第112話 ウィラック先生の不思議なお薬。俺が少しばかり、霊体をこぼしてしまうこと。
部屋に戻ると、クラウスが出し抜けに言った。
「そう言えば、タカシ様が上にいらっしゃるんですよ」
「へ?」
俺は目を丸くして尋ね返した。
「そうだったの? いつから?」
「昨晩、ウィラックさんが病院から連れてきました。以来、何をなさっているのかわからないのですが、ずっと二人で引きこもっていらっしゃるのです」
「それ、ヤバイやつじゃないか!! どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ!?」
俺が怒鳴ったまさにその刹那、2階から乾いた爆発音が響き、それと同時に一つの人影が爆煙の中からまろび出てきた。何か必死に叫んでいるが、呂律が回っておらず、よく聞き取れない。
「おや、珍しい。最近は爆発までは無かったのですが…………」
他人事然としてクラウスが呟く。俺は階段を転がってくる人影の正体に目を剥いた。
それは目を真っ赤に充血させ、しかも首のあたりを緑色の鱗でびっしりと覆われたタカシだった。まだ蒼の館でもらった上等そうなローブを着ているが、それも血やら煤やらでひどく汚れて無惨な有様だ。
「タカシ!! どうした!?」
「ウサギサンコワイ!!」
タカシは意味不明な言葉と共に俺へ飛びつくなり、ガタガタと震えながら膝をついた。
「どうしたんだ、タカシ!? 何があったんだ!?」
「ウサギサン、コワイ!!!」
「ウサギさん、怖い?」
俺がおずおずと2階に目をやると、そこには濛々と立ち昇る煙を背に悠然と立つ、曇りなき赤い目をした白衣のウサギ男の姿があった。
「丁度良い、勇者君。そのままタカシ君を捕まえておいてくれたまえ」
「ちょ、ちょっと待って!! アンタ、タカシに何をしたんだ!? っていうか、これから何をしようとしているんだ!?」
タカシを庇いだてる俺に、ウィラックは事もなげに説明した。
「何、魔力場構築における、ちょっとした臨床試験だよ。貴殿「ら」は珍しい竜の因果の保持者ゆえ、同意の上でご協力頂いた」
「俺は同意してないよ!?」
「タカシ君が、君の分も保証してくれた」
「お前、何てことを!!!」
見下ろすと、タカシは震えたまま虚ろな目で繰り返した。
「ウサギサン、コワイ…………ウサギサン、コワイ…………」
俺は再びウィラックを振り返り、怒鳴った。
「すでに明らかにおかしくなってんじゃん!! 実験は中止にしよう!! 早くコイツを元に戻してくれ!!」
「それは不可能だ。試験を最終段階まで進めない限り、彼の自我は決して安定しない」
「じゃあ、どうすればいいんだ!?」
「今、そちらに行くから待っていたまえ。…………過度な興奮は結果に影響を及ぼすから、少し落ち着きなさい」
トントンと優雅に階段を下りて来るウサギさんに、俺は最早何と罵っていいかわからなかった。魔術師ってやつは、どうしてこう…………!!
