを始めたんだ。そしてその途中に、蛇だった女の子…………君そっくりの、紅玉色の瞳をした子が俺を見たんだ」

「…………」

「それで、君の名前が口をついて出た」


 フレイアが頬を赤らめ、困ったように首を傾げる。

 俺は「ええと」と、ツーちゃんが大嫌いな前置きをしてから話を続けた。


「だから、つまり俺が思うに、俺は今、君に近いところの気脈の扉を開けたんだと思う。感覚的な話で申し訳ないんだけど、そんな気がする。

 …………実は、中途半端なところで集中が切れちゃったから、ちゃんと開けたのかと言われると自信は無いんだけども…………」


 フレイアはふっと表情を和らげると、ようやく得心がいった風に頷いた。


「そうなのでしたか。先程から急に火蛇達の力が増したように感じていたのですが、コウ様のおかげだったのですね!

 恐らくコウ様のご解釈は正しいのでしょう。コウ様はいつも、私の想像を超えたことをなさいます。

 この状態でしたら、普段より思い切った一太刀が放てます。捉えきれずにいたウェーゼン達の魔力も、今はつぶさに感じ取ることができますし…………」

「えぇ? いや、でも、まだこれだけじゃ…………」

「いいえ、今なら!」


 フレイアが目を凝らし、辺りを見つめる。

 彼女は微かに笑みを湛えると、セイシュウを激しく左右に傾け、目にも留まらぬ速さで刃を宙に舞わせた。刃を巻いていた火蛇達が太刀筋に沿って火の粉を散らし、パッと周囲を明るくする。同時に風が、大量の灰のような何かをドッと舞い散らせた。


 俺はフレイアが納刀する冷たい音を聞いて、ようやく灰の正体を知った。

 それは細切れた大量のウェーゼンの死骸だった。あんなに群れていた彼らは一匹残らず、迷いない太刀筋でバッサリと葬り去られていた。


 真綿のような翅が風に煽られ、天高く連れ去られていく。残った鱗粉は最早妖光を放つこともなく、火を浴びて美しく燃えて失せた。

 俺達を追ってきていた燐光もみるみる勢いを失って闇に飲まれていった。


 フレイアはセイシュウを囲って火蛇を大きく旋回させ、今までよりも見るからに艶めきのある、活き活きとしたベールを張った。

 彼女は晴れやかに俺に言った。


「やりました、コウ様! ご覧になって頂けましたでしょうか? 私、初めて自らの手でウェーゼンを退けることができました! いつもお師匠様頼りだったのですが…………ああ、初めて!

 コウ様、本当にありがとうございます! まだまだ力が溢れてきます!」


 俺は頬をホカホカと紅潮させているフレイアを見て、面食らいつつ笑顔で親指を立てた。

 ぶっちゃけ、こんなにも目覚ましい活躍は全く意図していなかったのだが、まぁ万事、結果オーライである。

 フレイアは嬉しそうに笑みを返し、また前を向いて話した。


「さぁ、新たな追手がつかないうちに全力で朝まで飛ばしましょう! 溶岩平原を抜ければ、レヤンソン郷はあと一息です!

 他の方々が心配ではありますが…………シスイさんの仰っていた通り、今のセイシュウにとっては逃げるのが最優先です!」


 セイシュウは荒い風の中を、小刻みに翼を傾けながら一直線に飛んでいった。ウェーゼンとの戦闘の際に落とした高度を着実に取り戻しながら、イゼルマ湖群をぐんぐんと通り過ぎていく。


 やがて前方に、一段と高い山が見えてきた。俺は気脈を辿った時に見た景色を思い浮かべ、あれこそがかつて大噴火を起こした火山なのだと察した。


 フレイアは先程までのハイテンションを若干落ち着かせ、またシビアな緊張を漲らせた表情に戻っていた。

 俺は大火山の迫力に圧倒され、小さく息を飲んだ。富士山程には大きくないが、同じくらい綺麗な形をしている。


 イゼルマ山(今、俺が勝手に命名した)の麓には鬱蒼とした森が広がっていた。暗くて様子は見えないものの、落ちたらまず助からない(というか、見つからない)のは確かだ。

 何とはなしに森を眺めていると、イゼルマ山の影に重なって、何か巨大なものが蠢いているのが窺えた。

 初めは目の錯覚かと疑ったが、近付くにつれて、その姿が明らかになってきた。


「…………流転の王エインシェント…………!!」


 フレイアの覚悟の込もった呟きが、俺の全身をぞくりと震わせた。


 その巨影は、城塞の如く泰然と聳え立つ…………人の、骸であった。

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