クラウスは椅子に腰を掛け、無表情で騒ぎを見守りながら独り言をぼやいていた。
「ハァ。台所の掃除、やっぱり俺がやらなきゃダメなのかなぁ…………。あーあ。ナタリーさん可愛かったなぁ…………。やっぱりコウ様なんか放っておいて、彼女を送っていけば良かったかなぁ…………」
聞こえてるんだよ! と、怒鳴る気力ももう失せている。
ウィラックは俺とタカシの前まで来ると、キラリと赤い瞳をマッドに光らせた。
「君とクラウスの会話は聞こえていた。私は耳が良い。先程いらしていた自警団のお嬢さんが帰っていく足音も、未だ可聴域にある。足取りからすると、余程嬉しいことがあったと見えるね」
俺はゾッとしつつ、タカシを自分の後ろへ隠した。これでどうなるものでも無いが、本能的にそうせざるを得なかった。
ウィラックはそんな俺達を興味深そうに眺め、滑らかに話し継いだ。
「共力場の話をしておりましたな。なぜ勇者君が、そのように簡単に共力場を編めるのかと…………」
ウィラックはぴくぴくっと耳を回転させるように動かし、俺の目をズイと覗き込んだ。一切瞬きしないその眼力に、俺はたじろいだ。
「そう怯えなさるな。貴殿の共力場生成能力については、私も昨日の戦闘以来、ずっと気に掛けていたのだ。私が調合した薬品の効力が想定以上だった可能性も考えたが、今日のやり取りを聞く限りでは、どうもそうとは限らないらしい。…………見た所」
獣とも人とも違う、虚ろな赤い目がじっくりと俺を舐めまわしている。タカシは抱きつく力を強め、経文のように「ウサギサンコワイ」と繰り返していた。
ウィラックは淡々と続けた。
「タカシ君にも勇者君にも、特別に変わった身体的・霊体的特徴は見られない。となれば、残るは例の扉の力に関わる問題か、竜の因果に関わる問題かという話になるが」
ふいにウィラックに目を向けられて、タカシは「ヒィッ!!」と鳥類のような声を上げて縮こまった。ウィラックは容赦なくそんな彼を見据え続け、なおも話した。
「私は、これは後者が原因ではないかと踏んでいる。竜の因果の持ち主は、生来非常に高い透明度の魔力場を有するという説がある。竜の因果の主な保持者であるスレーン人達が調査を拒み続けるがために、永らく仮説に留まっている説なのだがね。…………いずれにせよ、ここで勇者君らを診ることで新たな知見が加わるのは確かだ。…………時に勇者君」
ウィラックはタカシを見たまま、なぜか俺に尋ねてきた。
「は、はい」
「タカシ君との融合は、まだかね?」
「えっ? そ、その、それはちょっとまだコツが掴めていなくて…………」
「フム。貴殿の協力があれば「無色の魂」を用いなくとも良いので、遥かに実験が捗るのだが…………。クラウス」
呼ばれたクラウスは億劫そうに返事した。
「融合の訓練なら、俺は御免こうむりますよ。あれは身体にも精紳にもこたえます。というか、いっそウィラックさんご秘蔵のお薬でさっさと処理できないものですかね?」
「それでも結構なのだが」
「ヒッ、ヒィィィッ!!! ウサギサンコワイィィィッ!!!」
途端に、タカシが急に奇声を上げてのけぞる。ウィラックは両手を肩の高さにあげ、おどけて見せた。
「今朝よりずっとこの調子だ。昨晩からのセーム液持続投与により、だいぶ認識系に支障をきたしていると見える」
「セーム液って、最近ハマっているリージュ抽出液混合のヤツですか?」
「イエス」
「うぇ。そりゃあ、こうもなりますよ」
「注射はもう嫌だと言うから、今回はわざわざ塗布薬を用意したのだがねぇ…………」
「塗布って、どこに塗るんです?」
「粘膜」
粘膜。
俺は喉の奥で黙ってその不気味な響きを繰り返し、膝下に縋り付いている哀れな男を見下ろした。どんな拷問を受けたのかは知りたくも無いが、見捨てるわけにもいくまい。仮にも、俺の長年の相棒なのだ。
俺はおずおずウィラックに話しかけた。
「あの…………その、試験ってヤツが終わったら、俺は…………ってかタカシは、本当にちゃんと元に戻れるんでしょうか?」
「保証しよう。それに、この試験には喜ばしい副作用も見込める」
「副、作用?」
「左様。…………この私が開発を一から手掛けた特製セーム液による融合共鳴作用により、貴殿は飛躍的に強くなるだろう。努力なくして、「白い雨」の鍛え上げられた騎士達と同等の身体能力を手に入れるはずだ」
ウィラックが自慢げにひ弱な上腕筋を掲げて見せる。機械のようなウサギの笑顔が、ほとんどホラーだった。
俺は首を振りながら、タカシを引きずって逃げ出そうとした。
冗談じゃない!! そんな訳の分からない薬に手を出して堪るか。俺はまだ人間でいたい!!
「!! いかん、興奮状態に陥ったか! 直ちに捕獲せねば! ――――クラウス!」
「嫌です! ご自分で!」
「致仕方ない!」
直後、パチン! と指を弾く軽やかな音が部屋に響いた。
俺は息が詰まる感覚を覚え、宿舎の扉まであと一歩というところで前のめりに倒れた。ぐわんぐわんと世界が回るひどい眩暈により、たちまち眼前の景色がムンクの「叫び」のように歪み始める。俺は吐き気を覚え、それでもどうにか、這って前へ進もうとした。
だが、奇妙なことに、どう足掻いても進めない。
気が付けば俺は、手を伸ばそうとする一瞬前の時間を延々と何度も繰り返していた。
どうなっているんだ?
「ウサギサンコワイィィィ――――ッ!!! うっ…………ぐ、ぐむっ!!!」
足下からタカシの凄絶な悲鳴が響く。どうやら何かを口の中に塗りつけられたらしい。
次いで俺は背中に圧力を感じて、反射的に後ろを振り返った。見れば、ぐにゃりと輪郭の歪んだ巨大なウサギが、赤い目を爛々と輝かせて俺に圧し掛かっていた。
血よりも赤い目をしたウィラックは静かに言った。
「口を開けるとよろしい、勇者君。貴殿は少量で良い故、痛みはあまりない」
俺は口を固く閉じ、全力で首を振る。
ウサギさんは困ったように鼻をヒクヒクとさせ、肩をすくめた。
「フム、では止むを得まい」
言うなり、ウサギさんはおもむろに俺の瞼をペロリとめくり上げた。もう片方の手には綿棒に似た形の、細長い金属棒が握られている。
「ギャアアッッッ!!! な、何を…………ッ!!!」
「やれやれ。点眼液にすべきだったか」
恐怖やら後悔やらで混乱の極みに達した俺は、声が割れる程に叫んだ。
「ウサギサン、コワイィィィ――――――――ッッッ!!!!」
瞼に鋭い痛みがチクリと走り、俺は失神した。
目を覚ますと、俺はボロボロのローブを着てベッドに寝かされていた。どうやらタカシとの融合は寝ている間に果たされたようで、俺は久しぶりの肉体の重みに不思議な安堵と疲労感を覚えた。
耳元からは、聞き覚えのあるネズミの喧しい鳴き声がキィキィとひっきりなしに聞こえてきていた。コイツは確か、ツーちゃんと「邪の芽」の検査をした時にも使った…………。
「…………リルバラ鼠、だっけ」
俺の呟きに、枕元で何か書き物をしていたウィラックが答えた。
「おお、目を覚まされたか。よくご存知ですな。…………さぁ、見るとよろしい。綺麗に結果が出ましたぞ」
俺は起き上がり、籠に入ったネズミの背を窺った。
そこには黒蛾竜の逆鱗を思わせる、きっちりとした正方形の紋様が鮮明に浮かび上がっていた。
「リルバラ鼠との干渉からは、実に多くのことがわかる。この通り、被験者が何の因果の持ち主であるかの証明から、その魔力場特性、霊体における傷病の既往、肉体における気脈偏光、ひいては性的嗜好に至るまで。…………実に興味深い検体であった。豊かな知見を得させて頂いた」
俺はぶるりと身体を震わせて、問い質した。
「え、で、あの…………タカシの頭は、治ったんでしょうか?」
「それは今、貴殿が体感している通りだ」
「はぁ…………」
頭の巡りは普段とそう変わらないように思えた。認識回路は今のところ全て正常に働いているし、特別記憶力が抜群になったわけでも、計算が速くなったわけでもなさそうだった。
それから俺は、自分の掌を見つめて尋ねた。
「強く…………なりましたか?」
「それは、帰ってから試してみたまえ」
ウィラックは機嫌良く、熱心に書き物を続けていた。俺のカルテか何かなのだろう。さっき見たリルバラ鼠の紋様が紙の端に写し取られていた。
俺は本と薬品だらけの珍妙な部屋を見渡し、ベッドから身体を起こした。ウィラックは俺の方を見ず、筆を走らせながら言った。
「扉の力に、竜の因果。オースタン出身者にしては、あまりにも多彩な霊体既往。オースタンでもたくさん怪我をしておられたようですな。
それにしても、勇者殿は…………いいですな。深入りしがいがある。これは、いずれまた実験にご協力頂くやもしれん…………」
俺は、興奮のあまりリルバラ鼠にも負けないせわしなさで鼻と耳を動かしているマッドドクターに、手短に挨拶をした。下手に長居して、また妙なことを思いつかれたら最悪だ。
「あの、じゃあそろそろ失礼します」
「下で可哀想なクラウスが掃除をしている。手伝ってあげるとよろしい」
「はい」
俺はそそくさと彼の部屋を辞し、階下へと向かった。何となく首が凝っているような気がしたが、寝ていたからだろうと無理矢理納得した。
「ただいま。手伝うよ」
台所で俺が声を掛けると、屈んで雑巾を絞っていたクラウスがゆっくりと頭をもたげた。整った顔も今は疲労にまみれて、ゾンビの亡霊じみていた。
それでも彼は俺を見るなり、ギョッと顔を引き攣らせた。
「こっ…………コウ様」
「ん? どうしかした?」
「そ、その、お姿は…………」
彼は絶句し、雑巾を床に落として自身の首元に手を当てた。俺は彼が何を言いたいのか察せず、同じように首に手をやりながら尋ね返した。
「姿? どういうこと?」
と、掌に何かひどく固いものが触れた。俺はそこで初めて、慌てて両手で自分の顔を撫でくり回した。固い…………っていうか、全体的に骨張って異様にゴツゴツしている。
クラウスが無言で、俺の隣に掛かっている鏡を指差した。強張ったその顔は、明らかに怪我のせいだけではなく蒼ざめていた。
俺は振り向き、おそるおそる鏡を覗き込んだ。
…………そこにいたのは、竜でもトカゲでもない、ただ顔の表面をエメラルド色の艶やかな鱗で覆われただけの、ミナセ・コウだった。
口を開けると、不揃いに切り立った歯がズラリと並んでいる。その姿はまるで朝の特撮ヒーローものに出てくる敵の怪人だった。
怪人ミナセの毛髪は、まるでカラスの巣のようにゴワゴワとしている。そしてその中で、何かがもぞもぞと動いていた。
「…………。…………?」
俺は勇気を出して頭に手を突っ込み、それを引きずり出した。
それは生温かい、尻尾の長い手のひらサイズのトカゲだった。俺と同じエメラルド色の鱗に覆われていて、どこかで見たような黒い円らな瞳をしている。
そいつは俺の手の上でギョロリと俺を睨むと、カッと小さな口を開いて叫んだ。
「――――キモイ!!!」
甲高い声で罵られ、俺は何重にもショックを受けた。
コイツ、何…………?
キモイって、そんなあからさまに…………?
っつか、何で喋る…………?
しかも、何だか俺の声に似ていたような…………?
クラウスがこちらへ寄ってきて、深刻な顔で呟いた。
「コウ様。「霊体の欠片」ですよ、それ…………」
「え…………? 何…………?」
「名前のまんまです。融合する時にこぼれてしまった、霊体の一部分です…………」
俺達は静かに顔を見合わせ、それからまた黙り込んだ。
やがて、どちらからともなく雲の出てきた窓の外の景色に目をやった。まだ少し晴れ間が残っていたが、街はしんなりと暗く沈んでいた。クラウスは「夕方には降るかもしれないな」とうわ言のように囁いて、掃除に戻っていった。
俺は2階へウィラックに文句を言いに行ったが、答えはすげなかった。
「今、調子が出てきたところだ。後で来たまえ」
ウィラックはカルテだか論文だかから一瞬たりとも目を離さず、指パッチン一つで扉を閉じ、俺を締め出した。
俺は小さなトカゲを肩に乗せ、粛々と掃除を手伝う他なかった。
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